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迷宮の淵で  作者: 56号
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第四話 積み木の思考


午後も深まった頃、神谷のスマートフォンが軽やかに震えた。


湯島の財務局を出て、近くのコーヒースタンドで雨宿りしていたときだった。


画面には「園部美也子」の文字。神谷はすぐに応答ボタンを押した。




「神谷です」




「お疲れさまです。園部です。……例の件、確認が取れました」




声はいつもより張っていて、何か確信を掴んだ調子だった。




「当時、広島県福山市役所に提出された住民記録と戸籍記録、両方を照合しました。昭和21年3月、中野秀通が田中正造という呉服商の養子として迎えられている記録が残っていました」




神谷の眉がわずかに動いた。




「……田中正造?」




「はい。地元ではそれなりに名の通った商家だったようです。戦時中も軍関係の繊維の供給で利益を得ていた可能性があります。正造には実子がいなかったため、終戦後に“後継者”を必要とした……という背景もあり得ますね」




「つまり――中野秀通は、“田中秀通”になった。戸籍も、過去も、新しい名前の下に書き換えられたというわけだ」




「そのようです。しかも転籍の翌年には、呉服ではなく乾物と缶詰の卸しに業態転換している。これは、闇市の拡大と関東への進出に合わせた動きと考えられます」




神谷はしばらく無言のまま受話器越しの風音を聞いていた。


やがて、静かに口を開く。




「戦後の混乱期……名前を変えて、新しい戸籍を手に入れるのは、金と口利きがあれば比較的容易だった。特に、戦災で戸籍が焼けた地域では、本人確認の術が乏しかったからな」




「はい。福山の旧記録でも、当時の戸籍簿は一部が焼失しており、復元は目視証言を元に行われたとあります。……つまり、本人が“そうだ”と言えば、通ってしまう」




「“死人に口なし”ってやつだ」




神谷は自分でも気づかぬほど低く呟いていた。




あの少女――河原に倒れていた若い娘。


彼女は、田中秀通……いや、中野秀通にとって、“消さねばならなかった何か”を握っていたのか。


あるいは彼の正体、過去、罪――そういった“記憶そのもの”だったのかもしれない。




「園部。次の一手だ。田中正造の方を洗ってくれ。広島の戦後闇経済に通じていたかどうか。そして、もし彼の周囲に“戦後処理品”、たとえば接収物や外貨時計のような高級品を扱っていた記録があれば――」




「わかりました。すぐ取り掛かります」




通話が切れたあと、神谷はしばらくその場から動けなかった。


頭の中では、崩れかけた積み木のように、戦後の一枚一枚の記憶が音もなく落ちていく。




名前を変え、過去を消し、生き延びた男。


そして、記憶の片隅にすら残らなかった、名もなき少女。




神谷は深く帽子をかぶり直し、歩き出した。


雨は止んでいたが、東京の路地にはまだ、戦後の亡霊の気配が漂っていた。



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