エピローグ
深夜零時前。
さくらがカジノディーラーの香月直正と最初に会った日から、
間もなく二週間が経過しようとしていた。
無人のオフィスでさくらは今日も香月の記事を作成するために
一人残って作業に没頭している。
自分が座るデスク周辺以外の灯りを落としたことが、
より一層孤独感を演出していて正直心細かったのだが、
実はそれよりも数時間ごとに巡回してくる警備員の足音のほうが
幽霊じみていて怖かった。
香月への取材は予定通り一週間続いたのだが、
彼はいつも社交的に対応してくれたため、充分な情報を得ることが出来ていた。
そして彼と別れた後のこの一週間で、
さくらは日本政府のカジノ法案に対する現時点での捉え方、
さらには将来的な展望をリサーチしてきた。
後はこれらの情報と香月の話を上手く練り合わせることが出来れば、
満足のいく記事へと仕上がるはずだった。
今回撮った写真の中で使えそうなものを幾つか精査したこところで、
さくらは一度大きく伸びをした。
締め切りに余裕があるわけではないが、
まだここまで残ってやる必要があるほど切羽詰っているわけでもなかった。
現にさくら以外のスタッフは全員帰宅している。
しかし、今回の記事はどうしても納得のいくものが作りたいと
さくらは思っていた。
と言うのも、これがさくらがこの会社で行う最後の仕事だったからだ。
香月に最初に出会ったあの日、帰りに立ち寄った『Pause』で
さくらが自分のこれからのことについて話し終わるのを、
野呂は静かに聞いてくれた。
そしてさくらの話を一通り聞き終わると、
野呂は静かに彼女の席の隣に腰を下ろした。
「矢作さん、私はあなたからそのようなお話をお聞きすることができて、
とても嬉しく思っています」
「もっと早くに気付いて辞めたほうが良かったですかね。
たくさんミスもしてきたし、この仕事は私に合っていなかったのかな」
野呂と同じ目の高さで話すのが初めてだったので、
さくらは妙に緊張してしいた。
「いえ、そんなことはありません。
あなたの人に対して真摯に向き合う態度に救われた人も
多かったのではないでしょうか。
それに、今まで頑張っていらっしゃったそのお仕事で学んだことや、
人との繋がりは、間違いなくあなたの財産となっています」
「ありがとうございます。そう言って頂けると嬉しいです」
目頭が熱くなりだしたのを野呂に悟られまいと、
さくらは思わず彼から目線を外してしまった。
「私が嬉しいと先ほど申しましたのは、
あなたの口から始めてご自身の悩みをお聞きすることが出来たからです」
「私自身の、悩み?」
「そうです。
矢作さんは今まで周りの方々に対して、とても苦心されてこられました。
常に人のことが考えることが出来るそのお心は
とても素晴らしいことだと私は思います。
でも、私はもっと自分自身のことを大切に思って頂きたかった。
もっと我儘に考えていいのです。
一度しかない人生を、もっと自分のためにお使い下さい」
野呂は、膝の上に置かれていたさくらの手をギュッと握った。
とうとうさくらは我慢することが出来ず、
その両の目からは涙がこぼれ始めていた。
「わ、私、漫画家になりたいんです」
「ええ、きっとなれますよ。
様々な方々と心を通わせてきたあなたなら、
読者の人達の期待にも応えることが出来るはずです」
さくらは感情を抑えきることが出来ず、
最後は顔を俯かせたまま野呂の手を握り締めていた。
野呂が優しい言葉を掛けてくれた次の日には、
上司である比呂木に退職のことを話した。
その話を聞いた比呂木は大層驚いた様子で
仕事に不満があるなら言ってくれとか、
俺に悪いところがあったら直すからとか、
まるで別れ話を持ち出された彼氏のように、
何度もさくらのことを引き止めようとした。
比呂木のそんな態度を見ていると申し訳なくなる感情がさくらにもあったが、
どちらかというとそこで強く感じたのは嬉しい気持ちであった。
それはこの都会に来て、
自分の事を誰も必要としてくれないのではないかと思っていたのに、
こうしてちゃんと自分の居場所があるということが、
先日の野呂の言葉や目の前の比呂木の態度で実感出来た気がしたからだった。
さくらの決意は固かったし、
結局は自分の意向を押し通したのだが、
ここまで自分を成長させてくれた比呂木や会社に感謝したい気持ちで
いっぱいだった。
そして、同僚としてだけではなく一人の友人としても支えてくれた天野の存在も忘れはいけない。
比呂木に退職について話す直前、
さくらは会社の屋上に天野を呼び出して会社を辞めることを告げた。
すると、天野は特に驚いた素振りを見せずに「そっか」とだけ言った。
「なんかそんな気がしていたのよ。
ああ、別にあんたの勤務態度がおかしかったって意味じゃないよ。
ただ、自分に嘘を付きながら働いてんだろうなって、ずっと思ってた」
「天野さん……」
「やりたいことを仕事に出来ない人がたくさんいるのは分かっているし、
それが悪いことなんて全く思わない。
でも、だからって諦めることが正解だとも言いたくない。
あんたは自分のやりたいことがあって、それを成し遂げるために
頑張るって決めたんだろ?
