【第1話】事故
僕たちは、普通の人間だと思ってただろ。
けど、実際はそうじゃない。
僕たちには「護る義務」がある。
だから、やらなくちゃいけない。
できるな?
◆◆◆◆◆
「はい!」
傾いた夕日の橙色の光が差し込む、研楚高校の誰もいない教室。炭谷泰は、教卓の前に立ったまままっすぐ返事をした。
彼の前には、教卓を挟んで田辺先生が立っている。細く白い指で、彼が提出したレポートを持っている。目線もそれに向かっておりている。
「そうなの、やっぱり昨日で仕上げたの……頑張ったのね」
高く澄んだ声が教室に広がっていく。泰は充実感で心を満たされていた。
というのも、先生が今持っているレポートは、彼が昨日寝る間を惜しんで仕上げたものだった。これは出せば努力点が成績に加算されるというもので、別に提出しなくても良いのだが、彼は今まで一度も先生の課題の提出を疎かにしたことがなかった。そして、今回もそれに従ったまでだ。
それはなぜか。理由を知るためには、彼が高校1年生だった1年前まで遡る必要がある。その頃ちょうど、叔父が死んだ。血縁関係はあるものの泰どころか実の兄である父親とも会っていなかったため、その死自体に関しては特に思うところもなかった。
だが───正直これが父親と叔父が連絡を取り合ってなかった理由だとは思うが───その一週間後あたりから、知らない大人が家を訪れるようになった。それも、一度に5人も6人も。そのうち父親に話をした、比較的身長の低い茶髪の男によると、叔父はかなりの借金をしていて、その「責任逃れ」のために死んだらしい。死因は伝えられていない。事故死なのか自殺なのか、それとも他の選択肢が適用されたのかは未だにわからない。
そこから頻繁に、その男はやってきた。染めているのか日本人の血ではないのか───もし日本出身でないならあんなに流暢な関西弁は喋れないと思うが───やや天然パーマが目立つ金髪をしている男は、たびたび両親に借金の返済を迫り、時に「お前らやってこの家売ったる」などの脅迫めいた発言も目立つようになった。両親はおろか、その息子である泰の精神も蝕んでいった。
そこで、当時の担任かつ化学の担当教師だった田辺先生に相談してみた。これが、泰が先生を信頼するきっかけとなった。泰の話に一心に耳を傾け、深く理解し、寄り添うその姿勢は、まさに仏だった。神様仏様とは、こういう人を指すんだなと感じた。少々言い過ぎか。そんなこともないか。
これ以降、泰は田辺先生を恩人として扱うようになった。今もその問題は続いているけれど、もし先生がいなかったら、クラスが変わった今頃も、憂鬱な気持ちで帰路につき続けなければならなかったかもしれない。よく聞く「誰かに話すと楽になる」というのは本当だったのだ。
そして、恩人には恩人なりの態度をとるべきだろう、と泰は考えた。おそらく生活が充実している教師に一生徒ができることなんてあまりない。だったらせめて、日々の提出物くらいはすぐに出すのが当然の義務ではないか。あらゆる課題の中でも一番最初に終わらせるのが礼儀というものではないか。
そして、今に至るというわけだ。
「明日実験だから、その時でも良かったんじゃない……? わざわざ私のクラスにまで来てくれるなんて……」
「いえ、なるべく早い方が良いかと思って」
「そう……」
夕日の当たり方が変わり、先生の長い茶髪が輝く。泰はそこに一瞬だけ目をやった。
するとすぐに、先生が顔を上げた。
「じゃあ、これで預かるわね」
「はい、ありがとうございます」
「また明日ね」
「はい」
そして、先生は教室の出口に歩いていった。
泰はその背中を遠目に見ながら、荷物を片付けるために自分の机に歩いた。机上の筆箱が、これもまた夕日の光を浴びて明度を上げていた。
″炭谷のスミはケシズミのスミや″
その男が言っていた言葉が、脳裏に浮かぶ。金をなかなか返さない炭谷家が役立たずだと言いたいのだろう。その男も、最近は別の取り立てに忙しいのか、あまり来なくなっている。
ケシズミ……か。
泰の喉を、砂のようにざらりとしたものが通った。それは胃に蓄積され、確かな重みを持っている。
「泰?」
「あっ……ごめん」
「どしたんだよ、急に火曜と木曜になって」
「……えっと……? あ、カモク、か」
気づけば、泰は2人の人物に挟まれながら、アスファルト舗装の道の真ん中を歩いていた。左手に見える家は壁の質感から一目で木造とわかるものになっていて、ツタが屋根から壁の一番下まで伸びている。夕方だというのに、明かりはついていない。
泰は顔を振って左右の2人の顔を交互に見た。丸眼鏡で目の大きいロングヘアの少女と、やや日焼けしたツーブロックの少年が交互に視界に入った。緑矢翠と灰谷翔だ。
「……で、何の話してたんだっけ?」
左側の翠が言う。ちょっと泰の主観が入っているかもしれないが……かなりかわいい声だ。声優かVtuberになれるのではないかとさえ思える。こういう「カワボ」系の合成音声なら世の中に溢れかえっているが、生身の人間でそれを持つ人がいるとは思わなかった。
