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迷宮の淵で  作者: 56号
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第一話 令和の嵐

台風15号が南関東を直撃したその日、神谷諒一は、警視庁本部庁舎の窓際で、雨に煙る東京の街を眺めていた。




「多摩川が決壊寸前だそうです」




後ろから声をかけたのは、捜査一課の若手刑事、園部美也子だった。彼女は黒髪をひとつに束ね、濡れたレインコートを小脇に抱えている。まるで水の気配をまとって部屋に入ってきたようだった。




「またか……このところ毎年じゃないか、台風と洪水と土砂崩れと」




神谷はため息交じりに答えながら、デスクの端に積まれた紙ファイルに視線を移す。白黒の古い写真、かすれた活字の新聞、そして焼け焦げた一枚の鑑識報告書。そのすべてが――あの昭和二十年の“河原の娘”の死体をめぐる資料だった。




だが、雨は過去だけでなく、現在もまた人を沈黙させる。




その朝8時12分、東京都港区麻布の高級住宅地にある一軒家で、通報が入った。




「田中秀通さんが倒れていて……返事がなくて……血が……!」




第一発見者は秘書の新川智子。朝8時の打ち合わせのために到着したが、呼び鈴にも応じず、違和感を覚えたという。裏手のキッチン勝手口が開いていたため、不審に思って中に入ったところ、寝室で田中がベッドの上にうつ伏せで倒れていたというのだ。




警視庁の現場担当は、当初「心筋梗塞による自然死」を疑った。だが、すぐに違和感が生じた。




田中の右手は不自然に曲がり、頬には殴打痕。後頭部には、鈍器によるものと見られる裂傷が確認された。室内には荒らされた形跡はなかったが、サイドテーブルの上には空になった抗精神薬の瓶が残されていた。




「老衰と見せかけた殺人……あるいは自殺偽装……どちらとも言える。だが、現時点では断定できない」




現場から戻ってきた園部が、写真資料と簡単な報告書を神谷に手渡す。




「この人、田中秀通。年齢は82。『秀光食品』の創業者で、今は相談役。総資産は推定で数十億とも言われてます。戦後の食料難の時代に、乾物と缶詰の卸しで財を成した人物らしいです」




神谷の眉がぴくりと動いた。




「戦後?」




「ええ。調べた限り、出生は広島県福山市。戦後の記録には不自然な空白期間がありますが、昭和23年以降は順調に経歴が伸びていく」




「……広島。福山」




神谷の目に、一瞬だけ奇妙な光が走った。




「これは個人的な興味でいい。今すぐ福山の警察署に連絡を取ってくれ。昭和20年9月に、未解決の変死体事件がなかったか、確認したい。被害者は……若い女性だ」




園部が怪訝そうな顔で神谷を見た。




「それって、今の事件と関係あるんですか?」




「まだわからん。だが、風は吹いてる。嵐が、今になって古い塵を暴きはじめた」




神谷は再びデスクの上の古いモノクロ写真に目を落とす。そこには、河原に横たわる少女の遺体。顔の半分は泥と血で覆われ、名前すら記されていない。




外では風がさらに激しくなり、東京湾から吹き上げる突風が、警視庁の庁舎の窓ガラスを震わせた。




 *   




神谷諒一は困惑していた。




先週の金曜日、退勤間際にかかってきた一本の電話――


発信者は、かつて警察学校で机を並べた同期生にして、いまや神奈川県警の頂点に立つ男だった。




「桝本……?」




「やあ、諒一。久しぶりだな。忙しいところ悪いが、少し……いや、かなり個人的な相談で連絡した」




電話の向こうで、わずかに言いよどむような声音。あの桝本幸哉が、こんな話し方をすること自体、神谷にとっては奇異だった。




「聞こう。俺もヒマじゃないが、同期の出世頭のお前が直々に“個人的”と前置きするくらいの話だ。相応の中身なんだろう?」




「……昭和20年。広島県、福山市。終戦直後に起きた若い女性の殺害事件があるはずだ。未解決のまま、古い記録の山に埋もれてると思う」




神谷は一瞬、言葉を失った。まさにその事件こそ、数日前から彼がこっそり資料を集めていたものと一致する。




「どうしてその事件を?」




「俺の……親戚にあたる人物が、関わっていたかもしれない」




「関わっていた?」




「すまん、それ以上はまだ言えない。今はただ、記録を調べてほしい。君の力を借りたいんだ、諒一」




同期とはいえ、桝本は今や一県警の本部長。軽々しく“個人的に”などと言える立場ではない。それでも、何かを押し殺すような声の奥には、焦りと恐れのようなものが感じ取れた。




「一体、何があった? あんたの親戚って……その女性とどう関係してるんだ?」




しばしの沈黙のあと、桝本はぽつりと答えた。




「……女の遺体が発見されたあの河原に、うちの祖父がよく通っていたんだ。軍の関係者でな、戦時中も戦後も、民間の目の届かない“任務”に就いていたらしい」




「軍の関係者……」




「俺の手元に、祖父が遺した日記がある。なにかを悔いているような記述があってな……『あの娘には、もう一度詫びねばならん』と書いてあった。それも“昭和二十年九月四日”の日付で」




神谷は背筋が冷たくなるのを感じた。


奇しくも――田中秀通の死の数日前から、自分の脳裏にちらついていたあの事件。


そして、桝本の家系にも影を落としているという“河原の娘”。




それらが偶然とは思えなかった。




「わかった。公式には動けないが、非公式に調べてみる。園部にも一任してある」




「頼む。俺もまた、君に借りを作ることになるな」




「桝本。これが本当に“個人的な相談”で済む話かどうかは……もう、あんたも薄々分かってるんじゃないのか?」




電話口の向こう、答えは返ってこなかった。




ただ、その無言が、なによりも多くを物語っていた。





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