金の誘い水
「ーーーーうるさいな」
その一言は、薄ぼんやりとした思考の中で、異様な程はっきりと耳の中に入ってきた。聞き覚えのある声。今までに聞き覚えのないくらい苛立った声。
閉じた瞼が重い。指一本でさえ動かすのが億劫で、身体の動作に合わせて思考まで鈍くなっていくようだった。
「…………楽だとーーーー。……………………、ああも面倒だとはな……」
普通に出してる声なのに、ところどころが聞き取れない。
自分の器官の何処の螺子を巻き直せばこの声をはっきりと聞き取ることができるのだろう。
「声をかけた直後に倒れたんだ。放っておいたらそっちの方が面倒ーー。……………助けたーーーー」
声が、聴こえる。
助けた?助けたって誰をだろう。私は誰の声を聴いているんだろう?私は何をしているんだろう。私は何処にいるんだろう?
考えて考えて、けれど出ない答えに疲れてくる。やっとの様に思い瞼を開ければ、途端に人工灯の明かりが目を突き刺して、グワンと脳が揺れた気がした。緩慢な動作で額を押さえる。無くならない鈍痛は中々治りをつけてくれなかった。
痛みは治らないものの薄眼を開けて景色を見渡せば、自分のよく知る部屋が映った。未覚醒の眼に映る真白い壁。一人で暮らすぶんには充分だが、部屋の割合に対して物が少ないだけに生活感が見れない部屋。そんな部屋のソファーの上に私は横たわり、タオルケットをかけられていた。
ーーーー私、いつ帰ったんだっけ?
ぼお、といつまでも霧がかかった思考。目を開いたものの、身体が休息を必要としているのかぱちりぱちりと瞬きを繰り返した。開いては、疲れて瞼が落ちて行く。その中にガチャリとドアが開く音が響いて、朧げに沈む世界に色彩を持たせた。
ーーーーその、金色の髪が。
硬質な緑の瞳と視線が交差する。酷く何か苛立たしげな表情…………をしている様に見えた。確証がないのは、目は閉じかけで未だはっきりと目が覚めていなかったから。
その間に“彼”はいつも通りの表情でこちらはつかつかと歩み寄った。
「なんだ、起きてたのか」
彼ーーーーウィラードの声が聞こえたのに、夢か現か、まだ区別がつかない気になる。学校で彼に苛立ちをぶつけたまま逃げ出したのだ。その上ここは私の家で、そんな場所に彼がいる訳がないと冷静な思考がそう判断する。
「何があったか覚えているか?今の調子は」
しかし自分のそんな判断を知ることのないその人は見下ろしながら早口に問うた。
ぽかんとそれが現実なのだと理解して、徐々に本人を目の前にしていることに気まずくなる。今日一日、屋上の一件から迷惑をかけ通しだ。
「ーーーーごめん……なさい」
だから一番最初に口をついて出たのはそんな謝罪だった。申し訳なさに、自分の感情を理性で抑えきれなかったことに、更にはそれをぶつけてしまったことに罪悪感が湧き上がる。
彼の言葉は流してしまえばよかったのだ。流して、その後関わらなければよかったのだ。今までの自分はそれが出来ていたはずなのに。自分の立場の弱さを実感していたから、下手な反論はせず不満をぶつけられるがままにその場限りの我慢をした。
それが出来ないほどに、彼の言葉が“キイタ”のだ。
ウィラードの溜息が上から降ってきた。
「学校をお前が飛び出した後、後を追ったらずぶ濡れのお前が立ってた。声をかけたらお前は意識を失った」
なんだって傘をさしてなかったんだ、と呆れ顔で説明し始めた。どうやら私の言った謝罪を、何があったか、の返答ーーつまり何も覚えてなくてごめんなさい、と言う風に取ったようだった。
「ここに、連れてきたのは…………?」
「俺だが、…………何だ?」
「家知って……」
「この前送っただろうが」
そうだった、と自分の感情が呆れを示す。そんなこともとっさに思いつかなくなっているらしい。
「なんで追いかけてきたの?……私、は」
別に、悪いことをしたとは思っていない。けれどあんな風な女を態々追いかけてくる人なんて少数派であることは知っている。
自分と言う人間が不安定過ぎて嫌になる。
「これ」
彼は“何か”を手に取って私に向かって投げた。弧を描いて落ちてきたそれだが、寝起きの、しかもソファーに横になっている状態では反応出来ず、受け取り損ねてしまった。弾かれたそれが床に落ち、カチャ……と言う金属音を立てた。ーーーー金属音?
