積年の慕情
何度も何度も拒絶されるうちに、感情がポロポロボロボロ砕け壊れて、自分の心の隙間から零れていった。
何度も何度も拾い集めて元の枠に戻そうと躍起になっても、端がボロボロに崩れて形を変えた感情は、枠に入りきれなかったり小さくなりすぎてまたポロポロ落ちてってしまった。
元の形に戻すのはもう不可能だった。
綺麗な形に戻すのはもう無理だった。
最初の形さえ見えず、その形さえ忘れてしまって。
くっつける糊さえなく、ガタガタに積み上げられたまま。
どうしようもないと歪に形を整えられたそれを眺めて、私は。
もう良いやって、そう思って。
ユウリはもう、疲れていた。
ーーーーーーーー
家族に疎まれていることはとうの昔に気づいていた。あからさまな程姉との対偶は違ったし、居てもいなくても何の問題もないのだと言われたことは数多くあった。
家には、居場所がなかった。
だからこそ、“家”以外で自分と言う存在を作らなければならなかった。
最初はなんとなく、上手くいった。同性のクラスメイトに話しかける。話せば仲良くなったと錯覚を起こす。但しその錯覚はたった一度の事柄にすぐさま解けてしまうのだけど。
教室の扉を開けた瞬間、クラスの空気の一部が瞬く間に変わった。その変化は明らかだった。腫れ物に触れるような視線をさらにその一部から与えられながら、無言で教室へと踏み込む。
多くの人間は空気のように自分を無視し、無視出来ない者は疎ましげに、または好奇の目を向けていた。
「…………なんであいつ、学校来れるわけ?」
「来なきゃいいのに」
片隅に固まった女子生徒の声が耳に入る。
こうなったのにも理由はある。
よく話すようになったグループ内の一人に好きな人が出来た。女子特有の恋バナでの盛り上がり。女子特有の他人の色恋ごとへのお節介。
正直最終的には本人の努力とタイミングだと思うのだが、当たり前の様にそれは自分にも適用された。
ーー相手の男の子を好きにならないこと。
ーー相手の男の子に好きと言われないこと。
その時はまだ自分には関係のない事だと思っていた。その男の子に興味はなかったし、自分の容姿を見てもそんなことがあるはずなく、そうだね、頑張ってね、と口にした。
男の子と近づく為に、けれど自分から言うのは緊張する、と言う女の子に頼まれれば、グループ内での面倒ごとを避ける為、男の子を誘う役目を負うこともあった。
自分としては言われるがままに行動していただけだった。だからどうしようもなく顔を強張らせたのだ。ーーーーその男の子に直接的に告白され、ましてや性的暴行を受けようとした、などと。
噂はすぐさま拡散した。異常とも言える伝達速度で彼女達の耳に入るやいなや、彼女達はユウリを糾弾した。
いつも、いつもそうだ。仲良くなったグループと亀裂が入るのは往々にして自分が相手の好きな男の子を、そうと知りながら横取りしたと糾弾されるからだ。
さらに今回は目立つグループであることも重なって、瞬く間にクラス内で孤立した。
空気のように扱ってくれればいいのに。そうすればお互い楽だろうに、と心の底で思う。しかし人という者は目に見えて、更にそれが繰り返されたが故に目立ち、周りに貢献するどころか悪意を呼ぶ存在を空気として認識できるほど、寛容でも鷹揚でもない。
窓の外の代わり映えのしない景色を眺める。何か面白い物があるわけではなく、クラス内部を見るよりも余程マシだと思うから。
ジッ……と窓を見ていたが、授業開始を前にして、机の中に手を入れーーーーびりっと痛みと熱を併せ持つ感覚に、咄嗟に指を引いた。指先にぷくりと血が丸く浮かび上がった。それに血の気の引いた感覚になり、机の中に顔を覗かせる。
キラリと金属製の輝きに、喉の奥がなった。チラシ等を貼り付けるピンが、その尖った方を上に向け、テープで貼り付けられていた。
ーーーー向けられる悪意に目眩がしそうだ。
その様子を見て教室の何処かから女の子の笑い交わす声が響いた。
疼痛の残る指先に、唇を当たる。薄っすらとした血の味が唇を伝って口内に流れ込んできた。
居場所なんてなかった。家にも、学校にも。もう其処はユウリが安穏と暮らしていける場所ではなかった。
そんな時に考えるのはいつも1つだけ。
ーーーーいつ、迎えが来るんだろう?
ーーーーどんな人が私を選んだんだろう?
