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死ぬ権利の主張

作者: 沼野雷菜


人は平等に生きる権利があるとみんなが言う。

ならば、死ぬ権利も平等に与えられるべきではないのか。


死んだらそれで終わりなのだと、みんなが知っている。みんなが知っている事実だ。


どうして人は、他人(自分以外のすべての人)の死を止めようとするのだろうか。


終わりを望む人に、まだ生きてくれと懇願するのはお門違いで、はた迷惑なエゴだ。


たとえば私が死ぬと言い、母が死なないでと言ったとする。私に死んでほしくないのは母であって私でない。私の死にたいという希望を無視して、死んでほしくないという希望を通そうとしている。


そして大抵は、世間一般が母の味方となり、私の死を止めるだろう。私は死を望んでいるのに、だ。


私の命は私のものだ。私が終わりを決めてもいいはずだ。決める権利があるはずだ。


もしも、私の命が私のものではないとするなら、この例えだと、私の命が母のものであるとするなら、もう私達は人権を語る資格をなくすだろう。


これは人権の尊重だ。

私の命は私の権利だ。


他人に死ねというのは道徳に反するだろう。自分が死にたいというのは道徳に反するのか?反するわけがない。なぜなら、私は私の命を大切にしていないわけではないからだ。


みんな死を悲観しすぎていやしないか。


私が死にたいと言ったその時、その瞬間。私は人生の中で最高に幸せなのかもしれない。幸せなまま死ねたら幸せな死が迎えられるだろう。そう思って今この瞬間を終わりに選んだのかもしれない。


死はいつか平等に訪れる。それは、寿命でなければならないのか?


寿命で死ぬよりも、自分で選んだ死のほうがきっと悔いがない死になると思うのだが、間違っているだろうか。


寿命で死ぬという選択をしたならいい。でもなんとなく生きていて、寿命になったから死にましたってそんな死に方で本当にいいのか?


私は自分の意志で自分の命を終わらせたい。自分の命の終わりは自分で決めたい。


これは当然の権利なのではないか。

私達には死の権利が与えられるべきではないのか。


私たち人間が今を後悔しないように生きていくには、生きる権利だけじゃ足りないのだ。その裏にある、死ぬ権利も必要なのだ。


どうか、すべての人に自由に死ぬ権利を与えてほしい。今この瞬間を悔いなく生きるために。





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