第1話「壊れた帳簿」
壊れた仕組みを見ると、手が動く。これはもう、性分だ。
イレーネは宿の狭い一室で目を開けた。 天井の木目は、もう数えるほど見慣れている。追放から数週間。最初の頃は毎朝、目覚めるたびに前世の自分のマンションの天井と混同した。今はもう間違えない。
ここは辺境の町の安宿で、自分は十七歳の体を持つ四十二歳で、王太子に追放された元伯爵令嬢だ。
身を起こすと、寝台の横に置いた荷物が目に入る。 着替えが二着。最低限の日用品。そして、伯爵家から持ち出した自分の私物——帳簿道具一式。羽根ペン、インク壺、未使用の帳簿用紙の束。 これだけが、前の人生から持ち越した武器だった。
窓の外から荷車の軋む音が聞こえる。
イレーネは寝台を降り、顔を洗い、髪を簡素に結った。伯爵令嬢時代なら侍女が三人がかりで仕上げていた身支度を、今は一人で五分もかからず済ませる。前世では当たり前だったことが、この世界の貴族にとってはそうではない。そんなことにも、もう慣れた。
宿の一階に降りると、主人がカウンターの向こうで帳簿らしきものを睨んでいた。 五十がらみの痩せた男で、名をヘルマンという。イレーネが宿代を前払いした時も、釣り銭を渡す手つきに露骨な嫌悪が混じっていた。追放された貴族。この町では、それだけで厄介者の烙印を押される。
「おはようございます、ヘルマンさん」
「……ああ」
目も合わせない。イレーネは気にしなかった。前世で二十年勤めた会社でも、経理部は営業から嫌われる部署だった。数字を突きつける人間は、どの世界でも歓迎されない。
宿の仕事を手伝うようになったのは、宿代の節約が目的だった。皿を洗い、床を掃き、客室の寝具を整える。その合間に、町の人間と言葉を交わす。宿に泊まる行商人。荷を運ぶ馬車の御者。井戸端で話し込む主婦たち。
イレーネは聞いた話をすべて数字に置き換えた。 小麦の価格。一日の来客数。荷馬車が通る頻度。町の人口。空き家の数。 前世の癖だ。耳に入る情報を、自動的に帳簿の項目に分類してしまう。経理部長を十五年やった人間の職業病と言ってもいい。
数週間かけて集めた情報を、イレーネは昨夜ようやく一覧にまとめ終えた。 その紙を、今朝もう一度広げる。
宿の食堂の隅。朝食の客がまばらな時間帯。 イレーネは自分の帳簿用紙に目を落としながら、薄いスープを啜った。スープの味は薄い。だが文句を言える立場ではない。
数字を眺める。 この町の経済は、一言で言えば「血の巡りが止まっている」状態だった。
人がいないわけではない。 土地が痩せているわけでもない。 なのに金が回らない。税の取り立ては不均衡で、交易路は二十年前の戦乱以来断絶したまま。働き手はいるのに、仕事の仕組みが壊れている。
前世の自分なら、こう診断する。 ——Loss(損失)ではなくsystem failure(構造障害)。赤字の原因は売上不足ではなく、管理体制の崩壊。
もちろん、この世界にそんな言葉はない。
「……仕組みが壊れている」
小さく呟いて、ペンを取った。
「ちょっと、あんた」
顔を上げると、ヘルマンがカウンターからこちらを見ていた。腕を組み、眉間に皺を寄せている。
「朝っぱらから何をごそごそやってるんだ。うちは宿であって、貴族様の書斎じゃないんだが」
「申し訳ありません。場所をお借りしています」
「……宿代は前払いで貰ってるから文句は言わんが、他の客が気味悪がるんだよ。追放された貴族が帳簿を広げてるなんて、まともな光景じゃない」
イレーネはペンを置いた。 反論はしない。ヘルマンの言葉には理がある。追放者が帳簿を弄る姿は、この世界の常識では異様だ。
だが——。
「ヘルマンさん、一つお聞きしてもよろしいですか」
「なんだ」
「そちらの帳簿、三頁目の合計が合っていません。繰越金額が二ヶ月前から三十デニール多いまま放置されています」
ヘルマンの顔が凍りついた。
イレーネは立ち上がり、カウンターに歩み寄った。ヘルマンが握り締めていた帳簿を、相手の許可を待ってから覗き込む。
「ここです。この月の支出合計を繰り越す際に、前月の宿泊収入を二重に計上しています。おそらく書き写す際の転記ミスかと。それと、こちらの仕入れ記録ですが、麦酒の単価が季節で変動しているのに、年間を通じて同じ単価で計算されています」
指先で数字を追いながら、淡々と説明する。
ヘルマンは黙ったまま、イレーネの指が示す箇所を見つめていた。
「……直せるのか」
「お許しいただければ」
ヘルマンは帳簿をイレーネの前に押し出した。 無言の許可だった。
イレーネは自分の羽根ペンを取り、修正を始めた。正しい数字を書き入れ、繰越金額を遡って訂正し、季節変動を反映した単価表を帳簿の余白に簡潔に記した。
