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1 奇禍

 あれから、どれほど時間が経ったのだろうか。

「寒い……」

 つぶやいた自分の声で、葉月は意識を取り戻した。

 目を開けると、すでに空には星が瞬いていた。地面の冷気がひんやりと背中から伝わってくる。

 しばらくの間、葉月は自分が置かれた状況を把握できずに、ただぼんやりと夜空を見上げていた。

 やけに美しい星空だった。

 とても見慣れた都会の空とも思えないほどの星のきらめきは、幼い頃に家族と行った旅行先の高原で見た、満点の星空によく似ていた。


(死んでない)

 そこまで考えて、葉月はハッと我に返って身を起こした。

「なんで?」

 軽く頭を振りながら独りごちる。

 何気なく辺りを見回した葉月は、ようやく自分が置かれた状況に気づいた。

「えっ……?」

 そこは、まったく記憶にない場所だった。

 多摩川の河川敷でも、当然ながら自宅でもなく、そればかりか辺りには街灯一つ見あたらない。

 葉月が転がっていたのは、どう見ても人の手など一切入っていないような草地の真ん中だった。

 さらによくよく見回してみれば、四方を鬱蒼と茂った木々に覆われていた。

 湿ったカビ臭い土の匂い、ざわざわと風にさざめく木々の葉の音、リン、と寂しげに響くのは虫のだ。「ホウホウ」と夜鳥の声まで聴こえてくる。

 まるで真っ暗な森の中にいるようだ。

 いや、まさに深い森の中に迷い込んでいたのだ。

 

 眼前に広がる圧迫感を覚えるほどの闇に、しばらく呆然としていた葉月は、我に返って心底震えた。

「なんでこんなところに」

 直前までいた多摩川の近くにこんな森はない。それどころか道を一本隔てたところには住宅街が広がっているはずだ。

 いったい、何がどうなってこんなところで倒れていたのか。

「あ……」

 『何が』ではない。

 『誰が』だ。

 自力でここまできた覚えはない。

 だとすれば、誰かがここまで葉月を運んだのではないか。

 その『誰か』はなぜ気を失った人間を、病院でも警察でもなく、わざわざこんな場所に放置したのか。

 葉月の脳裏に、昨今、新聞を賑わしている猟奇的な事件の数々が浮かんだ。

 中には大した理由もなく害される事件もある。まったく面識がなく、その場のノリで理不尽に命を奪われる事件もある。

 考えたくもなかったが、今まさに、自分がその被害者の一人になろうとしているのではないだろうか。

 得体の知れない恐怖に、葉月はゾッと背筋を凍らせた。にわかにいやな汗が全身から噴き出してくる。

 もしその『誰か』がこの場に戻ってきたとしたら……。

 その可能性に思い至って、慌てて葉月は立ち上がった。

「ここにいちゃ、ダメだ」

 どこへ行けばいいか分からなかったが、とにかくここからは少しでも離れた方がいいだろう。

 葉月は震える足を叱咤しつつ、身を隠すために森の方へと歩き出した。


 深い森の中では、闇雲に歩き回るのは自殺行為に等しい。

 必要に迫られてやむなく森の中へ入った葉月だったが、いくらも進まないうちに別の意味で身の危険を感じ始めていた。

 目の方はようやく闇に慣れてきたものの、右を見ても左を見ても同じような景色が続く状況では、中途半端に周りを見回せることが、かえって焦燥感を募らせる。

 星を見て方角を知ろうとしても、丈の高い木々が空を覆っていて星座の一つも見つけられない。

 おぼろげな知識を頼りに、川を探そうとしても水音すらせず、不安に駆られて元の場所に戻ろうと振り返っても、もはやどの方向から来たのかさえ分からなくなっていた。

 このまま無為に歩いていても、遭難してしまうだけだ。もっとも、この状態ではすでに遭難しているといってもいいだろうが。

 葉月は息を震わせた。

「ここ……、危ない生き物とかいないよね。へ、ヘビとかさ」

 冗談めかして笑ってみる。

 帰れないという選択肢は考えなかった。

 考えたとたん、現実になってしまうような気がしたからだ。

「お腹すいたよ……」

 思わず泣き言がこぼれた。

 目の端にキラリと何かが光ったのは、そんなときだった。

「火?」

 葉月は立ち止まって光を感じた方向へと目を凝らして見る。

 細めの木の幹が重なり合う一角に、たしかに揺れる光が見えた。

 柔らかいオレンジ色のその光は、どう見ても自然のものではない。そこに人がいる確かな証拠だった。

 考える前に葉月の足は光に向かって歩き出していた。


 光に誘われるように近づいていくと、複数の人の気配がした。

 オレンジの光は、やはり焚き火の火だった。

 パチパチと木が爆ぜる音に混じって、胴間声が飛び交い、肉が焼ける良い匂いが辺りに立ち込めている。

「キャンプに来てる人かな」

 葉月はごくりと喉を鳴らした。

 自分をこんなところへ置き去りにした人間かもしれないと警戒しつつも、独りきりで暗闇をさまよっていた恐怖心には勝てず、慎重に近づいてこっそり木の陰から様子を伺ってみた。

