第2話「忠義と算盤」
「イレーネ様、起きていらっしゃいますか」
扉の向こうから聞こえたルッツの声で、イレーネは帳簿用紙から顔を上げた。窓の外はまだ薄暗い。昨夜、ルッツが到着してからほとんど眠っていなかった。彼が持参した取引先一覧の写しを、一頁ずつ読み込んでいたからだ。
「開いていますよ」
ルッツが入ってきた。昨夜の旅塵はきれいに落とされていたが、目の下に濃い隈が残っている。彼もまた、ろくに眠れなかったのだろう。
「まず聞かせてください。伯爵家を辞めた経緯を」
イレーネは椅子を引いてルッツに座るよう示した。自分は寝台の端に腰を下ろし、帳簿用紙を膝の上に置いた。
ルッツは姿勢を正し、膝の上で拳を握った。
「イレーネ様が追放されてから、伯爵家の事務は一週間で止まりました」
淡々と、しかし早口で語り始める。
イレーネが伯爵令嬢時代に整備した事務手順を、他の事務官は誰も引き継げなかった。帳簿の体系を理解している者がいない。取引先との書簡のやり取りも滞った。伯爵家はイレーネの追放後、社交界での立場を大幅に弱めており、娘を庇わなかった家として他家からの信用も揺らいでいるという。
「僕は——自分は、伯爵家に残る理由がなくなりました」
「理由がなくなった、ではないでしょう」
イレーネは静かに言った。
「あなたは怒っているのよ、ルッツ。伯爵家が私を見捨てたことに」
ルッツの拳が、膝の上で白くなった。
「……はい」
一言だけ答えて、俯いた。
イレーネはしばらくルッツを見つめた。 孤児だった彼を見出し、読み書きと算術を教えたのは自分だ。伯爵家の事務官として雇い、仕事を与えた。その恩義でここまで来たのだということは、わかっている。
わかっているからこそ、簡単には受け入れられない。
「ルッツ、あなたがここにいれば、伯爵家からは裏切り者と見なされます。追放者に従う平民という立場が、あなたにどれほど不利か——」
「存じております」
ルッツは顔を上げた。
「それでも僕は、イレーネ様のもとで働きたいのです。伯爵家のためではなく、自分の意思で」
前世の記憶が、イレーネの胸の奥を刺した。
人に頼ること。誰かと一緒に働くこと。 二十年連れ添った夫に裏切られて以来、それを避けてきた。仕事は一人でもできる。一人のほうが、裏切られない。
けれど。
イレーネの視線は、ルッツが昨夜持参した革鞄に向かった。寝台の脇に置かれたそれは、まだ口が開いたままだ。中から取り出した取引先一覧の写しが、帳簿用紙の横に並んでいる。
あの一冊があれば、辺境の再建に道筋が描ける。 そしてその道筋を実務として動かすには、自分一人では手が足りない。
性分が、感情に勝った。
「……では、対等な協力者として迎えます。元主人と元部下ではなく」
「イレーネ様」
「ただし、条件があります。無理だと思ったら、いつでも離れなさい。私はあなたを縛りません」
ルッツは深く頭を下げた。
「はい。——ありがとうございます」
イレーネは立ち上がり、帳簿用紙と取引先一覧を部屋の小さな机に並べた。
「では、最初の仕事です。この町の収支概算を作ります」
宿の食堂を借りて、二人は作業を始めた。
ヘルマンは黙って食堂の隅のテーブルを空けてくれた。イレーネが帳簿を直してくれた借りが、まだ効いているらしい。
イレーネが数週間かけて集めた町の経済情報を、ルッツが帳簿用紙に書き写していく。イレーネが口頭で数字を読み上げ、ルッツがペンを走らせる。その速度と正確さは、伯爵家時代と変わらなかった。
「小麦の取引量、月あたり約三百袋。ただし実際に町内で消費されるのは二百袋程度。残りの百袋は——」
「中間業者が買い叩いて、他の町に流しています。僕が御者に聞いた限りでは、買い取り価格は相場の六割以下です」
「六割。それは流出ではなく搾取ね」
イレーネはペンを取り、紙の余白に計算を走らせた。
作業は午前いっぱいかかった。
昼過ぎ、食堂のテーブルに広げられた帳簿用紙を、二人で見下ろした。
「……イレーネ様、これは」
ルッツの声が震えていた。
数字が示しているのは、イレーネが予想した通りの構図だった。
この辺境は赤字ではない。 帳簿が存在しないために、富が流出しているのだ。
税の取り立ては不均衡で、裕福な地主が軽く、小さな商いの者が重い負担を背負っている。交易路の断絶により中間業者が価格を支配し、生産者は正当な利益を得られていない。そして何より、これらの数字を把握し管理する仕組みそのものが、存在していなかった。
「帳簿がないということは、誰も全体像を見ていないということです」
イレーネは紙の端に、短い一文を書き加えた。
問題の核心——管理体制の不在。
「赤字を埋めるのではなく、仕組みを作り直す。それがこの辺境に必要なことです」
「はい」
ルッツは大きく頷いた。ペンを握り直す手に、力がこもっている。
イレーネは自分の口元が緩みそうになるのを、意識して引き締めた。
また誰かと働いている。 数字を読み上げ、それを正確に書き取る人間がいる。 自分の言葉を理解し、意図を先読みして動く人間が、隣にいる。
前世の会社で、チームを率いていた頃の感覚だ。 経理部の部下たちと、決算期に缶コーヒーを片手に夜通し作業した、あの——。
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
同時に、冷たい声が頭の中で囁く。 この人を守れるだろうか。巻き込んでしまったのではないか。前世で誰かと歩くことを選んで、最後に残ったのは離婚届の一枚だけだった。
イレーネは帳簿用紙に目を戻した。 感傷に浸る時間はない。数字は待ってくれない。それも、前世から変わらない。
それから数日が経ち、さらに数週間が過ぎた。
イレーネとルッツは町の財政改善に着手した。まずはヘルマンの宿の帳簿を手本として整備し、それを見た近隣の商店主たちが一人、また一人と帳簿の相談に訪れるようになった。
「あの追放された貴族の娘、数字に滅法強いらしい」 「うちの帳簿も見てもらったが、三年分の誤りを半日で直しやがった」
噂は少しずつ広がった。
イレーネの名は、まだ好意とともに語られてはいない。追放者への警戒は根強く、帳簿を頼む者も「背に腹は代えられない」という顔で来る。それでも、結果が少しずつ積み上がっていた。
ある朝、ルッツが食堂に駆け込んできた。 顔が強張っている。
「イレーネ様、領主の館から使者が来ています」
食堂の入口に、革鎧を着た兵士が二人立っていた。腰に剣を佩き、胸元には公爵家の紋章が刺繍されている。
兵士の一人が、一歩前に出た。
「公爵閣下がお呼びだ。辺境の町で帳簿を直している元貴族——イレーネ・カルステッド」
呼び捨て。追放者に対する扱いとしては、当然のものだった。
イレーネは席を立ち、姿勢を正した。
「承知いたしました」
兵士たちに背を向けることなく、静かにルッツへ目配せした。
ルッツは小さく頷き、机の上に広げていた帳簿用紙を素早くまとめ始めた。
ヴァルター・フォン・ヴィントシュタット。 辺境領の領主にして、王国北方を守る公爵家の当主。かつて「氷の公爵」と恐れられた男。
その名前と噂だけは、イレーネも知っていた。
——壊れた仕組みの、さらに上。この辺境を統べる人間が、ようやく動いた。
イレーネは帳簿道具を鞄にまとめ、宿の外に出た。




