△月□日
「今日も表向きの仕事ではないのだけれど......」
その暗い顔を元気付けるかのように、ゆらゆらとロウソクの火が女性を照らす。
部屋は彼女の気分をそのまま現実に映し出したかのように暗い。
「今さらそんなこと言うの? 慣れてるから平気ですよ、仕事ですしね。で、今日はどっちですか?」
心配そうにこちらに自分に視線を向ける彼女を安心させようと微笑み、優しく両手を包み込む。
「私は未だに慣れないわ。この手もね⋯⋯」
「僕のこと嫌いになっちゃった? ごめんね」
なんて冗談を言ってみせる彼はきっとこの場を、彼女を少しでも和ませようとしてくれているのだろう。
ーー嫌いになれるわけがない。
嫌いになろうものなら彼は一体どうして誰を頼って生きていくつもりなのか?
そんなこと言わせないためにも笑ってみせようとしたって顔が引き攣ってしまうのだ。
そんな無意味な心配などさせたくない。寧ろ心配しているのだ。いるのに、だ。
何回もこういうやり取りをしてきている。そろそろ慣れてきてもいいはずなのだ。
だが仕事の内容が内容である。自分も自分でなかなか慣れることが出来ない。
寧ろ慣れたくないまである。でも伝えなくてはならない。
どうして? 何故この仕事を私に任せたのか?
こんなにも苦しい仕事をだ。
でもこれが自分の仕事の一部である。仕事の中で最も嫌いな内容で、この時間が最も嫌いな、苦手な時間でしかない。
それでも仕事だ。わかっている。任せられたからにはやらなくてはならない。
自分より彼の方が辛いことは誰よりも理解している。
だが彼に仕事内容を伝える度に心が重く、体が、脳が、頭が、体が重くなる。どうしてだ?
何故かこちらが泣きそうになるような、何とも言えない気持ちになってしまう。虚無だ。
特に彼が「大丈夫」と自分に微笑むたびに、胸が痛いほどに締め付けられる。
その目が笑っているところを一度も見たことがないからだ。
いつからだろうか、初めての頃からだろうか。
全く思い出せない。何回このやり取りをした?
彼が無理をしているのも、彼の精神状態がギリギリなのも、もう⋯⋯もう随分前からなのだ。
仕事だからといって許されるような、仕方がないで済むような、大丈夫だって言われて大丈夫だと言えるような、そんな事ではない。
でもそれは誰もが理解している。
彼自身も「仕事だから」「仕方がない」「大丈夫」なんて言いたくもないはずだ。言わされているに近いはずだ。何故?
彼が本当に言いたい言葉はもう見えている。聞こえている。
もう彼がどう繕ったところで苦しんでいるのも透けて見えてしまう。
こちらが言ってあげなければ一生このままなのだろう。
喉のあたりで突っかかっている言葉を吐き出してしまいたい。
それが出来たらどれだけ自分も相手も楽になれるのだろうか。
その言葉は私が気安く吐いていいものじゃない。
例え手を差し伸べたところでこの子は、この子は手を振り払うのだろう。
「今回は――」
あぁ今日もまたこの言葉で、自分の言葉で、彼が死んでいく。
☆
「今日は急にどうしたの? 珍しいじゃない」
「お姉さんが欲しがってた香水、この間のお礼にと思って。近くに来たから寄っちゃった、ごめんね?」
「ほんとぉ〜!? やだぁ嬉しいわ」
――臭い。
いきなり家に押しかけておいて、ましてや家の中にまで上がらせてもらっておいて失礼にも程があるだろうけれども、この匂いはどうも好きになれない。
彼女が付けているキツい香水の匂いが鼻の奥を刺激する、これが死ぬほど大嫌いだ。
今すぐにでも家を出て行きたい程に嫌いなんだ。
仕事はすぐ慣れたというのに、これだけは未だに慣れないでいる。
しかも彼女の家となれば更に酷い。息をしていたくない。
さっさと用事を済ませてしまいたい。
自分にこの匂いが移ってしまうのも嫌で嫌で仕方がない。
「テキトーに寛いでてちょうだいね。少し片付けるわ」
床やソファに散乱している衣服や化粧品、香水。
きっと柔軟剤の香りも混ざっていることだろう。
ーー臭い、臭い臭い臭い、汚い。
部屋の散らかり様を見れば、この家に人が尋ねてくることは滅多にないということがすぐにわかる。
現に彼女は部屋を片付け始めたのだからそうに違いない。
「別に平気だよ、気にしないから」
嘘である。
一応は人の家に上がらせてもらっている身だ。偽りの笑みを顔に貼り付けておかなければならない。
