夏祭り
夏休みがこんなに長く感じられたことはない。
去年までは、このままずっと休みだったらいいのに…と、思っていた。新学期が始まって学校に行くと憂鬱になったものだ。
小さい頃からそうだった。人見知りが激しい僕は友達を作ることもできずに、学校へ行っていても一言も話をしないことが珍しくなかった。そんな僕をからかったり、いじめたりするヤツもいた。
だけど、僕はそんなヤツ等には決して負けなかった。いじめられても、泣き寝入りなんかしなかった。自分が間違っていないと思ったら、力で相手をねじ伏せた。そのうちヤツ等は僕の機嫌を伺うようになった。
それでも、学校へ行くのは気が進まなかった。勉強が嫌いなわけではない。成績もどちらかというと真中よりは上だった。とにかく人と関わりを持つのがすごく億劫だったのだ。
そんな僕の気持ちが変わったのには訳があった…。
僕はいつものように、一人で弁当を食べていた。
僕には父親がいない。そのため母親が夜の仕事をしながら僕を育ててくれている。そんな母親だから、朝は普通に起きることができない。だから弁当はいつも自分で作る。
そんな僕の弁当をじっと見ているヤツがいた。見られているのは気になったが、関わるのは面倒くさい。僕は無視して食べ続けた。すると、僕の弁箱の中に“たこさんウインナー”が放り込まれた。僕は思わずヤツの方を見た。そいつは僕の前の席にいる広田真奈美だった。
新学期で出席番号順に並べられた席順のため、彼女は僕の前の席になった。それから一週間、話をしたことは一度もない。
「ねえ、それあげるから、その卵焼きと交換して」サラッとした笑顔で彼女が言った。
「別にいいけど…」
「サンキュー!」彼女は卵焼きを自分の箸で突き刺すと、そのまま口に放り込んだ。
「しょっぱいねぇ!でも美味しいわ」
僕はなんだか食欲がなくなった。箸を置いた僕を見て彼女は「ねえ、もう食べないの?」と、聞いた。僕がうなずくと、彼女は目を輝かせた。
「じゃあ、もらってもいい?」僕の返事を待たずに彼女は僕の弁当箱を抱えた。そして、自分が放り入れた“たこさんウインナー”を摘まむと、「あ~ん」と言って僕の口へ持ってきた。僕はどうしたらいいのか分からなかったが、仕方がないので口を開けて彼女にウインナーを食べさせてもらった。
「ヒューヒュー」周りから冷やかしの声が上がった。僕は立ちあがってそいつ等を睨みつけた。
「気にしなくていいよ」そう言って彼女は僕のシャツを引っ張った。僕はそのまま席に着くと、彼女から弁当箱を取り上げてカバンにしまい込み教室を出た。
屋上のペントハウスの上でふて寝をしていると、彼女の声が聞こえてきた。
「本田く~ん、どこ?」屋上に出てきた彼女はそう叫びながらキョロキョロ辺りを見回している。僕は気付かないふりをして仰向けのまま空を眺めた。 やがて彼女の声は聞こえなくなった。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴ると、僕はペントハウスを降りて教室に戻ろうとした。塔屋のドアを開けると、階段に座っている彼女がいた。ボクに気付いた彼女はさっきのことを謝った。僕が気にしてないと言うと、彼女は安心したように歩きだした。
彼女と一緒に教室に入るのに抵抗を感じた僕は、途中でトイレに寄って行った。教室に戻ると、既に五時限目の授業が始まっていた。
その日以来、彼女は何かにつけ僕に構うようになった。僕も最初は面倒くさかったが、次第に彼女のペースに巻き込まれていった。そして、いつしか僕は彼女に“恋心”を持つようになっていた。
1学期が終わろうとする頃には学校に行くのが煩わしいと思うこともなくなっていた。しかし、相変わらず僕の口数が多くなることはなかった。周りの目が気になるというわけではなかったのだが、何を話せばいいのかが分からなかった。
そうこうしているうちに終業式の日がやってきた。明日から夏休みに入ってしまう。終業式が終わって、学校を出た時に彼女が僕に携帯電話の番号とメールアドレスを書いたメモ用紙を渡してくれた。
