あなたの笑顔のために、私ができる数少ないこと
こんばんは、久々の投稿になってしまったのでお忘れの方もいらっしゃるかも知れませんが、遊月奈喩多です! 初めましての方は、初めましてですね。
今回は、短編です。1話完結なので、簡潔です。
どうしてか、シスコン系の話に走ってしまいますね。現実でブラコンだからでしょうか?
「ねぇ、おねえちゃん。どうしたの?」
その春、小さい頃からずっと一緒だった愛犬が目の前で車に轢かれたショックから立ち直れずにいた私は、よく散歩に来ていた公園のベンチで何をするでもなく――何もできないまま――座っていたとき、その子に話しかけられた。
別に仲のいい子ではなかった。ただ、近所のスーパーで買い物をしているときに、たまにお母さんに連れられているところを見かけるくらいの、「知ってる子」程度の子だった。たまに挨拶したり、手を振ってくれたりするくらいの子。だからその日、別に私はその子を無視したってかまわないはずだった。だってとても「どうしたの?」なんて質問に答えられる心境じゃなかったのだから。
「うん……」
だから曖昧にやり過ごして、帰ってもらおう。
そんな私の目論見は、彼女の無垢な心の前では通用しなかった。
「おねえちゃん。わんちゃんどうしたの?」
その言葉を聞いてしまったら、もう我慢することなんてできなかった。泣き出した私を、彼女は必死に慰めてくれた。それから、泣きそうになりながらもそれを堪えて――明らかにそうわかる表情で――、こう言ってくれたのだ。
「ママがね、前に言ってたよ。大事な人が死んじゃっても、泣いちゃダメなんだって。泣いちゃうと、心配しちゃうんだって。だから、えっと……」
その言葉よりも、その笑顔に、私は救われたような気がした。
私の心の澱を、その嘘のない思いやりの気持ちからの笑顔が、簡単に溶かしてくれたように感じた。
それが私と彼女――悠花との、今の関係の始まりだったのだと思う。
「悠花、そろそろ帰った方がいいんじゃないの?」
外はもう暗くなっている。決して遠いわけではないけど、あんまり遅くに帰るとやっぱり心配だ。
「え~? もうちょっとだけ! もうちょっとしたら帰るから!」
悠花は、私の部屋で漫画を読んでいる。ベッドの上で寝転がっている無防備な姿を見ると、学校でどんな風に過ごしているのかちょっと気になる。変な虫でもついてないといいけど……。
「虫?」
「ううん、何でもない」
当の本人にとって気になるようなことがなければ、まぁいいか。
「ところで悠花、受験の方は大丈夫そうなの?」
「え~、お姉ちゃんまでそれ言うの? もう、お父さんにそればっかり言われるからお姉ちゃんちに避難してるのに!」
「おじさんにも一応頼まれてるからね」
ぶー、と小さい子みたいにむくれる悠花。不覚にもかわいいなぁ……とにやけてしまいそうになる。危ない危ない。理性を働かせる。
公園での出会いから8年ちょっと。
私は大学3年生になって、悠花はもう中学3年生だ。
あの出来事をきっかけに私と悠花はそれ以前よりも距離を縮めて、それまで「知っている年上の女の子=お姉ちゃん」という感じだったのが、段々と本当に親しみを込めて「お姉ちゃん」と呼んでもらえるようになっていき、その関係が今でも続いている。というより、本当の姉のように親しみを持ってもらえているつもりだ。
私の頃もきっとそうだったけど、中学生というのは色々あるみたいで、よく学校であったこととか悩み事とかを聞いたりしている。それでもまぁ、本人にとってはそれも大したことではないのだろう、遊びに来てくれた時に「そういえばこないだのあれってどうなったの?」みたいなことを訊くときょとんとして「あれ、それお姉ちゃんに言ってたっけ?」なんて訊き返されることもザラだ。私も今の悠花くらいのときは、たぶんそういうようなことで悩んだりしてたんだろうなぁ……と思い返してみるけど、どうだったか。
ちなみに最近の悩み事は、友達の悩み相談に見せかけたお惚気に中てられているという、何かかわいらしい悩み事だ。悠花からそういう話を聞かないのは、何だか安心だからそれでいい。
