第玖話 悪魔の猟師
……夜が明けてしまえば、私ももう陽の光の下に出られなくなってしまっているため、命の危険があるのでオバサンをささっと運んで、倒れた皆が目を覚ますまで待つことにした。
することもなく、屋根の下から少しずつ赤い色が、子供がこぼした絵の具のように、空に広がっていくのを見ていた。
やがて、空のほぼすべてが赤くなり、顔を覗かせた太陽が放つ陽の光が、この町をあたたかい光で照らしていく。
気づけば、傷だらけでボロボロだったからだはずいぶん癒えて、感覚が戻った身体に疲労感が広がっていく。
わたしが、襲ってきた睡眠欲には抗えずうとうとし始めた頃、ようやくテオドルさんが目を覚ました。
「……そうか、終わったのか。」とだけ私に言うと、電話を取り出しどこかに電話し始めた。
いや……、どこに電話しているか、なんて考えるまでもないか。間違いなくユニオンの人だろう。
戦いが終わったことを報告し、迎えをよこすように頼むなりしているのだろう。
「……ああ、わかった。ん、まだ何かあるのか……手短に、……おい、今なんと言った!?それは嘘じゃないんだろうな!?……ああ、わかった。急いで行動しよう。」
……どうやら、その電話の相手がバッドニュースでも伝えてきた様子だ。まだ終わらないのかよ、疲れたのに。
「……みんなを連れて逃げるぞ、昨晩運んできてもらっていた車があってな、すぐそこにとめてあるやつなんだが、あの車に急いで皆を乗せよう。時間がない。」
明らかに焦っている。どうしてこう、次から次へと問題が襲ってくるんだ?
急いでみんなを車……広めのファミリーカーだったが、窓には日よけのためと思われる加工が施されており、一見普通に見えるフロントガラスにも何やらおかしなものが貼ってあった、おそらく純粋な吸血鬼であるユイちゃんを乗せるために用意された特別な車両なのだろう……に運んで乗せ、急いで出発する。
私は助手席に座ると、手早くシートベルトを締める。それを確認した運転手は、車をすごい勢いで発進させた。その速度は数秒で時速80キロを超えた。
「何があったんですか、どこに向かっているんですか!?」と私が尋ねると、
「ここまで岩崎を運んできた暇人エージェント、というか海外支部の暇人ボスが、まあ後で詳しく話してやるけど、怪異を自分たちの目的のために好き放題にしてる連中がいてな、そこの一員がこの町にいるってんで……帰還命令を無視して単独行動しているらしいんだ。しかも、よりによって君のことをそのターゲットだと勘違いしてるらしくてな、一刻も早く逃げないといけない。……らしい。」
と、衝撃的な答えが返ってきた。
「え、つまりエリートな支部リーダーが私めがけて襲ってくる、ってことですか???え、どうして私が……?」
激しく混乱してしまう。どういうことなのだ、これは。
「まあ、君はその、相手と問題を起こさずに、有名で危険度が高いとされている吸血鬼と直接接触した、記録上でも数少ない人物だからな。それで君自身も半分は吸血鬼なんだからね……正直、狙われる理由は多い。あまりにも多すぎる。」
……思っていたよりもとんでもない話になってきた。もはやオバサンやユイちゃんの問題を気にかける余裕がないほど危険が迫っていることを、ようやく認識した。
「……しかも、よりによってこちらを狙ってきているのは、イタリア支部の支部長で、『悪魔の猟師』とまで言われるほどの恐ろしさと強さを誇る怪異退治のエリートにして対人戦のエキスパート、それも一級品だ。アレに狙われて無事だった怪異も、人間も……いないと、いわれている。」
……強すぎないか???
「……え、ヤバくないですか?」と、私は声を震わせて言った。
「だからこそ今超スピードで逃げているんだよ、ユイ君は人に危害を加えてないし、そういう怪異は原則として保護、またはチームの味方になってもらうことになっている。人に危害を加えた怪異も、拘束して連れて行くと、それだけ強いということで評価されるからな。基本的には『怪異は生かして帰るもの』と思ってくれればいい。まあ、さっき話した組織の怪異は別だがね」
そうテオドルさんが告げたと同時に、時速100キロまで加速していた車が、大きくガタンと揺れた。私は慌ててサイドミラーを覗き込む。そこには、機械らしき何かの残骸が散らばっていた。
「……しまった、今ので完全にバレた」と呟いて、運転手はアクセルを踏み込み、どう考えても街中で出してはならない速度で朝の町を進んでいく。
……踏まれて故障することで、居場所を知らせる装置?……常時電波を発する何か、か?
