騎士団長は悪女には勝てない
ヤバい。まずい。
今までこれほどの強敵がいただろうか。
馬車の中から小さな手をおずおずと差し出した妻を前に、ハロルドは冷や汗を流した。
自慢じゃないが、竜を前にした時でさえ、これほどの危険を感じたことはない。
一挙一投足が死に直結するこの危機を、どう乗り越えようか。
(この手を取れと? 無理だ、絶対折れる。ならば交渉だ。上手く言いくるめろ。上手く……。駄目だ、出来る気がしない)
「あの……」
か細く可愛らしい声が、ハロルドの苦悩も警戒も簡単に踏み越えてきた。
「ハロルド様」
「ぐふっ」
どすっ。
上目遣いの名前呼びという、重い一撃がハロルドの胸を貫く。
「も、申し訳ありません。何か粗相をしましたでしょうか」
さらに涙目の謝罪でたたみかけてきた。
(何だこの破壊力。竜のブレスより強いんじゃないか?)
どすっ。どすっ、どすっ。
今度は左右の腕と背中に物理的な衝撃。副団長、執事、侍女長の肘鉄だ。三人が皆、目線と口パクで『エ・ス・コ・ー・ト』伝えてくる。
(くそ。分かってる)
恐る恐る小さく細い手を取った。
(うわ、ちょっとでも力を入れたら折れるぞ、これ)
妻の手は、見た目からの想像以上に小さくて細かった。おまけに柔らかい。
ハロルドは絶対に力を入れないよう、指をミリも動かさないでそうっと馬車を下りる妻をエスコートした。
といってもただゆっくりそろそろと降りるのを先導しただけである。
貴婦人をエスコートしたことなど生まれて初めてだ。一応知識だけはあるが、力加減など本気で分からない。
(怖ぇ。手汗がすごいんだが。うちの砦の中ってこんなに広かったか)
部屋までがおそろしく遠く感じた。
****
「はあぁ、疲れた」
「ぶっ」
人生初のエスコートを終えたハロルドが、片手で顔をおおってぐったりとソファーに身を預けると、副団長のレイが吹き出した。侍女長のメルセデは妻の身支度を手伝っているためこの場にはいない。
「いやあ、団長があんなにガチガチになるとは思わなかったっす」
「なるだろあれは」
レイのからかいに乗るのも面倒で、投げやりに返す。
初めて顔を合わせた妻は色々、諸々。思ってたのと違った。
妻であるカリーナとの結婚が決まったのは、ほんの一ケ月前のことだ。
第一皇女カリーナ・レ・アルビオン。
金を湯水のように使い、素行も悪く性に奔放。妹の第二皇女の婚約者にしつこくつきまとい、ついに妹の毒殺まで企んだ。
幸い未遂に終わったが、元々決まっていた隣国の王子との婚約は破棄。ゼノ領の国境警備騎士団長とはいえ、単なる騎士爵のハロルドにあてがわれるという、異例の降嫁となった。
要するに、扱いの困る高貴な罪人の流刑である。
ゼノ領は魔獣が数多く生息する森に隣接している。陥落すれば深刻な魔獣被害に見舞われるため、国防上重要な場所だ。
しかし常に魔獣との戦いの最前線。給料も危険度も高い。ここに集うのはよく訓練された正規の兵士ではなく、腕に覚えのある荒くれ者と命よりも金を必要とする貧乏人、各所から飛ばされてきた訳ありたちなど。
ゆえにゼノ領は辺境の流刑地などと呼ばれているのだ。
さらにハロルドはこの間、竜を撃退した。竜殺しの英雄となれば何かしらの褒美をやらなければならない。皇室としては厄介払いと褒美の両方を解決できるわけだ。
別に妻など欲してないハロルドからすると迷惑な話だが、皇帝の勅命とあらば一介の騎士が断れるはずもなく。渋々受けた。
といっても使者から皇帝の勅命を伝えられ、是と答えただけで婚姻はすみやかに受理され、たった一ケ月で妻がやってきた。皇都から一ケ月の道程であるから、ハロルドの返事が皇帝に届く前に出発していたのだろう。
はっきり言って準備もくそもないが、皇帝から見放された悪女だ。こちらとしてもゼノ領流の歓迎で、性根を叩き直してやろうと意気込んでいたのだが。
「いっそ噂通りの悪女の方が良かった」
「そうっすねぇ」
レイがしみじみと同意する。
馬車から姿を現したのは、美しく妖艶な悪女ではなく、儚く気弱そうな少女だった。
