第四章 超一流カジノディーラーと私 終
部屋に響くノック音にさくらは「はい、どうぞ」と返事をし、
その声に併せて二人は腰を上げて扉の方に体を向けた。
「失礼します」
そう言う男性の声と共に部屋に入ってきたのは
さくらが既に写真で見た感じのままの風貌の香月と、
その後ろからさきほどこの部屋に案内してくれた受付の女性だった。
彼女はお茶を運んで来てくれたらしく、
持っているトレイには三つほどコップが置かれていた。
香月はさくら達の前まで近付き
「どうもお待たせしました。香月直正と申します」と軽く挨拶をした後、
「本日はよろしく願い致します」とそう言いながら右手を差し出した。
さくらはその手を握り返して
「片桐出版から参りました、矢作さくらです。
こちらこそよろしくお願いします」と応え、続いて比呂木も同様に挨拶をする。
香月は「どうぞお座り下さい」とさくら達を促した後、
持ってきていた紙袋を足元に置いて向かいの席に腰を下ろした。
挨拶が一段落したところを見計らっていたのか、
静かにそれを見守っていた受付の女性が「どうぞ、お茶です」と言って
コップをみんなの前に置いてくれた。
彼女はコップを置く際に各々が小さくお礼を言って、
最後に「失礼します」と頭を下げてから部屋を出て行った。
さくらは目だけで彼女を見送った後、改めて香月を見た。
顔は写真と同じだったが、
淡い紺色ポロシャツにジーンズという爽やかな格好をしているせいか、
それとも以外に肩幅が広くガタイがいいせいなのか、
実年齢よりも若々しく見えた。
確か四十三歳で比呂木よりも年長のはずだが、
一見しただけではどちらが年上か分からない。
とりあえず場の空気を暖めようと、さくらは先に口を開いた。
「香月さんが私服姿でホッとしました。
海外でご活躍されている格好しか知らなかったものですから、
もしスーツ姿だったらどうしようかと思っていたんです」
さくらは表情を崩しながら言った。
「ははは。あんな堅苦しい格好を何時もしていたら息が詰まっちゃいますよ。
記者の方々も私服の事が多いですよね?」
「ええ、私が所属しておりますフロアの人間はほとんどそうですね。
記者会見や、政治家の方々にインタビューしている人達は
流石にスーツですが」
香月も「確かに」と言って笑って見せた。
香月が愛想よく対応してくれたこともあり、
中々いい雰囲気で取材を始められそうだと、さくらは安心した。
しかし、さくらが胸を撫で下ろしたのも束の間、
横に座る比呂木がぐっと顔を前に出して何やら覗き込んだ。
「ところでその紙袋には何が入っているのですか?」
比呂木の言葉につられてさくらと香月も同時に紙袋に目を移した。
「ああ、これですか」香月は言いながら、
その紙袋をテーブルの上に持ち上げた。
「言葉に説明するのも難しいと思ったので、
実際の姿を見て頂こうと思いましてね」
そう言って香月が取り出したのは、
ルーレット盤が描かれた大きな箱とトランプだった。
どうやら、カジノで実際に行っていた手捌きを披露してくれるらしい。
しかし、それを見た比呂木はあからさまに落胆した表情で
「ああ、なるほど」と小さな声で呟いた。
もしかして、このオッサンは何か貰えるのとでも期待していたのだろうか。
「ええっと、どっちがいいかな」と香月が何やら吟味を始めたので、
さくらは慌てて口を挟んだ。
「あ、ちょっと待ってください」そう言ってさくらが取り出したのは、
いつものメモ帳とボイスレコーダーである。
「インタビューの内容を記録させて頂いてもよろしいですか?」
香月が「ええ、どうぞ」と了承してくれた後、
さくらも「ありがとうございます」と改めて頭を下げ、
ボイスレコーダーのスイッチを入れた。
一方の比呂木は、
どうやら先ほどの袋が期待はずれだったことがよほどショックだったようで、
興味を無くしたかのようにボーっとした表情でお茶をすすりっていた。
こんなんでよく副編集長になれたものだと、
さくらが返って感心してしまうほどのふてぶてしさである。
「こっちの方が分かりやすくていいかな」