「え、お姉ちゃんに話してたっけ、それ?」
「うん。けっこう話してたよ?」
え~? と半信半疑そうに私を見てくる悠花の顔がかわいいから、写真を撮っておく。「変顔~」とは言っておくけど、たぶん永久保存版だ。
ちなみに今は夏休み、高校受験に向けて色々と準備があるような時期だ。少なくとも私は夏季講習とか通っていた。悠花は何をしているかというと、ほぼ毎朝「勉強教えて~!」と私の家にやって来て、実際のところは私の部屋でゆっくり遊ぶ……という流れになるのがほとんどだ。悠花のお父さんにもそれは薄々わかっているらしく、『加奈ちゃん、たまには厳しく言ってもいいからね?』と電話で言われたこともある。
そんな事情もあるし、やっぱり悠花が後で困るようなことになるとかわいそうだから、できる限り勉強の時間にしたいのは山々なんだけど……。
悠花も私が自分に甘いのをわかっているのだろう、おねだりしたいときだけちょっと上目遣いになって「ちょっと休憩しよ?」とか言ってくるのだ。そんな態度に出られると、悔しいかな、甘くせずにはいられなくなってしまう。というわけで、悠花のお父さんに言っているほどの勉強時間は実際のところとれていなかったりする。
「お父さんだけじゃなくてお姉ちゃんまで……。これでもわたし、けっこう勉強できるようになってるんだよ?」
「こないだ返ってきた模試の結果、もう1回見ておく?」
「えー、やだ」
ちなみにこの間――6月末くらい――の模擬テストの結果は、少し……いや、本人のためにはっきり言っておくとかなり残念なものになっていて、志望校の合格率は20%切るという不安しかないものだった。それも、私との短時間の勉強で多少は改善されてきている……と思いたい。
「それにしても、夏休みって最高だよー。ちょっと夜更かししても遅刻なんてないし……あれ、お父さんから電話だ。もしもしー、えっ? うん、今お姉ちゃんち。聞いてよ、お姉ちゃんまで勉強のこと言うんだよ? ……うん、うん。はーい。わかったよー。え? えぇ!?」
電話中にいきなり声を上げて窓のカーテンを開ける悠花。「もっと早く言ってよ~」と言って電話を切って、私に「お父さんが迎えに来ちゃった~」と残念そうな口調とは裏腹に笑顔で言ってから、帰り支度を始めた。ほとんど開いていない参考書と、持って来ていたお菓子の袋をカバンにしまう。
「別にゴミくらい捨てていっていいのに」
「いいよ。だって、お姉ちゃんのお部屋借りて勉強見てもらってるのに、汚したりしたくないもん」
そういうところは、小さい頃から変わらないなぁ。
そんな悠花の一面を、私は知っている。だから、勉強くらいできなくても全然いいんじゃないの? と思ってしまうんだけど……ね。それだけじゃ何ともできないのが現実だから、明日も頑張ろう。
「じゃあねお姉ちゃん、ばいばい!」
「またね、悠花」
本当に迎えに来ていたお父さんの車に、笑顔で手を振って乗っていく悠花を見送ってから、私はまた自室に戻る。
静かな部屋。静かで無味乾燥で平凡で代わり映えのしない――だけど、悠花のいた部屋。
私の部屋を汚さないように……なんて気を遣ってくれたけど、実際あなたは色々な痕跡を残していっているんだよ、悠花。
わたしは、用意しておいた小瓶の蓋を開けて、少し空気を入れて閉める。うん、ちゃんと香りが残ってる。
まず、少し背伸びして付けてきたらしい香水の、甘い匂い。
それから、ローラーをかけただけでは取りきれていないお菓子の食べかす。
照れて髪をいじったときに落ちた髪の毛。
メロンソーダを出したときに触った、ガラスのコップについた指紋。
それからこれはもう消えかかっているけど、悠花が座っていた場所の温もり。
私は温もりと指紋以外の残しておけるものを全部小瓶に入れて、タンスに入れる。うん、夏休みって最高。だって、ほぼ毎日あなたが来てくれるから。
来てくれると、その明るい笑顔をすぐ近くで見られるから。
悠花の笑顔はどんな時でも、私を救ってくれる。だから私は、あなたの笑顔のためだったら何でもしてみせる。彼女が笑えないなら、笑えるようにしてみせるから。だから、悠花。あなたはずっと、私に笑顔を見せていて?