さらさらの銀髪に溢れそうな深緑の瞳。白い肌。小鳥のさえずりのような声。
我儘な悪女の鼻っ柱を折ることばかり考えていたハロルドは、完全に虚を突かれた。頭の中が真っ白になったところに。
不意打ちで柔らかく落ち着く魔力と痺れるような甘い香りが直撃した。
正直、雷撃でも喰らったかと思った。一瞬時間が止まり、再起動した時にはどうしようもない高揚。目の前の女に何もかも捧げ、代わりに味わい尽くしたいという欲望に襲われた。魅了だ。
(あれはマジで危なかった)
目の前にいたハロルドだけでなく、共に迎えに出た騎士団員や使用人たち全員がやられた。軽い威圧を使って自身と団員、使用人たちを即座に鎮静させ、平静を装ってエスコートしたが、完全に魅了を打ち消せなかったのか。ずっとふわふわと気持ちが不確かだった。
「竜の加護が妙な形で出たみたいだな」
皇国は数百年前に竜と守護の契約を結んでおり、皇族には国の守護竜の加護がつく。皇族を守るための加護で、敵意や悪意を退け、敬意と好意を向けられやすい。これによって皇室は高いカリスマ性を誇っている。
この『敬意と好意を向けられやすい』加護が、カリーナに強すぎるほど出ていた。
本来は皇族の身を守るための加護が、変に強すぎて周囲の人間を狂わすほどになってしまっている。
「あの容姿で強い魅了となると。可哀想に。さぞ悪気のない悪意にさらされてきたんでしょうねぇ」
「だろうな」
ハロルドたちを見る怯えた瞳。エスコートを受けた小さな手は震えていた。男だけでなく女性にも怯えていたから、人間不信なのだろう。
守護竜の加護の本質は皇族を守るものであるし、皇女という身分もある。実際に手を出されてはいないだろうが。
「メルセデでございます」
「入れ」
扉を開けて入ってきた侍女長は、ぴんと背筋を伸ばしたまま珍しく言いよどんだ。
「奥様のお支度が整いましたが」
「何かあったか」
「消えかけていますが、お体に鞭の痕があります。それに、私たちが手を上げる仕草に怯えた反応をなさるんです」
「皇室のくそが」
ハロルドは短髪をぐしゃりとかき上げた。
「どうするっすか」
「どうもこうも」
皇室への怒りはひとまず置いておく。大事なのは妻だ。互いに望まない結婚で、見知らぬ他人であるからこそ向き合わねばならない。
「当初の予定通り、ゼノ領流の歓迎だ」
****
「堅苦しい挨拶は抜きだ」
恐怖と緊張でさらに小さくなっているカリーナの隣で、ハロルドはエールの入った杯を掲げた。
ちなみに普段通りの顔をしているが、相変わらずハロルドも緊張している。魅了は断ち切ったはずなのに、カリーナがいると心拍数が上がるから困る。
砦の食堂にはずらりと団員たちや使用人が集まっている。卓には大量の料理と酒が用意してあった。
「新しい仲間を祝して。乾杯!」
「「「かんぱーい!!」」」
「ひゃっ」
怒号のような乾杯の声にカリーナが小さな悲鳴を上げる。ハロルドはそんなカリーナの前に杯を差し出した。
「見ての通り、ここには皇都のような上品な連中はいない。貴婦人の扱いは出来ない。綺麗なドレスも宝石もない」
ハロルドはゼノ領生まれでゼノ領育ちだ。ここの暮らししか知らない。
国境警備騎士団長など実質ならず者の頭領みたいなものだ。盗賊と間違えられそうな人相の連中を無理矢理まとめ上げている。年がら年中魔獣討伐に明け暮れ、血やら汗やらで泥々の毎日。
だが、そんな毎日が好きだ。
「俺は貴女の夫で貴女は俺の妻だが。お互いに望まない結婚だ。だからまず夫婦じゃなくて仲間にならないか」
大きな緑の瞳が揺れた。杯を持つ手がさらに震えた。
ハロルドは少しでもカリーナの恐怖を和らげようと、跪いて目線を低くする。なるたけ柔らかく微笑んで、杯をカリーナの前に掲げた。
「ここでは、一緒に酒を飲んで食えば仲間だ。仲間は全力で守る。俺に貴女を守らせてくれ」
「わ、私が仲間になっていいのですか」
「ああ」
緑の瞳が潤み、みるみる透明な液体が盛り上がる。桜色の唇がわなないた。
「ふぇっ」
「え」
(うわっ泣かした。ど、どうすりゃいいんだよ、おい。泣き顔可愛い‥‥‥って違う!)
