⑬約束――駄目な事
公爵家の朝――母マルタ
治療院に行く朝は、薬草の香りが風に乗って漂っていた。
マルタは白い衣を整えながら、まだ眠そうなメデルの髪を優しく撫でた。
「メデル、今日もお母さんと一緒に治療院に行くわよ。覚えてる?昨日言ったこと」
メデルはこくりと頷いたが、視線は窓の外の空に向いていた。
「風の精霊が…呼んでる気がするの…」
マルタは少しだけ眉を寄せたが、すぐに微笑んだ。
「空に話しかけちゃダメよ。土にもね。精霊は見えない人には見えないの。あなたが話すと、変な子だと思われてしまうのよ」
「でも、翠鳥さんが…昨日、庭で…」
「外では心の中でお話ししてね。声に出すと、周りが驚いてしまうから」
メデルはしょんぼりと肩を落とした。
「光っちゃダメ?魔力で覆うと、みんな安心するのに…」
「光るのも、今は我慢。魔力は必要な時だけ使うの。あなたの魔力はとても綺麗だけど、目立ちすぎると危ないのよ」
「じゃあ…消えるのもダメ?」
「もちろん。瞬間移動も移転も、今は絶対にしちゃダメ。外に出たら、戻れなくなるかもしれないわ」
メデルは小さく「うん…」と呟いた。
「それからね、魔力の綺麗な人がいても、ついて行っちゃダメよ。誰が善い人か、まだあなたにはわからないから」
「でも…昨日の人、すごく優しかった…」
「優しさと安全は違うの。お母さんか、グラウス師か、リュスクマテルテス神官か、兄姉たち以外には、ついて行かないって約束して」
メデルは指を折りながら、ひとつひとつ確認するように呟いた。
「浮かない。話しかけない。光らない。消えない。ついて行かない。寝ない…」
マルタは最後の言葉に笑った。
「そう、処構わず寝ないこと。昨日、薬草棚の下で寝てたでしょう?あれは困るわ」
「だって…土が気持ちよかったんだもん…」
マルタはメデルを抱きしめた。
「あなたは特別。でも、特別だからこそ、守らなきゃいけないことがあるの。わかる?」
「うん…でも、ちょっとだけなら…」
「ちょっとだけなら、お母さんの手の中でね」
神殿の朝――リュスクマテルテス神官
マルタが治療院で忙しく働いている間、メデルは神殿の回廊で一人、石畳に座って空を見上げていた。風が髪を揺らし、彼の瞳は何かを探しているようだった。
「メデル様、風の精霊に話しかけているのですか。」
低く響く声に、メデルはびくりと肩をすくめた。振り返ると、リュスクマテルテス神官が静かに立っていた。白銀の髪を束ね、深い青の法衣をまとった彼は、いつも優しい表情で見守っている。
「ごめんなさい…でも、風の精霊が…呼んでる気がして…」
「風の精霊は噂好きです。語るのは、心を寄せたメデル様の心ですよ。風に話しかける前に、自分の心に問いかけてください」
メデルは小さく頷いたが、目を伏せたままだった。
「お母様には、話しかけちゃダメって言われたの…精霊が見えるのは変な子だって…」
リュスクマテルテスはしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「変であることを恐れないでください。ですが、己の力を過信してはいけません。力は誇示するものではなく、守るためにあるのです」
「でも…光るのも、消えるのも、ダメって…」
「そうですね。今はまだ、メデル様の力は不安定です。魔力で覆えば、人は怯えます。移転すれば、世界が乱れます。メデル様の魔力は美しいですが、今は制御されてこそ意味があると思われます。」
メデルは唇を噛んだ。
「魔力の綺麗な人がいたら…ついて行っちゃダメって言われた。昨日、庭にいた人…すごく優しかったのに…」
リュスクマテルテスの目が細くなった。
「優しさは仮面にもなりえます。魔力の輝きは、時に毒にもなります。メデル様が見抜けるようになるまで、誰にもついて行ってはなりません。」
「じゃあ…寝るのもダメ?」
リュスクマテルテスは困ったように笑った。
「処構わず寝ないでください。メデル様自然の中で眠ると、魔力が大地に流れ精霊が騒ぎます。昨日の薬草棚の下で眠った時の様に、幼い精霊が3体、騒いでいましたよ」
メデルは目を丸くした。
「見えたの?!」
「見えました…報告に幼い精霊がいました。ですが、彼らはメデル様を守るために騒いでいたのです。メデル様が無防備になると、彼らも心配するのですよ」
リュスクマテルテスは膝を折り、メデルと目線を合わせた。
「メデル様。貴方は聖女です。ですが、聖女である前に、ひとりの子供です。子供には守るべき枠があります。枠の中でこそ、子は力は育ちます。」
「枠の中…?」
「そうです。枠は檻ではなく。根ですね。(笑)。根がなければ、木は育ちません。メデル様の魔力も、心も、今は根を張る時ですよ。」
メデルはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「じゃあ…根っこになる。お母さんと、神官様と、兄姉たちと…一緒に」
リュスクマテルテスは微かに笑みを浮かべた。
「それで良い。今日も、枠の中で生きなさい。空も土も風の精霊も地の精霊も、いつかメデル様の言葉を待つ日が来ますよ。」
――精霊たちとのささやき
神殿の昼下がり
メデルは神殿の泉のそばに座っていた。風は穏やかで、木々の葉がささやくように揺れている。
メデルはそっと手を泉に浸し、目を閉じた。
「……翠鳥さん、いる?」
水面がふわりと揺れ、青い光がきらめいた。
すると、風の中から、かすかな声が聞こえてきた。
「メデル……また来てくれたの?」
声は少年のように澄んでいて、どこか懐かしい響きがあった。
メデルは目を開け、泉の上に浮かぶ小さな光の粒に向かって囁いた。
「ねえ……僕、男の子だよ?どうして、僕のこと“聖女”って呼ぶの?聖女って、女の子でしょ?……僕、聖女って呼ばれるの、ちょっといやなんだ」
光の粒はくるくると回りながら、優しく答えた。
「“聖女”って言葉は、人の世界の呼び方だよ。僕たち精霊にとっては、性別よりも“心の光”が大事なんだ。メデルの心は、すごく澄んでて、あったかい。だから、みんなが“聖女”って呼びたくなるのかも」
「でも……僕は“聖男”じゃダメなの?」
すると、土の精霊がひょっこり現れ、もこもことした姿で笑った。
「“聖男”って言葉、ちょっと硬いよね。メデルはメデル。それでいいんだよ。名前の中に、もう“光”があるじゃないか」
「……名前の中に?」
「“メデル”って、“いとおしい”って意味もあるでしょ?精霊たちは、君の名前を聞くだけで、心がふわっとなるんだよ」
メデルは少し考えてから、泉の水面に向かって言った。
「じゃあ……“聖女”って呼ばれたら、訂正してもいい?」
風の精霊がくるくると回りながら笑った。
「もちろん。“僕は聖女じゃないよ。メデルだよ”って、言っていいんだよ。それが、メデルの心の声なら、ちゃんと伝えてあげて、違和感を持つのは大事。
それは、自分の心が育ってる証拠だから。メデルが“僕は僕”って思えるなら、それが一番強い魔法になるよ」
土の精霊がうなずいた。
「それにね、メデルが“いや”って思うことを、ちゃんと口にできるのは、すごく大事なことなんだ。それが、根っこになるんだよ」
メデルは少し考えてから、にっこり笑った。
「じゃあ……僕は“メデル”でいい。聖女でも聖男でもなくて、“メデル”って呼んでほしいな」
精霊たちは一斉に光を放ち、泉の水面が虹色に揺れた。
「うん、メデル。それが一番素敵だよ」
虹色の光が泉の水面に揺れ、精霊たちが静かに集まっていた。風の精霊が空を舞い、土の精霊が根を張り、水の精霊が波紋を広げる。
その中心に、メデルが立っていた。
「メデル――君の名に祝福を」
翠鳥の精霊が、青い羽根の光をメデルの肩にそっと乗せる。
「君の心は澄んでいて、優しくて、強い。だから人は“聖女”と呼びたくなる。でも、君の声が届いたよ。君は“聖女”じゃない。“メデル”だ」
メデルは静かに、でもはっきりと口を開いた。
「僕、男の子。聖女にはならない。僕は“メデル”って名前で生きたい」
その言葉に、風がふわりと吹き抜け、精霊たちが一斉に光を放った。
泉の水面が高く跳ね、虹の輪が空へと広がっていく。
土の精霊が低く響く声で言った。
「その言葉が、君の根になる。誰かに呼ばれる名前じゃなく、自分で選んだ名前。それが、君の魔力の源になる」
水の精霊が優しく囁いた。
「“聖女”という言葉に縛られなくていい。君の魔力は、君の心から生まれる。“メデル”という名に、私たちは祝福を贈る」
風の精霊がくるくると回りながら、空へと舞い上がった。
「風は君の声を運ぶ。“僕はメデル”という言葉が、世界に届くように。誰かが間違えても、風がそっと訂正してくれるよ」
メデルは胸に手を当てて、深く息を吸った。
「ありがとう。僕は“メデル”。それだけで、十分だよ」
その瞬間、泉の水面に一羽の翠鳥が舞い降り、メデルの肩に止まった。
精霊たちは静かにその姿を見守りながら、風に乗って消えていった。
泉のそばには、虹色の光がしばらく残り、メデルの名を祝福するように揺れていた。
虹色の光が泉の水面に残る中、リュスクマテルテス神官は静かにその場に現れた。
彼は何も言わず、しばらく泉を見つめていた。風の精霊が彼の法衣を揺らし、土の精霊が足元に根を伸ばす。
メデルは少し緊張しながら、神官の顔を見上げた。
「……僕、“聖女”じゃない。男の子だよ。だから、“メデル”って呼んでほしい」
リュスクマテルテスはゆっくりと頷いた。
