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10# YOU GIVE A NICE DAY TO ME! -2

 午後五時。

 旧友、ガロ・アンガソとの約束が近づいていた。

 情報の代わりに足で稼いだ疲れを背負い、乙部は聞き込みを切り上げ押収品の分析状況を把握しておきたく鑑識セレツェ・モハエの元へ向かう。

 造りの重厚さが警察署より図書館を思わせる石造りの階段を上り、出た廊下で窓の向こうにその姿を見つけ手を挙げた。だが当のドアを開けたとたんだ。むしろモハエは顔を逸らす。途中だったらしい仕事へ戻る仕草はむしろ話しかけられること拒んでいるフシがあった。

「爆発物は手榴弾以外にもC4が連動。起爆装置の欠片が発見されました。パソコンが唯一の手がかりだったが、中に今すぐ引き出せるデータは残っていないのが全てです」

 つまりがっかりする顔を向けられ、嫌な思いをするのは自分だというワケらしい。理由を明かして報告は前置きもなくすまされ、確かに多少なりとも期待していた乙部の足は向けて繰り出す先を失い止まっていた。

「復元は試みますが、ここで結果を?」

 浴びる負のエネルギーを嫌うモハエが再び先手を打つ。

「どれほどかかる?」

 気がかりはその点のみだろう。

「さしあたってだけでも、三、四日」

 そこでようやくモハエと目は合っていた。だがそれでは意味がない、とは言えまい。

「分かった」

 うながし乙部は断りを入れる。

「ただ今日、明日、ここを去ることになりそうでね。結果の転送先を後で連絡させる。そっちへ頼むよ」

「もう?」

 帰るのか、などと言葉は端折られていたが、十分に読み取れるそれは表情だ。

「俺が来たいとムリを言ったこともある。色々状況も変わってね」

 詮索することなく小刻みにうなずき返しきモハエはやおら、別の話を切り出しもした。どうやらそれがここで得た唯一、愛想のいい情報らしい。ヘディラ警部補の意識が戻ったことを知らされる。

 ヘディラ警部補へよろしく。

 引き続き分析を託し握手を交わした。

 直後、入った送信元特定の通信へ耳を傾けつつ、乙部は足をメインモールへ向ける。時間が近づいていた。ガロが待ち合わせ場所に指定したカフェ「チェキ」へ思考を切り替える。

 もちろん「チェキ」は知らない店だ。ただ前もってホテルのフロントで聞くところによると、百貨店前に広場を併設したハボローネ最大のショッピングエリア、メインモールでオープンカフェをとして営業している「チェキ」は、いやでも目につく店だということだった。

 気付けば通り雨が作った水溜りのような影が足元から長く伸びている。見つめた視線を持ち上げ乙部は乾き切った黄色い町を見回した。車道を行くトラックや乗用車に紛れ、同じ場所へと歩くガロに出くわすのではないかと姿を探し、可能性を吟味して腕時計の時刻もまた読む。

 テロ予告時間まで残り二十時間。

 待ち合わせまではまだ三十分以上が残っていた。

 やはり少々、早い。

 やがて行き交う人に車を飲み込むように、べらぼうと広い敷地は乙部の前に見え始める。サッカー場ほどもある奥には平屋造りの百貨店が悠然と建ち、取りまきのように露天商のパラソルやベンチが実にゆったりした間合いで散らばっていた。空の高さも手伝ってか、賑わっているが混んでいる雰囲気はまるでない。中へと乙部も身を紛らわせる。中ほどまで進んだところで首を回しても補いきれない敷地の中を探し、身をひるがえした。

 と、それは百貨店ビルの傍らだ。パラソルとテーブルがひしめく場所はあった。あれが「チェキ」じゃないのか。うがるまま靴先を繰り出せばその中に、白い上下を着こんだ人物はやたらと目立ち浮きあがってくる。目を凝らしたディティールのくたびれ加減は麻だろうか。新聞を読む姿にまったくもってキザが変わらないな、と思う。いや、思うほどにそうだ、としか言えなくなるのだから妙なものだった。

 やがてその人物はテーブルにあったカップへと手を伸ばす。つまみ上げたところで見つめ続けた新聞からふい、と視線を上げた。赤茶けた肌の、少しばかり目と目の間隔がひらいた顔は近づく乙部をとらえる。