混乱して固まっていると、こつんとカリーナの杯が当たった。カリーナがぐいっと杯をあおって一気飲みする。
「新しい仲間に乾杯!!」
「ゼノ領にようこそー!」
わあっと会場が湧いた。
「いい飲みっぷりっすな」
「おかわりいりますか?」
「いきなり泣かすなんて悪い男っすよね」
「蹴飛ばしてやったらいいですよ」
「俺が代わりにやったげましょうか?」
わらわらとカリーナの周りに集まって騒ぐ。言い含めていたので一定の距離は保っているが。
ここにいる限り慣れるしかないとはいえ、人間不信なのにガラの悪い男どもに長時間囲まれるのはストレスだろう。
「調子に乗るなよ、お前ら!」
「がははは!」
「退散ー!」
頃合いを見て一喝すると、各々の席に戻ってそれぞれバカ騒ぎの続きを始めた。
カリーナは最初のように一気飲みせず、ちびちびとエールを飲んでいるが、表情が渋い。
「大丈夫か」
「あ、ごめんなさい。大丈夫です、苦いだけで」
「あー、エールは初めてだったか。こっちの葡萄酒にするか? 高級なものはないんだが、甘いから飲みやすい」
それにしても、元皇女にしては口調が砕けている。
エールは平民の飲み物だから口に合わなかったかと思ったが、単に苦味が苦手なだけのようだ。料理も中々手をつけなかったが、取り分けてやった料理を美味そうに食べた。遠慮していただけだったらしい。
(それにしても)
料理をよそってやると、嬉しそうに笑う。可愛い。
(いやいやいや、仲間だって言ったからな。手は出せん)
ぐいっと冷えたエールを飲み干したが、妙な火照りが冷めない。
「美味しいです」
甘い葡萄酒は気にいったらしい。頬を染めてふにゃりとした笑顔をハロルドに向けた。何かが胸にどすっと刺さって、エールを吹き出しそうになるのをすんでのことで堪えた。危ない。
「良かったな」
平静を装って、ぽんぽん、とカリーナの頭を撫でた。無意識だった。
やってしまってから我に返る。
(なんで撫でた、俺ーー!?)
相手は人間不信の男性不審の女性だ。今日会ったばかりの男に頭を撫でられたら恐怖だろう。しかもたった今守らせてほしいと言った相手に、嫌なことをされるなど裏切り行為だ。
「えへへ」
引っ込めようとした手を掴まれた。頭に置き直される。
「それ気持ちいいです」
「お、おう」
すりすりと頭をハロルドの手にすりつけた。
酔ってる。絶対酔ってる。
「もっとして下さい」
酔いに潤んだ瞳と、鼻にかかった熱い吐息。
(うおおおおおお)
ブチ切れそうになる理性と戦いながら、ハロルドは頭を撫で続けた。
カリーナはやはり悪女だ。それも最強の。
****
「はあぁ、疲れた」
「ぶっ」
片手で顔をおおってぐったりとソファーに身を預けると、副団長のレイが吹き出した。
このやり取り、一体、何度目だ。
カリーナが来てから、一ケ月が経った。
彼女の怯えは少しずつ消えている。団員たちが勝手に踏み越えるせいでもあるが、必要以上に距離を取らなくなってきた。特にハロルドに対しては困るくらいに距離が近い。
体の傷も回復薬を塗ることで薄くなった。ゼノ領の回復薬は市井に出回っているものより効果が強い。あと少しで消えるだろう。
カリーナはよく働いた。掃除・洗濯・料理さえ出来た。時にハロルドの書類仕事さえ手伝った。
教えて出来るようになったのではなく、最初から手際がよかった。皇女であった時から日常的にやっていたということだ。
「仲間と言ってもらえたのがすごく嬉しくて。ハロルド様も皆さんも普通にして下さるから」
無理をしなくていいと言うと、そう、花が咲くように笑う。眩しくて目がくらむ。
「あの」
「あ、ああ」
恥ずかしそうに頭を差し出してくる。ハロルドはさらさらと気持ちのいい彼女の頭を撫でた。
十分すぎるほど働いてくれるから、何かほしいものがないかと聞いたらカリーナの要求はこれだった。
カリーナは何かがほしいとか、何かをしてほしいという要求を全くしなかった。ハロルドや他の者たちがしつこいくらい聞いて、何度も『言っていい』と言い聞かせて、やっと頭を撫でてほしいとだけ言った。
「えへへ」
頭を撫でると、カリーナは年齢よりも幼く笑う。頬を薔薇色に染め、幸せそうに溶けた笑顔を見せる。可愛い。
つられてハロルドも笑みを浮かべ、さらにぽんぽんと頭を撫でると。カリーナが両手を広げた。
「ん?」
「ぎゅっとしてもいいですか?」
「は!?」
ハロルドはずざざざっと音を立てて後ろに下がった。
(ぎゅってあれか。抱きつくつもりか。そんなの理性がもつか!)
