第10話「うちの夫人」
イレーネは荷馬車の幌に手を当て、積み荷の固定を確かめた。
交易路復活の第一便。三台の荷馬車が、館の前の広場に並んでいる。荷は辺境の特産品——羊毛、干し肉、薬草の束。中継拠点を経由して北方の交易都市まで運ばれ、帰路には鉄器と塩と布を積んで戻る予定だった。
朝の空気は冷たかった。秋が深まり、北方山岳の稜線には薄く雪が見えている。冬が来れば山岳ルートは閉鎖される。この第一便が冬前に往復を終えられるかどうかが、計画全体の試金石だった。
広場には領民たちが集まっていた。
半年前、この場所でイレーネが公爵夫人として紹介された時、彼らの顔は冷ややかだった。「追放者」「呪われた領地」という囁きが飛んでいた。
今日、囁きの中身は違っていた。
「うちの夫人が交易路を通したんだってな」 「税も楽になったし、あの方が来てからは帳簿もちゃんとしてる」 「本当に追放された人なのかい。大した方だよ」
イレーネの耳に届いていた。聞こえないふりはしなかった。しかし反応もしなかった。第一便が利益を出すまでは、何も確定していない。
マルグリットが荷馬車の横に立っていた。ギルドが運営する中継拠点の運用確認を自ら行うために、早朝から来ていた。
「準備は万全かい、公爵夫人」
「積み荷の確認は終わりました。中継拠点の人員配置はギルド長のほうで」
「当然さ。あたしの拠点で手落ちがあったら商人の名折れだよ」
マルグリットは腕を組み、荷馬車を睨むように見つめた。二十年間待ち続けた交易路の復活。その第一歩が、今日始まる。
イレーネは広場の正面に立った。
領民たちが自然と半円を作った。ルッツが資料を抱えて横に控え、フリードリヒが領兵を整列させている。グスタフたち元文官も、事務方として広場の隅に立っていた。
ヴァルターは、少し離れた場所にいた。館の入口の柱に寄りかかり、腕を—— 右腕を胸の前に当てている。空の左袖が風に揺れていた。
イレーネは声を張った。
「本日、ヴィントシュタット公爵領と辺境交易都市を結ぶ北方交易路の第一便を送り出します。この交易路は二十年間途絶えていました。復活に至ったのは、領民の皆様の協力と、ギルド長ホーエンフェルス殿の決断によるものです」
淡々とした口調だった。演説ではなく報告だった。数字で語る女が、感情で飾るはずがない。
「交易路が安定すれば、この領地に新しい物資と仕事が生まれます。第一便の成功をもって、次の計画に進みます」
短い挨拶だった。拍手はなかった。辺境の領民は、言葉より結果で判断する人間たちだ。
荷馬車の御者たちが手綱を取った。出発の準備が整った。
その時、前列にいた老婆が一歩前に出た。
腰の曲がった小さな女だった。広場の誰もが知っている、町で一番古い雑貨屋の主人だった。
老婆はイレーネの前に立ち、深く頭を下げた。
「夫人、ありがとうございます」
イレーネの口が開き、そして閉じた。
前世で、こんなことは一度もなかった。経理部長として決算を締め、予算を通し、会社の数字を守った。感謝されたことはない。経理は嫌われる仕事だ。正しいことをしても、褒められるものではない。
だから——。
「自分の仕事が、誰かの生活を直接変えた」という実感が、胸に刺さった。前世の二十年間で得られなかったものが、今、この辺境の老婆の一言に詰まっていた。
言葉が、詰まった。
一瞬だけ。
イレーネは息を吸い、立て直した。
「感謝は第一便が利益を出してからで結構です」
老婆は顔をくしゃくしゃにして笑った。周囲の領民たちからも、小さな笑いが漏れた。
荷馬車が動き出した。車輪が石畳を軋ませ、三台の馬車がゆっくりと広場を出ていく。御者が手を振り、領民の何人かが手を振り返した。
交易路復活の第一便が、北方へ向かって走り出した。
式の後、人が散り始めた広場で、ヴァルターがイレーネに近づいた。
柱から離れ、数歩。イレーネの横に立った。
「よくやった」
短い一言だった。
イレーネは前を向いたまま答えた。
「契約の範囲内です」
ヴァルターは黙った。
「……そうか」
背を向けた。館に戻ろうとする。
