青くて醜いKの心臓
一年後、Kの心臓を食べることを条件に、Kは私のプロポーズを受け入れた。
「君なら僕の心臓を食べてくれそうだったから」
そう言って笑うKは、プロポーズをされたことよりも、心臓を食べてもらえることに強い喜びを感じているようだった。
「どうやら僕の心臓は青いらしくて」
「青い?」
「うん。青いらしいんだ。醜いよね」
私が否定するよりも先にKが手を挙げて制した。
「母がそう言ってたんだ」Kは続ける。「ああ……僕がこの世に存在すること、それ自体が我慢ならない。早くこの心臓を取り出してほしいよ」
嘆息するKの様子は結婚を決めたばかりの人間が示す一般的なふるまいとは遠くかけ離れていた。
*
そしてKとの新婚生活が始まった。一年限定とはいえ、それは私にとってすばらしい日々の始まりだった。
Kには青みのある食材を一切とらないというこだわりがあり、調理はKの担当となった。
たとえばある一日の献立はこうだ。
朝。
紅茶。黒パン。イチゴジャム。ハムステーキ。トマト。
昼。
ミートスパゲッティ。オレンジ。
夜。
パエリア。バターコーン。にんじんのグラッセ。赤ワイン。
青どころか、白や緑の食材もなるべく摂らない。青光りして見えるものすら体が受け付けないのだという。
「これ以上青いものを摂ったら血液まで青くなってしまうよ」
そう言ってエビを放り込んだKの口の中はごく普通の桃色をしていた。
心臓が青いのに血液は赤いなんてことがあるのだろうか。ふと疑問に思ったが、目の前に置かれたワインも瓶と液体とでは色が違う。
「どうかした?」
「いいえ」
Kを信じきれない自分を恥じながら、私はワイングラスに口をつけた。そしてパエリアのエビを剥きながら思った。Kと同じ食事を摂り続けたら、私の心臓は何色になるのだろうか、と。
*
Kはほとんど外出しない。理由はプロポーズ直後に判明している。空の青みがゆるせないのだそうだ。朝でも昼でも夜でも、空には幾分かの青みが含まれている。青を憎むKにとって、外出とは命の危険に等しいものなのだった。
私とKが知り合ったのはオンラインのプログラミング教室だった。講師であるKが画面超しに語る口調、その独特な話し方がどうしても忘れられなくて……私のものにしたくて。全十回の講義を終えた後、「わからないことがあったらいつでも連絡してください」という社交辞令を傘に、私はKにメールを送った。あなたが私と結婚したくなる方法を教えてください、と。
これにKは「僕の心臓を食べてくれるなら」と答えた。
*
「これ以上心臓を青くしたくないんだ」
Kは何度も同じ言葉を繰り返す。
「これ以上心臓を青くしたくないんだよ」
生姜焼き、きんぴら、茶わん蒸し、フライドポテト。
「青はダメだ」
レモン、コーラ、パプリカ、羊羹。
「青は絶対にダメなんだ」
春が過ぎ、夏が来て。秋が通り過ぎ、冬になっても。Kは同じ言葉ばかりを繰り返すのだった。
「これ以上心臓を青くしたくないんだよ」
*
だが結婚してそろそろ一年という頃になって、Kが申し訳なさそうにこう切り出した。「君に僕の心臓を食べてもらうのはやめた方がいいかもしれない」と。
これにはとても驚いた。驚きすぎて、手にもっていたはさみが落ち、艶のあるフローリングを傷つけてしまったほどだ。
「どうしたの急に」
「だって……こんなにも青い心臓を食べたら君の心臓まで青くなってしまうかもしれないだろう?」
体をぶるりと震わせたKは、本心から恐怖を覚えているようだった。
「君まで不幸にしたくないんだ」
「だったらどうしてプロポーズをした時に私に心臓を食べてほしいと言ったの?」
「どうしてだろう……もうわからない」
苦し気にKが言葉を吐きだした。
「こんな時だけれど」
頭を抱えるKに、私は一つの間を置いて言った。
「私、妊娠したみたいなの」
衝撃に言葉を失ったKは、正気に戻るや「それはダメだ」と言い切った。
「僕の心臓はきっと子供に遺伝する。だから絶対に産んだらダメだ」
「そんなのわからないわ」
「いいや。わかる。そして青い心臓をもって生まれた子供は必ず不幸になるんだ。僕のように」
「大丈夫。たとえ心臓の色が青くても私がちゃんとこの子に伝えるから。あなたは素敵よって」
「……素敵だって?」
「ええ」
「他の人間と違っているのに素敵だって?」
「ええ」
「よくもそんな嘘をつけるね」
「嘘じゃないわ」
「だったら証拠を見せてくれ」
いつになく激しい物言いに、しかし、私は冷静に返した。
「同じだからよ。私が唯一愛する人と。愛するあなたと同じ色なのに嫌う理由なんてない」
「……だったら」
長い沈黙の後、Kが拳を震わせてつぶやいた。
「だったらどうして母は僕を愛さなかったんだ。どうして僕をおいていなくなってしまったんだ。どうして……!」
吐き出された言葉には実に多くの意味が含まれていて、私はすぐに返事をすることができなかった。だがそれがよくなかった。Kは口を開かない私を軽蔑したように睨みつけると「もう君とは一緒にいられない。出ていってくれ」と告げたのだった。
そしてKは部屋に閉じこもった。食事もとらなくなった。どんなに泣いても、懇願しても、Kは自分の信ずるところを曲げなかった。
「出ていってくれ」
だから私は家を出た。Kを救うためには他に選択肢はなかったのである。
*
「ママ。おてがみきてたよ」
ふくふくとした指につままれたつややかな桃色の封筒、その色を見た瞬間、私は悟った。
「……ママ?」
「ごめんね。ちょっと待っててね」
速くなる鼓動をなだめながら、おそるおそる封を切る。封筒と同色の便せんには宛名と同じ筆跡でこう書かれていた。
『僕の心臓を食べにきてほしい』
この一文の下には、海が見える病院の名前、それにKの名前だけが添えられていた。
「ママ、どうしたの?」
「……なんでもないわ」
あれから何年もたったというのに、Kは私のことを覚えていてくれた。そして私に心臓を食べる権利を与えてくれた……。
「なんでも……ないの……」
青くて醜い心臓を食べさせたいと思ってもらえること、それは私にとって究極の愛情表現だった。あの日、Kはなぜ私に心臓を食べてほしいのかわからないと言った。けれど私にとっての答えは今も昔も一つだった。だからこの手紙は私にとってKからのラブレターに他ならなかったのである。そして私の答えも決まっている。今も昔も、変わらない。
しかし心臓を食べる日が来たということは……そして指定された場所が病院ということは。
「……ママ?」
「なんでも……ないから……」
震える手で思わず我が子を抱きしめる。我が子の奏でる健やかな鼓動を全身で感じながら、私はそっと涙を流した。
「……明日、一緒に海に行こうか」
了