「おい…」
そう言いながら腰を曲げた彼が再びそれを拾い直し、私の前に差し出した。あ、と声が漏れる。
それは笛だった。
アレンに貰った鈍色の笛。
「何で……これ」
「お前が投げつけたんだ。覚えてないか?」
投げつけた。
……逃げ出したあの瞬間投げつけたのは。
その笛の特徴を思い出して思わずぞっとする。改めて受け取ろうとした手が震えた。
「これ、誰から貰った?」
指先がそれに触れた時、ウィラードはそう聞いてきた。ぞっとする平坦な声。
「な、んで?」
「それは普通なら異香が持ってるようなものじゃない。必要ないからだ。そんな物がなくても異香は守られる。でなければ誰かがユウリ、君に渡したんだ。…………俺たちを害するようなその笛を」
細められた瞳で見つめられるとどきりと心臓が軋む。自分を見つめているようでいて、その実この笛を渡した相手を探っている様な、そう言った怒りの視線だった。
「それにしてもあの時俺の何かが気に障ったんなら、これを投げつけるんじゃなくて吹くべきだったな」
使い方間違っているぞ、と触れた指先ごと掴まれ笛が口元に辿り着いた。
「気に入らなかったんなら…………吹いてみる?」
グッと押し付けられ、唇が開く。舌先に金属の冷たい感触が伝った。戦慄く唇を止めることも出来ず、笛と彼の顔を視線が行ったり来たりする。それと同時、骨張った、冷たい指先が喉元を這った。答えの如何では絞め殺されそうな、そんな気配がした。
キンと引き絞られた空気が瞬く間に部屋の中を彩っていく。束の間の静寂。
「…………吹か、ないわ」
応えは吐息の様だった。舌先が動かなかったから余計に小さく響いたのかもしれない。
「じゃあ、なんでこんな物を持っている」
追尾の質問。こんな物。特殊な笛だとは思うけど、何故そんなことを聞かれるんだろう。
「私の……」
言いかけた言葉を止め、言い直す。
「私を異香にした吸血鬼の、その従者が、それを渡してきたの。危ないからって」
初めは私の吸血鬼、と言おうとして、それは違うと思い直した。あの人は決して私のものではありえない。
言い直しの意味に気づいたのか、彼は眉を寄せた。
沈黙。
唇から笛を離した後、彼はゆっくりと聞いた。
「ーーーーお前の吸血鬼は、お前を守らないのか?」
それは純然たる興味にすぎなかったのか。
けれど、私にとっては違った。
思考が淡い。淡い。
ぼんやりとした瞳が動揺した様に揺れるのを感じた。辛うじて抑えていた何かがいちどきに溶けて流れ出していく様だ。
その流れに合わせて、涙が、零れる。幾筋も、幾筋も、嗚咽と一緒に頬を流れて濡らしていく。その涙は、悔しいのか、怒っているのか、情けないのか、悲しいのか、どれでもあるようで、その全てがごちゃ混ぜになっているようにも思えた。
「ーーーーあの人は、私を……」
喉元が震える。落ち着けと言うように目の上を手が覆った。先程も感じたが冷たい指先だ。だけど心地良かった。親にさえ、こんなことをして貰った思い出は見当たらない。
唇が言葉を紡いでいく。
聞いてもらえるのが心地が良かった。全部、全部、何も言わず、反論もせずただ“私”の言葉を聞いてくれるのが。それはまるで甘い蜜を与えられた時のよう。
ーーーー見えない暗闇の先、彼が破顔う気配がした。




