第5話「夫人の仕事」
この領地の税は、誰のために取られているのか。
イレーネは館の前庭に設けられた壇上に立ち、集まった領民たちを見渡した。公爵夫人としての最初の公式の場だった。
ヴァルターが隣に立っている。右手を背に回し、無言で前を向いている。その左隣にフリードリヒ。壇の下ではルッツが帳簿資料の束を抱えて控えていた。
領民たちの顔は、一様に固い。
囁きが風に乗って聞こえる。
「追放された伯爵令嬢が、公爵夫人だと?」
「片腕の公爵に追放者の妻か。この領地はどうなるんだ」
イレーネは聞こえないふりをしなかった。聞こえているということを、表情で示した。前世の株主総会で、敵意に満ちた株主を前にプレゼンした時と同じだ。聞こえていないふりをする人間は信用されない。
ヴァルターが一歩前に出た。
「紹介する。イレーネ・フォン・ヴィントシュタット。俺の妻であり、今日から領地の財政を預かる」
短い紹介だった。それ以上の言葉はなく、ヴァルターは一歩下がった。
あとはお前の仕事だ、という意味だった。
イレーネは前に出た。
「公爵夫人としての最初の仕事をお伝えいたします。領地全世帯の税負担の見直しを行います」
囁きが止まった。
沈黙の後、前列にいた恰幅のいい男が声を上げた。
「税の見直しだと? 今のままで何が悪い」
地主だ。イレーネは帳簿を精査する中で、この男の名前と納税額を既に把握していた。
「見直しの理由をご説明いたします」
イレーネはルッツに目配せした。ルッツが帳簿資料の一枚を手渡す。
「現在の税制では、土地の面積に対して一律の税率が課されています。しかし実際の収穫量には大きな差があります。肥沃な土地と痩せた土地に同じ税率を適用すれば、結果として収穫の少ない農家ほど負担が重くなります」
数字を示した。農家ごとの収穫量の推計と、実際の納税額の比較。裕福な地主の実質税率が低く、小規模な農家の実質税率が高い。帳簿が語る事実だった。
「この不均衡を是正し、収穫量に応じた税率に改めます。具体的な再配分案はこちらに——」
「待て」
先ほどの地主が壇に詰め寄った。
「よそ者の追放者に、この土地のことがわかるものか。代々この地で暮らしてきた我々の税を、来たばかりの女が弄ぶなど——」
「ボルガー殿」
イレーネは声を落とした。穏やかな、しかし通る声だった。
地主の名を呼ばれたことで、男の顔に動揺が走った。
「ボルガー殿の所有する南区画の農地は、記録によれば年間の小麦収穫量が約四百袋。しかし昨年の納税申告では二百五十袋として届け出られています。差額の百五十袋分の税は、どこへ消えたのでしょう」
前庭が静まった。
ボルガーの顔が赤くなり、そして白くなった。
「それは——収穫が不作で——」
「南区画は領地で最も肥沃な土地です。過去五年間、不作の記録はありません。帳簿に残っています」
イレーネは帳簿資料をもう一枚取り出した。ルッツが事前に準備していた、過去五年分の収穫記録の写しだった。
ボルガーは口を開き、閉じ、もう一度開いて、何も言えずに黙った。
周囲の地主たちも、互いの顔を見合わせて黙り込んだ。自分たちの数字も調べられているのだと察したのだろう。
イレーネは声を戻した。
「この見直しは、罰則ではありません。正確な数字に基づいて、公正な負担を定めるものです。過去の申告について追及する意図はございません。今日から先のことです」
壇の横で、フリードリヒの表情が変わった。腕を組んだまま、イレーネの横顔を見ている。警戒ではなかった。別の何かだった。
ヴァルターが前に出た。
「公爵夫人の提案を、領主命令として承認する。税の再配分は来月の徴収から適用する」
一言。それだけだった。
領民たちは反論しなかった。公爵の命令は、この領地では法と同義だ。しかしそれ以上に、イレーネの数字が反論を封じていた。
壇を降りた後、フリードリヒがイレーネに近づいた。
「公爵夫人」
「はい」
「ボルガーの収穫量と納税額の乖離——あれは、いつ調べていたのですか」
「帳簿の閲覧を許可された日から、全地主の記録を確認しておりました。反発が来ることは想定の範囲内です」
フリードリヒは何か言いかけて、口を閉じた。
それから短く、「……失礼しました」と言って背を向けた。
イレーネはその背中を見送りながら、息をついた。
館に戻ると、エーデルガルトが廊下で待っていた。
「見事だったわ。ただ——」
「拙速でしたでしょうか」
「いいえ。あの場で数字を出せたのは、準備が十分だった証拠よ。やり方が拙速ではと思ったのは、私の見込み違いだったわ」
エーデルガルトは微笑んだ。値踏みの色は、もう薄れていた。
「けれど、地主たちは当面あなたを恨むわ」
「承知しています。恨まれるのは慣れております」
前世でもそうだった。経理部長が好かれることはない。予算を削り、経費を詰め、不正を指摘する。嫌われるのが仕事だ。
エーデルガルトは小さく首を傾げた。
「十七歳の言葉には聞こえないわね」
イレーネは曖昧に微笑んで、話を逸らした。
執務室に戻ると、ルッツが帳簿資料を整理していた。
「お疲れ様でした、イレーネ様」
「あなたもよ。資料の準備が完璧だったおかげです」
ルッツは少し照れたように頭を下げた。
イレーネは椅子に座り、次の課題に目を向けた。税制改革は第一歩にすぎない。交易路の復活、人材の確保、冬に向けた備蓄の見直し。やるべきことは山積みだった。
仕事に感情は要らない。数字は嘘をつかない。
そう思いながら——ヴァルターが一言で承認してくれたことへの安堵が、予想以上に胸の中に残っていた。
あの人は、数字を見て判断した。感情でも体面でもなく、数字を。
それだけのことなのに、なぜこんなに安堵しているのか。
イレーネはペンを取り、次の計画書に取りかかった。考えるのは後だ。いつだって、そうやって先送りにしてきた。前世から、ずっと。




