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恋も人生も、二周目のほうがうまくいく。  作者: 月雅


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第4話「契約の条件」

イレーネは帳簿の山から一枚の紙を抜き出し、ヴァルターの執務机に置いた。


「公爵閣下。横領の全容がまとまりました」


帳簿の閲覧を許可されてから十日。イレーネとルッツは館の一室に籠り、過去五年分の領地帳簿を一頁ずつ精査した。欠落したページ。書き換えられた数字。存在しない取引先への支払い記録。すべてが一人の人物を指していた。


前任の会計官、ディートリヒ・グラーフ。


半年前に「病気療養」を理由に辞職し、王都へ去っている。


「被害額は、領地年収のおよそ二割です」


ヴァルターは机の上の報告書を見下ろした。右手の指が、紙の端を一度だけ弾いた。


沈黙。


その沈黙の重さで、イレーネにはわかった。この男は怒っているのではない。自分自身に苦い顔をしているのだ。領主として、会計官の横領を見抜けなかった。数字に疎い自分の管理体制が、ここまでの被害を許した。


「……俺の、不手際だ」


低い声だった。


イレーネは一拍置いてから、静かに言った。


「過去の損失を悔いるよりも、今後の流出を止めることが先です。横領の証拠は帳簿に基づいて整理いたしました。お手元の資料が、そのまま引き渡し要請の根拠になります」


「引き渡し要請か」


「公爵家は領内裁判権をお持ちです。犯人が王都に逃亡している以上、王家の司法機関へ引き渡しを要請する権限が閣下にはございます」


ヴァルターは報告書を手に取り、目を通した。数字の羅列に慣れていない目つきだったが、証拠の構成は理解できたらしい。


「やる。すぐに手配する」


立ち上がり、扉に向かいかけて——足を止めた。


「イレーネ・カルステッド」


「はい」


「一ヶ月の期限は、まだ先だったな」


それだけ言って、執務室を出ていった。


三日後。


イレーネが帳簿の整理を続けていると、使用人が訪ねてきた。


「先代夫人がお呼びです」


通されたのは、館の奥にある居間だった。暖炉に火が入り、茶器が二人分用意されている。


椅子に座っていた女性が、イレーネを見て微笑んだ。


白髪交じりの髪を上品にまとめ、背筋はまっすぐに伸びている。五十代後半と思われるが、目の光は鋭かった。穏やかな笑みの奥に、何かを測る視線がある。


エーデルガルト・フォン・ヴィントシュタット。ヴァルターの母にして、先代公爵夫人。


イレーネは深く頭を下げた。


「お初にお目にかかります。イレーネ・カルステッドと申します」


「座ってちょうだい。お茶が冷めてしまうわ」


エーデルガルトは向かいの椅子を示した。イレーネが腰を下ろすと、先代夫人は自ら茶を注いだ。


「あの子の帳簿を直してくれているそうね。横領まで見つけたとか」


「閣下のご許可をいただいて、帳簿を拝見しただけです」


「謙遜は結構。あなたが来るまで、あの帳簿はただの紙束だったのよ」


エーデルガルトは茶器を口に運び、一口含んでから、イレーネを真っ直ぐに見た。


「本題に入るわ。あなた、息子と契約結婚してくれないかしら」


イレーネの手が、茶器の持ち手の上で止まった。


「……先代夫人」


「聞いてちょうだい。あの子には領地を治める意志がある。けれど実務が致命的に苦手なの。それは戦場育ちだから仕方がない。あなたの能力は、この十日で十分にわかった。領地にはあなたが必要よ」


「それは雇用で解決できる話ではありませんか」


「追放者を雇うのと、公爵夫人に迎えるのとでは、意味が違う。あなたも貴族の出身なら、わかるでしょう」


わかっていた。


追放者のまま領地の帳簿を管理すれば、「公爵家が追放者に弱みを握られている」と見なされる。だが公爵夫人として迎えれば、すべては「公爵家の内政」になる。外部からの口出しを封じる最も合理的な手段。


前世の感覚で言えば、業務委託ではなく正社員登用。しかもそれが婚姻という形を取る。


「条件を、出させてください」


「どうぞ」


「一つ。領地財政に関する全権を委任いただくこと。帳簿、徴税、交易、すべてです」


エーデルガルトは微笑んだまま頷いた。


「もう一つ。私の過去——追放された事実を理由に、この契約を破棄しないこと」


「当然ね」


「それが条件です」


エーデルガルトは茶器を置いた。


「あの子に直接話してちょうだい。母親が勝手に決めたのでは、あの子が怒るから」


その言い方で、イレーネは理解した。ヴァルターはまだ、この話を聞かされていない。


翌日。ヴァルターの執務室。


ヴァルターは窓際の椅子に腰を下ろしたまま、イレーネの話を黙って聞いた。


「——以上が、先代夫人からのご提案と、私の条件です」


沈黙が落ちた。


ヴァルターの右手が、膝の上で握られていた。


「母が、勝手に」


「はい」


「……あの人は昔からそうだ」


低い声に、怒りとも諦めともつかない響きがあった。しかしイレーネの条件そのものを否定する気配はなかった。


「契約結婚の合理性は、俺にもわかる」


ヴァルターは立ち上がった。窓の外を見ている。左袖が、動きに合わせて揺れた。


「俺に必要なのは領地の管理者であって、妻ではない」


「奇遇ですね。私に必要なのも夫ではなく仕事です」


ヴァルターが振り返った。


イレーネの目を、まっすぐに見た。


数秒。


「……条件は呑む。全権委任と、追放を理由にした破棄の禁止。それでいいな」


「はい」


「もう一つ加える。俺は口を出さん。だが報告は必ずしろ。何をやっているか、俺が知らんのは二度とごめんだ」


横領を見抜けなかった自分への、戒めだった。


「承知いたしました」


イレーネは頭を下げた。


ヴァルターが机の引き出しから契約書の用紙を取り出した。公爵家の正式な書式だった。右手一本で、ゆっくりと条件を書き連ねていく。書き慣れていない文字だったが、内容に抜けはなかった。


イレーネは差し出されたペンを取り、署名した。


ヴァルターも署名した。


二人の名前が並んだ契約書を、ヴァルターは机の上に置いた。


扉の外から、かすかに笑い声が聞こえた。


「まあ、お似合いですこと」


エーデルガルトの声だった。盗み聞きしていたわけではないだろうが、結果を確認しに来たのは間違いない。


ヴァルターが舌打ちした。イレーネは何も言わなかった。


婚姻届出はエーデルガルトが取りまとめ、王家の宮内省へ提出される手筈が整えられた。公爵家の婚姻届出は宮内省の事務方が処理する行政手続きであり、通常の書類として受理される。


執務室に二人だけが残った。


契約書が、机の上にある。


イレーネは自分の右手を見た。署名したばかりの指先が、微かに震えていた。


もう結婚はしないと、決めていた。 前世で二十年かけて築いた婚姻が、一枚の離婚届で終わった日に。


契約だ。感情ではない。仕事のための契約。 そう言い聞かせた。言い聞かせなければならなかった。


ヴァルターは契約書を見つめたまま、しばらく動かなかった。


やがて右手で契約書を持ち上げ、引き出しにしまった。


「明日から、公爵夫人だ」


「はい」


「……慣れんな」


「私もです」


それきり、二人とも黙った。


窓の外では、雨上がりの陽が中庭の雑草を照らしていた。

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