 ガロだ。

 確信した乙部の視界でガロはゆったり、カップをすすってみせた。戻して新聞をたたむとテーブルの隅へと押しやる。組んだ足ごとだ。乙部へと体を向けなおした。

 シワは増えても衰えた印象はまるでない。見せつけてガロは、並びのいい歯を白く乙部へ剥き出していった。


 オペレーティングルームのガラス越し、影が動いたような気がして前のめりだったそこから振り返る。

「チーフ」

 犯行予告が送り付けられて以降、通信を介し続けられていた会議がようやく終了したらしい。歩み寄ってくる姿に思わず曽我は声をもらしていた。

「今、何時だ?」

 問われて互いに時計へ振り返れば、そこで針は深夜、零時四十五分を指している。

「もう日付が変わったか」

 先に読んで百合草は吐き、ならって曽我もうなずき返した。続きのように百合草は、やおらこうも口を開く。

「全職員を呼び出せ」

 長引いた会議の直後だ。その指示が意味するところは明らかだった。聞き逃すことなくオペレーターたちは動き出し、曽我もすぐさま百合草へヘッドセットを差し出す。

「ブーンディアリに入りましたっ!」

 一番に返ってきたのは言う百々のバカでかい声だった。

「急に呼び出すな。突入態勢に入ったところだぞ」

 そこにハートの声も交錯する。

「空輸って物資じゃなかったの? あたし兵隊さんの中に一人なんだけど」

 どうやら乗った輸送機は、補給人員を乗せていたらしい。雑音の目立つハナの声もすかさず重なった。

「緊急ですか?」

 眼鏡のブリッジを押し上げているに違いない間合いを醸し出すのはストラヴィンスキーで、ただ乙部だけがやけにゆったり先を促す。

「……どうぞ」

 聞きながら手早くマイクを引き寄せ百合草は、しかしながら欠けている一名を呼びつけた。

「聞いているのか、レフ」

「応答は百々に任せてある」

 ぞんざいな一言にはまったく、と眉間を詰めるほかない。だがすぐにも百合草は気持ちを切りかえていた。

「全職員へ緊急連絡」

 放ち、アフリカの空の下で、向かって飛ぶその空の上で、夕闇近いマーケットの片隅で、息を詰めたアパートの一角で、そして日本にある小さなオフィスで、待機する誰もへ向かい告げる。

「上層部とWHOを交えた会議の結果、本バイオテロ対応の一環として一部、事実の公表が決定された」

 言うまでもない。それはこれまで隠し通すことで得て来た利益が見込めなくなったという証だ。

「公表される内容は空港におけるバイオテロの可能性と、使用される恐れのあるウィルス名。公開範囲に制限はない。公開の条件はこれより十時間後、実行予告八時間前において、持ち出されたウィルスが回収されなかった場合のみとする」

 頭へ刷り込め。

 言わんばかりの間が全通信網を覆った。

 経て静かに、言うまでもないことだが、と百合草は続ける。

「いったん事実を公表すればウィルスによる実害以前、人と物の流れの停滞。それらが招く混乱と経済的ダメージは必至かつ甚大となる。そして真に危惧されるのは、目に見えないがゆえに潜在的に続くだろう細菌への恐怖だ。すなわちたとえテロが未遂におわったとしても一度、事実を公表すれば事実上、成功したといわしめるだけの被害が生じることとなる」

 それはまさに百々が帰れないと喚いたことであり、大手を振って表へ遊びにも出られないと言う光景そのものだった。危機は見えぬうちに拡散し、降り注いで汚染すると、いつの間にか人々を蝕んでゆく。取り除いて洗い流す術がまだないならなおさら疑心暗鬼と世間はうろたえ、起きる混乱は曲げようのない力を放つはずだった。一度その混乱に落ちてしまえば元へ戻すなどと軽々しく口にはできない。むしろ元へ戻らぬための新しいルールは必要となり、それは何かを我慢しどこかへ犠牲を払うことなのか、それとも漂う死臭と共に生活することなのか、全くもって見通しは立たなかった。ただどちらをとろうと同じ顔と出会う当然のように信じられていた日常イメージは、ウィルスという自然の驚異の前にその説得力を失う。

「実行の阻止はもちろんのこと、ゆえに何としても公表を避けたい」

 百合草の語尾は希望とつづられていたが、口調は避けろと響いてやまなかった。

「よってウィルスの追跡と回収を最優先事項とし、並行して散布されている空港の特定とロン、ノルウェイ・ノワールの確保に残り時間、全力を注ぐこととする。以上。何か質問は? あれば今、ここで受け付ける」

 だとして切迫した事態に入れて意味のある横やりこそありはしなかった。そして目的をひとつとして各地で動くそれぞれに今さら確かめることもまた、だ。

「各自、身の安全と共に、十時間以内の成果を期待している」


 いくばくかの沈黙を経て、百合草が通信を締めくくっていた。

「だって」

 聞き終え百々はレフへ振り返る。

「分かっているな」

 そろそろ意思疎通もスムーズになって当然だ。返され百々も眉を開く。

「あたしたちが一番、ウィルスに近い」

「最優先事項だ。他に誰もいない」

「だから、そんなつもりで来たんじゃないんだってばぁ」

 嘆いた目へ飛び込んできたのは、火の見やぐらよろしく組み上げられた鉄塔だ。天辺で風力計が右へ左へ頭を振っている。

「あ。レフ、空港っ!」

 声は上がりジープの上で、百々も指を突き付け立ち上がっていた。いくぶん高くなった視線のおかげでいつからか、草原を切り開いて開墾しましたと言わんばかり土くれも剥き出しの滑走路と併走していたことにも気づかされる。それもそのはずと私用地のような国内線の空港は、出入り自由とフェンスがなかった。