それだけで、私はきっと生きていけるから。
夏の夜。蝉の声が少しずつ静かになっていくのを感じながら、私は悠花が座っていた場所にじっと横になっていた。
次の夏は、私が就職活動で忙しくてなかなか会える時間を作れない中だったけど、たまに会う機会を作ることができた。もっとも、私が忙しいだけじゃなくて、悠花も高校でできた友達と出かけたりして、何だかんだ楽しく過ごせているみたいだけど。
今日は、私の部屋ではなく少し遠い町の喫茶店で過ごしていた。
「高校生活はどう?」
「うーん、まぁまぁかな!」
……まぁまぁ、ねぇ。浮かれてるときの、髪の毛をクルクルする癖が出てるぞ? 元々ちょっとカール気味にしているらしい髪の毛が、更にクルクルになっていく。
その理由も、実は悠花から聞いている。明るい性格のおかげで楽しい友達がたくさんできたこともそうだけど、何と高校生になって、悠花は初恋をしたのである!
これは私にとってもなかなか大きなニュースだ。聞いたときは驚きすぎて、企業面接で言おうと前々から考えて練習しておいた言葉が真っ白になってしまったくらいである。嬉しそうに、照れくさそうに、緊張したように、それに少しの戸惑いを混ぜて、『好きな人ができたっぽいんだ~』と。
何でも、好きになったのは同じクラスの不二嶋 大樹という男子らしい。
吹奏楽部所属で、普段は物静かな、一歩間違えるといわゆる「空気」になりかねない雰囲気の子。だけど、言うべきことをはっきり言える姿と、何気ない気遣いができるところ、そして吹奏楽に打ち込む真剣な姿から、意外にファン、つまり悠花のライバルは多いらしい。あと、そういう子たちから「王子」と呼ばれるくらいのルックスも、きっと魅力の1つなのだろう。
「それでね、昨日なっちゃんが先生の頭にお茶をかけちゃって……」
なっちゃんという子もまた、悠花のクラスメイトだ。同じ帰宅部同士ということで、悠花とは一緒に帰ったりする機会が多いらしい。そこからの自然な流れでお互いの趣味とかも共有する時間を持てて、クラスの中でもかなり仲の良い方に位置する子……というのが私の知っている「なっちゃん」だ。
ちなみに「なっちゃん」の趣味はコスプレ。悠花自身はしていないようだけど、コスプレしてほしいキャラクターをリクエストしたり、写真撮影を一緒にしたりと、趣味を謳歌しているらしい。悠花のコスプレなら、見てみたいかもなぁ……。
それからも悠花の友達話は続く。
本当に毎日楽しく過ごせているようなので、話を聞いている私まで楽しい気分になる。
じゃ、そろそろ気になる本題に行ってみようか。
「そういえば、誰だっけ。不二嶋くん? とはその後どうなの?」
「えっ? えっと……うん。まぁ、ぼちぼち、かなぁ」
その口ぶりだと、どうやら大した進展はないらしい。何となく予想通り。その辺りでちょっと悩んでいるらしいところは知っているから、一応それとなくアドバイスみたいなことはしてきているけど、やっぱり最終的に行動するのは本人なので、なかなか前途多難のようだ。
悠花が話してくれたのは、本人にとっては相当な努力だったんだろうな、というかわいらしいエピソードで、私は思わずその声を全部スマホで録音してしまったけど、それでも本人は真剣に悩んでいるようだったので、「じゃあ、思い切って吹奏楽部入ってみれば? 悠花中学校の頃やってたし」と言っていたら、かなり強い口調で「そんなんで入ったら逆に嫌われちゃうよ!」と反論されてしまった。確かに、私が知る限りその不二嶋くんはかなりストイックな人みたいだからなぁ……。一緒にいたいからなんていう理由で入部、なんてしたらそれはそれで印象よくなさそう。