香月は誰に向けるわけでもなく小声で言った後、大きな箱の方を開けた。
中から出てきたのはさくらが思った通りルーレットだったのだが、
どうやら組み立て式のようで、
香月は「少々お待ち下さい」と言いながら手際よく赤と黒で書かれた数字の
入った円盤やら中心に立てる棒やらを繋ぎ合わせていった。
それほど時間をかけることなく、
彼は「最後にこれを下に敷いて完成です」と箱から緑を基調としたマットを
取り出して、さきほど組み立てたルーレットの下に敷いた。
「おお、これがカジノ用のルーレットですか?私、初めて見ました」
さくらが驚きながら言うと、香月はにっこり笑った。
「まぁ、どちらかというと家庭用のゲームみたいなものなのですが。
でも、本場で使っているものと見た目にさほど違いはありませんよ」
言われて見れば、
つやつやし過ぎているそのルーレットの表面からは玩具と言うか、
どことなく安物感が漂っている。
「じゃあ、早速実演して見ましょう。比呂木さん」
「ふぁ、ふぁい」
急に名前を呼ばれて驚いたのか、
比呂木は間抜けな返事をしながら背筋を伸ばした。
香月は朗らかな表情のまま、
いつの間に取り出したのか小さな白い玉を右手で遊ばせつつ、
もう片方の手をマットに伸ばした。
「ここに書かれた数字の中から、好きな数字を仰って下さい」
香月はマットの手前部分にある数字の欄を指差しながら言った。
「好きな数字……、ですか?」
比呂木はむぅっと唸りながらその数字をじっと見つめた。
しかし、何を悩むことがあるのか、中々数字を選ぼうとしないのである。
その姿を見ながら、さくらは別にどれでも対した変わりは無いから
さっさと選べばいいのにと
内心に湧き上がるイライラをどうにか押さえ込んでいた。
そして、もう堪えきれずに自分が代わりに答えようと
さくらが口を開くよりも、ほんの一瞬だけ早く比呂木が恐る恐る口を開いた。
「……四で」
香月はパネルに触れていた指をそっと四の数字が書かれたところに動かし、
「四ですね」と言われた数字を反芻した。
「では、いきます」
香月は手に持っていた白い玉を弾くようにルーレットに入れた。
玉は勢いよくその上をクルクル回り、やがて失速していく。
そして遠心力を失った玉がルーレットの中央へと転がり落ちていった。
カランッ、カラン。
玉はそう音を立てながら見事に四の数字が書かれた溝へと入った。
「おぉ!」
玉の動きを目で追っていたさくらと比呂木は同時に声を上げた。
「いかかがでしょうか」
「素晴らしいです。まさか思った通りの所に入れられるとは」
さくらは興奮した声で言った。
「百発百中というわけにはいきませんが、
大体は狙ったところに入れることが出来ます。
ただ、実際のカジノで使用するものは、
今回と違ってルーレットそのものが回っていますし、
本番では今以上の緊張感の中でやらなくてはいけませんので、
より慎重になる必要がありますね」
さくらは単純に香月の技術に見惚れて「すごい」と言ったが、
比呂木はやや眉間に皺を寄せて、まだ四の数字に入った玉を見ていた。
「でもこれって……」
「イカサマではないかと?」
香月は比呂木の言葉に素早く反応した。
どうやらこの手の疑問を抱かれるのは想定の範囲内らしい。
「私は、これが反則行為だと思っていません。
なぜならば、このゲームではディーラーが玉を投げ入れた後でも、
ゲストはチップを張り続けられるし、
一度張ったチップを変更することも出来るからです。
それに数字の張り方にも色々ありまして、
例えばインサイドベットというものは―」
それから香月は実際にカジノで行われているチップの張り方を
幾つか教えてくれたり、客側が楽しめる効率的な遊び方等を教えてくれた。
「とまぁ、色々話しましたが、
実のところはお客様も結構私達の技術のことをご存知の方が多いので、
こちらとしてもその点はあまり気にしておりません。
お互い了承の上で心理戦をお楽しみ頂いていると、
ご理解頂く方が良いかもしれませんね」
「いやぁ、恐れ入りました。これぞプロの技ですな」
さっきまで疑わしげな顔をしていた比呂木も