作業は十五分ほどで終わった。
「……本当に合ってやがる」
ヘルマンは修正された帳簿を何度も見返し、それから長い溜息をついた。
「あんた、何者だ。いや、追放された伯爵の娘ってのは聞いてるが——帳簿なんぞ、貴族がやるもんじゃないだろう」
「性分です」
それ以上の説明はしなかった。前世で経理部長だったとは言えない。この世界の言葉に置き換えるなら、「数字を見ると気になる質でして」——それだけだ。
ヘルマンはしばらくイレーネを見つめてから、ぼそりと口を開いた。
「……この町はな、二十年前はもっとましだった」
「交易路があった頃、ですか」
「知ってるのか」
「荷馬車の御者に聞きました。北方への街道が戦乱で断たれてから、商人が来なくなったと」
「それだけじゃねえよ」
ヘルマンはカウンターに肘をつき、声を落とした。
「税の取り立てがでたらめなんだ。金のある地主は軽く済ませて、うちみたいな小商いが重い分を背負わされてる。領主様に訴えたって、あの方は——」
言いかけて、口をつぐんだ。領主、つまり公爵への批判は、平民の立場では容易に口にできない。
「お気持ちはわかります。続きは、お聞かせいただける範囲で結構です」
ヘルマンは警戒の目を緩めはしなかった。だが、帳簿を直してもらった借りがある。それが彼の中で、追放者への嫌悪と天秤にかかっているのが見えた。
「……働き手もな、若いのがどんどん出ていく。この町じゃ食えないってんで。残ったのは年寄りと、行き場のない連中だけだ」
イレーネは頷きながら、頭の中で情報を整理した。
税の不均衡。交易路の断絶。若年層の流出。 どれも単独の問題ではない。すべてが繋がっている。
この町は——この辺境は、「人がいないから衰退した」のではない。 「仕組みが壊れているから、人がいても回らない」のだ。
前世の経験が、確信を裏打ちする。 何百社もの帳簿を見てきた。倒産寸前の会社に共通するのは、売上の問題ではなく管理の問題だった。金の流れが見えなくなった組織は、どれだけ人がいても機能しない。
「ヘルマンさん。ありがとうございます」
「……礼を言われるようなことは話してねえよ」
「いいえ。十分です」
イレーネは自分の席に戻り、帳簿用紙に新しい見出しを書いた。
辺境領・財政概況——仮。
二度目の人生に興味はなかった。 恋もいらない。名誉も地位も、一度目で懲りている。
けれど、壊れた仕組みを前にすると手が動く。 数字の狂いを見つけると、直さずにはいられない。
これは性分だ。前世でも今世でも、たぶん来世があっても変わらない。
ペンを走らせながら、イレーネは自分の口元が微かに緩んでいることに気づいた。
夕刻。 宿の裏口から、人の気配がした。
ヘルマンが顔をしかめて裏口を開けると、息を切らした若い男が立っていた。旅塵にまみれ、肩で息をしている。背には大きな革鞄を背負い、その重みに膝が震えていた。
男はヘルマンの肩越しに食堂の奥を見た。 そこに座っているイレーネの姿を認めた瞬間、泥だらけの顔がくしゃりと歪んだ。
「——お待たせしました、イレーネ様」
ルッツ・ベーレン。 かつてイレーネが伯爵令嬢だった頃に才能を見出し、読み書きと算術を教え、事務官として雇った青年。
イレーネは立ち上がった。 驚きを、一拍置いて飲み込んだ。
「……ルッツ。なぜ、あなたがここに」
「伯爵家を辞めました。自分の意思で」
ルッツは背の革鞄を下ろした。中から取り出したのは、帳簿資料の束と、一冊の使い込まれた冊子。
「イレーネ様の私物です。帳簿の補助資料と——伯爵家時代の取引先一覧の写しです。お役に立つと思いまして」
イレーネはその冊子を受け取った。 ページを開く。伯爵家が取引していた商会、物資の仕入先、輸送業者の一覧。自分が在籍していた頃に整理したものを、ルッツが丁寧に写し取っている。
指先が、微かに震えた。
この一冊があれば——辺境の再建に、具体的な道筋が描ける。
「ルッツ」
「はい」
「あなたまで追放者の烙印を背負う必要はありません」
ルッツは姿勢を正し、真っ直ぐにイレーネを見た。
「僕の居場所は、イレーネ様の隣です。それは伯爵家にいた頃から変わりません」
イレーネは長い沈黙のあと、取引先一覧の冊子を胸元に引き寄せた。
「……では、明日から仕事です。早く休みなさい」
「はい、イレーネ様」
ルッツの顔に、安堵が広がった。
ヘルマンが呆れたように首を振りながら、もう一部屋の鍵をカウンターに置いた。
イレーネは自分の席に戻り、取引先一覧を帳簿用紙の横に並べた。
二度目の人生に興味はない。 けれど、壊れた仕組みを見ると手が動く。 これは性分だ。
——そして今、その手を動かすための道具が揃った。