「何か趣味とかないの? その辺りを共有できれば仲良くなれそうだけど?」
「うーん……。趣味がわかるほど話できてないし」
「え、話はしてるんだよね?」
「そんなの、挨拶とかなんか必要なこととかしかできないよ。恥ずかしいし」
むぅ……。思ったより事態は進んでいないらしい。ゴールデンウィークくらいに聞いたときから、たぶん状況は変わってないのだろう。
といっても、私自身がそんなに経験豊富というわけではないし……。それでも大事な「妹」の初恋である、きちんと応援してあげるのが「姉」としての務めだ。ちょっと寂しいような気もするけど、悠花が幸せに笑っていられることの方が大事だからね。
そうは思ったものの、結局これといって効果のありそうなアドバイスなんてできないまま、悠花の初恋に関する話は終わってしまった。「お姉ちゃんの方は、就活どーなの?」なんて返し技まで披露されてしまってはもう私も白旗を揚げるしかない。悠花もいつまでも小さいままじゃないってことなのだろう。その日はそんな風にして色々な話をして、一緒に帰った。
「じゃあね、お姉ちゃん!」
「うん。またね、悠花」
「今日は相談に乗ってくれてありがとね」
嬉しそうに、そして少し恥ずかしそうな笑顔を向けてから、家に入っていく悠花。
――うまくいけば、あの顔を不二嶋くんにも向けることになるんだろうな……。さりげなく引かれたグロスであったり、ちょっとした瞬間に感じる知らない一面であったり、不二嶋くんの話をするときの恋する少女の顔であったり、きっと、この先悠花は私の知っている外側にも世界を作っていくのだろう。
夏の夕方に吹く風は、昼間に感じた熱をどこかに運んでいくように、少し冷たかった。
悠花が今にも泣き出しそうな顔で私の家のインターホンを押していたのは、悠花が都心部の私立大学に入学した年の秋のことだった。
「どうしたの、悠花!?」
会社から帰ってきた私はその姿を見て、慌てて駆け寄った。悠花は私の顔を見て、いよいよ堪えられなくなったというようにその場に泣き崩れた。
「どうしようお姉ちゃん、大輝くんが……」
あとは、もう言葉になっていなかった。私は、何か形容しにくい感情が湧き上がるのを必死に抑えながら、とりあえず悠花を部屋に上げて、落ち着くのを待った。少し時間が経ってから、悠花は私の出したハーブティーをゆっくりと飲み干して、それから、ゆっくり話し始めた。
話を聞き終えて、私は愕然とした。
3年前、悠花は不二嶋 大輝に告白して、なんと付き合うことができたのである。しかも、その関係は今でも続いている。付き合い始めた頃からそれはもういつもにやけておのろけ全開だった悠花の姿を見て、予想していた一抹の寂しさはあったものの、やっぱり応援できてよかったと私は思ったものだった。悠花が話したのは、無味乾燥に要約してしまえば、その不二嶋 大輝との仲が最近うまくいかなくなってしまっているという内容だった。
私の知る限り、2人はそれなりに――いや、かなりうまくいっていたようだった。