すっかり感心したような声を出していた。
比呂木が年上の香月に対して偉そうな口ぶりで話すのが、
さっきからさくらはちょくちょく気になっていた。
だが、口に出すのも面倒なので構わず話を進めることにした。
「他にもトランプをご持参頂いているようですが、
香月さんはルーレット以外にもポーカー等のディーラーも
なさっているのですか?」
「いえ、私はルーレット専門のディーラーとして働いていました。
多分、場所によって違うとは思うのですが、
同じカードゲームの中でもブラックジャックやポーカー等、
各ジャンルで細かく担当が分かれておりました。
まぁ、そうは言っても、私も一応カード関連は一通り勉強致しましたので、
何か参考になればいいなと思って持ってきた次第です」
香月は「カードもお見せ致しましょうか?」と提案してくれたので、
さくらも素直に「お願いします」とその言葉に甘えることした。
「トランプの場合、さっきみたいにゲームとしてお見せするというよりも、
カード自体を扱う技術が必要になってきますね」
香月はそう言ってケースからトランプを取り出した。
すると、香月はすっと扇形にトランプを広げて見せた。
素人目からしたら、
それだけでも凄いと思えるほど滑らかにカードが開いていた。
香月は再びトランプを両の手の中に収めたかと思うと、
それを左右の手にそれぞれ二つに分けて持った後、
両手に持ったカードが一枚一枚重なるように
それらを一気に押し込むという動作を何度も素早く繰り替えした。
「カードを切る際、
一般的には持ち上げて、両手で何度も重ねるように切ることが多いかと
思いますが、ディーラーはカードをあまり持ち上げません」
香月はさらにカードを一枚取り出し手のひらで華麗に動かしてみたり、
また比呂木に好きな数字を言わせたかと思うと、
山札の中からその数字通りの枚数を一瞬で取り出すなどして
さくら達を驚かせたのだった。
「本当に凄いですね。まるで手品を見ているようでした」
さくらの賞賛に香月も笑顔で返したが、それでも別段照れる様子はない。
「さっきのルーレットもそうですが、これは練習すれば誰にだって出来ます。
私がこの仕事で大切なのは、
目に見える技術ではなく相手の心情を見抜く洞察力だと考えています」
「洞察力、ですか?」
さくらの問いに、香月は小さく頷く。
「はい。実際のカジノには様々な人がいらっしゃいます。
お金持ちの方、観光目的の方、
はたまたカジノで得た収益で生活をしている方など。
私達ディーラーはお客さん達と対峙した際、
相手がどのような目的で訪れて頂いているのかを瞬時に把握し、
その上で楽しんで頂けるように配慮しなくてはなりません」
「それは中々難しそうですね。
それに、カジノで得た収益で生活をする人がいるのにも驚きです。
その人達は、プロのディーラーの方々相手に勝っているってことですよね」
さくらの問いに香月は困ったように頭を掻いた。
「それに関しては私達の力量不足ですね。
相手も別に不正を行っているわけではありませんし、
単純に相手が上手だと認めるしかありません。ただ――」
そこで香月はふぅっと息を吐いた。
「簡単に負けるわけにもいきません」
香月の鋭い目つきに、さくらは一瞬ドキッとした。
ついに鷹が隠していた爪を出したと言うか、
被っていた猫を脱いだと言うか、
上手くは言い表せられないのだがとにかく始めて垣間見えた香月の闘争心に
身震いを覚えたのだ。
これが勝負の世界に身を置いてきた人間の迫力なのだろうか。
気持ちを落ち着かせないといけない。
そう思ったさくらは比呂木の顔を見た。
比呂木はさくらと目が合うと「ん?何?」とのっそりと答えるだけである。
しばらく存在感を消していた中年男から、
いつも通りの気の無い返事が返ってきたおかげで、
さくらは幾分平常心を取り戻すことが出来た。
さくらは頬を緩むのをグッと堪えて「いえ、大丈夫です」と
比呂木に言った後、再び香月に視線を戻した。
「勝負の世界における独特の世界があるのですね。