 火は、明々と燃えて葉月を誘うように周辺を照らしている。

 それを囲むようにして五人の男たちが胡坐をかいているのが垣間見えた。

 明るいということが、これほど安心するものなのだと、このとき葉月は初めて実感した。

 さらに人の姿を確認して、それまで張り詰めていた葉月の気持ちが一瞬のうちに安堵に緩んだ。

「助かったんだ……っ」

 思わず身を乗り出す。

 助けてもらえる、という期待は、しかし、次に目に飛び込んできた光景の前に脆くも崩れ去った。


 彼らの様相は、あまりに異様だったのだ。


 全員が全員、黒っぽいざんばら髪を無造作に紐でくくり、顔の半分が伸ばし放題のひげに覆われていた。黒っぽい硬そうな毛皮のベストを着込み、飾り気のない革紐のベルトに何本かのナイフのようなものをぶら下げている。

 脛にはベストと同じ種の毛皮の脛当てをつけ、適当に皮を縫い合わせたようなブーツらしきものを履いていた。

 炎に照らされたそれらは、どれも新しいものには見えない。ずいぶん着古したように見えるところから、普段からそんな格好をしているのだろう。

 一見、マタギのようだが、銃の類いは見当たらなかった。代わりに大きな鉈や大きさも様々な簡素な猟弓さつゆみが傍の切り株に立てかけてあった。

 男たちの持ち物は、すべてが実用的であり、原始的であり、現実的ではなかった。

 周囲を見回しても、今時流行の至れり尽くせりのキャンプ用品など一切ない。テントを設営している様子すらない。

 いわゆるキャンプを楽しんでいる、といった様子ではなかった。

 何より男たちは、みな見たことがないほど大きななりをしていた。その顔つきも、目ばかりがギョロギョロと異様に輝いて獣じみていた。

 その様子は、人というよりも巨大なヒグマだ。

 もちろん、熊が集まって火を囲むなどということはないが。

 ぬぐいきれないほどの違和感に、葉月は危うく声を上げそうになった。慌てて自分の手で口を塞いだが、ブルブルと震える体は抑えられなかった。

  

 ふいに足元でパキリと乾いた音が響く。

 我知らず後ずさった拍子に小枝を踏みしめてしまったのだ。

 それは小さな音だった。

 しかし、その小さな音を男たちは聞き逃さなかった。

 男たちがいっせいに振り返る。

 その表情は、まるでテレビで見たナマハゲの面のように恐ろしかった。

「ひっ、ひぃ!」

 葉月は声にならない声を上げ、慌ててきびすを返す。ガクガクと足が震えた。

 独りきりで怯えていたときの何倍もの恐怖心に、気持ちが押しつぶされそうだった。

 怖いもの見たさで再び振り返ってみると、男たちが何事か喚きながら一斉に立ち上がるところだった。

 手に手に得物をもってこちらに向かってくるのを感じながら、葉月は必死に走り出した。

 木の根が張り巡らされたゴツゴツとした地面を、時に足を取られ、時に倒れ伏しながら葉月は走った。

 舗装されたアスファルトに慣れた足には、この道ともいえない地面の上を走るのは至難の業だった。

 それでも葉月はがむしゃらに走り続けた。

 命の危険をひしひしと感じる。

 不平不満を胸のうちに溜め込みながらも、安穏と生活していた葉月にとって、まったく馴染みのない感情だった。

 夢であれと、どれほど願っただろうか。

 ふいに男たちの声が、耳元で聴こえた。

 ハッと振り返ると、肩口の向こう、思いもかけないほど間近に大きな男の顔が迫っていた。

「わぁああああっ!」

 葉月は叫んだ。

 同時に、男の大きな手が葉月の頭を乱暴に鷲掴みにした。

 下卑た笑い混じりに、男がぐいっとそのまま葉月の体を持ち上げる。

「痛い、痛いっ」

 ギリギリと頭を締めつけられて目が眩んだ。必死に逃れようと暴れてみたが、男には蚊に刺された程度にしか感じられないのか、嫌な嗤い声を上げるだけだった。

 まさに罠にかかった兎のように、葉月は男に翻弄されるまま吊り上げられた。


 痛みとショックで葉月の意識は徐々に遠くなっていった。

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