第19話 味覚が生んだ文化
「ごめんね、私が思っていたよりも遠かったわ。買い物は、いつも他の人に任せてるから」
彼女が謝るほどの時間は過ぎていないが、とても申し訳無さそうな様子で洋介達のところまで優香は駆け戻ってきた。
(遠かった? どこまで行ってたんだろう)
優香の目的を洋介は知っているから、それなら一緒に行った近くの店でもいいのではないかと洋介は思った。
ふと、優香の持っている袋が洋介の目に入る。透明なビニールでできたそれは中に何が入っているのか、非常に明瞭だ。
――私、ちょっとリィルくんの食べれそうなものを見繕ってくるわ。
さっきも考えていたが、彼女が何を探しに行ったのかは洋介もよく覚えている。
(井上さん、リィルの食料調達に行ったんだよね)
覚えているからこそ、だ。一見、その目的にそぐわない荷物が洋介には気になった。
「ああ、これ?」
洋介の視線に気づいて、優香は手にした袋を持ち上げる。
洋介はこくんと頷いた。事情を知らない者から見たら、優香はただの買い物帰りで、このまま台所に直行しそうな出で立ちだ。
まさか、家までリィルを連れ帰るということだろうか。そんな風に、洋介が考え始めた頃に優香は苦笑いを浮かべながら袋をリィルの前に置いた。
「いいのよ、これで。おばあさんのお店、切り身しか無かったから港まで行ってきたのよ」
「え……だったら、まだ切り身のほうが」
洋介の視線が袋につられてリィルの方に移動する。まだ戸惑っている洋介の目に、これでもかというくらい目を輝かせているリィルの姿が映った。
(あ、いいんだ。これで)
その、アイスクリームを前にしたライツのような表情を見て洋介はすっかり納得してしまった。
それから、しばらく洋介はリィルの食事風景を観察していた。
「いや、これは凄いな」
素直な感嘆が洋介の口から飛び出す。
「けっこう数あるのに、すぐになくなるよね。これ」
幼い頃にいつか見た、とあるバラエティ番組を洋介は思い出す。様々な特技を持ったパフォーマーが観客を喜ばせる、という趣旨のものだ。その中にいた一人の姿が眼前のリィルと重なるのだ。
(あの時は金魚だったかな。こう、ごっくんとした後に吐き出してさ)
「あ~ん」
しかし、リィルの手にしているそれは洋介の記憶にある金魚とは比べ物にならないほど大きい。それを、リィルは大きく開けた口にギリギリ入るくらいの頭を突っ込むと、そのまま一気に飲み込んでしまったのだ。
「あれ、なに?」
洋介が、再びリィルがその尾をつまんで袋の中から出した魚の名前を優香に問う。
「アジよ、旬の走りの」
若干機嫌の悪く見える優香は、吐き捨てるようにその名を言った。
(おお、また行った。よくあんなの丸ごと飲み込めるよな)
そう、リィルは小型のアジを次々と口の中に放り込んでは丸呑みしていっているのだ。小型、と言ってもリィルの口そのものが小さい。それなのに、どこにも引っかかることなくリィルの喉を通っていくアジ達。
そんな彼の様子を洋介は最初物珍しそうに見ていたが、徐々に横にいる優香の呟きが大きくなっていくことの方が気になっていた。
「分かってる。リィルくんにはあれが当たり前」
どうやら、リィルの食事の仕方が優香は気に入らないらしいことが洋介にも伝わってくる。
確かに驚く光景ではあるが、そこまで嫌悪するようなものだろうか。
(う~ん、井上さんはそういうの気にする子じゃないと思うけど)
失礼な話ではあるが、洋介は生魚を飲み込む人を見ることで気分が悪くなるような細い神経を優香が持っているようには思えなかった。さぁ、釣りをするぞという事態になれば潔く針にゴカイを突き刺すことのできる人間だと洋介は優香のことを思っている。
「おねがい、餌付けて」などと、可愛らしく優香がお願いする姿を洋介は想像できない。
しかし、すぐに洋介の疑問は氷解する。はっきりと聞き取れるようになってきた優香の声に答えがあった。
「取り除かなければいけないところは取り除かないと……あれでは新鮮な食材への冒涜……ううん、だからヌメリとかも含めてリィルくんは楽しんでるのよ、優香」
(言い聞かせてるなぁ)
優香はリィルの食事の仕方を嫌悪しているわけではない。より完璧を目指すのであれば、調理という過程を挟むことなく、素材のまま提供するという状況が許せないだけなのだ。
それならば、いつでも最善を目指す非常に彼女らしい葛藤だと洋介は思う。同時に、真面目すぎて思考の迷路に入り込んでいきそうだったので洋介はタイミングを見て声をかけた。
「あれ、どんな料理にするとおいしいかな。僕、アジフライしか思いつかなくて」
自分が洋介に尋ねられていることに気づいて、優香は顔をあげる。ずっと、どうしたら完璧にアジの旨味を活かせるか真剣に考えていた優香は、すぐに疑問の解答が口から出てくる。
「そうね、塩焼きとか南蛮漬けとかもいいんだけど……なめろうとか、やってみたいわ」
「なめろう、って何だっけ。聞いたことはあるけど、パッと思いつかなくて」
「アジをネギとかと一緒に刻んで混ぜたものよ。ご飯にのせてもいいし、まとめてハンバーグみたいに焼いてもいいかもね」
生き生きと話しだした優香を、洋介は微笑ましい顔で見つめている。そんな二人を、食事を中断してリィルは眺めていた。
(男女の話って、そんな所帯じみた会話でいいのかね。ねぇさん達)
ちょっと呆れ気味で、しかし、温かい気持ちをもってリィルは優香達を見つめていた。
リィルが手を止めたからだろう。ずっと、興味津々で様子を見ていたライツがふわふわとリィルに近寄っていく。
そのまま、躊躇することなく袋の中に入っていこうとするので、さすがにリィルはライツを制した。
「いや、ライツには無理だろ」
「えぇ~、おいしそうなのに」
リィルの想像通り、ライツは彼の真似をして魚を食べようとしていたらしい。さすがに、ライツの体のサイズではお腹に入れるのも難しいし、そもそもライツの好みには合わないことはリィルにも分かる。
(そうだよな、美味しくはないはずなんだ。でも、オレを見ててそんな風に思うってことはライツは美味しさがわかるんだな)
リィルは人間のような繊細な味覚を持ち合わせていない。そのせいで、こと食事に関しては人間と軋轢を生んだ覚えがリィルにはある。
今もそうだ。調理という文化のないリィルに対して、優香が複雑な視線を向けていることにリィルだって気づいている。
とはいえ、ここで料理を出されても食べ方すらリィルには分からない。さて、どうするか。
(ん、待てよ。前に嫌がられないどころか「可愛いっ」とか言われたことなかったっけ?)
「あ、そうか。これなら、ねぇさん達に嫌がられないぞ」
思いついたことを早速実行しようと、リィルは立ち上がった。