お互いに別の大学に進学した今年の春辺りから、突然会えなくなることが多くなっていたことに悩んでいた悠花は、ある日、何気なく友人の住むマンションを訪ねたときに、女の部屋から出てくる不二嶋 大輝の姿を見てしまったのだという。悠花は自分が見たものを信じられない思いで、思わずその場で彼のところへ行ってしまい、『大輝くん?』と声をかけてしまったのだという。振り向いた不二嶋 大輝の気まずそうな表情で全てを察した悠花は、たまらずその場から走り去ってしまった――。
それから1ヶ月、自分から連絡を取ってみても不二嶋 大輝には繋がらず、自宅を訪ねてもいつも不在なのだという。
そして悠花は、どうすれば不二嶋 大輝と連絡を取れるかという相談を私に持ちかけてきた。
「……悠花、それって、」
「でもっ! …………、大輝くんは5月頃わたしに誕生日プレゼントを買ってくれたんだよ? それに、わたしがあげた時計だって付けてくれてたし!」
話を聞いていて、2人の関係はもう連絡を取り合えればどうにかなるものではなくなっていると思った私の言葉は、発する前に悠花に拒絶されてしまった。そして、その後も悠花は、不二嶋 大輝が自分を愛している「証拠」を、半ばこじつけじみた列挙で述べてみせた。私は、涙ぐみながら頭を振り絞って「真実」から目を背けようとしている姿が辛くて、少し大きな声で名前を呼んで彼女の声を止めた。
「お姉ちゃん……?」
改まって私を見つめる悠花の目に、少し胸が痛む。でも、これは悠花の幸せのために、言わなくちゃいけないことだ。そう思って、私は呼吸を落ち着かせるように、ゆっくりと言う。
「悠花、聞いて! それはもう、たぶん別れた方がいい。だっておかしいじゃない、ずっと連絡も取れなくて、家に行ってもいなくて? それに見たんでしょ? その……、浮気してるところ。それなのに何でそこまでして、」
「お姉ちゃんにはわからないよ! だってお姉ちゃん、大輝くんのこと知らないじゃん! それなのに何でそんなこと平気で言えるの!? ほんとありえない!」
それでも、私の言葉は――悠花自身受け入れているであろう「真実」は、悠花の怒声に遮られて消えてしまった。
「悠花……」
初めて見る姿だった。
悠花が、私に対して怒りを露にしている。唾を吐き散らして、目を吊り上げて、喉を傷つけそうな大声で、悠花が私に怒っている。
「悠花……、落ち着いて、」
「もういい! お姉ちゃんなんか知らない!」
戸惑う私など構わず机を乱暴に叩いて立ち上がる悠花に、私はさっきまでの悠花と同じように弱々しい声で「ま、待って……」と取りすがることしかできない。もちろん、そんな私の手は軽々と振り払われてしまう。廊下を早足で歩いて、玄関のドアを閉める音が、やけに遠くから聞こえる。
悠花の声で刺激されていた鼓膜が少しずつ辺りの静寂に馴染み始めて、胸に深い後悔が押し寄せてくるのを感じた。
私は、何ということをしてしまったのだろう!
悠花がどれほど傷ついて、どれほど追い詰められていたのかを、まるで考えていなかった。
ただ感情のままに、私自身の怒りのままに、無遠慮なことを言ってしまった。
何故って?
不二嶋 大輝。彼なら悠花を大事にしてくれるだろうと、彼なら悠花の笑顔を守ってくれるだろうと、彼が一緒なら悠花はずっと幸せでいられるだろうと、そう信じていたから。彼と付き合い始めてからの悠花を見てそれを確信して、安心して、……………………。
私のせいだ。
だったら、どうする?