その耳が、赤かった。
秋の冷たい風のせいだと言えなくもない。しかしその赤みは、耳の先端だけに集中していた。
イレーネは気づかなかった。
ルッツだけが気づいていた。主君の耳の赤みを目にして、ルッツは一瞬だけ複雑な顔をし、それからすぐに視線を帳簿資料に戻した。
夕刻。
エーデルガルトがイレーネの執務室を訪ねてきた。
手に、一冊の帳簿を持っていた。
革の装丁。表紙にはヴィントシュタット公爵家の家紋が型押しされている。新品だった。
「これを」
エーデルガルトはイレーネの机の上に、帳簿を置いた。
「先代夫人、これは」
「公爵家の正式な帳簿用紙よ。家紋入りの。これまであなたが使っていたのは、私物の帳簿用紙でしょう?」
イレーネは帳簿を手に取った。革の手触りが滑らかだった。ページを開くと、罫線の引かれた上質な紙が並んでいる。一枚目の右上に、公爵家の家紋が刷られていた。
「これはもう、あなたの領地の帳簿ですよ」
エーデルガルトの声は穏やかだった。値踏みの色は、とうに消えている。
イレーネは帳簿を胸の前に抱えた。
「……ありがとうございます」
声が震えなかったのは、意地だった。
エーデルガルトは微笑んで、部屋を出ていった。
一人になった執務室で、イレーネは家紋入りの帳簿を机に置いた。
居場所は与えられるものではなく、自分で作るもの。
それが、追放されてからずっと自分に言い聞かせてきた言葉だった。前世でもそうだった。離婚後、一人で仕事を続けて、自分の居場所を自分で確保した。誰にも頼らず、誰にも依存せず。
けれど——。
この帳簿を手にした時の震えは、「自分で作った」からではない。
「受け入れられた」からだ。
エーデルガルトが認めてくれた。フリードリヒが認めてくれた。領民たちが「うちの夫人」と呼んでくれた。マルグリットが手を握ってくれた。ルッツが最初から隣にいてくれた。
そしてヴァルターが——「よくやった」と言ってくれた。
自分で作った居場所に、誰かが入ってきた。 それを受け入れることの怖さと、温かさが、同時にある。
イレーネは帳簿を開き、最初のページにペンを走らせた。
ヴィントシュタット公爵領・財政管理簿——第一号。
日付を記入した。ペンは、もう震えていなかった。
翌朝。
フリードリヒが執務室に駆け込んできた。
「公爵夫人、閣下に報告が入りました。二件です」
イレーネはペンを置いた。
「一件目。王都からの通信です。王太子殿下の政務停滞が深刻化し、国王陛下が直接介入を始められたとのこと。王都の行政機能が混乱しているという情報が、複数の筋から入っています」
王太子がイレーネを追放し、有能な人材を次々と更迭した結果が、ようやく表面化した。捨てた人材の価値に気づかないまま、王都は自らの機能を失い始めている。
「二件目」
フリードリヒは一枚の書簡を差し出した。
「横領犯ディートリヒ・グラーフが、王都で捕縛されたとの報せです。公爵家から王家司法機関へ提出した引き渡し要請に基づき、司法官が身柄を確保したと」
イレーネは書簡を受け取った。
帳簿の不正を暴き、証拠を整理し、ヴァルターが引き渡し要請を出したのは数ヶ月前のことだった。法と手続きに基づいた追跡が、ようやく実を結んだ。
「閣下にお伝えください。引き渡し後の処分手続きについて、準備を始めます」
「了解しました」
フリードリヒが退室した後、イレーネは窓の外を見た。
辺境の空は広い。北方の山並みには雪が増え、冬の到来が近い。冬季の山岳ルート閉鎖に備えた代替輸送計画は、既に書き上げてある。
やるべきことは、まだ山のようにあった。
イレーネは家紋入りの帳簿を開き、次のページに移った。
辺境はこれから、さらに注目を集めることになる。王都の混乱。横領犯の処罰。交易路の復活。すべてが、この小さな領地に目を向けさせるだろう。
けれど——それは明日の話だ。
今日の仕事を、今日のうちに。
ペンが紙の上を走る音だけが、執務室に響いていた。
(完)
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