それでは香月さんがその世界に飛び込もうと思ったきっかけを
お教え頂けますでしょうか?」
「はい。実は、私は元々プロゴルファーを目指していたのです」
「え?プロゴルファーですか?」
さくらは驚いて声を上げた。
「ええ。これでも小学生の時は大会に出て結構優勝とかもしていたのですよ」
「へ~。スポーツ少年だったのですね」とさくらが言うと、
香月は「毎日練習の日々でした」と、どこか懐かしむように話してくれた。
とそこで、ふいに間が出来た。
香月はやや目線を落として、
さっきまで触っていたトランプを再び手にとっては、
静かに手元で遊ばし始めていた。
さくらがどうしたのだろうと不思議に思う目でそれを見ていると、
やがて香月が動かしていた手を止めた。
「怪我をしてしまったのです」
香月は目線を落としたままそう言った。
「怪我、ですか?」
「中学に上がった直後の話です。膝の前十字靭帯の損傷でした。
この怪我は接触など外部からの損傷で起きることが多いらしいのですが、
私の場合は恐らくハードワークがたたって膝が悲鳴をあげたのでしょう。
当時はとにかく練習量がものを言うと考えられていた時代でしたし、
ほとんど休むことが無かったものですから。
だから、痛みはあったものの成長痛だろうって周りの大人も言うしで、
大した治療も受けずに練習を続けていました」
香月はそこで一度言葉を区切り、大きく息を吐いた。
既にトランプを動かすことをその手は止めていた。
「でも、次第にごまかしが利かないくらい痛みが酷くなって、
一度大きな病院で見て貰うことにしたのです。
そこでようやく、靭帯だけでなく膝の半月板も痛めていることが
分かったのです。
その後は手術もしたしリハビリも行ったのですが、
既にスポーツが出来る体では なくなっていました」
想像以上に重い話だったため、
さくらは何と言ったらいいのか分からず、た
だ黙って聞くことしか出来なかった。
そして、それは比呂木も同じらしく、
室内には引き続き香月の声だけが鳴り響いた。
「あの時は、最高に腐りましたね。
てっきり自分はプロゴルファーになるものだとばかり信じて
疑っていませんでしたし、
怪我の事を聞いた後の親の落胆も目に余るものでした。
まぁ、あれだけ手間とお金をかけてくれていたら仕方ないな、
と今となっては理解出来ていますが」
「そんな過去があったのですね……」
と、さくらは何とか一言だけ言葉を返した。
そして、頭の中では引き続き今掛けるべき言葉を模索したのだが、
中々いい言葉が見つからず思わず俯いてしまったのだった。
こちらから話を振っておいて俯くなんて、最低だ。
せめて、香月の話をしっかり最期まで聞く義務が自分にはあるのだと、
もう一度表情を引き締めて頭を上げようとしたその時、
さっきまで自分の手元を見ていた香月が先に顔を上げたのが分かった。
さくらは恐る恐る顔を上げて香月の顔を見ると、
そこには予想に反して笑顔が浮かんでいた。
さくらが思わずキョトンとしてしまっていると、
香月は表情を緩ませたまま口を開いた。
「そんなときに出会ったのが、ポーカーだったんです。
急にやることが無くなり、
ちょっと悪い友達とも付き合い始めていたのですが、
ある日そんな彼等からポーカーを使った賭け事に誘われましてね。
その時のリーダー格の手つきが妙に洒落ていて、
カッコイイなってそう思ったのですよ」
「それがきっかけで、ご自分も目指すようになったのですか」
さくらの問いに、香月は笑って首を横に振った。
「いやいや、まだそこまで考えていませんでした。
ただ、あのカッコイイ動きをどうにかマスターしたくて、
ずっとトランプをいじってはいましたね。
そしたら、だんだん出来るようになってきて、
確かそれが中学生の終わり位だったかな。
でもそこで満足しちゃたし、
周りの友達も賭け事に飽き始めていたので、
それを披露する機会もほとんどありませんでした。
それから高校に進学して、いよいよ進路を考える時期を迎えました。
その時に、自分がしたいことについて改めて考えたのです」
「その時に思い浮かんだ仕事が、ディーラーだったのですね?」