そんなの決まってる。
大事な「妹」が傷つけられたのなら、その傷を癒すために全力を尽くすのが、「姉」の役目だ。
ごめんね、悠花。あとは私に任せて? それならもう、大丈夫だから。
冷たい雨が降っているその日、白と黒の鯨幕はより一層の悲しみを表しているように見えた。
この鯨幕を見るのは、今年で何回目だろうか。そんなどうでもいいことを考えながら、私は隣で目を腫らしている悠花を見やる。
「大丈夫、悠花?」
「うん……」
涙ながらに頷く悠花の背中を、少しでも気分を落ち着かせることができたら、と思いながら擦る。悠花は力ない声で「ありがとう」と呟いて、それでもまだその涙は止まらないようだった。悠花が涙を流してやる義理なんて、全然ないのに。やっぱり悠花は優しい。
今日執り行われているのは、寺羽地 夕衣という悠花の「友人」の葬儀だった。
友人……と呼ぶことも、全てを知っている私には正直少し抵抗がある。それでも、悠花にとっては一時期だけとはいえ友人だったのだから、悲しみを抱くのも無理はないのかもしれない。
寺羽地 夕衣は、悠花を陰で「ぶりっ子」と呼んで他の友人たちと一緒に貶していた。そして、何がそこまで気に障ったのかはわからないが、悠花を陥れるためによくそんなことを口にできるものだと逆に感心してしまうような卑劣な算段を考えていたのだ。繊細な悠花のことだから、それを実行に移されてしまったら、最悪自分の命すら絶ってしまいかねない。私は、悠花を守るための手段を、その算段が実行に移される前に実行した。ただそれだけのことだ。
遺影の中で友人と肩を組んで眩しい笑顔を見せている寺羽地 夕衣を引き裂いてしまいたい衝動が、また首をもたげる。駄目だ、それは1度、確実に行えているのだから。
必死に気持ちを落ち着かせて、私は改めて満足感に震える。
初めから、こうしていればよかった。
悠花を裏切って追い詰めた不二嶋 大輝も、悠花の傷心に付け込んで食い物にしようとしていた結城 ふみも、告白を拒まれた腹いせにある事ない事を周囲に吹聴して回って悠花を孤立させようとした竹下 里緒も、既にこの世にいない。
不二嶋 大輝との話し合いが成立せずに殺してしまったときに、私は悟った。他の誰かに委ねたりしてはいけなかったのだ、と。悠花のことを大事に思って、悠花を守るためにどんな手段でも使えるのは、私だけなのだ、と。悠花のことを愛しているのだから、その悠花を守るためなら手段を選ぶ必要はなかったのだ、と。
そして、私は――――
「お姉ちゃん」
隣から、低く抑えた声が聞こえた。
「どうしたの、悠花?」
「後でさ、話したいことがあるの。時間、大丈夫?」
悠花の目には、真剣な色が見えた。そんな目で見つめられたら、いやそんな目でなくても、私が悠花の言葉を断るなんてありえない話だ。きっと悠花にもそれはわかっているのだろう。わかった上で訊いてきている。そんな強かさも、普段のかわいらしさと相まって悠花の魅力なのだと私は思っている。
だから、私はもちろん二つ返事で時間を作ることを約束した。
悠花に呼び出されて行ったのは、悠花がアルバイトをしているコスプレ喫茶の入っているビルの空き部屋だった。悠花がその部屋の存在を知っていることを、私は知っている。そこでアルバイトを始めたばかりの悠花の身にあったことも、それ以来悠花が自分自身の「用事」でもこの部屋を使っていることも。
「……やっぱり、びっくりしないんだね。お姉ちゃん」
電気も通っておらず、ゴミが散らばっているその部屋の中を、慣れた様子で窓際まで歩く悠花。その姿には、私の「直接は」知らない悠花が透けて見える。でもね、悠花。そんな風にしなくても、私はあなたを全部受け入れられるんだよ?
