第9話「居場所の値段」
自分がいることで、この場所が壊れるなら。
その考えが、朝から頭を離れなかった。
王太子がイレーネの名を出して激昂したという情報は、館の中に静かな緊張を広げていた。使用人たちの表情が硬い。廊下ですれ違う領兵の足取りにも、どこか警戒の色がある。
グスタフがもたらした情報から数日。イレーネはヴァルターの執務室に呼ばれた。
エーデルガルトが先に来ていた。椅子に座り、茶には手をつけていない。フリードリヒが扉の横に立っている。
ヴァルターは窓際の椅子に座っていた。いつもの位置だったが、右手の指が膝の上で組まれている。落ち着いているように見えて、力が入っていた。
エーデルガルトが口を開いた。
「王太子殿下のご不快が、具体的な措置に変わる可能性を検討すべきだと思うの」
冷静な声だった。先代公爵夫人としての分析だった。
「王太子殿下には公爵領に介入する法的権限はありません。ですが、国王陛下を動かすことは可能です。陛下が辺境の動きを問題視されれば、四半期の定期報告を通じて是正を求められるかもしれない」
イレーネは黙って聞いていた。
エーデルガルトの分析は正確だった。王太子の個人的な感情だけでは公爵領に手を出せない。だが王太子が国王に働きかければ、話は変わる。
「現時点で、国王陛下が動いた形跡はありますか」
イレーネが問うと、フリードリヒが答えた。
「ありません。自分の知る限り、辺境に密偵が増えた兆候もなし。ですが——」
「兆候がないことは、安全の証明にはなりません」
「その通りです、公爵夫人」
フリードリヒの声に、敬意があった。税制改革の日に初めて見せてくれた敬意が、今は自然なものになっていた。
沈黙が落ちた。
イレーネは、全員の顔を見渡した。ヴァルター。エーデルガルト。フリードリヒ。この部屋にいる人間たちが、王太子の不興という政治的リスクを背負おうとしている。自分のために。
前世の記憶が、胸を刺した。
自分がいることで周囲に迷惑がかかる。その構図を、イレーネは知っていた。前世の離婚の時もそうだった。会社に残ることで同僚に気を遣わせ、実家に帰ることで両親に負担をかける。どこにいても、自分は誰かの荷物になる。
今世でも同じだ。追放された時、伯爵家は自分を庇わなかった。庇えば家全体が傷つくからだ。合理的な判断だった。恨んではいない。
そして今、公爵家がその判断を迫られようとしている。
「ご迷惑をおかけするなら、契約を解消いたします」
声は平静だった。震えてはいなかった。前世で離婚届に署名した時と同じだ。感情を排し、最も合理的な選択を提示する。それが自分の役割だ。
ヴァルターが動いた。
椅子から立ち上がり、二歩でイレーネの前に来た。
「契約は俺が結んだ。破棄の条件は満たされていない」
声が硬い。怒っているのではない。何かを押し殺している声だった。
「閣下、王太子殿下のご不興は——」
「王太子が何を言おうが、俺の領地で何をしようが俺が決める。公爵家は王家に次ぐ。王太子の個人的な機嫌で領地の人事を変えるつもりはない」
それは法と制度に基づいた正論だった。公爵家は領内統治の自治権を持つ。王太子の感情は、法的には介入の根拠にならない。
けれど、ヴァルターの語気には、法の論理だけでは説明がつかないものがあった。
エーデルガルトがイレーネを見た。穏やかだが、射抜くような目だった。
「イレーネさん。あの子の目を見なさい。契約書を読む目ではなかったでしょう?」
イレーネはヴァルターの顔を見た。
ヴァルターは目を逸らさなかった。逸らせなかった、というほうが正しいかもしれない。
イレーネは視線を外し、一つ息を吸った。
感情ではなく、事実で判断する。それが自分のやり方だ。
「王太子殿下のご不快が法的措置に発展する可能性を検討いたします」
机に歩み寄り、紙とペンを取った。
「まず、公爵家は王家に次ぐ権力を有し、領内統治の自治権は王家への納税義務と引き換えに保障されています。王太子の個人的感情のみでは、公爵領への介入は法的根拠を欠きます」
ペンが紙の上を走った。
「次に、国王陛下が介入するには、公爵家が王家への義務を怠っているという事実が必要です。現在、納税義務は滞りなく履行されており、むしろ税制改革により今後の税収増が見込まれます。国王陛下が介入する合理的理由がありません」
さらに書き加えた。
「過去の先例として、王太子の個人的理由で公爵領に介入が行われた記録はありません。仮に王太子が国王陛下に働きかけたとしても、国王陛下が公爵家の自治権を侵すことは王国の統治構造そのものを揺るがすことになります」
紙を置いた。
「以上の理由から、現時点で契約を解消する必要はないと判断いたします」
合理的な判断だった。数字と法と先例に基づいた結論だった。
ヴァルターは紙を一瞥した。
「そういうところだ」
低い声で呟いた。
イレーネには、その言葉の意味がわからなかった。
フリードリヒが一歩前に出た。
背筋を伸ばし、イレーネに向き直った。
「公爵夫人。自分はあなたを認めます」
短い言葉だった。軍人の言葉だった。それ以上の修飾はなく、それゆえに重かった。
「ありがとうございます、隊長殿」
フリードリヒは敬礼して退室した。
エーデルガルトが立ち上がり、イレーネの肩に手を置いた。
「あなたは頭がいいわ。でも、頭のいい人は自分の感情に鈍いことがあるのよ」
それだけ言って、部屋を出ていった。
執務室にヴァルターとイレーネだけが残された。
ヴァルターは窓際に戻り、外を見ていた。
イレーネは自分が書いた分析の紙を見下ろした。
合理的な判断。法的根拠。先例の検討。 すべて正しい。正しいはずだ。
けれど——「ここにいたい」という感情が、分析の行間に滲んでいたことを、イレーネ自身がまだ認められずにいた。
ヴァルターの「そういうところだ」の意味も、まだ宙に浮いたままだった。
窓の外では、秋の風が中庭の木々を揺らしていた。交易路復活の第一便の出発が、間近に迫っている。




