乱反射する藍を抱いた
瞬きなんて、目を閉じて開くだけ。
たかをくくっていた。見くびっていた。
ほんの一瞬、気にしなければ気付かないほどの盲目の時間。世界が空白になる。闇に呑まれる。刹那のその時が、こんなにも恐ろしいなんて。
想像もしたことがなかった恐怖に眩暈すら覚えた。
正面の貴方は表情をひとつも動かさないで私を見つめている。青に闇を溶かし込んだような、藍色の瞳が真正面にある。
目を逸らせば負け。瞬きをしても負け。
何に対する勝ち負けなのかなど、とうの昔に忘れてしまった。人体の限界を超えてなお、私たちは互いの瞳を見据え続けた。彼の瞳に映った私は、鬼の形相をしている。
ひくり、と彼の長い睫が揺れる。
私だって気力だけで持ちこたえていた。
周囲には私たち二人以外の気配が溢れていた。それも、一つや二つではない。満員電車を想起させる濃厚な気配だ。
過密な気配に反して、物音がない。耳の奥が痛くなるほどの静寂だった。
きつく結んだ指に力がこもる。力を込めているのに、感覚がなかった。
膝が震え、歯の根が合わなくなっていた。
歯が触れ合う音の隙間を縫って、声にならない声が漏れる。
「……あ、あぁ……、あああぁぁああぁぁぁぁぁッ」
一瞬、自分が叫んだのだと思った。目の前にあったのは、顎が外れたように大きく口を開ける貴方の姿。
びりびりと空気を震わせる絶叫を残し、貴方は走り去った。その後を追って私も駆け出す。
背後の気配がざわめいた気がした。
走っても走っても先を行く彼の姿は見えてこなかった。
飛びぬけて足の速い人ではなかったのに。むしろ私の方が少し早いくらいだったのに。気配すらないことに不安を覚えた。
身体を突き刺すような静寂に急かされて、足をもつれさせながら走り続ける。濃厚な気配は付かず離れずの感覚でまとわりついていた。
助けを求めたくても、その相手はいない。
――名前を呼んでみようか。
そんな考えが頭をよぎった。けれど、私はあの人の名前を知らない。
……知らない?
なぜ。
ずっと一緒にいたはずなのに。
ここに閉じ込められた私を支えてくれたのは彼だったはずなのに。
なぜ、私は彼と敵対したのか。なぜ、彼は逃げ出したのか。なぜ、私は……――。
何かに蹴躓いて地面に叩きつけられる。
地面は埃っぽいコンクリートの質感だった。闇を凝縮したようなものだと思っていたので、拍子抜けしてしまった。
とりあえず上体を起こして、自分が躓いたものを確認する。
人間の足だ。きっと男性のものだろう。
ここにいる、男の人。
男の……――。
私は反射的にその足を抱え込んでいた。その時、自分の目の前に立ちはだかる巨大な気配に気づいてしまった。
ただの壁だと思って気にしていなかったそれは、闇の塊としか形容できないものだった。その塊は何かを抱えている。ちょうど人間くらいの大きさだ。
闇の手が伸びてきて、私の胴を掴んだ。強く握られているわけでもないのに抜け出すことができない。
身体が浮くように持ち上がり、闇の塊が抱えていたものと目が合った。
闇に侵されて濁った藍色の瞳。見紛うことのない、貴方の瞳だった。焦点の定まらない混濁した目に見据えられ、震えながら口を開く。
悲鳴を上げたのは、私だった。
ざらざらとした感触に意識を覚醒させられた。閉じた瞼さえ貫通してしまうほどの眩い光が私を包み込んでいる。
「にゃお」
聞き慣れた鳴き声に目を開ければ、そこは自室のベッドの上で、愛猫がエサをねだって私の顔を舐めていた。
宝石のような藍色の瞳が陽の光を反射して輝いている。
「……お前だったの」
さっきまで一緒にいた彼は、この猫だったのだと直感で理解した。寝ている間にイタズラでもされて、おかしな夢を見たのだろう。先ほどまでの全身を蝕むような孤独と恐怖を思い出してため息をついた。
何はともあれ、あれが夢で良かった。
イタズラ好きな愛猫に文句の一つでも言ってやろうと顔を手で包み込む。厳しい表情を作って視線を合わせるが、光を乱反射させて様々な色合いを見せる猫の目に見入ってしまった。
「にゃ」
エサを催促するように短く鳴いて、猫は私の手をすり抜けた。
トコトコと歩いていく彼の後ろをついて台所へ向かう。要求されるままにマグロの缶詰を開けると、夢中でむさぼりつく愛猫の姿をじっと見つめた。
――この子ってこんなに綺麗な瞳をしていたんだ。
長いこと一緒に暮らしていたけれど、初めての発見だった。普段なら目が合うのを嫌がって逃げてしまう彼が、今日は缶詰に夢中になっているせいか大人しくしていてくれる。
ただの真っ黒なネコだと思っていたけれど、よく見てみれば瞳と同じ藍色っぽい色をした毛も混じっていた。
――窓辺に連れて行ったら、もっと綺麗な色を見つけられるかもしれない。
私は欲望に促されるまま、光を乱反射する藍を抱いた。
途中から何が書きたいのかよくわからなくなってしまいました(笑)
お楽しみいただければ幸いです。