第6話「商人の目」
二十年前、この交易路には百を超える荷馬車が行き交っていたという。
マルグリット・ホーエンフェルスは、その時代を知る最後の商人の一人だった。
税制改革の噂は領地の外にも広がっていた。辺境交易都市のギルド長が公爵家への訪問を申し入れてきたのは、改革から二週間後のことだった。
イレーネは応接間でマルグリットを迎えた。ルッツが控えとして同席し、茶の用意は使用人が整えている。
扉が開いた。
入ってきたのは、四十代後半の女だった。商人らしい実用的な仕立ての上着。日に焼けた肌。鋭い目つきの中に、商売人特有の値踏みの光がある。
「ホーエンフェルスのマルグリットです。公爵夫人にお会いできて光栄ですわ」
形式上の敬語だった。声の調子に卑屈さはなく、「商売は対等」という信条が滲んでいる。それでも礼節は弁えており、入室時にきちんと頭を下げた。
「ようこそお越しくださいました。どうぞお掛けになってください」
マルグリットは椅子に腰を下ろし、室内を一瞥した。質素な調度品、手入れが行き届き始めた床、窓際に積まれた帳簿の束。
「噂は聞いてますよ。税の見直しをやったんだって? 地主連中が真っ青になったとか」
「数字をお見せしただけです」
「ははっ。数字で人を黙らせるってのは、あたしの商売と同じだ」
マルグリットは笑ったが、目は笑っていなかった。品定めの目だった。
「で、本題。あたしが来たのは、交易路の話を聞きたいからさ」
イレーネは頷いた。
「北方山岳ルートの復活について、ご相談したいと考えておりました」
「あたしもだよ。二十年間、あの道が死んでるせいで、うちの商会は遠回りの南回りルートに頼りっきりだ。時間も金もかかる。北が通れば、話が変わる」
マルグリットは身を乗り出した。
「だが二十年放置された道だ。橋は落ちてる、宿場は廃墟、盗賊の巣になってる区間もある。まともに通すには相当な金がいる。公爵家にそれだけの余裕があるのかい?」
「一度にすべてを復旧するつもりはありません」
イレーネはルッツに目配せした。ルッツが帳簿資料の中から一枚の紙を取り出し、マルグリットの前に置いた。
「段階的な復旧計画です。まず比較的状態の良い区間に三つの中継拠点を設置します。拠点間の短距離輸送を繋ぐことで、全線復旧を待たずに荷の移動を開始できます」
マルグリットは紙を手に取った。目が数字を追う速度は、商人のそれだった。
「中継拠点の設置費用、輸送人員の確保、初期の荷物量の見込み……」
「伯爵家時代の取引先一覧から、北方ルートに関心を持ちそうな商会を七つ選定しています。うち三つには既にルッツを通じて打診済みで、条件次第で参加の意向を得ています」
マルグリットの目が光った。
しかし、次の瞬間には目が冷めた。
「試算を見る限り、利益が出始めるまでに一年半か。長いね」
「交易路の復旧は長期投資です。短期の利益を求める案件ではありません」
「あたしは商人だよ。一年半、金を寝かせておく余裕はない」
マルグリットは紙をテーブルに戻した。
イレーネは表情を変えなかった。
「短期利益をお求めでしたら、別のお相手をお探しになるのがよろしいかと」
マルグリットの眉が上がった。
「……ずいぶん強気じゃないか、公爵夫人」
「事実を申し上げているだけです。この計画は、一年半後に利益が出る設計です。それ以前に回収できる案は、私の手元にはございません。存在しない数字をお見せするつもりはありません」
ルッツが横で息を詰めていた。交渉の空気が張り詰めている。
マルグリットはイレーネの顔をじっと見つめた。
長い沈黙。
「……損益の分岐を、もう一度見せな」
イレーネは頷き、ルッツから別の資料を受け取った。ルッツの手は僅かに震えていたが、資料は正確だった。月ごとの収支予測、季節変動の影響、冬季の山岳ルート閉鎖を織り込んだ輸送計画。
マルグリットは一つ一つの数字を指で追い、時折唸り、時折首を傾げた。
「ここの冬季の代替ルート、河川舟運を使う想定かい」
「はい。山岳ルートが雪で閉鎖される冬季は、南側の河川を利用した迂回路を確保します。輸送量は落ちますが、完全な途絶は避けられます」
「なるほどね」
マルグリットは紙をテーブルに置き、背もたれに体を預けた。腕を組む。
「条件を一つ出す」
「どうぞ」
「中継拠点の一つを、うちのギルドに任せろ。運営も人員もうちで出す。その代わり、その拠点を通過する荷物の手数料の一割をギルドの取り分にする」
イレーネは一拍だけ間を置いた。
計算は瞬時に終わっていた。中継拠点の運営をギルドに委託すれば、公爵家の初期投資が減る。手数料の一割は許容範囲内。しかもギルドが拠点を運営するということは、マルグリットの商業ネットワークがそのまま交易路に接続される。
「お受けいたします」
マルグリットが目を見開いた。
「即答かい」
「計算が合いますので」
マルグリットは数秒、イレーネの顔を見つめた。それから声を上げて笑った。
「あんた、本当に十七歳かい?」
「よくそう言われます」
イレーネは微笑んだ。嘘ではなかった。エーデルガルトにも同じことを言われた。
マルグリットは立ち上がり、手を差し出した。
「いいだろう。基本合意だ。細かい条件は書面で詰めよう」
イレーネもその手を握った。商人の手は硬く、乾いていた。
「よろしくお願いいたします」
マルグリットは帰り際、応接間の扉の前で振り返った。
「あたしはね、二十年間この交易路が復活するのを待ってたんだよ。夫を戦で亡くして、一人で商会を切り盛りして、ずっとだ。口先だけの貴族には何人も会ったさ。でもあんたは——数字で話す。それが気に入った」
そう言い残して、去っていった。
ルッツが深く息を吐いた。
「……緊張しました」
「あなたの資料が正確だったから、交渉が成り立ったのよ」
「いえ、イレーネ様の計算があってこそです」
イレーネは窓の外を見た。マルグリットの馬車が、門を出ていくところだった。
前世の取引先に、ああいう女社長がいた。数字でしか信頼を測らない人。感情論を嫌い、結果だけを見る人。何度もぶつかり、何度も折り合いをつけ、最後には互いを認めた。
この世界にも、信頼できる大人がいる。
その事実が、思いのほか胸に沁みた。
同じ頃。
館の廊下を歩くフリードリヒが、足を止めた。
応接間の隣室から出てきたヴァルターと、目が合った。
「……閣下、お聞きになっていたのですか」
ヴァルターは何も答えず、廊下を歩き去ろうとした。
フリードリヒは主君の背に向かって、つい口を滑らせた。
「あの方は、閣下より領主に向いておいでかもしれません」
ヴァルターの足が一瞬止まった。
しかし何も言わず、そのまま廊下の奥へ消えていった。




