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迷宮の淵で  作者: 56号
11/12

第十一話 大連菜館


暮れも押し迫った12月末、横浜中華街は提灯の灯に彩られ、年末の喧騒の中にどこか異国の静けさを湛えていた。




その一角――「大連菜館」。


格式ある高級中華店の個室に、神谷諒一と桝本幸哉の姿があった。




厚手のカーテンに囲まれた円卓、赤い絨毯と金の装飾。


皿の上の北京ダックは冷めかけ、代わりに熱気を帯びていたのは二人の沈黙だった。




しばらくして、桝本が黙って神谷の空いたグラスにビールを注いだ。




「――実はな、諒一。あいつ、秀通……いや、“楊雲亭”とは、俺の母方の本家と浅からぬ縁がある」




神谷は一瞬、眉をひそめた。


桝本が自らこの話題に触れたのは初めてだった。




「お前にも一度だけ紹介したことがあったろう。随分昔のことだが……」




「……ああ。あの無口で、異様に目の鋭い紳士だな。確か、旧正月の祝いの席で」




「そう、それだ」




桝本はビールを一口で飲み干し、グラスをテーブルに置いた。




「うちの母方の本家はな、代々紅花を扱っていた。江戸から続く小さな卸問屋だった。だが、昭和の終わり頃、親父の代で“米の先物”に手を出してな。


結果、丸裸だ。担保を飛ばし、返済期限も切れて……一家心中を覚悟する寸前だった」




神谷は黙って頷いた。




「そのとき、融資を引き受けてくれたのが、楊雲亭――あの男だった」




「……つまり、“命の恩人”というわけか」




「それもあるが、ただの恩義だけじゃない」




桝本の声に、どこかしら皮肉と畏怖が混じった。




「あの男は、救うことで“縁”を作る達人だった。


他人に借りを作らせ、返すことのできない義理を植え付ける。


そこに血縁は関係ない。


“支配すること”に血筋も地位も不要だと、あいつは最初から知ってたんだろうな」




政官界にも深く入り込んでいた……とも桝本は言った。




「……それでも、悪い男には見えなかった」




神谷の言葉に、桝本はふっと鼻で笑った。




「それが、あいつの怖いところだ。


人を助けて、信頼を集めて、誰からも“善人”だと思われてた。


だが、その中に――あの“静かな嘘”を抱えてた。


名前を奪い、命を奪い、それでもなお、誰にも咎められずに生きた」




神谷は、手元のグラスを見つめながら低く呟いた。




「そして……小梅という少女を、ひとりだけ、誰にもなれないまま残した」




「……ああ。だから、こうしてお前が、名を掘り起こしてくれてよかった。


あいつの人生の中で、唯一、取り返せなかったものが“彼女”だったんだろう。


どれだけ地位を得ても、どれだけ義理を積んでも――


あの河原の少女の視線からは、逃げ切れなかったんだよ」




室内に一瞬だけ、静寂が落ちた。


厨房の奥で、中華鍋が火を噛む音が微かに聞こえる。




神谷が、静かにグラスを持ち上げた。




「……なら、せめてこの一杯を、小梅に捧げる。


名もなく、誰にもなれずに死んでいった、彼女のために」




桝本もまた、グラスを上げた。




「……そして、彼女に名を返したお前にも。乾杯だ、諒一」




ふたりのグラスが、静かに触れ合った。




外は、もうすぐ新しい年が明けようとしていた。



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