さくらが聞くと、香月はコクッと頷いた。
「ゴルフを止めてから、
一番夢中になったのはトランプだと直ぐに気付きました。
じゃあどうしたらそれを仕事に出来るかと考えた時、
ディーラーという仕事があることを知ったのです。
ただ、本気で目指そうとしたらアメリカのカレッジに行く必要があったし、
まずは親 が許してくれるかが心配でした」
「確かに特殊な仕事ですし、
自分の子供が急にアメリカの大学に行きたいって言ったら驚くかも」
と妙に実感のこもった声を出したのは、独身男の比呂木である。
「私も内心ドキドキしながら親に相談しました。
そしたら、逆にこちらが呆気に取られるくらい簡単に、
一言「行って来い」と父から言われまして。
多分、ゴルフが出来なくなったと知った時に
あんまり自分達がフォロー出来なかったことを悔いていたのだと思います」
香月は少しはにかみながら、そしてどこか懐かしむような声で言った。
「それまで海外への旅行経験も無かったので、
行く前はちょっとビビってましたね。
でも、ホームステイ先の家族や同級生はみんな暖かかったですし、
とても楽しいカレッジジライフを一年半過すことが出来ました。
卒業後はそのままラスベガスで働こうと思い、
先ずはダウンタウンや中級ホテルで経験を積もうと、
その規模は気にせずカジノがある店を片っ端から周りました」
「あ、じゃあ最初はアメリカでキャリアをスタートさせたのですか?」
さくらが聞くと、香月は笑いながらまた首を横に振った。
「いえ、当時受けた店は全滅でした。
と言うか、話も聞いて貰えずに門前払いを食らうことの方が多かったですね。 考えてもみれば、
現場経験の無い外国人を雇ってくれる店が無いことは当然だったと思います。 そこでディーラーになる夢を一旦断念して日本に帰り、
印刷会社に就職したのです」
「え?一般企業に勤めていらっしゃったのですか?」
そんな情報は事前に読んだ資料には全く載っていなかったので、
さくらは思わず聞き返してしまった。
そして、ジロリと比呂木を横目で睨んだのだが、
彼は全く意に介さずといった表情で香月を見ているだけだった。
「ええ。でも、日本で働いている時も常に満たされないと言いますか、
ずっとディーラーへの憧れを捨て切れずにいました。
ただ、生活のこともありますし、
しばらく同じ会社で働いていたのですが、
そんな私が二十七歳の時に一つの転機が訪れました」
二十七歳。それは今年さくらが迎える歳でもあった。
「その年に父が定年退職を迎えまして、
まぁお疲れ様って言う感謝の気持ちもありましたし、
久しぶりに二人で飲みに行ったのですよ。
するとその席で、父が私に現状に満足しているのかと聞いてきました。
いきなりそんなことを言い出すものだから驚きましたが、
私はもちろん満足しているわけではないと答えました。
その後は将来のことを考えると仕方ないじゃないか、とも言いました。
そしたら、父はアメリカに送り出してくれた時と同じように、
また一言だけ言ったのです」
香月は一旦言葉を区切り、そして直ぐに再び口を開いた。
「人生に仕方がないことなんてないぞ、とね」
香月のその言葉に、さくらの胸はドクンっと高鳴った。
それは、さくらが毎日の仕事をこなす上でいつも心のどこかで拠り処としている言葉に他ならないのだ。
生活のために仕事を選べないのは仕方が無いことだ、
と言い訳していることと正に一致していた。
香月がそんなさくらの今の心境の変化に気付くことなどもちろんなく、
言葉を続けていく。
「その時はお酒が入っていましたし、
父に結構声を荒げて反発してしまいました。
何も知らないくせに好き勝手なことを言ってんじゃねぇってね。
でも、そんな私の言葉を父は黙って聞いてくれました」
「いいお父さんじゃないですか?」
相変わらず偉そうな物腰の比呂木に、香月は大人の笑顔で対応した。
「そうですね。今思えばゴルフをしていた子供の時から、
私の人生の隣にはずっと父が居てくれたように思います」
心臓の音うるさい!落ち着け私!