「その言葉を、精霊たちが祝福したのですね。ならば、我々もそれを尊重しましょう。“聖女”という呼び名は、古き記録に基づくもの。ですが、記録よりも、今ここにある心の声が大切です」
彼は泉の水を一滴すくい、メデルの額にそっと触れた。
「メデル様――そして一人の子として。君の名に、神殿の祝福を」
その言葉に、メデルはほっとしたように微笑んだ。
その頃、兄姉たちが泉の近くに駆け寄ってきた。
ヴェルメール、エリザマール、ハクリス、ココリス、ミディットレース、ブランデット――それぞれが、虹色の光に目を見張っていた。
「メデル、今の……精霊たちが祝福してたの?」と、ハクリスが驚いたように言った。
「うん……僕、“聖女”って呼ばれるの、ちょっといやだった。だから、“メデル”って呼んでほしいって言ったら、精霊たちが祝福してくれたの」
エリザマールが優しく笑った。
「そっか。じゃあ、これからは“メデル”って呼ぶね。うちの末っ子で、男の子の“メデル”」
ココリスが腕を組みながら、にやりと笑った。
「聖女って呼ばれたら、私が訂正してあげる。“メデルだよ”ってね」
ヴェルメールは静かに頷き、メデルの頭をぽんと撫でた。
「お前が自分の言葉で、自分を守った。それが一番大事なことだ。よく言ったな、メデル」
ミディットレースとブランデットは、泉の水面を覗き込みながら、虹色の光に手を伸ばしていた。
「メデルの名前、きれいだね」「うん、光ってる」
メデルは兄姉たちに囲まれながら、少し照れくさそうに笑った。
「ありがとう……僕、“メデル”でよかった」
その言葉に、泉の水面がもう一度ふわりと揺れ、精霊たちが静かに応えていた。
公爵館・記録室の冒険――
メデルと執事の秘密
朝食を終えたメデルは、満腹の魔力でふわふわと浮きそうになりながら、リバルセルマーズの後をついて歩いていた。
「ねぇ、リバルせるまーずー。記録ってどこにあるの?」
「記録室でございます、メデル様。公爵家のすべての動きが、そこに保管されております。靴の履き間違いから、パンケーキの焦げ率まで」
「すごい! 見たい!」
「ですが、記録室は“執事認定者”のみ入室可能でして……」
その時、リムリムマーズがひょっこり現れた。
「わしが許す。孫の好奇心は、記録よりも尊い」
「父上、それは規則違反では……」
「わしが規則じゃ。引退したが、記録室の鍵はまだ持っておる」
そして、三人は秘密の記録室へと向かった。
記録室の扉は、魔法で封印されており、リムリムマーズが杖で軽く叩くと、扉が「おはようございます」と言って開いた。
「扉がしゃべった!」
「記録室の扉は、家族の声を覚えておる。ちなみに、昨日はブランデット様が“プリンの夢”について語っておったな」
中に入ると、壁一面に並ぶ魔力日誌、食事記録、魔法暴走報告書、そして“浮遊事故一覧”までが整然と並んでいた。
メデルは目を輝かせて、ある棚を指差した。
「これなに?」
「それは“魔力と食事の相関記録”です。パンケーキ、プリン、そして……カレーの日は浮遊率が最も高いという結果が出ております」
「カレーってそんなにすごいの!?」
「はい。特に“おかわり三杯”の時は、天井に頭をぶつける確率が2.7倍になります」
リムリムマーズは、懐かしそうに棚を眺めながら言った。
「わしが現役の頃は、“くしゃみと魔法暴発”の記録を毎日つけておった。エリザマール様のくしゃみは、風魔法を誘発するからな」
「くしゃみで魔法! すごい!」
「すごいが、カップが飛ぶから注意が必要じゃ」
メデルは、記録室の中央にある“家族の魔力年表”を見つけた。
「これ、僕の名前もある?」
リバルセルマーズは、にこりと笑った。
「もちろんです。メデル様の魔力は、日々記録されております。昨日は“愛の言葉による癒し”が三件、浮遊未遂が二件、そして“パンケーキによる魔力上昇”が一件」
「パンケーキって、やっぱり魔法なんだね!」
「ええ、メデル様にとっては、すべてが魔法です」
リムリムマーズは、記録室の扉を閉めながら言った。
「記録は、家族の歴史じゃ。笑いも、涙も、魔力も、すべてがここに残る。だからこそ、守らねばならん」
メデルは、記録室を後にしながら、ぽつりと呟いた。
「僕も、記録する人になりたいな。みんなの笑ったこと、嬉しかったこと、魔法のこと……いっぱい書きたい!」
リバルセルマーズは、そっとメデルの肩に手を置いた。
「その日が来たら、記録室の鍵をお渡ししましょう。未来の“記録魔導士”として」
リムリムマーズは、満足げに頷いた。
「うむ。孫の記録なら、きっと世界を笑顔にするじゃろう」
そして、公爵家の朝は、魔力と笑いと記録に包まれて、今日も始まった。