部屋を見渡しては一番綺麗にされているベッドに腰をかけさせて頂こうと足を運ぶ。
それでも下着やらが床に散らばっているわけだ。なんとも端ないし品がない。
本当ならばこんな場所で寛ぐなど到底したくない。
床やソファに比べ比較的に片付いてはいるものの、ブレスレットやら指輪やら、何個も何個も誰に貰ったんだか。
気に食わないな。
「プレゼントだけ先に受け取ってくれると嬉しいかな」
「あらそうね。ふふっ、ありがとう」
「ん......」
その甘ったるい口付けも好きではない、死ぬほど吐き気がする。
彼女の香水が余計にそうさせるのだろう。鬱陶しいほどに鼻につく匂い、穢らわしい。
でも嫌いなモノほど近くに引き寄せなければいけない。
こんなにも汚くて、臭くて、穢らわしくて触れたくもないものほど特に、だ。
片付けを再開しようとする彼女の腕を引き寄せ、今にも唇が触れそうな距離で、
「それだけでいいの?」
気持ち悪い。
「ふふ......本当に悪い子よね」
「掃除なんていいから、もっと近くに感じさせてよ......」
吐きそうだ。
腰から抱き寄せては、特に意味もなく女性の首元に顔を埋める。
そして深く息を吐いて、ゆっくりと息を吸う。
どうして女はこんなにも細くて柔らかくて、いい香りがして、いい匂いがして、それでいて何故こんなにも気持ちが悪いのだろうか。
「......いい匂い」
「んふふ、貴方もね」
優しく撫でられたところから自分がどんどん汚く、穢く、汚れていく感覚がする。
もうとっくの昔から汚れているのにな。
顔を埋めた首元からゆっくり舌を這わせて耳たぶもひと舐めしてやる。
自分のやっている行為に吐き気がして、自分が自分じゃないような感覚に陥っては目眩がする。
脳が自分の行動を受け付けていないようだ。いつもの事なんだけど。
でもこうすれば簡単に女性の気持ちなんて、もうこっちのものでしょ?
逃がしなんか絶対にしない、してやらない。
そのまま耳の中で厭らしい音でも立ててしまえば、相手は情けない声と共に身体を震わせ、自然とこちらに身を委ねてくる。
つくづくこんな阿呆で馬鹿で愚かな奴にはなりたくないな。
「気持ちいい?」
そしてそんなクソみたいな人の耳元で、不愉快なほど甘ったるい声で囁き、誘惑するような人間にもなりたくはない。
「意地悪しないで、してよ⋯⋯」
たったこれだけで少し息を荒くするのも意味がわからない。息が触れるのもうざったらしい。
それでも雑に唇を奪っては、そのままベッドにゆっくり押し倒していく。
女性を乱暴に押し倒してはいけない。丁寧に、そして優しく扱わなければならない。
でもそれとは真逆に彼女の唇は少しだけ激しく貪り、指に絡まることのないサラサラな長い髪もくしゃくしゃに掻き乱してやる。
「ねぇ、これ誰から貰ったの?」
「ぁ⋯⋯そ、それは」
「へぇ⋯⋯俺以外にも手出してんの」
「違⋯⋯っ。んっ、んぁ」
開いた口をいい事に柔らかい舌をじっくりと味わってあげる。
なんて嘘、少しキツく噛み付いてやった。
それでも体を小さく震わせて喘げば、舌に絡みついてくる。
そんなことをしたいわけじゃないが、求められたのならしてやらなければいけない。
そう、今はこうしてどうしようもなく汚くてどろどろとした甘い時間を過ごさなければいけない。
舌に生暖かい感触が、そして汚くて不味い唾液が混ざり合う音だけが響く。
他の男とかこの女とか心底どうでもいい。
「はー⋯⋯ぁ、いいことしてあげる」
「あ⋯⋯っ違う、違うの! んっ」
誰からの贈り物かもわからないブレスレットで彼女の両手を拘束してやれば、何故か更に顔を赤らめて恥じらいをみせる。
そしてその手からゆっくりと優しく撫でるように、腕、首、そして胸へと手をかけていく。
汚い身体だ。自分のように、自分より、いや自分の方が穢れに穢れているのかもしれない。
触れた部分から真っ黒に、白い布に染みていくかのように汚れていくんだ。
「触って⋯⋯?」
そして静かに彼女の服に手を伸ばし、
「これも男から?」
ーー気に食わない気に食わない気に食わない。
気に食わないから嘲笑っては乱暴に引きちぎっては、彼女の白い肌を顕にさせる。
「こ、これ⋯⋯んっ。これはっ! ぁ⋯⋯っ」
跡が残らない程度に胸元に噛み付けば、またアホらしく喘いでみせる。だらしないな。
あぁ死にたい。死にたい程に不愉快で吐きそうだ。