「びっくりしないよね。だって、お姉ちゃんはわたしのことずっと見てたんでしょ?」
外から差し込む光を背に受けて、悠花の顔がおぼろげながら見える。そして、その声と表情には、私に対する敵意が隠すことなく滲んでいた。
「おかしいと思ってたんだよね、ずっと。ずっと。だって、お姉ちゃんって私が言ったことないことまで全部知ってるような気がしてたから。最初はね、私が言ったのを忘れてたのかな、って思ってたの。だって、そうじゃなきゃおかしいし。でもね、この部屋で……、もうお姉ちゃんは知ってるんだよね、この部屋に無理矢理連れて来られて襲われたときに気付いちゃったんだ、わたしのカバンに変な機械が付いてるって」
そう言って、悠花は私に何かを投げてよこす。何か――それはわかってる。悠花が自嘲気味に説明したその日に壊れてしまった盗聴器だ。
「そっか、ずっと悠花が持ってたんだ。他の誰かに見つかったんじゃなくてよかった」
心から安心して、私はそう言った。だって、悠花になら私は全部見せたっていい。何を見られたって問題はない。
「それだけじゃない! お姉ちゃんは、大輝くんのことを殺した……!」
恐怖とも怒りともつかない声が、私に向かって投げつけられる。でも、別にそこに問題はない。だってあいつは悠花を裏切っているのだから。不二嶋 大輝を殺したことで、悠花を蝕む一要素は消滅したのだから。だから、別にいいでしょ? 焦る必要もない、私はその言葉を無言で受け入れる。
「…………っ!」
はっきりとは見えない悠花の顔に、苛立ちの気配が滲む。
「どうしたの? 何か嫌なことでもあったの? だったら――」
だったら、私に言ってくれさえすれば「手を打つ」から。
そう言おうとした私は、後ろからいきなり床に引き倒された!
「――――っ!?」
頭上から、悠花の声が聞こえる。
「お姉ちゃん。これね、わたしの初めてとおんなじ状態なんだよ?」
ぞっとするくらい冷たい声。悠花が、私を見下ろしているのがわかる。仰向けに倒されている私からはその顔は見えない。でも、きっと聞こえてくる声と同じくらい冷たい表情をしていることだろう。悠花以外の気配が、少しずつ集まってくるのがわかる。興奮したような臭い息が、鼻を曲げそうだ。
「どういう気分? ずっと覗いてたんでしょ? ……わたしね、そのことに気付いてから、ずっとお姉ちゃんのことが怖かった。お姉ちゃんのこと、心底気持ちわるいって思ったの」
「…………」
冷たい声。
きっと、本気で私を嫌悪しているのだろう。だけど、別にそれでも構わない。だって、私は悠花にならどう思われたって構わないから。どう思われたって、悠花のことが好きなことには変わりないから。悠花が見ているのなら、ここでどんな目に遭ったって――
「じゃあ、わたし行くね」
「!?」
そんなの、聞いてない。
「うん、だって今はじめて言ったもん。お姉ちゃん、わたしに見られるの好きなんでしょ? 見られながらだったらきっと、こんな風にされるのもいいって思ってるんでしょ? だから、そんなことしない。お姉ちゃんは、ここで泣きながら犯されてびゅーびゅー出されたらいい」
愛しい悠花の冷たい声が、冷たい床に反響する足音とともに遠ざかる。
「待って! 悠花! お願いだからぁ……!」
怖い。怖い。
悠花がいなくなるのが怖い。悠花のいないところで、何の意味もなく酷い目に遭わされるなんて、絶対に嫌だ! 嫌だ! そう思う頃には、もう私の四肢は身動きできないように押さえつけられていた。
「大丈夫だよ、すぐに慣れるから!」
その声と一緒に閉まるドアの音を聞いたとき、今度こそ私は涙を流さずにはいられなかった。悠花の私に対する嫌悪が、はっきりと伝わったから。
……時間の感覚が遠い。
私は、少し痛む体を起こして、そこら中で倒れている男たちからめぼしい衣服を奪って着る。奪ったところで、もうこの男が服を着て外に出ることはないのだから、構わないはずだ。少しサイズの大きい服は防寒性の点で不満があったし、血でだいぶ汚れていたけど、破れた服よりはマシだ。
「悠花……」
私は、その名前を呼ぶ。
