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迷宮の淵で  作者: 56号
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第三話 ロレックスの腕時計


古びた写真を前に、園部美也子は目を細めていた。




写真の中の若い女性――河原の泥にまみれて横たわる遺体。その右手が、何かをぎゅっと握っている。小さく、丸みを帯びた金属製の物体。半ば泥に覆われているが、よく見ると、それは腕時計のようだった。




「この時代って……腕時計って、今みたいに安いものじゃないですよね」




神谷がファイルをめくる手を止める。




「……ああ。戦前から戦後にかけて、腕時計は基本、贅沢品だ。庶民の手にはそうそう届かない。軍人や一部の特権層、それか外貨を持つ連中に限られていた」




園部は写真に顔を近づけ、さらにじっと見つめた。




「それに……この人が握ってる時計。不鮮明だけど……なんとなく、前に叔父が自慢げに見せてきたロレックスのアンティークに似てるんですよね」




神谷の視線が鋭くなった。




「ロレックス……?」




「ええ。文字盤のふちの形と、リューズの部分。決定的なことは言えないですけど、安物じゃないです。むしろ、かなり高価な、外国製の高級時計っぽい」




神谷は急に椅子に深く腰をかけ直し、写真を改めて手元に引き寄せた。


写真の画質は粗く、焦点も甘い。だが、確かに泥まみれの指の中に、重厚な造りの金属ベルトと、独特の円形フェイスが見える。




「園部……まさか、遺体の彼女が持っていたんじゃないとしたら――どういうことになる?」




園部は一瞬言葉に詰まり、やがて低く答えた。




「誰かが……彼女にそれを握らせた。あるいは、奪おうとしたが間に合わなかった」




「そうだ。そして、その“誰か”は、終戦直後にロレックスを手に入れられるだけの立場にあった……それが、誰か」




神谷はふと、机の上に置かれた別のファイルに目を移した。それは、田中秀通の経歴資料。




昭和20年9月、彼は“消息不明”となっており、その後の足取りが明らかになるのは昭和23年、東京・築地で食品卸を始めてからだった。




「……田中、当時は“何者”だった?」




神谷の声に、園部も徐々に真剣な表情になっていく。




「田中の経歴、改めて洗い直します。どこかで、この時計と彼が繋がる可能性がある。そうですよね?」




「ああ。そして、もう一つ――」




神谷は机の引き出しから古い資料のコピーを取り出す。




「この遺体、司法解剖の記録には“遺体の手に異物なし”とある。だが、この写真では確かに時計らしきものを握っている」




園部が眉をひそめる。




「……つまり、何者かが写真撮影のあと、証拠を処理した?」




神谷の瞳が鋭く光った。




「その“誰か”が、彼女の死を隠蔽しようとした。――そして、その何者かは、きっと今の世界でも沈黙を貫いている」




外では、台風の風がまだ窓を叩いていた。


まるで、過去の亡霊たちが、真実を語れと扉を叩いているかのように。




神谷は、地下鉄湯島駅の階段を上がると、雨上がりの生ぬるい風を背中に受けながら文京区の旧庁舎を目指した。




目的地は、関東財務局文書管理室――昭和20年前後の軍需物資処理や配給物資の名簿が、ひっそりと保管されている場所だった。


彼の狙いは、「ロレックス」を手にすることが可能だった人間――とくに、戦時中の密輸、接収品の流通に関わった民間人の名簿だった。




応対に出てきた担当課長は、40代半ばの中肉中背。背広はよれ気味だったが、言葉遣いは丁寧で、愛想だけは悪くない。




「広島管内の配給管理帳簿ですね。ちょっと古いですけど、終戦前後の登録者名簿は一部残っております」




神谷が警察手帳を見せると、課長はすんなり協力姿勢を見せ、古いインデックス帳の束を持ってきてくれた。




帳面は、すでに紙が焼け茶色になり、ページをめくるたびにほこりが舞い上がる。


神谷はその中から、該当しそうな時期、地域の帳簿を手際よく繰っていった。




そして、ある名前で指先が止まる。




中野秀通




神谷は一度、深く息を吸ってから、記録に視線を落とした。




昭和20年9月に登録。広島県安芸郡郷田町。肩書き「軍需品管理補助員」。


終戦直後に軍払い下げ物資の整理業務に関与した民間人とされる。




「……名字こそ違うが――」




神谷は呟くように言った。




「秀通」という名。そして、「郷田町」。いずれも田中秀通の出身とされていた土地と時期に符合していた。




彼の経歴には、昭和20年から23年までの空白がある。


そこに記録された“中野”という姓――偽名か、それとも、戦後の戸籍ロンダリングによる新たな身分か。




神谷はそっとメモを取りながら、目を細めた。




「田中秀通――お前、やっぱり“何者か”だったな。あの腕時計が示していた通り、ただの商人じゃない」




その時、課長が奥から戻ってきた。




「念のためですが、“中野秀通”さん、昭和23年に東京へ転出しています。届け出地は築地。かなり早い時期の上京ですね」




神谷は無言のまま頷き、資料をそっと閉じた。




遺体の少女が握っていたロレックスは、彼が残した“証”だったのか。


それとも――口を封じられた、無言の“遺言”だったのか。




神谷は立ち上がり、園部に連絡を取るためスマートフォンを手に取った。




「――園部、急ぎ調べてほしい。“中野秀通”が“田中秀通”になった可能性。戸籍の移動履歴を追えるか?」




「了解しました」




電話越しの園部の声が、いつもより少し低く聞こえた。




外は再び雨が降り始めていた。




薄灰の空の下、過去と現在が静かに、しかし確実に繋がりはじめていた。





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