「総合の探究学習のテーマだろ?」
それに右側の翔が返す。
「そうだ、早くテーマ決めなくちゃ」
泰が思い出すように言うと、もう一度翔が反応した。
「まあ、マーテよ。焦って決めたところで意味ないだろ」
翔は頻繁にこういったダジャレというか何というか……ギャグが入る。よく考えつくものだ。面白いのか、と訊いてはならない。友として答えたくない、と泰は考えている。
ここでもう少し詳しく2人のことを話しておこう。緑矢翠は、8月5日生まれの17歳。吹奏楽部所属。楽器はフルート。一ヶ月前の期末試験では9教科合計で854点、2年生302人中5位。言うまでもなく今いる3人の中で一番頭が良い。ちなみに1位は免田というやつだ。彼はいつもぼんやりしていて真面目という印象はあまりない。免田は泰と同じクラスで仲も良いのだが、翠や翔と顔を合わせたことがほとんど無い。泰が3人の会話に名前を出すだけだ。
話を戻そう。好きな食べ物はドーナツ。嫌いな食べ物はイカ。先程も言ったとおり、声が綺麗。しかし本人はそれが活かせる仕事は目指さないようだ。
灰谷翔は、1月9日生まれの16歳。サッカー部所属で、ポジションはディフェンダー。確かに相手からすれば、ボールを蹴って攻めようとしたらこういうのが立ちはだかるのだ。脅威でしかない。期末試験は9教科合計で343点、302人中254位。これでも元々は280~290位にいることが多かったのだ。少し上がっているのは、翠の丁寧な教え方の賜物なのかもしれない。好きな食べ物は寿司、嫌いな食べ物はないとか言ってるけど多分ミント(観光先でチョコミントアイスを3人で食べようと泰が言ったら、俺はいい、と言った。泰と翠が目の前で美味しそうに食べていても、その姿勢を変えることはなかった)。こちらも前述の通り、変なギャグを頻発する。彼には悪いが、他の人からしたら面白いのだろうか、と考えてしまう。
そして今話していたのは、総合の授業中に発表するプレゼンのテーマについてだ。制作は個人で行うのだが、どうせなら3人でテーマをそろえてみんなで調べないかということで、結果そうなった。だが同時にそのせいで、3人が調べて楽しいようなテーマが見つからなかった。何も進展が無いまま、今を迎えている。
「とりあえずサッカーとかにするか?」
「それ翔が調べたいだけでしょ。私サッカーなんて全然知らないよ?」
「ソッカー、だめかー」
「免田に訊いてみようか?」
「そいつ頭良すぎて俺らの感性と合わねえよ」
「うーん……」
まだまだ決定には時間がかかりそうだ。
3人の歩く方向に、夕日が落ちかけていた。
次の日。化学実験室。
「……酸化還元反応というのは、酸素だけではなく、水素や電子の受け渡しによっても起こります。ですが、今日はわかりやすく活性炭と酸化銅の反応で……」
田辺先生が教卓の前で茶色い小瓶を数個準備している。その一つ一つに″CuO″とラベルが貼られている。さっき口にしていた酸化銅だ。
剣楚高校の化学の実験は班に分かれて行う。理系は一クラスあたり45人なので、5人ずつに分かれるとちょうど9班できる。泰の班は4班。他に佐野、指原、志村、瀬野がいる。ちなみに免田は8班だ。廊下側にある8班のテーブルを見ると、眠たそうな表情を浮かべる彼が見える。
「これ小学校の時にもやらなかったか?」
「まあいいじゃんか、授業1つ潰れたようなモンだよ」
指原と志村は仲が良い男子で、休み時間でもよく話しているのを目にする。その一方で、佐野と瀬野の女子二人は、黙々と実験の準備を進めている。
泰もその様子を見て、入ろうとしたのだが。
「炭谷くん」
唐突に、呼び止められた。すぐにわかった。
振り返ってみると、やはり田辺先生がいた。少し微笑んで、茶色い髪を揺らしている。
「どうしたんですか?」
「あ、いや、昨日のレポート、ちょっと気になるところがあったから……」
「あっ、すみません」
返しながら、泰は不審に思った。なぜ今なのだろう。授業が終わってからでいいのに。
だが考えないことにした。田辺先生のこと、きっと何か特別な事情でもあるのだろう。
泰は耳を傾けることにした。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
運命の歯車は、回り始める。
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その時だった。
急に泰の目の前から、先生の姿が消えた。煙になってしまったみたいに、ぱっと。
それだけでは終わらない。静かに驚く泰の後ろから、続けざまに─────
爆ぜた。
実験室が戦場に変わってしまったと説明されても納得がいってしまう。そのくらい、凄まじい音と衝撃だった。何かが泰にまとわりついた。その次に、心臓を抉られる感触がした。
何が、起こった?
しかしそんなことを考えている時間はなかった。
周囲の声など耳にも入らずに、彼の意識は途切れた。