一ケ月経ってやっと二つ目の要求だ。応えてやりたい。が、ハードルが高い。
「嫌ですか」
(くそ、しゅんとした顔するんじゃない!!)
「い、嫌ではないんだが、なんというか」
ぶんぶんと横に頭を振ると「良かった」と微笑んだ。
「メルセデさんが、私も人に触れる練習をしてみたらいいんじゃないかって。ハロルド様からは絶対にしてくれないから、私から言った方がいいと」
「それならメルセデに抱きついたらいいだろう」
「私、練習相手なら一番信頼できるハロルド様がいいです。駄目でしょうか」
(出た、上目遣いっ。だからそれ、破壊力強ぇんだよ!)
勝てるわけがない。観念して両手を広げると、嬉しそうに近寄ってきたカリーナを包み込む。
小さくて柔らかくていい匂いがした。
(って、うぉぉおおお)
ハロルドは、ガン!と近くの壁に額を打ちつけた。
「ハロルド様!?」
驚いたカリーナがハロルドの頬を掴む。身長差があるから、うんしょうんしょと背伸びをしている
「大丈夫だ」
(可愛いすぎるので離れてほしい。お願いします。マジで)
信頼してくれるのは嬉しいのだが、肝心のハロルドが彼女の信頼を裏切らないか気が気じゃない。
「大丈夫じゃないです。かがんでください」
壁程度でどうにかならないから本当に大丈夫なのだが、カリーナが納得しそうにないので大人しくかがんだ。
額に柔らかい感触と共に、温かい清涼な何かが流れてくる。
治癒力だ。
「ありがとな」
懐かしい心地よさに、熱くざわついていた心が落ち着いてくる。今度は変な気分にならず、自然にカリーナを抱き締めた。
荒ぶる精神の鎮静。これも治癒力の効果だ。
かつて暴れまわっていた竜は荒ぶる魂を聖なる乙女に鎮められ、皇国の守護竜となった。以後、他の竜や魔獣の侵攻から国を守り、乙女の血族である皇族の血に加護を与え続けている。
(呪いのような執着ともいえるが)
守るための加護が結果的にカリーナに不幸を呼んでいる。当の守護竜も無意識だったから質が悪い。
(守護竜の呪縛からも、望まない結婚からも解き放ってやらないとな)
結婚を受けた当初から決めていたことだが、心が冷えた。痛みすら覚えるほどに。
痛みを胸の奥底に封じ込める。
カリーナは聖なる乙女ではない。彼女に全てを背負わせなくていい。そのために妻としてではなく仲間として受け入れた。たとえハロルドの手から離れようと仲間は守る。
「いえ。団員の皆さんにいつもやっていることですから」
「うん?」
「訓練って危ないんですね。よく怪我をしてるみたいで」
「それで治してやっていると? 魔獣討伐の時じゃなく訓練での怪我だけを」
「はい」
「ほぉお」
初耳だ。
「あ、あの、団員の皆さんには手を当ててるだけです。さっきみたいにおでこに口をつけたのはハロルド様だけで」
(あいつら)
訓練で怪我を負うことはもちろんあるが。ほぼ毎日行っている魔獣討伐の方が怪我の頻度は高く、その時はカリーナの世話になっていないということは。
(わざとしょうもない怪我をして、カリーナに構ってもらっているな)
団員たちの魅了も切ったはずだが。普通に可愛い女の子に群がっているらしい。
(あいつらは後でしばくとして。いかん。悪い虫がつかないか心配だ)
砦から出ることがないから失念していたが、そもそもゼノ領は犯罪者まがいの奴らが多い。せっかく慣れてきたのに、そいつらが魅了にかかったらまたカリーナが傷つく。ずっと側についているわけにもいかないのだから、守りがいる。幸い今は治癒力で鎮静されているから大丈夫だろう。
「カリーナ、ちょっと目をつむってくれ」
「はい‥‥‥ひゃんっ」
素直に目をつむったカリーナの額に口づけると、ふうっと息を吹き込んだ。
「は、ハロルド様」
「お返しだ」
