第十一話 大連菜館
暮れも押し迫った12月末、横浜中華街は提灯の灯に彩られ、年末の喧騒の中にどこか異国の静けさを湛えていた。
その一角――「大連菜館」。
格式ある高級中華店の個室に、神谷諒一と桝本幸哉の姿があった。
厚手のカーテンに囲まれた円卓、赤い絨毯と金の装飾。
皿の上の北京ダックは冷めかけ、代わりに熱気を帯びていたのは二人の沈黙だった。
しばらくして、桝本が黙って神谷の空いたグラスにビールを注いだ。
「――実はな、諒一。あいつ、秀通……いや、“楊雲亭”とは、俺の母方の本家と浅からぬ縁がある」
神谷は一瞬、眉をひそめた。
桝本が自らこの話題に触れたのは初めてだった。
「お前にも一度だけ紹介したことがあったろう。随分昔のことだが……」
「……ああ。あの無口で、異様に目の鋭い紳士だな。確か、旧正月の祝いの席で」
「そう、それだ」
桝本はビールを一口で飲み干し、グラスをテーブルに置いた。
「うちの母方の本家はな、代々紅花を扱っていた。江戸から続く小さな卸問屋だった。だが、昭和の終わり頃、親父の代で“米の先物”に手を出してな。
結果、丸裸だ。担保を飛ばし、返済期限も切れて……一家心中を覚悟する寸前だった」
神谷は黙って頷いた。
「そのとき、融資を引き受けてくれたのが、楊雲亭――あの男だった」
「……つまり、“命の恩人”というわけか」
「それもあるが、ただの恩義だけじゃない」
桝本の声に、どこかしら皮肉と畏怖が混じった。
「あの男は、救うことで“縁”を作る達人だった。
他人に借りを作らせ、返すことのできない義理を植え付ける。
そこに血縁は関係ない。
“支配すること”に血筋も地位も不要だと、あいつは最初から知ってたんだろうな」
政官界にも深く入り込んでいた……とも桝本は言った。
「……それでも、悪い男には見えなかった」
神谷の言葉に、桝本はふっと鼻で笑った。
「それが、あいつの怖いところだ。
人を助けて、信頼を集めて、誰からも“善人”だと思われてた。
だが、その中に――あの“静かな嘘”を抱えてた。
名前を奪い、命を奪い、それでもなお、誰にも咎められずに生きた」
神谷は、手元のグラスを見つめながら低く呟いた。
「そして……小梅という少女を、ひとりだけ、誰にもなれないまま残した」
「……ああ。だから、こうしてお前が、名を掘り起こしてくれてよかった。
あいつの人生の中で、唯一、取り返せなかったものが“彼女”だったんだろう。
どれだけ地位を得ても、どれだけ義理を積んでも――
あの河原の少女の視線からは、逃げ切れなかったんだよ」
室内に一瞬だけ、静寂が落ちた。
厨房の奥で、中華鍋が火を噛む音が微かに聞こえる。
神谷が、静かにグラスを持ち上げた。
「……なら、せめてこの一杯を、小梅に捧げる。
名もなく、誰にもなれずに死んでいった、彼女のために」
桝本もまた、グラスを上げた。
「……そして、彼女に名を返したお前にも。乾杯だ、諒一」
ふたりのグラスが、静かに触れ合った。
外は、もうすぐ新しい年が明けようとしていた。




