第八話 楊 雲亭
佐藤凞子の家を辞したのは午後3時を過ぎた頃だった。
日差しは和らいできたが、山あいの湿った空気はなお重く、蝉の声が耳にまとわりつくようだった。
神谷がエンジンをかけようとしたそのとき、三石の携帯電話が震えた。
画面を見て顔をしかめた後、すぐに応答ボタンを押した。
「――ああ、槙野か。どうした?」
数秒のやりとりのあと、三石の目つきが鋭くなった。
「……本当か? 名前は?」
さらに一呼吸。
「わかった。すぐ向かう。――神谷さん、ちょっと動きますよ。目的地は山口市です」
神谷と園部が同時に振り向いた。
「なにか、あったんですか?」
三石が車のギアをドライブに入れながら答える。
「うちの部下の槙野が動いてましてな。大連時代、中野秀通と一緒に“呉服屋”で働いていたという人物が、今も山口市の特養に入所しているとの情報を寄せてきたんです」
「名前は?」
「神代こうじろ辰男。大連では店の下働きとして、10代から使われていたらしい。戦後は引き揚げて山口に戻り、そのまま土木会社で働いていたとか。今は九十近いが、意識ははっきりしているそうです」
園部が静かに呟いた。
「本物の“中野秀通”を知る人物……ですか」
「ええ。しかも呉服屋の内部事情も把握している可能性が高い。
佐藤凞子さんの証言と合わせれば、今まで“断片”だったものが、ようやく線になるかもしれません」
中国山地を縫うようにして西へ進む車の中で、神谷はぼんやりと流れる山並みを眺めながら考えていた。
“大連”で育った
“呉服屋の叔父夫婦のもと”で
戦後、日本へ戻った
そして“名前”を変えた――?
「名前を捨てたのか、あるいは名前を盗まれたのか――どちらにせよ、“その瞬間”に何があったのかを掴まないと」
園部が隣で頷いた。
「……たぶんその“瞬間”を知っているのが、その神代という人物ですね」
神谷の視線が前方に定まった。
「行こう。今度こそ、“田中秀通”という仮面を剥がす。
その裏にいる本当の人物――そして、彼に殺された“少女”が何者だったのかを知るために」
陽が傾きはじめた中国地方の空の下、車は一路、山口市へ向かっていた。
*
山口市の特別養護老人ホーム「翠風苑すいふうえん」に到着したのは、午後5時を少し回った頃だった。
太陽はすでに傾き始め、施設の周囲に植えられた桜の枝が、夕陽を浴びて赤く染まっていた。
玄関ホールには、消毒薬の匂いと静かな音楽が漂い、制服を着た職員が慌ただしく出入りしていた。
受付カウンターで三石が事情を説明したが、返ってきたのは事務的な声だった。
「申し訳ありません、面会時間は午後5時までとなっております。明日、午前10時以降であれば、ご案内できます」
「そうですか……わかりました。明日の朝、また伺います」
神谷はそのまま何も言わず、頷いた。
引き返す車内は静かだった。誰も口を開かず、カーナビに表示された“現在地”だけが淡々と進んでいく。
その夜、3人は市内の小さなビジネスホテルに宿をとった。
チェックインを済ませると、フロント脇の自販機で買った缶コーヒーを手に、神谷と園部は並んでロビーのベンチに腰を下ろした。
「……いよいよですね」
園部がぽつりと漏らした。
「明日、神代辰男の口から何が出てくるか――それ次第で、すべてがひっくり返るかもしれません」
神谷は頷いたが、すぐには言葉を返さなかった。
窓の外には、地方都市特有の静けさが広がり、遠くに見えるネオンがぼんやりと灯っている。
「……“田中秀通”が誰だったのか、それを知ることは同時に、“あの娘がなぜ殺されたか”を知ることでもある。
これまで、名前も顔もわからなかった彼女の――人生の最後のページを、俺たちが読むことになる」
「……責任、重いですね」
「だからこそ、逃げちゃいけない。80年経っても、過去は消えない。――誰かが証明しなきゃならないんだ」
園部は缶コーヒーのタブを押し込みながら、小さく微笑んだ。
「神谷さんって、やっぱり古いですよね。警察学校の教科書に出てきそうなこと、真顔で言うんですから」
「……古いのはお前も同じだろ。だから、こんな地味な事件に付き合ってる」
ふたりは苦笑しながら、しばし無言で並んで夜を見ていた。
その頃、三石はひとり、自室でメモ帳を開き、過去の捜査記録と中野秀通にまつわる地元情報を繰り返し眺めていた。
なぜ“なりすまし”は成功したのか?
本物の中野秀通は、いつ、どこで姿を消したのか?
手帳の端に、走り書きのように残された名前がひとつ――
「楊 雲亭ヤン・ユンティン」
かすれたペンの跡が、明日の不穏な予兆のように見えた。