さくらは二人がやり取りをしている間に、
高鳴った心を静められるように努めた。
これは香月の話で自分に重ねる要素なんて一つも無い、
そう言い聞かせていた。
そして、自分が平常心を取り戻せたことを確認出来てから口を開いた。
「その時のお父様の言葉をきっかに、
再び夢を追いかけることにしたのですか?」
「ええ。父と酒を交わしたあの日からは、
働いていてもその言葉が頭から離れなくなっていました。
それで、もう一度自分の力を試したくなって会社を退職したのです。
まずはそれまでの貯蓄を元手に、中国に飛んでみることにしました。
同じアジア人なら大丈夫なんじゃないかって浅はかな考えだったのですが、
結果的にそれが幸いしたのかもしれません。
はじめこそやはり相手にはされませんでしたが、
何件も回っているうちにようやく中級ホテルの小さなカジノで
ディーラーとして雇って貰えたのです」
「おお、遂にですな」
比呂木の言葉に香月は嬉しそうに頷いた。
「遂に、でした。
そこでは働いているスタッフ自体があまり多くなかったため、
トランプからルーレット、
人手足りない時にはボーイの仕事もやっていました。
大変ではありましたが、
色々経験出来たことは未熟だった自分にはむしろ良かったのだと思います。
それから、ホテルのオーナーの紹介でダウンタウンにあるカジノ専門店、
さらにはマカオへとキャリアを積み重ねることが出来たのです」
なるほど、
とさくらは香月がカジノディーラーとして成功を収めた軌跡を
理解できた気がした。
しかし、そこまで話を聞いても、尚疑問に思うことがあった。
「そうして一流ディーラーとして腕を磨かれていったのですね。
でも、それなのにどうして再びカジノ後進国である日本に
帰ってこようと思ったのですか?」
さくらの質問に、香月は全く動揺することなく丁寧に答えてくれた。
「理由は、主に二つあります。
まず一つはカジノの楽しさを日本人にもっと知って貰いたかったからです。
確かにギャンブルであることは間違いないですし、
それはイメージが良くないことだと重々承知しています。
それでも、ディーラーとの一対一の勝負で味わえる緊張感や、
社交場としての存在意義はそれらの欠点を補って余りあると
私は考えています。
それに、節度のあるご利用をして頂くための労力を私は惜しみませんし、
海外からの訪問者を増やすことで、
日本が多大な経済効果を得られるとも考えています」
「確かにカジノができると、
ホテルなどそれ以外の施設の利用者も増えますものね。
それでは二つ目の理由というのは?」
「無理だと人に言われたから、
という理由でものごとを諦めたくはないからです」
「……人に言われた、から?」
「日本は小さい国だから無理?
技術を持っている人間がいないから無理?
やったことが無いから怖い?
どれも周りの人間が勝手に決め付けていることです。
日本人のハートの強さは先代の偉人達が証明してきてくれました。
今度は自分が不可能と言われていることを可能にする力があることを
示す番だと思っています。仕方がないことなんてない、とね」
香月があまりに堂々と言うものだから、さくらは言葉を失ってしまった。
そして、さっき胸の内に抱いたモヤモヤした感情が
再びくすぶり始めたのを感じていた。
「諦めるなんて簡単なことはいつだって出来ると思います。
大事なのは、自分が今本当にしたいことは何なのかということです」
「でも、もし失敗したら……」
思わず伏し目がちに、そして弱々しい言葉をさくらが出すと、
香月はニッと笑った。
「失敗してもいいじゃないですか。だって私達は一人じゃないのですから。
間違っても、迷っても、それを支えてくれる人がいます」
さくらは香月のその言葉に、再び顔を上げたのだった。
×××
香月の元を出た後、
さくらと比呂木は原宿駅のホームでそれぞれ反対方向の電車に乗るべく別れた。
お互い直近の仕事は無かったが、
比呂木は一度会社に戻って社長の機嫌を確認したいと、
少し怯えた表情で言っていた。
それなら最初っから会社にいれば良かったのにとさくらは思ったが、
下手に刺激してこっちにまで飛び火がきては堪らなかったので、
黙って比呂木を見送り、自分は直帰させて貰うことにしたのだ。
しかし、さくらの足は家には向かっていなかった。
