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迷宮の淵で  作者: 56号
5/12

第五話 記憶の残滓


それから二日後の夕刻、


神谷諒一は、園部美也子を伴って、広島県福山警察署の玄関をくぐった。


外はすでに薄暮の気配が漂いはじめ、山の端に日が沈みかけていた。


署内は地方の警察署らしくこぢんまりとしていたが、どこか旧態依然とした空気があった。




受付を通されてすぐ、捜査課の課長という男が姿を現した。




「どうもお疲れさまです、神谷さんに園部さんですね。――お待ちしておりました」




そう言って差し出された名刺には、




広島県警福山西警察署


捜査課長 三石伸哉(警部)




の文字。がっしりとした体格に、無精髭をうっすらと蓄えた男だったが、言葉遣いは思いのほか柔らかい。




「例のご依頼の件ですがね――」




三石は席に着くなり、前置きもそこそこに口を開いた。




「田中正造の消息が、ついぞ分からんのですわ。 昭和21年以降、ぱったりと記録が途絶えてます。戸籍の移動もなければ、転出届けも出てない。ご遺族の記録も残っていない」




神谷は目を細めて頷いた。想定内の回答だった。




「何らかの理由で、彼は意図的に“消された”か、“自ら消えた”……そんな感じですね」




「まぁ、そういう可能性もありますな。ただ――」




三石は、指でこめかみをトントンと叩きながら、記憶を掘り返すような口ぶりで続けた。




「……あの辺り、戦争末期は激しい空襲に見舞われてましてな。特に市街地は、昭和20年8月初旬の一斉空襲で、ほとんど灰になっとる。田中正造が経営していたという呉服屋も、たしかその時に全焼したと記録にはあるはずですよ」




その言葉に、神谷の表情がぴくりと動いた。




「……ちょっと待ってください。全焼……ですか?」




「ええ、たしかそう聞いてますよ。町の古い台帳にも、焼失家屋の一覧に“田中呉服店”の名があります」




神谷は、咄嗟に園部と目を合わせた。


彼女も同じ違和感を感じ取ったらしく、静かに口を開いた。




「でも……それじゃ、中野秀通が“養子”になった呉服屋は、存在しないことになりますよね?」




「――そうなんです」




神谷が重く呟いた。




「つまり、焼け落ちた店の“後継者”に、養子縁組をした。しかも、その“後継者”の名前が、3年後には東京で全く別業種の会社を立ち上げてる――」




三石は黙って神谷の言葉を聞いていたが、やがて口を開いた。




「……まぁ、よくある話ではありますわな。焼け跡に、身分だけを残して逃げ延びた人間ってのは、戦後にはゴロゴロいましたから。名前と戸籍だけ、残してな」




神谷の胸に、またひとつ疑念が湧き上がってきた。




――焼けたはずの家、消えたはずの当主、


そして、名前を与えられた“他人”。




「三石さん、田中正造の呉服屋――それが本当に実在したのか、確認させてください。地元の商工名簿、戦前の営業許可台帳、火災保険――何かひとつでもいい。物理的な“痕跡”を見せてほしいんです」




三石は少し目を丸くしてから、口元だけで微笑んだ。




「……なるほど。“名前だけ”の可能性もあると。面白い発想ですな。――調べてみましょう」




神谷は背もたれに体を預け、目を閉じた。




もし本当に、田中正造が“実在しなかった”ならば――


その養子になった“中野秀通”という人物のすべては、虚構の上に成り立っていたことになる。




そして、あの若い娘の死もまた、虚構に巻き込まれた犠牲だったのかもしれない。




 *




夜9時をまわった頃。


広島県福山市の駅裏にある料理屋「魚道楽うおどうらく」の座敷には、神谷諒一、園部美也子、そして三石伸哉の3人の姿があった。




座敷は奥まった小部屋になっており、壁際には古びた魚拓と、昔の名士たちの色紙が並ぶ。昭和の匂いが残るその空間は、今日のように蒸し暑い夜には妙に居心地がよかった。




「おそくなりましたがね……ここの女将は、私の中学時代からの友人でしてな」




と三石が言いながら、徳利を一本注いだ。




「安い、うまい、はやい。まるで三拍子そろった名店ですわ」




その言葉に、奥から注文を運んできた着物姿の女将が、くるりと顔を向けた。




「三石さん。どこぞの牛丼チェーン店じゃないんだから、“安い”“うまい”はいいとして、“早い”ってのはどういうこと?」




その小気味よい切り返しに、園部がこらえきれず、ぷっと吹き出した。


神谷も、口元に笑みを浮かべて、手元の小皿をいじった。




「これは一本取られましたな。おかみさん、うちの署員も黙ってるようじゃありませんな」




「はいはい、さっさと食べて飲んで、また真面目な顔に戻るんでしょ」




そう言って笑いながら、女将は刺身と炊き合わせを並べて去っていった。




一息ついて湯気の立つ椀を手にしたところで、神谷がさりげなく水を向けた。




「ところで三石さん――戦災者の情報、もう少し深く掘るにはどこに当たればよさそうですか?」




酒で少しだけ頬を赤らめた三石は、湯呑を置いてから顎に手をやった。




「そうですな。神谷さんは若そうなんで、あまりご存じないのかもしれませんがね……当時の戦災者の情報や引揚者の記録、行方不明者の照会なんかは、厚生省がまとめとったんですよ。いまはご存じの通り、厚生労働省に吸収されてますが」




神谷が頷いた。




「厚労省に戦災関連資料があると」




「ええ。ただし、難儀なのが、一部は国立公文書館に、また一部は地方の福祉事務所に分散して保管されてる。系統だった整理がされてないものも多くて、探すのは手間がかかりますな」




園部が手帳にメモを取りながら訊ねた。




「たとえば、福山市で“死亡扱いになったが、遺体が発見されていない者”のリスト、そういった記録も?」




「ええ、あります。ただし、記録としては『戦災失踪者名簿』とか、『臨時死亡届』という形になってますな。時には、“推定死亡日”が現実と違っていたりもします」




神谷の目が細くなった。




「それだ。“臨時死亡届”……」




もしかすると、河原で発見されたあの若い女性――名もなく埋もれた彼女も、**“誰かによって死亡が処理された”**可能性がある。




「つまり、名前さえわかれば、届出人を逆に洗えるかもしれませんね」




三石が酒をあおって頷いた。




「ええ。問題は、その“名前”ですわな」




神谷はしばし考え込むように箸を止めた。




「……ならば、次は“届出人の名前を頼りに、逆にその娘の身元を探す”という手もある」




園部も頷く。




「その娘が誰かの“記憶”に残っていたなら、名前が資料に残っていないわけがない。名もなき少女だったわけじゃ、きっとない」




しばしの沈黙。外の風が、障子の隙間から音もなく吹き込んできた。




そして、神谷は湯呑を置き、静かに言った。




「……彼女の名を、俺たちの手で掘り起こす。それが、たとえ80年近く前のことでも、今この時代に“刑事”としてやるべきことだと思ってる」




三石も、園部も、言葉なく頷いた。




料理屋の座敷に、今だけは不思議と“正義”という言葉が自然と似合っていた。




この後は、「厚生労働省(旧厚生省)」に残る

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