真っ赤になったカリーナに意地の悪い笑みを向ける。いつもハロルドばかりやられているのだ。一度くらいの仕返しもいいだろう。
「もう一回」
「は?」
「もう一回してください」
「断るっ」
(嘘だろ。速攻で反撃だと? 勘弁してくれ。もう鎮静効果消えるんだぞ)
「嫌ですか?」
「いや、嫌じゃなくてだな。ええい」
ちゅっと額に唇を落とし、ハロルドはその場から脱兎のごとく逃げ出した。
「今日はこれで終わりだからな」
『今日』が終わったから、と。翌日から頭を撫でるだけでなく、抱き合ってお互いの額へのキスが追加された。ハロルドはなぜ『今日は』をつけてしまったのか後悔した。
ちくしょう。やっぱり悪女には勝てない。
****
さらに数カ月が経った頃、領主が汗をふきふき砦にやってきた。特段熱い日でも、暑がりな体質でもないから冷や汗だろう。
「どうします?」
「どうもこうも。しがない騎士が断れるわけないだろ」
「えー?」
領主が置いて行った皇室からの手紙を、ハロルドはぞんざいに机に投げた。
手紙は妹の第二皇女と隣国の王子との婚約パーティーの招待状である。ぜひ夫婦で参加してほしいとのことだった。
「残念そうにするな。竜殺しの英雄と降嫁しても元皇女の凱旋だ。騎士のパレードも必要だろう」
「そうこなくちゃ。大隊くらいいっとくっすか」
「移動と食い物に困るわ。小隊で十分だ。声かけとけ」
投げた招待状を手に取り、ハロルドは身をひるがえした。
「カリーナ」
「ハロルド様」
礼拝堂の掃除をしていたカリーナに声をかけると、ぱあっと表情を明るくした。カリーナはすっかり明るくなった。ハロルドを見るといつもこの表情を見せてくれる。
一緒に掃除をしていた使用人に目くばせすると、すっと退室する。察したカリーナが掃除道具を置いた。
「あまりいい知らせじゃないんだが」
招待状を見せると、さあっと顔色が蒼くなった。ガタガタと震え始める。
人に対する怯え。体に鞭の痕があったこと。手を上げる動作に対する反応。家事に手慣れていたこと。
カリーナは日常的に虐待され、不当な労働をさせられていたのだろう。皇女としての扱いをされず、尊厳を踏みにじられてきた。家族である皇族によって。侍女や侍従は皇族の意思に追随していたと思われる。
「出席するのは俺だけでも構わない。カリーナはどうしたい?」
「わ、私は」
ハロルドは初日の誓いと同じように、跪いて目線を低くした。カリーナの言葉をじっと待つ。
「わ、わた、わたし」
カリーナの喉がひゅっと鳴った。かふかふと変な呼吸をする。
「カリーナ」
冷たくなった小さな手を取った。両手でそっと包む。
「大丈夫だ。どんな決断をしてもいい。無理に向き合わなくても構わない」
「ハロルド様」
ぽろぽろと透明な涙をこぼし、緑の瞳が燃えた。
「私、行きたい。強くなりたい」
「そうか」
ふっと笑い、少し温もった手に唇を落とした。
「どんなことがあっても、あらためて貴女を守ると誓おう」
****
皇都までは通常なら一ケ月かかる。パーティーの日付は一ケ月後。はっきり言って普通なら間に合わない。
なにせゼノ領にまともなドレス店などない。皇都に着いてからドレスを用意しなければならない。既成のドレスを買うにしても、手直しに時間もかかるらしい。他にも靴やら宝石やら。用意するものは山ほどあり、すぐ店で買えるものばかりじゃない。
さらにパーティーにいるものだけでなく、道中の食料などの準備などもあるのだ。
おそらく皇室はそれを見越して招待状を送りつけている。
結婚の時といい、全くもって舐めた話だ。
「ま、普通ならな」
カリーナをエスコートしながら、ハロルドは鼻で笑った。
皇都までは馬車では一ケ月だが、飛竜なら半日もかからない。
余裕をもって皇都に着き、必要なものをそろえた。
