第三章 超一流芸術家と私 PART1
台風の季節も終わり、本格的な暑さが迫ってきていた。
既に充分な暑さと雨が長らく続いたことによるジメジメした湿気から、
外に出るのも億劫な環境が出来上がっていたのだが、
限度を知らずの気温上昇は
まだまだこれからが本番と言わんばかりに続くらしい。
九州生まれで暑さに強いと言われがちのさくらではあったが、
つい先日に関東の都市が歴代日本最高気温を更新したことから分かるように、
国内であればどこで育っていてもそう大差など無いし、
むしろ今の東京はさくらが子供の頃に育った町よりも
平均気温が高いのではと思えるほどだった。
更に言うなら、これだけ毎年のように異常気象が起こっている以上、
最早変化が起きる自体が今の日本のデフォルトである。
肌にべとつく様な暑さに辟易しながら、
さくらは都内のデパートへと向かっていた。
この後、同僚の天野と一緒にそのデパートを周る約束をしていたのだ。
彼女等のお目当ては、
さくらの次の取材対象である「李浩然」という
中国人男性がそのデパートで開く個展だった。
今までの日本人(正確には一人と一匹)と違い、
彼は純血の中国人である。
しかし、来日してから十数年が経過しており、
その間ずっと活躍の場を日本としていたため、
ある意味日本人と言っても問題ないのかもしれない。
李は、主に油絵具を使用して描く油彩画を手掛ける画家である。
事前に上司の比呂木から渡された資料によると、
彼は元々水を媒体とした水彩絵具を用いた水彩画を勉強していた。
しかし、大野幸孝と言う日本人画家が描いた油彩画との出会いが
彼の人生を変えたらしく、
大野の作品に一目惚れした李は再度一から油彩画を勉強し直し、
今では大野の母国であるここ日本で活躍する実力画家となるまでに
至っている、という話だった。
李の作品には熱狂的なファンも付いており、
モノによってはウン千万円の値が付くほどの高値で取引が行われると聞いては、彼が富豪であることに疑いの余地はないのだろう。
実のところ、さくらは今回の話を聞くまで李のことを知らなかった。
芸術には疎かったし、
そもそもテレビをそれほど見ないので
世間の常識に付いて行けていないところがさくらにはあるのだ。
しかし、仕事となれば話は別である。
取材をさせて貰う立場にあるのにも関わらず、
あまりにその人のことを知らないのはあんまりだと思い、
さくらはつい先日インターネットで李の作品を検索してみたのだった。
そして、その時のことを思い出すと
今でもさくらは背筋には冷たいものが走る。
一般的に油彩画といえば、
風景や果物、時には花瓶に入った花や人物画等が描かれることが多いことを、元々漫画家を目指していたさくらは知っていたのだが、
李が描く題材はその何れでも無かった。
彼が描くのは「死」そのものだったのだ。
幾つもの死体が山積みにされているものや、
首から上がない裸体の人間が自分の頭を手に抱えているものなど、
どの作品にも「死」というテーマが付きまとっているのである。
正直、さくらは彼の作品の良さが分からなかったし、
高いお金を払ってでもその作品を欲しいと言う人達の気持ちも
理解は出来なかった。
さくらが社内のパソコンでそれらの作品を見ていた際も、
後ろを通った事情を知らない同僚から「お前、悩みでもあるのか?」と
その画面を除きながら心配されたので、慌てて取り繕ったほどだった。
しかし、それはあくまでさくら個人の感性である。
彼の作品が少なからず高評価を得ていることは事実であるし、
実際に今日のような個展も開かれているのだ。
まぁ、
それでも真昼間から都心のデパートで見るものかどうかは疑問ではある。
とにもかくにも、
仕事を受けて貰う側として、最低限の礼儀で実際に彼の作品を見ておく程度には勉強をしておかなければと考え、
