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恋も人生も、二周目のほうがうまくいく。  作者: 月雅


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第3話「嘘のない目」

雨が、石畳を叩いていた。


ヴァルターの居館は、町から馬で半日ほどの丘陵地帯に建っていた。公爵家の居城というには質素で、しかし堅牢な石造りの館だ。広い中庭には雑草が伸び、使用人の姿はまばらだった。人手が足りていないことは、門をくぐった瞬間にわかる。


イレーネは領兵に先導され、ルッツとともに応接間に通された。


部屋は広かったが、調度品は最低限しかない。暖炉には火が入っておらず、石壁の冷気がそのまま室内に満ちている。窓から差し込む灰色の光だけが、部屋を照らしていた。


イレーネは鞄を膝の上に置き、背筋を伸ばした。 ルッツは半歩後ろに立ち、手を前で組んでいる。


足音が聞こえた。


重い、不規則な足音。それと、革靴が石の床を踏む軽い足音が一つ。


扉が開いた。


最初に入ってきたのは、三十代半ばの男だった。短く刈り込んだ髪、引き締まった体躯。腰に剣を帯び、目つきは鋭い。イレーネとルッツを一瞥し、扉の横に立った。領兵隊長フリードリヒだと、直感でわかった。


続いて入ってきた男を見て、イレーネは息を呑みかけた。


長身。広い肩。しかし左の袖は、肘の下から空だった。留め具で袖口が折りたたまれ、腕がないことを隠そうともしていない。


顔は精悍という一言では足りなかった。戦場で削ぎ落とされた余分のない造作。濃い眉の下の目は、暖炉の消えた部屋よりなお冷たい。


ヴァルター・フォン・ヴィントシュタット。


イレーネは即座に立ち上がり、深く頭を下げた。ルッツはさらに深く、腰を折った。


「お呼びいただき、ありがとうございます。公爵閣下」


ヴァルターは返答しなかった。


長椅子ではなく、窓際の木椅子に腰を下ろした。右手で膝を叩く仕草を一度だけして、イレーネを見た。


「座れ」


一語。 イレーネは長椅子に腰を下ろした。ルッツは立ったまま、半歩後ろに控えた。


「お前が、町で帳簿を直して回っている追放者か」


「はい。イレーネ・カルステッドと申します」


「誰の許可を得た」


声に怒気はない。しかし問い詰めている。


「許可はいただいておりません。町の商店主から個別に依頼を受け、帳簿の整理をお手伝いしていただけです」


「領地の経済情報を調べ回ることが、帳簿の手伝いか」


イレーネは目を逸らさなかった。 公爵の視線は重い。王太子のような権威の押しつけではなく、戦場で培われた実質的な圧だった。


フリードリヒが口を開いた。


「閣下、追放者を応接間に通すこと自体、自分は反対です。身元も目的も不確かな人間に、領地の情報を——」


「フリードリヒ、黙れ」


ヴァルターの一言で、フリードリヒは口を閉じた。不服が顔に滲んでいたが、それ以上は何も言わなかった。


ヴァルターの視線がイレーネに戻った。


「なぜ追放者が、他人の領地の帳簿に首を突っ込む」


イレーネは一拍置いた。


ここが分岐点だと、前世の交渉経験が告げていた。感情に訴えれば「追放者の身の上話」で終わる。同情を引けば「売り込み」と見なされる。


数字で語る。それしかない。


「公爵閣下。ご無礼を承知で申し上げます」


イレーネは鞄から帳簿用紙を取り出し、膝の上で広げた。


「この辺境領の財政は、失礼ながら深刻な状態にあります。町で得た情報だけでも、税収の不均衡、交易路の断絶、若年層の流出——これらが複合的に作用し、領地全体の経済循環が停止しています」


紙の上の数字を、一つずつ示した。小麦の取引量と実消費量の乖離。中間業者による買い叩きの推定額。町の空き家率から推算した人口減少の速度。


「概算ではありますが、現状のまま推移すれば、三年以内に領地の税収は維持費を下回ります」


部屋が静まった。


フリードリヒの目が細くなった。ルッツは息を殺している。


ヴァルターは、イレーネの帳簿用紙を見つめていた。


「……その数字は正確か」


「町で得られる範囲の情報に基づく概算です。領地全体の帳簿を拝見できれば、より正確な診断が可能です」


「診断、と来たか」


ヴァルターの口元が、微かに動いた。笑みではない。何かを噛み締めるような表情だった。


「なぜ追放者が、そこまでやる」


同じ問いだった。しかし声色が違った。最初の詰問ではなく、純粋な疑問が混じっている。


「仕組みが壊れているのを見過ごせない性分です」


イレーネは淡々と答えた。


ヴァルターは沈黙した。


長い沈黙だった。暖炉のない部屋に、雨の音だけが響いている。


フリードリヒが再び口を開きかけた。ヴァルターが右手を挙げて制した。


「一ヶ月だけ試す」


ヴァルターは立ち上がった。


「領地の帳簿を閲覧することを許可する。ただし条件がある。一ヶ月で結果を示せ。示せなければ、領地から出ていけ」


「承知いたしました」


イレーネは立ち上がり、深く頭を下げた。


「閣下」


フリードリヒの声が硬い。


「主君の決定に異論を挟むつもりはありません。しかし、この者の身辺については自分が監視させていただきます」


「好きにしろ」


ヴァルターはそれだけ言って、応接間を出ていった。片腕の不均衡な歩き方が、石の廊下に遠ざかっていく。


フリードリヒはイレーネとルッツを交互に見た。


「一ヶ月だ。それ以上は、ない」


そう言い残して、主君の後を追った。


応接間に二人だけが残された。


ルッツが大きく息を吐いた。


「……生きた心地がしませんでした」


「よく黙っていてくれました。助かりました」


イレーネは帳簿用紙を鞄に戻しながら、内心を整理した。


ヴァルターの目。 あの目には嘘がなかった。怒りも、侮蔑も、同情もなかった。ただ「使えるか使えないか」を見定める目だった。


前世の取引先にも、ああいう目をする経営者がいた。数字で語れば聞く。数字が嘘なら切る。単純で、だからこそ信用できる。


「イレーネ様」


「なに」


「公爵閣下の目、怖くありませんでしたか」


「怖くはなかったわ」


嘘ではない。怖くはなかった。 ただ——あの人は、怯えなかった自分を見て、少しだけ引っかかった顔をしていた。追放者が公爵の前で臆さず数字を並べること。それが想定外だったのだろう。


互いに相手を道具として見定めた、冷徹な出会い。 それでいい。感情は要らない。契約と実績だけが、この世界で追放者に許された武器だ。


「ルッツ、明日から帳簿の閲覧に入ります。準備を」


「はい、イレーネ様」


イレーネは応接間の窓から外を見た。雨はまだ続いている。手入れの行き届かない中庭の雑草が、灰色の雨に打たれて揺れていた。


この館も、仕組みが壊れている。 帳簿を見れば、もっとはっきりするだろう。


——そしてイレーネの予感は、翌日、帳簿を開いた瞬間に確信に変わることになる。帳簿の欠落は、杜撰さではなかった。ページが意図的に抜き取られていた。誰かが、この領地の金を抜いている。

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