といっても飛竜を移動手段に使うなど、ハロルド直下の隊でないと無理だ。
竜は基本的にプライドが高く人を乗せたりしない。個体数も少なくて、群れることを嫌うから、今回のように隊列を組んで飛行するなど普通は不可能なのだ。
ちなみに飛竜は一番近くの森に待機させている。
「ゼノ領国境警備騎士団長夫妻、ハロルド様。カリーナ様、ご入場」
ざわっ。会場に雑音が走り、無数の不躾な目線がこちらを射抜く。ハロルドの腕に添えたカリーナの手がこわばった。
反対の手で軽く叩いて微笑むと、ふわりと笑った。いつも可愛くて綺麗だが、赤と金のドレスと宝石をまとった今のカリーナは特段に美しい。
「よく来てくれたわね、カリーナ姉様」
カリーナと同じ銀髪の女が、男を連れて近づいてきた。カリーナの妹の第二皇女と婚約者の隣国の王子だ。
第二皇女はそれなりに整った顔だが似ていない。王子の方は気持ちの悪い視線をカリーナに向けていて不快だ。消し炭にしてやりたい。
「ふうん。田舎の騎士のわりに悪くないわね」
すっと第二皇女の手がハロルドの顎に伸びてきた。手袋ごしでも触られるのは嫌なので、半歩さがって避け……る前にぺしっと叩かれた。カリーナが横から叩いたのだ。
「おお」
「なっ」
成長したなぁと感心するハロルドと、信じられないと顔を歪ませる第二皇女。どよめく野次馬と化した貴族たち。
「ぶ、無礼な! いくら姉でも今の貴女は皇族ではないのよ!」
「申し訳ありません、皇女殿下。ですが、妻の目の前で夫に手を出す方が無礼ですよ。皇族にあるまじき行為ですので、お諌めいたしました」
赤と金のドレスの裾を持ち上げ、美しいカーテシーをした。
どんな不敬や無礼もどうとでもしてやるから萎縮するな、信じろとは伝えていたが。堂々としたものだ。
男女関係なく周囲の視線がカリーナに集まり、異様な熱を帯び始めた。魅了だ。
「これだから嫌いなのよ」
ぼそっと呟いた後、手袋を外して両手を上げた。
「はい、皆さま注目!」
パアン!
かかげた手を第二皇女が打ち鳴らすと空気が変わった。
「酷いわ、酷いわ、お姉様。前の婚約者を奪っただけでは飽き足らず、殿下を誘惑するなんて」
「ああ。君のような愛らしく素敵な人がいるのに、下品な悪女なんかになびくものか」
芝居がかった大きな声で、これみよがしによろめいてみせる第二皇女を、王子が受け止める。茶番も茶番である。
「まあ。あの悪女、今度は自分の元婚約者を誘惑ですって」
「他人のものを取らないと気が済まないのね。なんて強欲なのかしら」
「なんて節操なしなんだ。あんな悪女に引っかからなくて良かった」
「見ろよ、あの誘うような目」
「いやらしい」
ひそめられもしない悪意の言葉が伝染していく。
(ちっ。魅了の加護を言霊にしてやがる)
強力だが無差別で制御の効かないカリーナの魅了と違い、対象を絞りピンポイントに使うことで効果を強めている。
カリーナの顔色が蒼白くなった。小さく震え始める。
当たり前だ。回復してきたのはつい最近の数ヵ月のこと。悪意にさらされ続けた年月の方が長い。
ハロルドはカリーナの肩に手を置き、耳元で囁いた。
「大丈夫だ。カリーナは悪くない」
震えが止まった。すううぅっと音がするほど大きく息を吸った。
「私は! そこの王子なんてどうでもいい! 私のものを欲しがったのは妹よ! 勝手に決めて、勝手に取り上げて、勝手に追いやられただけ。あなたたちだって。私はあなたたちなんか誘惑してない! 変な目で見るのはあなたたちよ! 気持ち悪いっ!」
一気に叫んで叫んでぜぇぜぇと息を切らした。
(おお、カリーナの大声初めて聞いた)
「よく言ったな」
息を切らすカリーナの頭をぽんぽんと撫でると、晴れやかな顔で笑った。綺麗だ。