こうして休日に李の個展に足を運ぶ決意をしたのだった。
だが、やはり一人で李の作品を見に行く勇気がさくらには無かったので、
こうして天野に頼んで一緒に行って貰う約束をした次第である。
休日ということもあってか、昼間なのに人通りは多かった。
それは親子連れやカップルなど様々な組み合わせであったが、
皆一様に額に汗を浮かべながら各々の目的地へと向かって歩いていた。
そんな中、最寄り駅から道行く人の流れに身を任せつつ歩くこと一五分、
間もなく集合場所として選んだデパートの入り口が見えてくる頃合いだった。
本来なら駅で待ち合わせをして、
雑談でもしながら一緒に向かってもよかったのにあえて現地集合にしたのは、
二人ともがサバサバした性格が関係しているのだろう。
最後の角を曲がったところで、
さくらの目にはっきりとデパートの入り口が見えたのだが、
約束の時間までにはまだ余裕があるせいかそこに天野の姿はまだなかった。
天野は一応自分の先輩にあたる人物であったし、
そもそも自分からお願いしておいて彼女を待たさずに済んだことに
さくらはホッと胸を撫で下ろした。
目的地に到着したさくらは、
天野が来るまでの間は適当に携帯電話でニュースでも見て
時間を潰すことにした。
時事問題から芸能、さらにはスポーツといった
あらゆるジャンルのコラムを読んでいると、
その内容よりも簡潔な記事で毎日更新する労力に関心が向いてしまうのは、
所謂職業病と言うやつなのかもしれない。
つい先日に李の作品を見たせいもあってか、
さくらは特に事件や事故などの命に関わるニュースが気になってしまった。
この勢いでどんどんプライベートが仕事に犯されていくこと考えると、
正直ゾッとしてしまうが、
これもまた一つ大人になっていくと言うことなのだろうか。
そんな冷めた考えを抱きつつ、
さくらは携帯電話を見ながら周囲にも気を配っていたので、
見覚えのある女性が小さく手を振りながら近付いてくることに
いち早く気付くことが出来た。
「ごめん、待たせちゃったかな?」
天野は迷彩柄で彩られた上着の袖をめくり、腕時計で時刻を確認して言った。
「いえ、今来たところです」
「なら良かった。とりあえず中に入ろうか。外はジメジメして気持ち悪い」
天野は手でヒラヒラと自分の顔を仰ぎながら言った。
さくらも「そうですね」と返事をして、
二人は並んでデパートの中へと入って行った。
館内は二人が期待していた通り涼しい風が流れていたのだが、
人口密度が高いせいかいまいち快適さには欠けていた。
だが、ここが都内有数の巨大デパートであることを考えると、
人が多いことは致し方が無いことではあった。
これだけの数の店がフロア内に並び、
また、それに負けじと老若男女、
様々な客層が店内に入り乱れているのを見ると、
ネット通販等で外買いをする客が減少傾向にあるという噂を
疑わしく感じるほどである。
さくら達はとりあえず人通りの邪魔にならないようにと壁際に寄って、
入り口で拝借したフロアガイドを開いた。
それによると、どうやら李の個展は九階を丸々使って開かれているようだった。
「早速行ってみる?」
天野はさくらが持つガイドを覗き込みながら言った。
「うーん。少し早いですけど、混みだす前にご飯を済ませませんか?」
まだ十一時を過ぎたところだったが、この人だかりである。
お昼を過ぎたあたりには飲食フロアの大混雑が心配だったので、
さくらは先に食事を摂ることを提案した。
実のところ、さくらには個展に行くのを後回しにしたい理由がもう一つあった。
それは、
李の作品を見た後に果たして食欲が出るのかどうかが心配だったのだ。
さくらは人並み程度には自分の体型に気を遣っていたが、
毎日欠かさず三食の食事を摂ることを徹底していた。
そうでなければ、どうにも調子が上がらないのだ。