一定以上の速度と重さで故障するのだとすると、と思い周りを見回すと、やはり予想通り普通の乗用車しか通れないほど細い道だった。
……待ってくれ、こんな細い道で時速100キロも出してたとか認識した瞬間に寒気が止まらないのだが。
「さっきの残骸……もしかして、何かの発信機ですか?」と言うと、テオドルさんは頷く。
それからしばらく、私もテオドルさんも口を開かない静かな時が流れたが、数分もしないうちに車は急停止した。
何事か、と思ったが、
「……やはりお前にゃかなわんよ、ロゼ」
そうテオドルさんが呟くので前を見ると、そこには先ほどまで続いていた道が消え、壁……というか、塀が出現していた。その塀の上には、脚しか見えないが誰かが乗っていた。
「……久しぶりね、本部のエリートのくせに敵を保護しているらしいニムケくん。久々の、私の幻術はどうだった?」というその人の言葉に、テオドルさんが口を開くことはなかった。
その声の主の正体を一目見ようと、私はフロントガラスに近づき、目線を上にやると、アッシュブロンドの髪を後ろで結った、ものすごいナイスバディできれいな女性がそこにいた。
こんな出会い方でなければ、「こんな美人なあなたが戦場で戦っている姿に男たちは跪くでしょうね」とか、ジョークのひとつでも言えたのに。
「……んで、そこにいるのが『そいつ』なのかしら?怪異に暴れ回らせて、頭がいいふりしてさくさく解決方法を提示して、策のふりして仲間を全滅させ、おまけに利用した怪異を処分しようとしたときた、そんなクソ野郎の半端者さん?」
彼女はテオドルさんが何も答えないと悟ると、私に目線を向けてくる。憎悪に満ちた目で。
……確かに、そう言われては何も言えない。私も、あれはあまりに都合の良すぎる話だったと思う。
それこそ、誰かに仕組まれていたように、何もかもがどんどん明らかになっていったから。
「……返す言葉もないようね、さあ大人しく出てきなさい。私はテオドルや他のエージェントたちを絶対に巻き込みたくはないの。だからね、さっさと出てきたら?まあ、あんなことをしたやつが……」
私は、彼女の言葉を遮るように車から飛び出した。
テオドルさんが私を止める声が聞こえた気がしたが、それさえも振り切って飛び出してしまった。
日差しが熱い。皮膚の奥が、じりじりと焼けるような感覚がする。
でも、誰にも迷惑をかけないなら、これでいい。私の一番の望みは、迷惑をかけたり苦しみから助けられなかったりすることなどで、誰かを苦しめることをしないことだから。
「……あなたが彼らを巻き込まない、というのは私にとって都合がいい話です。だって、私は無実なんですもの。それが証明できない以上、誰も巻き込まずに一人で死んだ方がいいでしょうから。それに、私は吸血鬼の半端者。黙って立ってるだけで死ねるんだから誰かが手を汚すこともない。
……ほら、とっても合理的で早くて犠牲が少なくて強い味方を得られる、皆にとって最良の選択でしょう?」
ああ、身体がどんどん焼けていく。痛みで意識がかすみがかってきたが、くたばるにはまだ早い。
「皆のためだと!?ふざけるな!誰がまだ高校生の少女に死ねと言うんだ!!俺が死んだほうが百倍マシだ!それに、お前が死んだら誰かが悲しむだろうが!!」
と叫ぶテオドルさんに、
「そうしたら、誰がチームの皆を守るんですか?あなたが話してくれたあの体験談のように、最悪の上司に当たって使いつぶされて死ぬ結末が目に浮かぶようじゃないですか。そもそも、私はこんな気味の悪い存在に、人から外れた身体に、そう……そう、なってしまってるんだから、誰かに愛してもらえるわけないじゃないですか。」
と返す。彼は一瞬悲しそうな顔をして、黙り込んだ。
……クズだ、私。自分を助けようとしてくれている人に、こんなにも彼のやさしさを酷く踏みにじるような言葉をかけるなんて。
案の定、ロゼと呼ばれたこの美人、いや、女性も不思議そうにしていた。
「へえ、いいやつなんだかゲス野郎なのかよくわからないね君。まあいい、」
……彼女は、そこまで言うと拳銃をこちらに向けてくる。おそらく、これはイザヨイなのだろう……
「くたばりなさい」
その悪魔の猟師が引き金を引いたその瞬間、
私の目の前で、――あ―。
全て、何もかもを見逃さないよう目を凝らしながら、前を見る。
開きっぱなしの車の扉。目の前で崩れ落ちた男。火薬のにおい。薬莢が落ちる音。流れる血。血。血。
全てが同時に起きて、時間差で起きて、起きて、起きて、……ああ……。
……私が、絶対に望まなかったことが。起きてしまった。庇われてしまった。
なんで?傷つくのは私のはずでしょう?誰も巻き込まずに済むはずだったでしょう?
目の前の女性も、『有り得ない』という顔をして、口元をおさえて震えていた。ちらりと一瞬だけこちらを見た彼女の眼は悪意に満たされていた。
何故?私じゃない。彼を直接傷つけたのはあなたのその悪意だ。その悪意を見境なく持つせいで無関係な他者を傷つけることを理解できないなんて、なんて愚かなんだろう。彼女の過去なぞ知らないが、何かがあったにせよ、故意でなかったにせよ、【彼女は彼女自身の知り合いなのであろうテオドルさんを傷つけた】のだ。
お前なんかそこで一生、独りっきりで震えていればいい。
憎悪。尽きることのない憎悪。心が虚無に包まれていく。いつぶりだろう。なんでだろう。
やはり私は、誰かのために心を失ってしまう性分らしい。
ああ、でも、でも、大事な仲間が傷ついてるという目の前の現実なんて、"なくなってしまえばいいのに"……。
私は、この場所に来て初めて、純粋にケガをした痛みではない叫びを、腹の底から絞り出した。