プロローグ
視界は真っ黒な霧に包まれていた。見通しが悪く、視野が狭い。中心から離れれば離れるほどに歪んでいて、端は正直見ているだけで気分が悪くなる。
こんな景色は見たことないと思うと同時に、最初からこんな感じではなかったのかとも思う。そもそも意識が混濁していて、よく分からない。
さて、自分はどこにいて何をしようとしていたのか。
(分かんない)
思考も、何者かに握りつぶされているようで、はっきりとしない。考えようとすればするほど、真は奥の方へと隠れてしまうようだ。
すぐ直前、しようとしていたこと。
(えっと……、そうだ。しばらく行けてなかったから楽しみにしていたんだ)
確か、自分にとって大切な場所に行こうとしていたはずだ。
そうなれば、ここは少なくとも目的地ではない。今すぐにでも動き出さなければいけない。それだけは思い出せた。
(でも、面倒だな)
足を動かす。それだけだというのに、そんな行動すら億劫だった。
大切な場所。そこに行くと何があるのかは思い出せない。それでも、行かなければいけない。
そんな使命感に似た想いだけが、殻がついたように固くなった心の奥底から、ドンドンと音をたてて外に飛び出ようとしてくる。その都度、殻はもっともっと固くなる。早くしないと、閉じ込められてしまう。そんな焦燥感。
それなのに、微動だにしない自身の体に苛立っている。そんな自分も、ずいぶん小さく霞んでしまったが、暗闇に閉ざされそうな心の中で、まだ微かに残っていた。
「…………………………………よね」
左耳から誰かの声がする。しかし、その声は意味をとれないだけでなく、音としても心に届かない。
誰かがそこにいるということは分かった。本来であれば、その存在に興味を示さなければいけない。だというのに、それすらも今の自分にはできそうもない。
視線すら動かさず。先ほどからずっと自分の手を見つめている。そこには、黒く塗りつぶされた掌がある。
(なに、このキモチワルイの?)
はて、自分はこんな手をしていただろうか。疑問はすぐさま、別の意志によって壊される。
(いっか。そんなの)
残るのは、空虚な心だけだ。確かに自分はここにいる。それなのに、この真っ暗な世界でひとりぼっち。
(嫌だなぁ。ひとりぼっちは、嫌だなぁ)
ようやく、自分の意志が表に出てきてくれた。そうだ、一人は嫌だ。
だから、大切な場所へ行くんだ。
そこには、自分を孤独から救ってくれた存在がいる。
(でも、そこに誰がいるんだったっけ?)
あと少しで顔が思い出せるかもしれない。あと少しで。
しかし、記憶が輪郭を描き始めたところで、やはり誰かによって握りつぶされてしまった。せっかく見えてきた光明に影が差す。
それを悲しいと思う。なぜ、悲しいのかは分からないが。とにかく、悲しいのだ。
(あー、面倒だなぁ)
遂には自分の意思で、出てこようとする複雑な心に蓋をしてしまう。色々考えるのにも疲れてしまった。今は、とにかく眠ってしまいたい。
徐々に視界が狭くなってきている。このまま何も変化がなければ、全てが闇に閉ざされてしまう。安寧の眠りへと、意識ごと引きずり込まれてしまう。
(ん?)
そんな中、微かな光が瞳を刺激した。
「よかった、ようやく見つけた……って。貴方はそこで何をやっているのですか!?」
暗闇に通る、意味のある叫び。曇ってしまっている眼には、その声を発した者がぼんやりとではあるが映っている。
彩度の下がった視野。そんな中でも、少し明るめの蒼い髪色が映えている。短く切りそろえられたそれが、彼女の呼吸と共に上下する肩の動きに合わせて揺れている。一生懸命飛んできたのか、呼吸が荒い。
髪色と同じ、蒼く輝く瞳がしっかりとこちらを見つめていた。その意思の強い瞳は、よく覚えている。
いや、覚えているはずだった。
(……あれ、誰だっけ?)
あんなにはっきり見えるというのに思い出せない。彼女も確か、大切な存在だったはず。それでも、どう大切だったのかは自身の記憶から引っ張り出すことはできない。
引っ張りだそうとしたとしても、そもそも記憶は残っているのだろうか。それすらも不明瞭だ。
「あら…………………ね」
「ボクがリッツ様に呼ばれている間に……この子に、いったい何をしたんですか!」
何やら目前の彼女は、自分の左にいる者と言い争っている。しかし、片側の声しか届かないものだから、何を話しているのかは皆目見当がつかない。
(別にいいか)
今は考えるだけで疲れてしまう。一端開きかけた心は、すっとその扉を閉ざしてしまう。
「いざ、尋常に。我が命、懸けるは今!」
再び視界に光が戻ったのは、彼女の手に握られた輝きを見た時だ。
(ああ、そうだ)
そこで思い出した。確か、彼女はあれを持ち出して鬼の形相で自分を睨んできたことがある。
(そっか、あたしの邪魔をするんだ)
なぜ、そんな状況になったのかは思い出せない。それでも、彼女の手に握られたものが相手を打ちのめす為に使われるものだということは分かっている。
そんな相手が現れた時には、どうすればよかったか。
(全力でぶっ飛ばせばいい)
「…………?」
自分の思いついたイメージに、自分自身わけが分からずに首を傾げる。ぶっ飛ばす、どこか懐かしい響きの言葉だ。
それを教えてくれたのだ誰だったろうか。
(まぁ、いいや)
もうこの場にいるのも面倒だ。ぶっ飛ばすのなら、早くぶっ飛ばしてしまった方が良い。
「流れる星のキセキをここに」
口が勝手に動いた。その言葉を起点に、左手に力が集まってくる。それを握りつぶした時、その手には金色の弓が握られていた。
(こんな色だったっけ。どんな色でもいいけど)
とりあえず、今は目の前の障害を打ち破るだけ。
くるくると、右手を回す。すると、周囲に漂っていた光の珠が、その掌に集まってくる。いくつか手に抱えた後で、それごと弓の弦をつかみ、引き絞った。
「えっ」
すう、と伸びて光が矢を模した頃、目標はようやく自分が狙われていることに気づいたらしい。
さきほどから尖っていた蒼い目が、驚愕で丸くなる。
「待ってください。ボクは……ライ」
「『|運命を呪いし薄倖な射手』よ」
彼女は誰かを呼ぼうとしていた。しかし、それすら許さず、右手から放たれた光は、目の前にあった輝きを飲み込んだ。
残ったのは、最初にあった暗闇だけ。
(寂しいなぁ)
世界の果てに向けて遠ざかっていく光を虚ろな瞳で見つめながら大きく息を吐いた。
(うん?)
その光を無意識に目で追っていた時、何かに気づいた。
あれは何だ。あの、とても大きな、明るい光は。穏やかで、優しい光は。知っているはずなのに思い出せない。それが、とてつもなく悔しい。
(追いかけないと)
衝動的に飛び出した。あの、無くしてはいけない光に向かって。
「ちょ、ちょっと! ウチは何にもしてないってのに、どこに行くっての!!」
初めて認識した声が後ろからするが、もう遅い。意思も、体躯も、ただ光を求めて走り出していた。