この期に及んで、ようやく私は悟った。自分がどうしようもなく愚かで盲目的であったことを。私はようやく受け入れることができたのだ。
悠花は、追い詰められて、追い詰められて、壊れてしまっている。
私の怠慢だ。そのせいで悠花は悠花ではなくなってしまった。だから、こんなガラクタどもを頼らなくてはいけなくなった。ごめんね、悠花。あなたにそんな考えを持たせたのは、あんな冷たい顔をさせたのは、あなたから、あの日私を救ってくれた優しい笑顔を奪ってしまったのは、私なんだね。
「待ってて。悠花」
今、助けに行くから。
気分が舞い上がっているときに、部屋のカギを開けっ放しにしちゃう癖、まだ直ってなかったんだね。私、何回も注意してたはずなんだけどなぁ。
ベッドの上で体を固定された状態の悠花が、私に強い視線を向ける。最初はもがこうとしていたけど、もうそれも諦めてしまったらしい。そうそう、悠花って昔から物分りのいい子だったもんね。壊れてしまっていても、やっぱり悠花は悠花だった。これなら、直すのも少し楽そうだ。
「ど、どうして……」
恐怖で引き攣った声が聞こえる。妹の疑問に答えるのは姉としてはまぁ、大事なことだろう。
「あの人たちね、悠花のことも襲うつもりだったみたいよ? 一巡……って言えばいいのかな、終わったあとに1人が窓際のほうに行ってあなたに電話しようとしてたの。で、全員そこに意識を向けてたから、あとは躊躇しなければいいだけだった」
その辺りの心構えは、とっくの昔にできている。
「お姉ちゃん、すっかり殺人鬼だね。この犯罪者! 人でなし!」
「いいんだ、別にそれでも。だってそれで悠花のことを守れたんだから。悠花のことを守れるんだから」
悠花が何を言ったとしても、愛しい。だって、悠花は私の大事な妹だから。その妹を守るのは、姉の務めでしょ?
「じゃあ、悠花。ちょっとずつ思い出していこっか」
私は、用意していた物を取り出して、悠花に向き直る。
「な、何を……!?」
そんな切羽詰った声を出して、どうしたんだろう。私はただ、悠花を昔のように戻してあげたいだけなのに。悠花は首だけ振って逃れようとするけど、今だけはそれだと危ないからしっかり押さえておく。これは、悠花のためだから。だから、安心していいんだよ。お姉ちゃんに任せて。
「笑顔♪」
お姉ちゃんが1番好きな、悠花の顔を、思い出させてあげるから。
頭の後ろに器具を固定して、フックを目尻と口の端に縫い付ける。あとはちょっとずつネジを回して……、と。あっ、回しすぎたみたいだ。唇が横に裂けちゃった。……うん、これでよし!
少し後ろに下がって、遠目から悠花の顔を見る。
縫い付けたフックがしっかりと目尻と口角を引っぱって、少し歪ではあったけど、悠花の顔は笑顔になっている。小さく「いひゃ……おねえひゃ……」と声が聞こえるけど、大丈夫だよ。悠花。ちょっとすればきっと痛い思いをしなくても顔はそのままになるから。
「あっ、でも無理に動いちゃ駄目だよ!? あんまり動くとたぶん顔が切れちゃうから!」
うーん、聞こえてるのかな。
笑みの形になった目から、涙が零れる。それを見ると、私も胸が痛くなる。ごめんね、悠花。もうちょっとの辛抱だから。口元の血を濡らしたガーゼで拭く。あとで消毒しないとね。
「じゃあ、ちょっとご飯作ってくるから。ちょっと痛いかもしれないけど、ちゃんと口を動かして食べてね」
今日は、悠花が好きなロールキャベツにしてあげよう!
部屋のカギをちゃんとかけて、私は台所に向かった。これから始まる、私と悠花の愛に溢れた毎日に思いを馳せながら。
こんばんは、前書き通り、遊月奈喩多です!
今作『あなたの笑顔のために、私ができる数少ないこと』はいかがでしたか?
実はこのお話、エンディングにもう1つ選択肢がありまして、顔を引っ張る器具ではなくて電極を頬に刺して電気刺激……という可能性もありました。ただ、話の流れ上即興での準備という形になりそうだったので、「加奈お姉ちゃんそこまで万能じゃないでしょ」というセルフツッコミの果てに今の形に落ち着きました。
え、きいてない? そう仰らずに。
では、また次回作でお会いできる日を願って……☆
ではではっ!