「たまには連絡をして頂戴ね」そう言うと彼女は小走りに去って行った。
「まいったなあ…」僕は携帯電話を持っていなかった。
夏休みに入ると毎日退屈で仕方なかった。去年の夏休みと何も変わらないはずなのに、夏休みがこんなに長く感じられたことはない。
8月の終わり。もうすぐ夏休みも終わる。あと一週間もすれば学校で彼女に会える。そう思うと学校が始まるのが待ち遠しくて仕方がなかった。
夏休み最後の週末には八幡様のお祭りがある。できれば彼女と一緒に行きたいと思った。僕は電話ボックスの中で彼女にもらったメモを見ながら受話器を持ちあげた。
「もしもし…」声が震えているのが自分でも分かる。
『だれ?』受話器の向こうから彼女の声が聞こえる。僕はそのあとの言葉がなかなか切り出せなかった。
『いたずらなら切るわよ!』彼女の声には怒りが込められているように感じた。僕は勇気を振り絞って声を出した。
「本田です」
『本田くん?公衆電話だったから、いたずらかと思っちゃったよ』
「携帯持ってないんで…」
『え~!ウソ~!』彼女は僕が携帯を持っていないことに驚いていた。それもそうだ。今時、携帯電話を持っていない高校生なんてそうはいないだろう。
僕は一緒に八幡様のお祭りに行かないか?と、彼女を誘った。彼女は快く了解してくれた。そして、参道入り口の鳥居の前で夕方5時に待ち合わせをした。
当日、僕はかなり早く待ち合わせ場所に着いた。そこで僕はある失敗に気がついた。ここは人通りが多すぎる。ずっと待っているのはすごく目立ってしまう。でも、まあいい。人がどう思おうと気にしなければいい。
ところが、時間が過ぎても彼女は来なかった。少しくらい遅れたからといって、それはいちいち気にするほどのことではない。しかし、一時間過ぎても彼女は来なかった。僕はさすがに心配になって公衆電話を探した。コインを入れてダイヤルする。
『おかけになった電話は電波の届かない場所におられるか電源が…』つながらない。
青い空がオレンジ色に変わり、そして群青に変わっていく。参道は提灯の明かりでにぎやかに照らされている。一人でずっと同じ場所に立っていることがこんなに辛く切ないなんて思わなかった。
祭りが終わる時間が近づくにつれて人通りが次第に少なくなっていく。そして提灯の明かりが消えてしまうと、さっきまでの喧騒がうそのように静まり返った。
僕は鳥居に寄りかかり、背中を滑らすように腰を落とし地面に座り込んだ。しばらく何かを考える気にすらなれなかった。そして、もう一度彼女に電話してみようと思った。
さっきと同じ公衆電話で同じようにダイヤルした。今度は呼び出し音が鳴った。近くで誰かの携帯電話が鳴っている音が聞こえた。『はい、広田です』受話器の向こうから聞こえる声がすぐ後ろから聞こえるような気がして振り向くと、そこには彼女の姿があった。僕は思わず受話器を手から滑らせた。
彼女は両手に松葉杖をついて片足に包帯がぐるぐる巻きに巻かれている。
「ごめんね、遅れちゃった」そう言って彼女は照れ臭そうに笑った。
「いいさ。そんなんじゃあ、時間がかかるのは当り前さ」僕がそう言うと、彼女の目から涙がこぼれた。
「疲れただろう?座れるかい?」僕は彼女を公衆電話のわきにあるベンチに座らせた。
「ありがとう。待っていてくれるとは思わなかった」
「でも、ちゃんと来たじゃないか。遅れたことは問題じゃないよ」
「お祭り、終わっちゃったね」
「初めからお祭りなんかどうでもよかった。広田さんに会いたかっただけだから」
「私も会いたかったけど、ちっとも連絡くれないんだもの。だから、今日は楽しみにしていたの。でも、家を出てすぐにバイクにぶつかっちゃって…」彼女の声が次第に涙声になってきた。
「わかったから。だからもう泣かないで。僕は広田さんの笑っている顔がいちばん好きだよ」
「恥ずかしい…」はにかむように彼女は呟いた。
それから、彼女は笑顔を取り戻すと、僕の方を見つめた。そしてそっと目を閉じた。
やさしい月の光に包まれたこの日の君を僕は一生忘れない。