第19話 梨里杏さんに危機が迫っています
いつも通りキャンバスに向かい絵を描いていた梨里杏は思い出し笑いのように一人微笑みを湛えて自然と唇が歌のリズムを刻んでいた。昨日見たルディの幻影が梨里杏を幸せな気分に導いていた。もっともそれは幻影ではなくルディ本人だったのだが、それを知る由もない梨里杏はルディに会いたい気持ちが強すぎて見せてる恋しい幻だと思っていた。
そんな朝から浮かれ気分の梨里杏が今描いているのは最近見かけなくなったトラ柄の野良猫だ。早く姿を見せてとの祈りを込めて描き込んでいるその絵は、今にも抜け出てひと鳴きするような素晴らしく精巧な作品になっていた。そんな時、一休みしようとしてふと自身にまとわりつく何かに気が付き振り返る。
「—————— あら、お兄さま ?どうなさいました ?顔色が優れませんわよ。」
「…………」
「………… だんまり勝負ですの ?わたし負けませんわ。」
既に話しかけている時点でだんまり勝負にはなっていない天然気味の梨里杏ではあるが兄の異変には気が付く。しかし稀に兄は梨里杏では理解できない思考や行動をすることが多かったので今回もそうだと思っていたが、黒い靄が兄から溢れだし同時に苦しみだした姿を見ると流石の梨里杏もただ事ではないと気がつく。
【………… っうがぁーリリ—— 逃げェ——ガァガァアアアアア————】
「お、お兄さまっ !? 」
【…………】
【——— リリカ——オオゴエ ヲアゲテ ドウシ タノ—ダイ ジョウブダヨ —— 】
「………… あなた誰です ?お兄さまではありませんわね。」
【フハ、ナニヲイッテイル、オマエノ ?———— そう だね、兄 ではな かったな。】
梨里杏は兄の急激な変化に戸惑いと恐怖を感じていたが画家としての性か、持って生まれた観察眼と集中力で恐怖を凌駕し兄と思われる人物を観察し始めていた。外見に目立った変化が無いと思っていたが、完全に目の色が"パープルズ・アイ"に変容していた。それも血の色を混ぜたような赤みの強い紫紺の瞳になり血の色をそのまま塗りつけたような色味の唇に変化し、身体全体から赤黒いオーラが立ち上っていた。
梨里杏は本能的に、この兄だった何かから、既に兄の魂を感じることすら出来ず、焦りが次第に滲み出て、いつもの温厚でぼんやりした梨里杏からは考えられない怒りで声を張り上げていた。
「お兄さまをいったい何処に追いやったのかしら?わたしのお兄さまを返して下さいっ」
【—リリカ、お前が 兄と 呼ぶ者は 私の糧となり器となった のだよ。お前は 忘れているのだろう。 我 暗黒世界を統べるデーモンアシエルの花嫁だということを】
「な、何を言っているのか全然分かりませんわ。そんな戯言。」
【— 戯言では無い 1千年昔に久城と盟約した こことは違う世界で 口惜し事に勇者と名乗る下等な生き物に追われこの地に来た 銀髪の勇者と共にいた我が花嫁 聖女リリカの亡骸から魂を復活させる その手伝いと 傷ついた我の存在を代々 久城の者が二世代ごとその身を捧げることと引き換えに 久城に永遠の繁栄を 血の誓いを盟約した そなたは聖女リリカの魂が復活した姿 我が花嫁】
梨里杏はこの得体の知れない《アシエル》と名乗る悪魔の話が怖かった。自分は本当は誰なのか、この悪魔の花嫁なのか、兄は本当に消えてしまったのか、久城の家が本当に悪魔と取引していたのか、兄たちは知っているのか、ああ、どうしたら、ルディさん!この世界にはいない遠く離れた愛しい存在。ルディさん、わたしは本当に悪魔の花嫁なのでしょうか ?ルディさん、助けて下さい! 魔道携帯を握りしめ、無意識に縋るのは愛しいルディだった。
梨里杏が無意識で魔道携帯を起動させた影響で辺り一帯の時間が時を止めた、一瞬間梨里杏は悪魔も動きを止めたと思ったが《アシエル》と名乗る悪魔は泰然とした微笑みを湛えて梨里杏を見つめていた。
【リリカ我が花嫁。我の元に参るがよい】
アシエルが手招きの動きを見せると梨里杏が何かに操られるようにアシエルの元へと運ばれていく。梨里杏は声も出せず、なすが儘だったが気力で愛しい人の名を呼んだ。刹那、一陣の風が吹き抜けると同時に梨里杏はルディの腕の中にいた。
「ふう、間に合いました。梨里杏さん、お待たせしました、随分怖い思いをしたでしょう ?もう大丈夫です。貴女をこんな化け物に指一本、髪の毛の一本程も触れさせはしませんから。」
梨里杏は恐怖から人知れず涙が溢れ震えていたが、ルディの腕に抱きしめられ、慰められるようにしていると震えがいつしか止まりこの人がいれば何も怖くないと信じられた。
「さて、随分なたわ言で私の大事な彼女を怖がらせてくれましたね。そのお礼はこれからたっぷり差し上げます。」
【貴様、また我の前に現れたか、忌々しい銀髪の勇者。人間の分際で千年も付けまわすとは ………】
「はっ ?何のことでしょう。悪魔を千年付けまわす暇はないですね。フッ、人違いでしょう。私は勇者ではなく、賢者です。勇者は…… あっ、今来ましたよ。」
「ルディー !いきなりいなくなるなよ、ビックリするだろがっ ん ?これは、大物悪魔じゃねぇーか !まさかこの世界に存在するとはなー、んで勇者がなんだって ?」
【………… 我を愚弄するか、銀髪の勇者、そこな黒髪の人間ごときに我が負ける訳がなかろう】
先程から悪魔はいったい何を言っているのだとルディは首を捻る、梨里杏が千年前の聖女の生まれ変わりみたいな話は彼女の不思議なオーラから成程と思わないでもないが、自分が千年前の勇者だと言うのは信じられない。カイトを見ていると勇者は脳筋で聖剣使い、自分とは正反対に位置する気がしてならない存在だからだ。
「失礼な悪魔だな !ルディ、お前も今、スゲー失礼な事考えてないか ?」
「なんの事でしょうか。いつも思いますが野生の感ですね」
「やっぱり考えてやがったな! それより、あの悪魔がさっきからほざいてる事に心当たりがあるんだがなー。」
カイトは異世界に飛ばされた時、勇者としての心構えから今まで存在していた勇者がどんな存在だったか勇者しか入れないとされる場所で千年前に現れた異質な勇者の事が書かれた本を思い出していた。




