⑱旅の始まり ― 公爵家の秘密
朝の光が、公爵家の回廊を静かに照らしていた。
メデルは、小さな手を握りながら、そっと空を見上げた。
「カーロ、行こう。風さんも、森も、待ってる。」
彼の隣には、ブランデット――“デットお兄様”が立っていた。
その瞳は、いつもより少しだけ強く、そして優しく輝いていた。
「メデル……本当に、行くんだね。」
「うん。カーロが帰る場所、ちゃんと届けたい。お兄様も一緒に。」
ブランデットは、静かに頷いた。
彼の胸には、カーロの気配が宿っている。
あと二年――それまでに精霊の森へ還らなければ、彼の人格は崩れてしまう。
それは、誰にも言えないほどの恐怖だった。
けれど、メデルはそれを知っていた。
そして、迷わず手を伸ばした。
「お兄様、怖くても、メデルがいるから大丈夫だよ。」
「……ありがとう、メデル。君がいるなら、僕は歩ける・・・お父様達と話そう。」
公爵家の中庭。
風が静かに通り抜けていく。
ブランデットとメデルは、小さな足で石畳を踏みしめながら、家族の前に立った。
「私とメデルは旅に出ます」
「メデル、旅に出たいの。」
その言葉に、家族は一瞬だけ静まり返った。
「カーロを、精霊の森に返したい。お兄様の中にいるから……メデル、届けたいの。」
父コクベックは、腕を組んでブランデットとメデルを見つめた。
「まだ出るわけじゃないんだな?」
「はい。」
「うん。でも、行くって決めたの。準備するの。勉強もするの。」
母マルタは、そっと膝をついてメデルの目線に合わせた。
「怖くないの?」
「ちょっとだけ。でも、風さんがいるし、お兄様も一緒だし……フーマさんもいる!」
父コクベックは呟いた。
「フーマ……銀狼の獣人か。帝国一のAランクギルド……確かに、信頼できる。」
メデルは、父の手をぎゅっと握った。
「お父様が守ってる結界、すごいって思う。でも、メデルも守りたい。カーロの約束、守りたい。」
コクベックは、メデルの手を見つめ、静かに膝をついた。
「メデル。お前は、まだ小さい。でも……その心は、誰よりも大きい。」
彼は、メデルの額にそっと手を当てた。
魔力が、優しく流れ込む。
「これは、父からの加護だ。旅の間、風が君を守るように。」
「……ありがとう、お父様!」
「ただし、約束だ。無理はしない。必ず、帰ってくること。」
「うん!絶対帰ってくる!お土産も持ってくる!」
コクベックは、笑いながらメデルの頭を撫でた。
「お前が帰ってくるまで、父はこの帝国を守り続ける。だから、安心して行ってこい。」
その言葉に、メデルは胸を張って頷いた。
兄ヴェルメールは、剣の柄に手を添えながら、少しだけ目を伏せた。
「ブランデット、メデル……行くって決めたなら、僕たちは応援する。今は、君達の剣になれないけど……心は一緒だ。」
姉エリザマールは、ブランデットとメデルを見て、眉をひそめた。
「まだ早いわよ。でも……準備するなら、ちゃんと教えるからね。旅の服、剣の持ち方、地図の読み方!」
弟ハクリスとココリスは、魔力安定の石を手渡しながら言った。
「これ、持ってて。揺れたら握って。落ち着くから。」
ミディットレースは、絵本を抱えて走ってきた。
「ブランデット、メデル、旅の前に読んで!兄弟みんなの絵、描いたから!」
ブランデットとメデルは、家族の言葉をひとつひとつ胸に刻みながら、静かに頷いた。
「メデル、まだ行かない。でも、行くって決めたの。だから、準備するの。ちゃんと、全部。」
風が、ブランデットとメデルの髪をそっと撫でて通り過ぎる。
その風は、まだ遠くの森の匂いを運んではこなかった。
でも、ブランデットとメデルの心には、もう旅の地図が描かれ始めていた。
公爵家の書斎。
重厚な扉の向こうで、スワロ公爵は、書類に目を通していた。
その背に、静かに声が届く。
「伯父様……メデルと、旅に出たいの。」
コルベックは、手を止めて振り返った。
そこには、ブランデットとメデルが並んで立っていた。
二人の瞳は、幼いながらも揺るぎない光を宿していた。
「旅に……精霊の森へ?」
「はい。カーロを、帰さなきゃいけないんです。」
「お兄様の中にいるから……メデル、届けたいの。」
コルベックは、しばらく黙って二人を見つめた。
その瞳には、深い葛藤が浮かんでいた。
「お前たちは……まだ幼い。メデルは三歳、ブランデットは五歳。旅は、遊びではない。命を賭けることもある。」