母はいつも“それ”を語る時に、決まって化け物だと口にした。化け物でも良かった。この暮らしから抜け出す足がかりになるのなら、何者だって構わなかった。
無意識に、その人に縋った。存在を証明するものはなくても、あの痣があるだけで良かった。その人の存在があるのなら、このドロドロとした人生を、まだ終わらせる訳にもいかなかった。
ーーーー早く、その人のそばに行きたかった。
そうして、今に至る。
ーーーーーーーー
『なんだ、この出来損ないは』
いつまでもあの言葉だけが、頭の中でリフレインする。
「どうして私じゃ駄目だったんだろう……」
勝手に縋ったのは私の方だった。あの人なら私を傍に置いてくれるはず。そんな勝手な願望だったのだと、冷静で諦めがちな私が言う。
「どうしてっ……!」
馬鹿みたい。
触れもしない偶像にーーーー
本当はずっと、ずっと前から分かっていたことだけど。
それでも。
“ユウリ”という存在を認めてくれる可能性があるとしたら、あの人だけだったのだ。
ユウリが受け入れて欲しいとまで思ったのはあの人だけだったのだ。
ーーーー嫌。嫌よ。
あの人だけが頼りだった。あの人だけが支えだった。
与えられることのなかった“正”の感情を、その空隙を、胸の中の飢餓感を、激しい寂しさを、不安感を、あの人への思いで埋めていたのだ。
あの人の為だけにしか、感情を正しい方へは、まともな方へは、動かせたことなどなかったのだ。
なのにーーーー失ってしまった。
苦しくて、息が出来ない。痛み。こんなものに耐えきれない。
だってどれ程心の底に埋め立てても、その感情の震えを知っているから。無理なのだ。胸の内側で叫ぶものに手をかけて、押し込んで、更に深い底へ沈めても。
こんな結末は嫌だって、心の全てが泣き叫ぶ。
お願い。
離れていかないで。
傍に置いて欲しい。
ーーーー例え私が必要でなくても構わないから。
ーーーーただ、傍にいることだけは許して欲しい。
目の前がゆっくりと光に包まれる。
置かれていた手が離れていったのに気づくと、顔がくしゃりと歪んだ。彼の、ウィラードの手は既に私の顔の熱を移して温かくなっていた。
その手が、背中を支えて上半身を起き上がらせる。そのまま、力の入っていない頭部が彼の胸に包まれた。
言葉にするのも大変な、ぐちゃぐちゃに乱れた心を必死に整理したそれを、彼はただ無言で聞いていた。
会ったことのない者への執着。
叶わなかったことへの絶望。
そして、そうされても何もできない自分。
口にして並べれば、何故そんなにも、と言われそうなことだ。だがそれらは紛れもなく、明日からどう生きればいいのか分からなくなるくらいの、身に迫った絶望と苦悩に他ならなかった。
だが、纏まりを欠いた自分の話が酷く下らないことに聞こえるのも、頭の端では理解出来ていた。
彼は人間ではない。異香でもない。
絶対的な上位者によって、笑われるのかもしれない。告白する口を止められないまま恐れを、抱く。そんなことにでもなれば自分の心が再び傷つくだろうことが簡単に予想できていたからだ。
だから、彼のこの行動は予想外だった。
彼の支える手は温かすぎた。
今更のようにそれを言葉にして、頭の中で、心の底で、整理したが故にその失った自分の一部を思い知ってーーーー言葉を吐き出したその先は泣き叫ぶしかなかった。理性も思考もかなぐり捨てて、子供のように泣きじゃくる。
頭から背中までをゆっくり撫でられるのが髪の毛越しに伝わってくる。
喉奥が淡く鳴る。目を閉じて、涙が治まりかけた頃、髪の毛を梳りながら静かな声で言った。
「ーーーー浅慮だったな、ユウリ」
深く、低い声だった。痛み。自分の心臓が震える。
「愚かだったな……」
慰めの言葉などではなかった。それなのに震える身体を更に強く胸に押し付けられる。
「人間に吸血鬼を理解出来るわけがなかった。吸血鬼は人間と同じように思考も行動もしない」
吐息に乗せた声が肌に触れる。
「それなのに、会わないまま理解出来るわけなどなかった。其処は君の自業自得だ。愚かだったな」
慰めではなかった。そしておためごかしのアドバイスでもなく、ただ淡々と今までの私を否定する。
だが其処に嫌悪などの感情はなかった。ましてや他の感情さえ見えてはこなかった。事実を確認するような冷静さ。
その声に、言葉に息苦しさを感じる。けれどそれだけではない。柔らかく身体を包まれている実感。それはまるで深い水底に沈められ漂うような。
そうした後、彼はゆっくりと吐息をはいて、けれど、と付け加えた。
「けれど君は、そうやって頑張ってきたんだな」
身体が、震える。
「君は愚かだった。けれど、君がそうやってしか自分を守れなくて、なおかつそれで自分を守れてきたのなら、君にとっての正解はそれだったんだろう。だったら否定だけも出来ない。君はそうやって頑張ってきたんだ」
ボロボロとこぼれた感情の欠片。もう自分だけじゃ戻せない感情の形。
それでも積み重ねてきた、長い年月を。もういいやって思っても、せっかくなら壊したくなくて。
そうやって頑張ってきたんだ。
たった一言。もう終わったと思った涙がまた滲み始める。
ずっと憧れだった、欲しかった温かい言葉。
抱きとめられるだけだった腕を動かして、彼の背へと伸ばしてしがみつく。もう離したくない、まるで子供のように。
頭の上で吐き出された吐息に気付かぬ程に。




