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序章

 初秋に入った黄昏時の空は、どこかうら寂しげにくすんでいた。


 いつもと同じだというのに、まるで薄汚れたフィルター越しに見ているかのような空だ。

 学校からの帰り道、通い慣れた多摩川の河川敷は、このとき人影がまったく途絶えていた。

 いつもより、ほんの少し帰宅時間が遅いからだろうか。

 ふと得体の知れない焦燥感に駆られて、石川葉月いしかわはづきは思わず立ち止まった。

 やにわに頭の奥からキーンと耳鳴りがして顔をしかめる。嫌な音だった。

佐田さたの用事なんか放っておけばよかった」

 葉月は小さく身震いして、唇を尖らせて悪態をついた。


 自己主張が弱いところがある葉月は、ある種の人間には便利に使われやすいらしい。

 なんだかんだ言いながら、体よく雑用を押しつけられてしまう。葉月自身、物心ついた頃から高校生になった今でも、それを断ったことが一度もない。

 どれほど小さなことでも、後になって言いがかりをつけられるかもしれないと思うと、断れなくなってしまうのだ。

 しかし、それを承知でつけ込んでくる連中はまだマシだ。

 葉月が一番嫌悪するのは、本人にまったくその自覚なく、当たり前のようにパシリ扱いするような連中だった。

 自覚がないから悪気もない。相手がどう思っているのか理解しようという頭すらない。無神経極まりない輩が、葉月には我慢ならなかった。

 もちろん、面と向かってそんなことを言う勇気などなかったが。


 この日も、昇降口へ向かった葉月を呼び止めたのは、担任教師の佐田だった。

 生徒の兄貴分を自負しているらしい若い教師は、葉月が断るなど微塵も考えていなさそうな呑気な顔で「どうせ暇だろ? ちょっと図書室に寄っていってくれよ」と、馴れ馴れしい口調で手に持っていた資料を葉月に押しつけてきた。

「もう帰るんですけど」

 そう言ってみたものの、反論は小さすぎて佐田の耳には届かなかったらしい。あるいは故意に聞き流したのか。佐田はかまわず「よろしくな」と言ってそのまま足早に立ち去ってしまった。

 目ばかりが大きい子供っぽい顔立ちの葉月が、少しばかり不愉快そうに顔をゆがめても、相手は少しも気にしない。佐田に至っては気づきもしない。それどころか、親しげに『特別扱い』されて本当は嬉しいだろうとすら考えている節がある。なまじ生徒に人気があるだけに、嫌われているなどと微塵も思っていないのだ。

 確かに『特別扱い』はされているだろう。些細な雑事を言いつけ易い生徒という点では。

 不愉快なことはもう一つあった。

 佐田は葉月の二つ上の兄・一成かずなりに性格が似ているのだ。食が細く、同級生よりも一回りほど体格が劣る葉月とは反対に、兄は大柄で男らしい体躯をしていた。

 葉月とはまったく似ていない。

 小さい頃から様々な武道をかじり、体を鍛えることが何より楽しいという人種で、自分の弟が真逆の存在であることが理解できず、また軟弱であることが許せなかったようだ。「お前は鍛え方が足りないんだ」などと言いながら、否も応もなく一成が通う道場に連れて行かれた。

 好きで続けている一成と違い、葉月はそれが苦痛で仕方がなかったのだが、本気で嫌なのだと訴えても、楽しみ方が解ればきっと考え方も変わる、などと言って取り合ってはくれなかった。

 楽しむ事などとてもできない。もともと体を動かすことより、本を読んだり絵を描いたりしている方が好きな葉月だ。

 だが、両親もおとなしい次男より、快活な長男の方が好ましいと思っているようで、止めさせてほしいと泣いて縋っても「お兄ちゃんはお前のためを思ってつきあってくれているのよ」と、反対に葉月を嗜めるばかりだった。

 誰との電話だったのか、「あの子は女の子みたい。せめてお兄ちゃんの半分でも、活発な子だったら安心なのだけれど」と溜息混じりに話す母の言葉を聞いたとき、幼心に自分を全否定されたような気がして、部屋にこもってこっそり泣いたものだ。

 葉月の内向的な性格に拍車がかかったのは、こんなところから来ているのかもしれない。


 葉月は重い溜息を吐くと、再び歩き始めた。

 耳鳴りはまだ治まらなかったが、黙って立っていても仕方がない。

 だが、一歩踏み出したところで突然クラリと視界がぶれ、葉月は思わずたたらを踏んだ。

「え……?」

 違和感に目を瞬かせる。平衡感覚が少しおかしい。血の気は引いているのに、体の芯が燃えるように熱くなっていた。

 それを自覚した途端、葉月の全身から噴き出すように汗が流れる。

 突然、ゴォーッと後方から湿気を帯びた生ぬるい風が吹き上がった。

 それは葉月の体を絡め取るようにねっとりとまとわりついた。怖気が立った。

「な、なに」

 風に煽られるように振り仰いだ目の前の光景に、葉月は息を呑んで愕然と立ち尽くした。

 よく見慣れた風景がそこにあった。しかし今まで見たこともないほどに様変わりしていた。

 多摩川の河川敷は、目の奥を射るかのごとく、異常に赤黒く輝く夕陽に辺り一帯を赤々と染められていたのだ。


 燃えるような赤、赤、赤。


 まるで一面炎に包まれたかようだった。

 耳鳴りがひどくなる。

 頭の中で、ウァンウァンと警報のように鳴り響く耳鳴りに耐え切れず、葉月はついに両手で頭を抑えながら、言い知れない恐怖に唇を震わせた。

 ここにいたら取り返しのつかないことになる。


 逃ゲナケレバ!


 葉月は咄嗟にそう考えると、もつれる足をなんとか動かして駆け出した。だが、どれほど必死に走ろうとしても一向に前には進まなかった。まるで泥沼の中でもがいているようだ。

 こんな夢をときどき見る。

 走っても走っても体が重くてろくに前に進めない寝覚めの悪い嫌な夢だ。


 ハヤク、ハヤク……ッ!


 気ばかりが焦っていた。

 突然、ギュンと髪を思い切り後ろに引かれる。葉月は息を呑んだ。

 仰向けに倒れそうになるのを、必死でこらえようとする。

 しかし、踏みしめようにも下半身にまったく力が入らなかった。

 見開いた眼前に広がるのは、真っ赤に染まった空。渦を巻くように流れていく黒い雲。やがて視界がグラグラと揺れ出す。

 耳鳴りが他のすべての音を遮断した。目の端には、あの、不気味に赤黒く輝く夕陽が前後左右に飛び回っていた。

 まるでピンボールのようだ。


――ダレ……カ……ッ。


 声は出せなかった。息が詰まった。

 見開いた目の端から生理的な涙がにじんでいた。

 震える手を必死に空に伸ばす。

 目の前がカメラのフラッシュのような眩い光が次から次へと弾けて消えた。


――誰……カッ!


 やがて視界が暗転していく。

(僕は死ぬのかな……、どうして?)

 いったい自分の身に何が起きたのだろう。理解する間もなく葉月は意識を飛ばしていた。

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