「わかってます。でも、メデルは風さんと話せる。お兄様も一緒だし……フーマさんもいます!」
「銀狼のフーマか……確かに、帝国一の実力者だ。だが……」
コルベックは、机の上の古い地図に目を落とした。
その地図には、精霊の森までの険しい道が刻まれていた。
「お前たちが行くには、あまりにも遠く、あまりにも危険だ。私は、公爵として、帝国を守る責務がある。だから、同行はできない。
だが……伯父としては、止めたい。心から、止めたい。」
メデルは、コルベックの前に一歩進み、小さな手を差し出した。
「でも……メデル、約束したの。カーロに。お兄様に。」
「……メデル。」
コルベックは、その手をそっと握り、深く息を吐いた。
「ならば、伯父として、できる限りの準備をさせてもらう。旅の装備、道の知識、精霊との契約の記録――すべて、君たちに託す。」
ブランデットは、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます、伯父様。僕たち、必ず帰ってきます。」
コルベックは、二人の頭に手を置き、静かに言った。
「帰ってこい。必ず。この家は、君たちの帰る場所だ。精霊の森の風が、君たちを導いてくれるように。」
その言葉に、メデルは胸を張って頷いた。
「うん!帰ってくる!お土産も持ってくる!」
コルベックは、微笑みながら目を細めた。
「その時は、また一緒に浮いて遊ぼうか。」
「えへへ、風さんも呼ぶね!」
公爵家の書斎。
重厚な扉の奥、静かな空気の中で、二人の男が向かい合っていた。
「……本気なのか、コクベック。」
スワロ公爵・コルベックの声は低く、しかし揺れていた。弟であるコクベックは、腕を組んで窓の外を見つめていた。その視線の先には、メデルとブランデットが並んで歩く姿があった。
「本気だ。メデルは、もう決めている。ブランデットも、彼に導かれている。」
コルベックは机に手を置き、静かに言った。
「まだ幼い。三歳と五歳だぞ。帝国の外は、理の揺らぎも魔物もある。お前は、父親として……本当に、行かせるつもりか?」
コクベックは、静かに目を閉じた。
「父としては、止めたい。抱きしめて、家に閉じ込めてしまいたい。でも、彼らはもう“理”を見ている。精霊の声を聞いている。それを、俺たちが止めることは……もうできない。」
コルベックは拳を握った。
「俺は、公爵として帝国を守る。だが、伯父としては……あの子たちを守りたい。メデルは、あまりにも純粋すぎる。ブランデットは、あまりにも優しすぎる。」
「だからこそ、彼らは行く。優しさは、理を癒す力になる。純粋さは、精霊と通じる鍵になる。」
コルベックはしばらく黙っていた。そして、静かに言った。
「……準備は、俺が整える。道具も、地図も、護符も。だが、約束してくれ。彼らが戻る場所を、俺たちが守り続けることを。」
コクベックは深く頷いた。
「それは、俺の誓いだ。彼らが帰るまで、帝国の理を守り続ける。」
二人の兄弟は、静かに手を重ねた。その手の中には、幼き者たちへの祈りと、未来への誓いが込められていた。
その後、コクベックはキルとバルグ――森のハイエルフ――に渡された古びた文書を机に広げていた。そこには、精霊との契約、先祖返り、そしてハイエルフの血に関する記録が記されている。
「……もう、隠しておくべき時ではないな。」
彼は静かに呟いた。
「子供たちの魔力の揺らぎも、聖獣との共鳴も、すべてが兆しだ。彼らは、感じ始めている。」
向かいの椅子に座るコルベックが頷く。
「ああ。特にヴェルメールとメデルは、もう“知っている”。ブランデットも……浮いている姿を見た時、私は確信したよ。彼らの中に、ハイエルフの記憶が目覚め始めている。」
コクベックは目を閉じ、深く息を吐いた。
「だが、二千年の命を持つ可能性があるということは、祝福であると同時に試練でもある。彼らがそれを受け止められるか……」
コルベックは暖炉の火に視線を落としながら、静かに語る。
「子供たちは強い。絆がある。君とマルタが育てた子たちだ。それに、私たちがいる。語るべきだよ。今夜、居間で。家族全員が揃っている今こそ。」
コクベックはしばらく黙っていたが、やがて深く頷いた。
「……わかった。語ろう。我が家の“光の記憶”を。そして、彼らが未来を照らす者であることを。」
