第7話「毛布の理由」
イレーネは羽根ペンを置き、指の付け根を揉んだ。
深夜だった。執務室の燭台は三本目に替わっている。机の上には交易路復活計画の詳細書、中継拠点ごとの人員配置案、追放者や元犯罪者の再雇用制度の草案が広がっていた。
マルグリットとの基本合意から数日。計画を実行に移すための実務が、一気に押し寄せていた。中継拠点の建設費用の精査、輸送人員の募集要項、各商会との個別条件の調整。税制改革の事後処理も並行して進めなければならない。
体が重い。 肩が張り、目の奥が熱い。十七歳の体は前世の四十二歳より体力があるはずだったが、ここ数日の睡眠不足が蓄積していた。前世で過労死した人間が、今世でも同じことをしている。我ながら学ばない。
ルッツは二時間前に退室させた。「僕も残ります」と食い下がったが、「明日の作業に差し支えます。休みなさい」と送り出した。
執務室には自分だけ。燭台の炎が揺れる。
もう一枚だけ。再雇用制度の草案の、受け入れ条件の項目を仕上げれば——。
ペンを取り直した時、背中に、重みが掛かった。
毛布だった。
振り返ると、ヴァルターが立っていた。
右手に持っていた毛布を、イレーネの肩に掛けたところだった。空の左袖が、暗がりの中でかすかに揺れている。
「……公爵閣下」
「起きていたか」
ヴァルターは素っ気なく言って、一歩下がった。
イレーネは毛布の端を握った。厚手の羊毛。暖炉の火が落ちた執務室は、石壁から冷気が滲み出していた。自分が冷えていたことに、毛布を掛けられて初めて気づいた。
「ありがとうございます。ですが、もうすぐ仕上がりますので」
「飯は食ったのか」
「……昼に少し」
「夕飯は」
沈黙が答えだった。
ヴァルターは何も言わず、執務室を出ていった。
足音が廊下を遠ざかり、しばらくして戻ってきた。
右手に木の盆を持っていた。パンと、硬めのチーズと、水の入った杯。簡素だが、切り分けられたパンの断面は均一で、チーズの厚さも揃っている。
「閣下が、ご自分で」
「厨房に誰もいなかった。勝手に使った」
ヴァルターは盆を机の端——帳簿に触れない位置——に置いた。帳簿を避けて盆を置くその仕草に、イレーネは目を瞬いた。
「公爵様、それは契約の範囲外では」
言葉が口をついて出た。契約書には「領地財政の全権委任」と「報告の義務」が書かれている。深夜に毛布を掛けること、食事を用意することは、どの条項にも含まれていない。
ヴァルターは盆から手を離し、窓際に寄りかかった。
「……俺にも、よくわからん」
低い声だった。困惑が滲んでいた。ヴァルター自身が、自分の行動の理由を掴めていない顔をしていた。
イレーネはパンを一切れ手に取った。
食べなければ。十七歳の体を壊しては、計画が止まる。合理的な判断だ。
パンは硬かったが、噛み締めると小麦の甘味がじんわりと広がった。
ヴァルターは窓際に立ったまま、何も言わなかった。イレーネが食べ終わるのを、ただ待っているようだった。
好意に見えるものを、好意と受け取ってはいけない。 前世で学んだことだ。二十年連れ添った夫の優しさは、最後には別の女への罪悪感だった。人の善意には、必ず理由がある。理由のない善意は存在しない。
それでも。
パンを食べ終え、水を飲み干した後、イレーネは小さく頭を下げた。
「ごちそうさまでした」
「……ああ」
ヴァルターは窓際から離れ、扉に向かった。
「寝ろ。明日も仕事だろう」
「はい」
足音が遠ざかった。
翌日の昼。
エーデルガルトが居間でイレーネと茶を飲んでいた。
「昨夜、あの子が厨房に立ったそうね」
使用人から聞いたのだろう。イレーネは茶器を口元に運びながら、表情を変えなかった。
「食事を抜いていた私への、お心遣いかと」
「あの子は不器用だから。言葉の代わりに行動で示すの。昔からそう」
エーデルガルトは穏やかに笑った。しかしその目は、イレーネの表情の奥を読もうとしていた。
「あの子は変わり始めていますよ。あなたが来てから」
イレーネは何も答えなかった。
その夜も、イレーネは執務室にいた。
再雇用制度の草案を仕上げ、中継拠点の建設資材の見積もりを確認し、ルッツが作成した輸送人員の候補者一覧に目を通す。
深夜。燭台の炎が揺れた。
足音が聞こえた。
イレーネは——無意識に、背筋を正していた。
気づいた瞬間、自分に呆れた。毛布を掛けに来る足音を待っている自分がいる。
扉が開いた。
ヴァルターだった。右手に毛布を持っている。昨夜と同じ毛布だった。
今度はイレーネが起きていることを確認して、少しだけ足を止めた。
「……まだやっているのか」
「もう少しで終わります」
ヴァルターは毛布をイレーネの椅子の背に掛けた。肩に直接ではなく、椅子の背に。昨夜より、一段階距離を取った置き方だった。
「イレーネ」
呼ばれて、顔を上げた。
ヴァルターは自分が何を言ったのか気づいていないようだった。「管理者」でも「公爵夫人」でもなく、名前で呼んだことに。
「……無理はするな」
それだけ言って、出ていった。
イレーネは椅子の背に掛けられた毛布に手を伸ばし、自分の肩に引き寄せた。
羊毛の重みが、肩を包んだ。
契約のはずだった。感情は排除したはずだった。
「興味がない」と「嫌い」は、違う。 それは最初からわかっていた。
けれど、「興味がない」と「気になる」の境目が、こんなに曖昧だとは思わなかった。
ペンを握る手が、少しだけ温かかった。
翌朝。
廊下でフリードリヒとすれ違った。
フリードリヒはイレーネに敬礼し、一瞬だけ複雑な表情を浮かべた。
「公爵夫人。閣下は昨夜も遅くまで起きていらしたようです」
それは報告なのか、忠告なのか。イレーネには判別がつかなかった。
「ご心配をおかけして申し訳ありません」
「いえ。——自分が心配しているのは、閣下のほうです」
フリードリヒはそれだけ言って、足早に去っていった。
イレーネは廊下に立ったまま、しばらく動けなかった。
夕方、ルッツが王都方面から届いた手紙を持ってきた。
「イレーネ様。伯爵家時代のお知り合いからです」
封を開いた。
密書だった。差出人は伯爵家の事務方にいた旧知の文官。内容は短かった。
王都で人材流出が深刻化している。王太子が有能な官僚を次々と更迭し、代わりに取り巻きの無能な人間を登用している。更迭された者たちは行き場を失い、一部は辺境方面に流れ始めているという。
イレーネは手紙を畳み、窓の外を見た。
辺境の空は、王都の空より広かった。