これは、食後に李の作品を見ると余計に気分が悪くなってしまう危険性よりも、そもそも昼食を食べたくなくなるのを防ぐための選択だった。
天野は少し考えた後「それもそうね。じゃあ、えーと……、とりあえず八階のレストラン街に行ってみようか?」とさくらに賛同した。
二人の意見がまとまったところで、
今度はエレベーターへと向かうことになった。
だが、直ぐにレベーターこそ見つかったものの、
生憎というか当たり前と言うべきか、
傍まで行かなくても多くの人がエレベーターの扉の前で
その到着を待っているのが見えたのだった。
二人はどちらからと言うわけもなく、足を止めた。
言葉を発しなくても、お互いの言いたいことは分かっていた。
苦笑いを浮かべつつ、先に口火を切ったのは天野だった。
「……エスカレーターにしよっか?」
「ですね」
流石に八階まで階段を上るという選択肢は選べないので、
来た道を折り返してエスカレーターへと歩みを進めることにした。
二人は道中、特に会話を交わすことは無かった。
だが、もちろんこれは不仲によるものではなく、
むしろお互いを理解しあっている証明とも言えた。
これが付き合いの浅い間柄であったり、仕事での付き合いであれば、
息の詰まる静寂を打ち破るために必要以上に口を開くこともあるだろうが、
そういう煩わしい気遣いをしないで済む天野は、
さくらにとって本当にありがたい存在と言えた。
様々な小物を取り扱う雑貨店や、
店先に半袖のワンピースを飾ったアパレルショップ、
はたまた提灯や数珠などを並べた仏具店を横目に見つつ、
二人はエスカレーターまで真っ直ぐ進んで行くことが出来た。
ここのエスカレーターは昇り降り時の通り抜けによる危険性を加味してか、
足幅が一人分強しか余裕が無いため、
さくらは並んで歩いていた天野の後ろに一歩下がった。
これがもし足幅が二人分以上あるエスカレーターだった場合、
地方によっては正直左右のどちら側を空けたらいいのか迷ってしまう場所も
あるので、こういう配慮はさくら的にポイントが高かった。
二人が七階まで上がって行くとほのかに食べ物の匂いが漂い始め、
八階に到着したとならば、それはもう確信的な匂いとなった。
みんな昼時の混雑は避けたいという考えは同じなのか、
幾つかの店先には既に順番を待つ列が出来ていた。
とりあえずどんなお店があるのか見て周ろうと、
二人はフロアを一周してみることにした。
パスタにオムレツ、さらには丼ぶりものやハンバーグといった
あらゆるジャンルの飲食店がそれぞれ存在感を放っており、
さくらは久しぶりの外食に期待感を募らなさずにはいられなかった。
和と洋のどちらがいいだろう。
奮発してお昼からのステーキなんてのもありかな、
と考えるだけでもニヤニヤが止まらなくなり始めた頃合いで、
ちょうどスタート地点のエスカレーター前に戻ってきた。
さぁ、決断の時だ。
さくらがウキウキした気分で隣に顔を向けると、
そこには天野のぐったりした顔があった。
「……え、あれ?天野さん、もしかして気分が悪いのですか?」
さくらが気遣わし気な声を掛けると、天野は浮かない表情のまま口を開いた。
「いや、なんかこれだけ食べ物に囲まれた空間にいると、
それだけでお腹が一杯になってきちゃって……」
天野にそう言われて、
さくらは傍のガラスケースに並べられた食品サンプルに目線を移した。
しかし、どれも美味しそうという感情しか浮かばなかった。
「ねぇ、あそこでもいい?」
そう言って天野が右手で指差す先には、
主にドリンクやサンドウィッチといった軽食を並べている
カフェテリアがあった。
ここまで来て喫茶店はちょっと……、
などとは休日返上で付き合ってもらっている身であるさくらが
言えるわけもなく、
努めて明るい表情で「そうですね、私もなんだか空気にやられちゃいました。
ひとまずあそこでお茶にしましょう」と賛同した。