さくらが乗っているのは右回りの山の手線電車、目的地は目白駅だった。
正確には喫茶店『Pause』のマスターである野呂に会いに行っていると
言った方が正しかった、
今日香月と話していた際、さくらは一つの決意をした。
そして、それをどうしても野呂に聞いて貰いたかったのである。
やがて電車は駅へと着き、
さくらは真っ直ぐ『Pause』へと向かって行った。
以前に日が落ちてからの訪問で野呂に迷惑をかけたことがあったが、
今日はまだ夕方と言うこともあり、その点は少し気が楽なのではあった。
しばらく道沿いを歩いていくと、
見慣れたその店のレトロな外観がいつもと変わらずその場所にあるのが、
さくらの目に入って来た。
もしかすると、自分の家に帰るよりもここに来るほうが安心するかもしれない。そう思えるほどに、この店に来る際のさくらの心はいつも落ち着いていた。
入り口の扉を開けると、
聞き覚えのあるクラッシク音楽がさくらの体を包み込んでくる。
「いらっっしゃいませ」
カウンターの奥から野呂がいつも通り声を掛けてくれた。
「こんにちは」
さくらが挨拶すると、
「こんにちは。どうぞお好きな席へお座り下さい」と
野呂はカウンターの一歩手前まで出てきて促した。
今日も今日とて客はさくらだけだった。
さくらがカウンターの席に着くと、
野呂はそれを確認してからおしぼりを一つとって彼女の元に持って来てくれた。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
「はい。アイスコーヒーを一つ頂けますか」
野呂は「かしこまりました」と小さく頭を下げて、
カウンターへと戻って行った。
コーヒーを淹れて貰っている間、
さくらは組んだ両の手の肘をテーブルにつけ、
そこにそっと頭を置いて目をつぶった。
瞼の奥の暗闇に身を置き、
さくらは取材を通じて出会った四人のことを考えていた。
そうすることで、改めて自分の決意を確固たるものにしたかったのだ。
四人の内、
ある一人は回りの人間から無骨なイメージを持たれていた。
しかし、彼自身は実に周りのことをよく見ており、
それでいて周囲には流されない確固となる自分を持っていた。
ある一人は、
他人だけではなく愛するものに対してまでもきつく当たってしまう
不器用な人間だった。
だが、その人にとって愛すると言うことはただ愛情を注ぐだけではなく、
時には厳しく接することで、
彼が強く生きていけるようにといつも苦心していた。
そのためには、愛しい相手に自分が嫌われてしまっても構わないという
覚悟まで持っているようだった。
ある一人は、自分の思いを敢えて攻撃的な表現で世間に訴えかけた。
それを理解出来る人間が多くは無いことを、
彼自身が一番分かっていたのに、だ。
そして、
今も尚理不尽な世界に対するその気持ちを、
日本と言うこの異国の地にて描き続けている。
ある一人は、過去に日本人が誰も成し遂げていない難関を見事突破した。
だが、その功績に甘んじることなく、
更なる自分の可能性を信じ、新しい試みに挑戦しようとしている。
きっと、みんなさくらが想像出来ないほどの苦難を乗り越えて今があるのだ。
そう考えると、これまでいかに自分が周りに甘えて生きてきたかを
さくらは痛感せざるを得ないのである。
そして、そう考えてしまったらもうさくらは立ち止まることが出来なかった。
彼女もあの四人のように強く生きて行きたいし、
もう自分に言い訳をするのも嫌だったのだ。
さくらがゆっくり目を開けると、
野呂が優しい目でこちらをまっすぐ見ているのが分かった。
どうやら、さくらが目を開けるのを待っていてくれたらしい。
「どうぞ、お待たせ致しました」
さくらはテーブルの上に置いていた手を引き、
野呂がコーヒーを置いてくるのをその目で追った。
そして、さくらは一度大きく息を吐いてから
「野呂さん、私、やりたいことがあるんです」と言ったのだった。
読んで頂いた皆様、
お世話になっております哲太です。
このカジノディーラーの話を持って、
著名人のお話は終了となります。
後は、
これまでの四人と出会いさくらがどう感じ、
どのような行動をとるかをエピローグで綴り完結とさせて頂きます。
あと少し、お付き合いのほどよろしくお願い申し上げます。