コルベックは立ち上がり、書斎の扉に手をかけながら振り返る。
「兄さん、語る言葉は、彼らの心に灯をともすだろう。私も隣で支える。これは、我ら兄弟の誓いだ。」
暖炉の火がぱちりと音を立てた。二人の兄弟は、静かに歩き出す。語るべき時が、ついに訪れたのだった。
公爵家の秘密
公爵家の居間、重厚な木材と精霊の紋章が刻まれた柱に囲まれた広く温かな空間。中央には大きな暖炉があり、火が静かに揺れている。
壁には先祖の肖像画が並び、天井には精霊の星を模したランプが灯る。家族全員が円になって座り、毛布に包まれている。
マルタがハーブティーを配り、コクベックとコルベックが並んで座る。
暖炉の火がぱちりと音を立てる中、コクベックが静かに口を開いた。
「今夜は、君たちに大切な話をしようと思う。これは、我が家に流れる“光の記憶”についてだ。」
子供たちは静かに耳を傾ける。ヴェルメールは真剣な眼差しで、メデルはマルタの膝の上で小さく瞬きをした。
コルベックがゆっくりと立ち上がり、居間の壁に掛けられた古い肖像画を指差す。
「この家には、かつて“精霊と契約した者”がいた。彼らは、森と星と風と繋がり、世界の理を守っていた。その血は、時を越えて、必要な時に目覚める。
君たちが感じている魔力の揺らぎや、他の人とは違う感覚。それは“先祖返り”によるものだ。兄さんとお父さんの血に眠るハイエルフの力が、君たちに受け継がれている。
それは、帝国の均衡を守るために必要な力であり、同時に大きな責任でもある。君たちがその力をどう使うかで、未来が変わる。誇りを持って、自分の力と向き合ってほしい。」
コルベックが暖炉の前に立ち、炎を見つめながら語る。
「もう一つ、大切なことがある。君たちの中には、エルフの血が混じっている。エルフは、長く生きる種族だ。百年、二百年を越えても、若々しく生き続ける者もいる。」
ミディットレースが目を輝かせる。
「じゃあ、僕たちも長生きするの?」
コクベックが続ける。
「そして、君たちの中には――ヴェルメール、ハクリス、ミディットレース、ブランデット、メデル――特に強くその血が流れている。それは、ハイエルフの記憶だ。」
ハクリスが目を丸くする。
「ハイエルフって、すごく長生きするんだよね?」
コルベックが頷く。
「そうだ。ハイエルフの寿命は、二千年にも及ぶと言われている。それは、ただ長く生きるという意味ではない。コルベックは暖炉の火を見つめながら、静かに語り続けた。二千年の命は、世界の変化を見届ける命だ。
喜びも、悲しみも、幾千もの出会いと別れを経験する命。それは、ただ生きるだけではない。君たちが見つめる空も、歩く森も、やがて姿を変える。けれど、君たちの中にある“光”は、変わらずに誰かを照らし続ける。」
子供たちは言葉の重みを感じながら、静かに火の揺らぎを見つめていた。
「長く生きる者は、忘れてはならない。愛した人の声、失った日々の意味、そして今ここにある絆。それが、君たちの力になる。それが、二千年の命に宿る“記憶”なんだ。」
ミディットレースが小さな声で尋ねる。
「僕たち…ずっと生きるの?」
コクベックが優しく答える。
「可能性はある。だが、それは祝福であり、試練でもある。長く生きる者は、心を強く、優しく持たなければならない。だからこそ、君たちには“絆”が必要なんだ。」
ブランデットがそっと手を握る。「ぼく、みんなとずっと一緒にいたい。」
マルタが微笑みながら抱きしめる。
「その気持ちが、何より大切よ。長い命の中で、愛と絆を忘れなければ、君たちはきっと世界を照らす光になれる。」
メデルがぽつりと呟く。「メデル、光の種…ずっと咲く?」
コルベックが暖炉の火に手をかざしながら、静かに語る。
「そうだよ、メデル。君の中の光は、千年先も、二千年先も、誰かの心を癒す種になる。それが、君たちの使命であり、希望なんだ。」
子供たちはそれぞれの思いを胸に、静かに頷いた。その夜、彼らの夢には精霊たちが現れ、優しく語りかけたという。コルベックは暖炉の火に手をかざしながら、静かに呟いた。
「この子たちが、百年先の世界に希望を灯す者となる――それを信じている。」
公爵家・執事の間 深夜
静寂に包まれた公爵家の一角。執事の間には、古い木の机と銀のティーセットが並び、壁には歴代の執事たちの記録が整然と並んでいた。
