第九話 大連の証言
翌朝10時少し前、神谷、園部、三石の3人は再び「翠風苑」の自動ドアをくぐった。
受付を済ませると、職員に案内されて向かったのは、施設の奥まった談話室。
大きな窓から柔らかな光が差し込み、季節外れの紫陽花が植えられた中庭が見えた。
「お待たせしました。こちらが、神代辰男さんです」
椅子に腰かけていたのは、やせ細った小柄な老人だった。白髪はすっかり薄くなっていたが、目は驚くほど澄んでいて、訪問者を見てすぐに口元に笑みを浮かべた。
「……はじめまして。わざわざ遠くから、こんな爺さんの昔話を聞きに来たっていうのかい?」
神谷が丁寧に挨拶し、三人はそれぞれ椅子に座った。
手短に来意を伝えると、神代は「ほう」とひとつ頷き、そして目を細めた。
「中野秀通のことなら、よく覚えてるよ。あの人は……若い頃から、変わった人だった。優しさと冷たさが同居してるっていうかね」
神谷が促すと、神代はうっすら笑って、昔を探るように口を開いた。
「そういえばな――終戦の直前ごろだったか。
秀さん、大連で仕入れ先の関係者だって言ってた**“雲亭”て男の子と、小梅いう妹さん**を、突然店に連れてきたことがあってね。
“親もおらんし、空襲で孤児になった”って言ってたけど……どうにも腑に落ちなかった。どんな手練手管を使ったのか、よく知らんが……当時は皆、生きるので精一杯だったから、誰も深くは突っ込まなかった」
園部が反応した。
「“雲亭”という名前、漢字はご存知ですか?」
「楊って書いたな。雲は“くも”、亭は“あずまや”の亭。楊 雲亭。それと妹の小梅。ふたりとも、中国人……いや、満洲生まれの混血だったかもしれん。肌は白かった。礼儀正しい子たちだったよ」
神谷が目を細めた。
「彼らは、その後どうなりました?」
神代はゆっくりと頭を横に振った。
「引き揚げの混乱の中でな……
わしらは命からがら引き上げ船に乗った。秀さんは、その兄妹を連れてたよ。
それから数年、日本に戻ってきてからも、秀さんとは時々やり取りがあった。お便りも来てたし、たまに顔も見せに来てくれてたんだ。だが――」
神代は表情を曇らせ、しばし言葉を探すように沈黙した。
「あるとき、ぱったりと……連絡が途絶えた。
わしも最初は“忙しいのか”程度に思ってたが、年賀状も来んようになって……それっきりじゃ。昭和二十年代の終わりくらいだったか」
神谷が低く唸った。
「……それが、“秀通”の最後の痕跡だったと」
「そうじゃな。あのあと、わしは自分の暮らしで手一杯だったし……それでも、あの雲亭って子の顔は、今でも忘れられん。もの静かで、目が鋭い子だった。秀さんとは……どこか、不思議な信頼で繋がってた気がする」
園部が小声で神谷に言った。
「もしかして……現在“田中秀通”と名乗っていた人物って――」
「……“楊 雲亭”本人の可能性が出てきた」
神谷の答えは短く、しかし重かった。
もしそうなら、“中野秀通”は戦後間もなく何らかの理由で姿を消し、
“雲亭”がその身分を――戸籍を――何らかの手段で引き継いだことになる。
そして、その過程で何が起きたのか。誰が消され、誰が沈黙を強いられたのか。
神代辰男は、沈黙の時間のあと、ふっと目を閉じて小さく呟いた。
「人は、名前で人を信じるけどな。名前なんて、戦争と一緒に、吹き飛んじまうんだよ……」
*
「……神代さん」
神谷がゆっくりと口を開いた。
談話室の空気がふと、張り詰めたように感じられた。
神谷はバッグから小さな封筒を取り出し、その中から数枚の写真を丁寧に抜き取る。
まるで儀式のような動作だった。
そのうちの一枚、セピアに変色した白黒の写真をそっとテーブルの上に置いた。
「……この女性に、見覚えはありませんか?」
写真には、昭和20年9月4日――広島県福山市の河原で発見された若い女性の遺体が写っていた。
顔の半分は泥と血にまみれ、服は引き裂かれ、指には泥が固まっている。
だが、その輪郭には、少女の面影がたしかに残っていた。
神代辰男は、その写真を一瞥しただけで、ピクリと肩を揺らした。
そして、沈黙。
「……小梅ちゃ……ん?」
かすれたような声が漏れた。
神谷も園部も、無言で神代の表情を見つめた。
老人の顔に、苦しげな皺が深く刻まれていく。
「いや……わからん……不鮮明だ……それに、わしが見たのは、大連で2、3度きり……言葉を交わしたことも、ない……」
神代は、写真に向けて手を伸ばしかけたが、途中で止め、
そしてそっと手を引っ込めた。
「……すまん……もう昔のことだ……確かじゃない」
言いながら、彼は目を閉じた。
まるで、過去と現在の間に深い霧が立ち込めているかのように。
だが、神谷にはわかった。
その反応は――記憶の拒絶ではない。認識したことを、あえて口にしない沈黙だった。
神谷は、そっと写真を封筒に戻した。
「……ありがとうございます、神代さん。十分です」
園部も、目を伏せたまま小さく頭を下げた。
神代は、そのまま窓の外をぼんやりと見つめながら呟いた。
「……戦争が終わって、やっと生き延びたと思ったら、名前も、国も、家族も……何も残っとらんようになってしもうてな。
あの頃の子らは、みんな“誰でもなれる誰か”を探しておった。そうせんと、生きられんかったんよ……」
その言葉は、かつて戦後という瓦礫の中を歩いた者だけが持ち得る、重い悔恨だった。
神谷と園部、三石は、無言で立ち上がった。
少女の名は、まだわからない。
だが、“あの時代”が、誰かに他人の名前を生きさせ、誰かに命を奪わせたのだとしたら――
その代償は、これから自分たちが解き明かさねばならないものだった。
扉を閉じたとき、遠くで、風に揺れる風鈴の音が聞こえた。
それは、どこかで、誰かが呼んでいるような――そんな気がした。