それなのに触れた、触れられた部分から更に、更にまた自分が黒く染まっていく。
それでもこの女の心も身体も全部、全てこちらのモノにしなくては意味がない。
綺麗でもない、美味しくもない、魅力も一切ない。
そんな女と自分がこういう関係を持っていること、関係を持ってしまったこと、出会ってしまったこと、始まりから今の今までの全てが気持ち悪い。
ーー死にたい死にたい死にたい、殺してくれ。
だがこうやってまた舌を奪われ身体に触れられ、だらしのない声を聞かせてくれる、この情けないくらい淫らな姿。
人から与えられている快楽に溺れて、喘いで、縋って、他人に身を委ねてしまう愚かな姿。
自分が良くしてあげれば心も身体も全部、全て易々と曝け出してくれちゃう不愉快な程に愉快で間抜けな、そんな姿が好き。大好き。
「ねぇ俺のこと好き?」
「はぁ......ぁんっ。あ、好き。大好――」
「そう? 俺は好きじゃないよ」
そして快楽という名の幸せを身体全体で噛み締めている人間を絶望に突き落とす、この瞬間が、感覚が。
全身が震えるほど好きで好きで好きで好きで好きでたまらなくて死にそうだ。
「っーーあ......ガ、ァ?」
悲鳴を上げさせてやる隙も与えない。
口を僅かに動かすものの、急所を刺されてしまえば1分も持たない、即死だ。さようなら。
しばらく彼女の馬鹿みたいな顔を眺めては、首に突き刺してあげた短剣を引っこ抜いてあげる。
殺せたことをまるで祝福しているかのように、綺麗な大量の血が溢れ始めた。
アホみたいに開いた口から流れ落ちている、汚い唾液と混ざり合う。
あぁ死んでも尚、汚いなんて素晴らしいな。
ベッドの白いシーツも、綺麗に伸びたサラサラの髪さえも、どんどん赤色で染め上げていく。
その血が何よりも誰よりも綺麗で素敵で美しくて、好きで好きで好きで身体が興奮して息が荒くなっていく。
はぁ本当に好き⋯⋯大好き、狂おしくて堪らない。
腹の底から、心の底から湧き上がる興奮と嬉しさで、アホほど愉快に笑う自分を睨んでくる死体の目をそっと手で閉じる。
「その姿が一番綺麗で好きだよ」
鈍い音を立て今度は心臓を刺す。
刺して刺して刺して刺して刺して刺しまくって、もう、もう十分で堪らないくらい刺して綺麗な純血を浴びて、浴びたくて浄化されたくて仕方ない。
はぁ⋯⋯本当に本当に本当に生きてるって感覚がする。凄い、あぁ好き、本当に幸せでしかたない。
あの言葉は「生きているお前に興味なんてない」ということ。
最期に彼女にかけてあげる最高の告白だ。
「はぁ⋯⋯ふふ、さてと。報告しに行かなくちゃいけないね」
自分の手や服に血が付いていないか確認する。
こういう事はもう何年も何回も、数え切れないくらいしてきた。
慣れているんだから返り血なんて浴びているわけがない。
なんてね。いつも自分から血を求めては返り血で染まりまくってしまっているから、きちんと別に服は用意して貰っている。
あぁこれから帰るんだ。やっと帰れるんだ。
この臭くて汚くて息すらしてたくない、あの可愛い女の部屋からやっと。
もういつもの自分に戻らなくてはいけない時間だ。
さよなら、汚物で満たされた部屋と美しい君。
その場を立ち去ろうとドアに手をかけた瞬間、彼はふと何かを思い出して体を翻す。
それは先程ベッドの隅に置かれた小さな箱。
プレゼントとして女に渡したものだ。
「......報告は違う人にしてあげた方がいいかな」
その箱の中身が本当に香水なのかはわからない。
それでも死体の傍に置いておくのは勿体なく、何故だか可哀想だと判断したのだろう。
その箱を片手に、ただただ殺人現場と化した家を平然とした顔で、いや先程より嬉しそうな、楽しそうな顔で、鼻歌交じりに出ていく。
そしてちゃっかり盗んだであろう鍵でしっかりと家の鍵を閉めては、代わり映えのない町へ裏から表へと。
その町の日常へ一瞬で馴染んで消えていく。
こんな日に似合わない、嫌なくらい降り注ぐ太陽の光が、彼の影を一層色濃く染めていた。
今日もまた何気ない日常が。
知らない場所で誰かが。
誰も望んでいない事が。
読んで頂きありがとうございます。
こういう文は慣れていないもので、読み返せば読み返すほど恥ずかしくて彼より私が死にそうです。
死ぬ人間の容姿なんかどうでもいいと思って詳しく書いてはいませんが、自分の嫌いな女辺りを想像して頂ければと思います。
キト達の旅とはまた違う創作の子の話の一部でした。