リムリムマーズは、窓辺の椅子に腰掛け、夜空を見上げていた。彼の背筋は年齢を感じさせながらも、誇り高く伸びていた。
リバルセルマーズは、父の前に茶を差し出しながら、静かに言葉を紡いだ。
「語られました。“光の記憶”と“先祖返り”――公爵家の秘密が、ついに家族に。」
リムリムマーズは、茶を受け取り、ゆっくりと頷いた。
「公爵家が語る日を、私は待った。だが、語るべき時は、いつも子供たちが決める。メデル様とブランデット様が、扉を開いたのだ。
我らが仕える家は、ただの貴族ではない。精霊と契約した者の末裔。その血が、今また目覚めようとしている。」
リバルセルマーズは、父の言葉に深く頷いた。
「彼らは旅に出ると決めました。精霊の森へ、カーロ様を届けるために。三歳と五歳――あまりにも幼い。ですが、その瞳には、揺るぎない光がありました。」
リムリムマーズは、目を細める。
「その光こそが、我らが守るべきものだ。執事とは、命令に従う者ではない。記憶を守り、灯を絶やさぬ者だ。」
「……父上。私たちは、何を守るべきでしょうか。」
リムリムマーズは、静かに立ち上がり、壁に掛けられた古い紋章に手を添えた。
「この家の“理”だ。精霊と契約した者の誓い。二千年の命を持つ可能性を秘めた子供たちが、世界を照らす光となる。その光が迷わぬよう、我々は道を整え、帰る場所を守る。」
リバルセルマーズは、深く頭を下げた。
「彼らが旅立つ日まで、私は準備を整えます。道具、記録、精霊との交信、そして……この家の温もりを。」
リムリムマーズは、息子の肩に手を置いた。
「よいか、セル。執事とは、見守る者であり、語り継ぐ者だ。彼らが帰ってきた時、我々が語るべきは“誇り”だ。彼らが誰であり、何を背負っていたか――それを忘れぬように。」
「はい。私は、語り継ぎます。彼らが歩んだ道と、帰る場所の意味を。」
リムリムマーズは、窓の外に目を向けた。風が静かに流れ、遠くの森の気配が揺れていた。
「風が動いた。精霊たちも、目覚めている。あの子たちの旅は、帝国の理を揺るがすだろう。だが、我々は揺るがぬ。それが、執事の誓いだ。」
二人の執事は、静かに茶を口にした。
リムリムマーズは、古い記録帳を開きながら、息子リバルセルマーズに語りかけていた。
「セル。お前に語っておかねばならぬ記憶がある。公爵家が語った“光の記憶”は、我ら執事にも刻まれている。」
リバルセルマーズは、父の前に膝をつき、記録帳の文字を見つめた。
「これは……先代の執事たちの記録?」
リムリムマーズは、ページをめくりながら頷いた。
「そうだ。この家が精霊と契約した時代から、我らはその契約を守る者として仕えてきた。語られぬ名も、記録されぬ命も、ここにある。」
彼は一枚の古い羊皮紙を取り出した。そこには、200年前の記録が記されていた。
「この者は、エルフィナ様。公爵家の分家に生まれ、精霊の声を聞いた少女。彼女は、理の乱れを癒すために旅に出た。我が曾祖父が、彼女の帰る場所を守った。」
リバルセルマーズは、静かに息を呑んだ。
「……彼女は、帰ってきたのですか?」
リムリムマーズは、目を閉じて答えた。
「人としてでは無いが帰ってきた。彼女の姿は変わっていた。精霊の加護を受け、命の流れを超えていた。だが、彼女は語った。“帰る場所があったから、私は戻れた”と。」
次の記録には、戦乱の時代に命を落とした少年の名が刻まれていた。
「この者は、レオル様。公爵家の遠縁にあたる者で、魔力の暴走に苦しんでいた。我ら執事は、彼の魔力を封じるために、夜通し祈りを捧げた。彼は短命だったが、その命は帝国の均衡を守った。」
リバルセルマーズは、記録帳に手を添えながら言った。
「彼らもまた、“光の記憶”を背負っていたのですね。」
リムリムマーズは、静かに頷いた。
「そうだ。そして今、メデル様とブランデット様が、その記憶を受け継いでいる。我々は、彼らの旅を見送るだけではない。彼らが帰る場所を、記憶と共に守るのだ。」
「父上……私は、語り継ぎます。彼らが歩む道と、過去に歩んだ者たちの記憶を。」
リムリムマーズは、息子の肩に手を置いた。
「それが、執事の誓いだ。命令に従うだけではない。記憶を守り、未来へ繋ぐ者。それが、我らの役目だ。」
窓の外、夜が明け始めていた。遠くの森に、精霊の気配が揺れていた。
執事の間には、過去と未来を繋ぐ静かな誓いが満ちていた。




