0-3 オリヴィアの企み
オリヴィアの下につくことを拒否した。
嫌がらせは、今までのような温いものではなく、苛烈を極めるだろう。
どう対処すべきか? 私は一人静かに考えようと、例の空き教室に向かう。
「いらっしゃい、アーニャ嬢」
空き教室に入った私を、エラン殿下が出迎えた。
「……今日もサボりですか?」
エラン殿下はネクタイを雑に緩めた姿で、机の上に座っている、手には一冊の本。表紙を見るに、格調の高い文学書ではなく、市井に出回っている娯楽小説のようだ。
「まあ、そんな所かな。ここでの事は、互いに目を瞑る。そういう協定だ。君も、楽にするといい」
エラン殿下はウインクする。
よし来た! 私は空いてる椅子にどっかりと座ると、靴と靴下をぽいっぽいっと投げて素足になった。ぐーーーーっと伸びをする。
「あ~~! 面倒くさいなあ!」
私は遠慮なく心の内を吐露する。
「何か面倒事でも?」
「ええまあ。元庶子の伯爵令嬢、学園で面倒に事欠かないのは、推測できるでしょう?」
流石に、あなたの婚約者のせいで困っています、とは言えない。
私は、じっとエラン殿下を見る。
そういえば、殿下はあの婚約者のことを、どう思っているのかしら?
少し探りを入れてみようか。
「ああ殿下、ここに来る前、オリヴィアさまにお会いしましたよ」
一瞬、ほんの一瞬だが、エラン殿下の顔が曇ったのを、私は見逃さなかった。
「……そうか。彼女と何か?」
「いいえ。特別な事は、何も」
エラン殿下は本を閉じる。真剣な面持ちになって、私の目を真っ直ぐ見詰める。
「君は、大抵の面倒事なら自分で対処できそうだが……。本当に困ったことがあれば、僕に言うといい」
「……ありがとうございます」
エラン殿下は一つ頷くと、読書を再開する。
ふーむ。どうやら、エラン殿下が一方的にオリヴィアに不満を持ってそうだなあ。
まあそうか。あんな嫌な女が相手なら、それも仕方のないことだ。
国に婚約者を決められて、しかも相手は底意地の悪い女。王子様っていうのも、大変なものなのねえ。
*
学園内を一人歩く。
まだ、連中の動きはないが、常に警戒しておくべきだろう。
注意深く視線を走らせながら歩く。
廊下から階段へ。
すると、丁度階段の下から上がってくる人物がいる。その金砂の髪に思わず視線が留まった。
「あっ、エラン殿……」
ドン! 階段の上で背中を押された。
足が空を踏む。
や……ば!
思わず目をつぶり、襲いかかる衝撃を覚悟する。
「危ない!!」
叫び声、そして覚悟していたよりも、ずっと弱い衝撃を覚えた。
「大丈夫か、アーニャ嬢!」
「あっ……」
目を開け見上げると、すぐ近くにあるエラン殿下の顔。
どうやら、エラン殿下に抱き止められたらしい。
ドク、ドクと、心臓が早鐘を打つ。冷や汗が背筋を流れた。
冗談じゃない! 余りに直接的すぎるやり口じゃない! 階段で背中を……って!
私はガバッと振り返る。しかし既に下手人の姿はない。
じっと誰もいない階段上を見る私に、殿下が囁くように言う。
「女生徒だった。が、落ちてくる君に意識がいって、誰かまでは……」
「そう、ですか」
まあ間違いなく、オリヴィアに指示された誰かだろう。
殿下の叫び声を聞きつけたのか、何人もの学生たちが階段の上に現れる。
一体何があったのかと騒めく学生たちの中に、オリヴィアたちの姿もあった。
さて、どうしたものか?
私が思案していると、エラン殿下が進み出て階段を上っていく。オリヴィアの前に立った。
「ごきげんよう、エラン殿下」
淑女の礼をとるオリヴィアに対し、エラン殿下は挨拶もせずに話し出す。
「オリヴィア・ラザフォード、我が婚約者よ。忠告は一度だけだ。未来の王妃たらんと欲するならば、今からでも王妃に相応しい振る舞いをすることだ」
低く這うような声だった。
エラン殿下は、オリヴィアの返事を聞くことなく歩き去る。
怒りを露わにしたエラン殿下に、集まっていた学生たちが一層騒めく。
「エラン殿下ったら、虫の居所が悪かったのかしら?」
人の目があるからだろう。オリヴィアはそんな言葉で取り繕いながら虚勢を張る。
取り巻きたちが、不安そうな面持ちでオリヴィアを見る。
オリヴィアはそれらの視線を受けながら口を開く。
「大丈夫、大丈夫よ。ええ、きっと『サミュエルの茶会』の席で仲直り出来ることでしょう」
その一瞬、オリヴィアの顔に虚勢の笑みとは異なる笑みが浮かぶ。
私の頭の中で警鐘が鳴り響く。私はあの笑みを知っている。
あれは、売春宿のやり手婆があくどい企みをしている時と同じ笑みだ。
*
オリヴィアは、取り巻きの中でも最も近しい者たちとだけで度々茶会をしている。
場所は決まって、学園の一画にある小さな庭園だ。
連中が悪だくみを話し合うとしたら、恐らくこの場所だろう。
そう当たりを付けた私は、庭園の生垣の中に全身を潜り込ませている。
ふふふ、下町出身とはいえ、いやしくも伯爵令嬢がこんな所に隠れているなんて、神様だって見抜けまい。
なんて自画自賛している間にも、枝が頬を引っ掻き、髪に絡まる。あ、痛い、痛い……。
私が痛みに耐えていると、オリヴィアたちが現れた。
彼女らは席につき、暫く他愛ない雑談を交わす。……こんな茶飲み話を聞くために、痛みを我慢しているわけではないのだが。
しかし、神は私に微笑んだ。
オリヴィアが給仕を終えた使用人たちを下がらせると、がらりと場の空気が変わった。
「エマ、例のものは?」
「こちらです、オリヴィアさま」
エマ、と呼ばれた取り巻きの一人が、机の上に小瓶を置く。
ガラス製の、親指と人差し指で摘まめる程度の大きさの小瓶だ。
オリヴィアは、小瓶を手に取ると目の高さまで持ち上げる。
「これが……」
「はい」
エマは緊張に満ちた声で答える。
「ティースプーン二杯分、エラン殿下がお飲みになる紅茶に混ぜれば、それで」
別の取り巻きが口を開く。
「給仕するメイドの一人は買収済みです」
オリヴィアは頷く。
「薬の出所も、買収したメイドも、足が付かないようにしなさい」
「はい」
オリヴィアは、邪な笑みを浮かべる。
「これで、殿下は私の思うがまま……」
これが、オリヴィアの企み。成る程、惚れ薬か、媚薬か……。
茶会の席で混ぜるなら、媚薬はないか。なら、惚れ薬だろう。
下町の中でも、最も奥深く、最も薄暗い場所では、そういうご禁制の魔法薬も売買されていると聞くが……。
法に触れる代物だ。当然、リスキーな品である。
馬鹿な女。婚約者なのだから、何もしないでもエラン殿下と結婚できるのに。
ちっぽけなプライドの為に、危ない橋を渡るのか……。あるいは、冷えいく婚約関係に危機を募らせたか?
どちらにせよ一緒か。彼女が、過ちを犯そうとしている事に、変わりはない。
それから、オリヴィアたちが密談を終え庭園を立ち去るまで待った。
私は生垣から脱出する。人目を避けるように、いつもの空き教室を目指した。