「ええい、第二皇女を叩いたのだ。大逆罪には違いない。二人もろとも捕らえよ!」
初老の男、皇帝がカリーナとハロルドを指さした。わらわらと騎士たちが向かってくる。
ハロルドは会場全体に威圧を放った。軽いものではなく、普通に。
ガシャァアアン。
魅了がとけただけでなく、数人が昏倒した会場の窓ガラスが割れた。
「っ!?」
「ゼノ領国境警備騎士団長ハロルドが皇帝陛下にご挨拶申し上げます。この度は私めに大事な皇女殿下を下さったこと、深く感謝しております」
「あ‥‥‥あ、う‥‥‥」
「しかしながら、陛下。ゼノ領の成り立ちと役割を忘れられたようですね」
「あ、あれは‥‥‥」
「ただの建国神話に決まってる、だろ?」
でなければこんな舐めた事態になってはいない。
窓の外には50体ほどの飛竜が宙にとどまっていた。竜は翼ではなく魔力で飛ぶ。空中での静止も苦ではない。
ハロルドはぐるりと城と、城の外に広がる国土を見渡した。
乙女が死んでから約800年。彼女の血族だった皇族、彼女の愛した国土に当時の面影はどこにもない。彼女の愛した皇国は、とっくの昔になくなっていた。
「そうだよな。もう、おとぎ話でいい」
ため息のように言葉を吐き出すと。
「っつーことで、もう手を引くわ」
守護竜の加護を断ち切った。
「それとこれは、俺らを舐めてくれたお礼と、カリーナへの今までの待遇への礼だ」
カリーナを横抱きにして、一際大きな竜の背に飛び乗ったハロルドは、命令を下す。
『屋根だけ派手に吹き飛ばせ』
『了解っす』
竜のブレスが城の屋根を跡形もなく消し飛ばした。
****
「よっ、と」
「ありがとうございます」
ハロルドは飛竜の背中から飛び降り、抱えていたカリーナをそっと地面に下ろした。
「いやあ、屋根吹っ飛ばした時の奴らの顔! 見物っしたね!」
砦の前で人間の姿に戻った副団長のレイが、からからと笑った。飛竜たちもどんどん団員たちの姿に戻っていく。
竜と乙女の子孫たちは人間と竜の混血であり、どちらの姿も選べる。といってもゼノ領の大半の人間は、竜の血を引いていないか、引いていても薄い。外から入ってくる人間も多いので、いつか普通の人間ばかりになるだろう。
「ハロルド様は、守護竜なのですか」
「いいや。守護竜は死んだ。俺はただの人間だ」
嘘ではない。ハロルドは人間だ。ただ、守護竜の魂を持っているだけの。
「さてカリーナ。貴女はこれで本当の自由だ」
あれだけ力を見せれば、皇室はもうカリーナに手出ししないはずだ。もし手出ししてきてもねじ伏せる。
「もう貴女を縛るものはない。俺の妻じゃなくなっても貴女は仲間だ。変わらずに守る。どんな選択をしても受け入れる」
ハロルドは守護竜の魂を持っていて、カリーナは乙女の魂を持っている。加護が強すぎて、つまはじきにされたのも、望まない結婚をさせられたのも運命だったのかもしれない。
だがハロルドは運命に縛られたくない。カリーナにも縛られてほしくない。
運命の一言で片づけるのではなく、何者にも縛られず、自由なままで。
「愛している。生涯俺の妻でいてほしい」
ハロルドを選んでほしい。
カリーナの瞳から涙がこぼれた。
「愛しています。私は、ハロルド様の妻でいたいです。ずっとずっと一緒にいたいです」
立ち上がったハロルドは、愛しいカリーナの額ではなく唇にキスを落とした。カリーナが涙に濡れた瞳でハロルドを見上げる。
「……キス以上のことも、してほしいです」
(うっ)
やっぱり悪女には勝てない。
****
皇国は象徴である城の半壊により、多額の借金を背負った。第二皇女と隣国の王子との婚約は破談。経済の崩れた皇国は内乱が起き、それに乗じた隣国から侵略戦争を仕掛けられるが、ゼノ領領主によって退けられた。
ゼノ領領主率いる騎士団の英雄譚は、また別の話である。