たたぬならたたないほどいいなみかぜは
さくらは心の中で一句読んだ後、
目尻に浮かんだ涙をそっとぬぐって
カフェテリアへと歩みを進めていったのだった。
そのお店は他と比べて客席にまだ余裕があったようで、
さくらが入ってすぐのカウンターにいた店員に人数を伝えると、
すんなりと奥の二人席テーブルへと案内して貰えた。
二人が席に座ると、
直ぐにさっきとは別の店員さんが二人の元へとやって来た。
「いらっしゃいませ。
ご注文がお決まりになりましたらボタンを押してお呼び下さい」
彼女はそう言ってさくら達におしぼりを手渡すと、
一礼してから元居た場所へと戻って行った。
さくらは手渡されたおしぼりで手を拭きつつ、
テーブルに置かれたメニューを天野にも見えるように、
テーブルの上に開いた。
「わぁ、思ったよりも色々あるのですね」
「そうねぇ」
流石は有名デパートの飲食フロアで一角を担う店といったところか、
様々なニーズに応えられるように飲み物だけでなく、
料理も数多く取り揃えているようだった。
しかし、さくらがこの店を選んで正解だったかもと思ったのも束の間、
ある問題が彼女の脳裏に浮かんだ。
それは店先でほとんど食品サンプルを見ることなく入ってきてしまったため、
ほとんど料理の名前しか載っていないこのメニューでは、
一体それがどんな料理なのかが分からないものが幾つもあったことだった。
流石にどんなものか分からない料理を頼むわけにもいかず、
どうしたものかとさくらが悩んでいると、
天野が今開いているメニューとはまた別のプレートを差し出して
「ねぇ、これなんかいいんじゃない?」と提案してきた。
そのプレートには、
「おススメランチセット
(お好きなサンドウィッチ三種飲み物一種デザート一種)税込み一〇八〇円」
と大きく記載されていた。
確かにサンドウィッチならその具材名である程度どんなものか予想がつくし、
単品でそれぞれ頼むよりも値段が安かった。
「そのセットいいですね。
じゃあ、こっちのメニューからサンドウィッチを選ばないと」
二人は互いに思い思いのサンドウィッチを吟味した後、それを店員に伝えた。
因みに二人が何を選んだかと言うと、
さくらは、サンドウィッチとしてベーコンエッグ・みそカツ・ポテトの三種類とデザートにバニラアイス、
天野はサンドウィッチとしてツナエッグ・フルーツ・ポテトの三種類と
デザートにメロンシャーベット、
そして飲み物はお互いアイスコーヒーを頼んでいた。
天野が比較的にヘルシーな具材を選んでいることからも、
その体調の悪さを伺うことが出来る。
無事に注文を終えた二人は、
そこでようやく一息つくことが出来た。
喫煙者同志、本当ならここで煙草の一本でも吸いたいところではあったが、
生憎その店では全面禁煙席であった。
それに、わざわざ外のテラスまで出て吸いに行くほどの労力は、
お互いにかけたいとは思えなかった。
しばらく二人で談笑した後、
ほどなくして先に持って来て貰えるように
頼んでいたアイスコーヒーが運ばれてきた。
さくらはストローを挿して一口飲んだ後、
ふと思い出したかのように口を開いた。
「あ、そういえば、
すごく美味しいコーヒーを淹れてくれる喫茶店があるんですよ。
それに、そこのお店ではコーヒーだけじゃなくて紅茶も美味しくって。
今度一緒に行きませんか?
目白駅から少し歩いた所にあるので、会社帰りにでも全然行ける距離ですよ」
さくらの言葉を聞いて、天野は「へぇ」と相槌を返した。
「あんたがお店を紹介してくれるなんて珍しいじゃん。
それは相当期待できますな」
笑い混じりに言う天野に、さくらは自信満々に答えた。
「期待してもらって大丈夫ですよ。
今度仕事が落ち着いた時にでも是非行きましょう」
そう言いながら、さくらは野呂のいつもの優しい表情を思い浮かべていた。