だったら、精一杯やんな。
別に会社を辞めたって私達の関係がなくなるわけじゃないでしょ」
さくらは天野の言葉を聞いているうちに、
彼女に対する感謝と、そして、一言謝りたい気持ちになっていた。
こうやって優しい言葉を掛けてくれるこの人は、
果たして自分がやりたいことが出来ているのだろうか、
本当は素直になりきることが出来ないのは天野の方ではないのだろうか、
と結局最後まで彼女の本音を聞いてあげることが出来なかった自分を
恥じていたのだった。
「天野さん、私―」
「困ったことがあったらいつでも言うんだよ」
天野はさくらの言葉を遮り、そしてその両手をさくらの肩に置いた。
まだ遅くない。
これからの人生で、もし天野が辛い気持ちになることがあるようなら、
今度こそ彼女の心の支えになってみせる。
さくらは新に決意を固め、優しく肩を抱いてくれている天野の胸へと
飛び込んだ。
比呂木や天野のサポートもあり、
今こうして最後の仕事も大詰めを迎えることが出来ている。
あと残った懸念点としては、
両親にこのことを話していないことぐらいだろうか。
野呂はさくらのことを頑張っていると言ってくれたが、
今にして思えば一人っ子の自分は相当甘やかされて育ってきたのだろう。
高校を卒業した後に、進学も就職しなかった娘の我儘を聞いてくれたばかりか、この会社に就職するまでの生活面すらサポートしてくれたのである。
もちろん、さくらはまだ人に言えるような親孝行を行ったことがない。
それが一度諦めた夢を追いかけようってのだから、
今度こそ反対されても仕方が無いことだった。
しかし、もし仮に両親に反対されたとしても、
さくらは今度こそ自分の夢を諦めるつもりはなかった。
この仕事を通じて出会ったあの四人のように、
ボロボロになっても信念を貫く覚悟を決めていたのだ。
何度失敗してもいい。
人に笑われたっていい。
自分の限界を、自分で決めることだけはしないと心に誓っていたのだ。
実は会社を辞めた後は、
野呂から『Pause』でバイトをしないかと誘われていた。
いつも客が居ないのに自分を雇えるのか、
なんて失礼な言葉は口が裂けても言えないが、
彼と一緒に働けることは純粋に楽しみであった。
そのためにも、今はこの目の前の仕事に全力で向き合う必要がある。
さくらはもう一度気合を入れ直すために、
最近カバンに忍ばせているGペンにそっと手を伸ばしたのだった。
了
「MONEY MAGAZINE」を最後まで読んで下さった皆様、
お世話になっております、哲太です。
まだまだ未熟で読みづらい個所も多々あったであろう私の作品を読んで頂き
誠にありがとうございます。
これからの二作目、三作目では
少しでも多くの方々にお楽しみ頂けるように誠心誠意精進して参る所存ですので
今後ともよろしくお願い申し上げます。