「ご、豪快」

 むしろ本当に滑走路なのか。なぞって投げた視線の果てに、剥げたペンキが廃墟のような建物は揺らめく。

「何か見えるかッ?」

 だがレフが問うているのはそんなものではないだろう。強い日差しを嫌って百々はひたすら目を細める。

「飛行機、ないよ。飛んでも……」

 手をかざすと広すぎて一目では見渡しきれない空へ体をひねった。

「来てないし、人が見えない。だぁーれも、なぁーんにもないよっ!」

「離れるのはWHOの車両を確かめてからにするぞッ」

 否やハンドルは切られる。

「ぎゃあ」

 ジープは百々を振り落さんばかり、滑走路へと近づいていった。


 到着した七階フロア、その吹き抜けからハートは頭をのぞかせる。眼下に待機するオスロー警察の制服を確認した。気取られるだけで交通規制など出来はしなかったが同様に、いざとなれば周囲を包囲できるだけの警官は辻々にも待機している。出番があるかどうかはこれからの展開にかかっており、対峙して吹き抜けを取り囲む四つのドア脇にはこうして突入に備えた署員たちもまた張り付いていた。

 無論、空き家から人が出て来る道理はない。だが別の部屋ではつい先ほど、どこぞへ出掛けようと住人が姿を現していた。事前情報通りそれは屈強な男でもなければ正体不明のチンピラ風情でもない。子犬の散歩に身なりを整えた鼻歌交じりの老婆だ。鉢合わせた署員の対応は冷静かつ迅速で、知らぬ間に囲まれたこの状況に動転する彼女をとりなすと至って静かに部屋の中を改めている。シロと判明するにさほど時間はかからなかった。

 それら成り行きに突入のタイミングを奪われているところへ入ったのが日本からの一報だ。予定時刻はさらに数分ずれ込むことになり、仕切り直してハートはひとつ息を吐く。吹き抜けを挟んだ向こう側、同じく署員らを従えるストラヴィンスキーへと視線を投げた。

 突入する予定にある部屋の名義は双方ともがまるきり知らぬ名だ。しかしながらそれが何の証拠になるのか。嘘つきジェットが出入りしていたならなおさらだろう。

 軽く唇を湿らせる。

 指を呼び鈴へあてがった。

 押し込み、現れるだろう何某を待ち受ける。


 とはいえそもそもフェンスがないのだから、車両を探すといったところでガレージだとか、裏道だとか、皆目、見当がつかない。しかしここで機に乗り換えていたならそのどこかにWHOのマークが入ったトヨタ車は乗り捨てられているはずで、ひたすら百々は目ぼしい影を探して四方へ首を振り続けた。

 乗せてジープは滑走路をなぞるように走り続ける。前方にあった風力計が背後へ吸い込まれて行き、入れ替わりで滑走路の費えた先に管制塔らしきレーダーを乗せた建物は現れていた。格納庫だろうか、脇には木造の平屋も数棟並んでいる。

 だがそれだけだ。他に何もない。

「ごめんっ! あたし、車だけ見えなくなったのかもしれないっ!」

 と、吐いたその時だ。視界の中で何かは動いた。

 自分が移動しているせいかと百々はしばし目を瞬かせる。だが間違いない。管制塔と格納庫らしき平屋の間だった。まさに一台の車両は滑り込んでくると、百々たちへ鼻先を向けブレーキを踏む。立て続け中から人影さえもを吐き出してみせた。

 もう車のロゴなど関係ない。

 遠かろうとその立ち姿に覚えはある。

 通訳の女だ。ダメ押して釣帰りか。彼女はクーラーボックスらしき箱さえ肩から提げていた。

 追いついた。

 言葉が中で点滅する。

 反芻してのち口は開かれていた。

「い、いたっ! いたよレフっ! 通訳のお姉さん、あそこにいるっ!」


 ジリリとベルが鳴り、ヒステリックに住人を呼びつけていた。無視できそうにないけたたましさは、やがてドアの向こうに人の気配を揺らす。

 近づく足音にハートは耳をそばだてていた。

 急かして傍らで郵便です、と署員も声を上げる。

 疑うそぶりはない。だが性根は用心深いようだ。鍵が複数、解かれゆく音がドアを挟んでガチャガチャ鳴った。やがて前に立つハートを押しのけるようにして壁からドアは浮き上がってゆく。

 一方で呼び鈴は、そんなハートの背でも鳴らされていた。押し込んだ手を引き戻してしばらく、うつむきストラヴィンスキーもまた反応を待つ。

 出かけているのか。すでに逃げた後なのか。反応がないならもう一度だ。くどいほど長めに鳴らし耳を澄ませた。

 背後からはハート側のドアで、施錠の解かれる音がしている。邪魔だと意識からより分けたなら、残ったそこで響きはかすかと尾を引いた。正面からだ。ドアで塞がれかなりくぐもっているが、何か、音楽は聞こえていた。

 誰かいる。

 だが出てこない。

 音量のせいか。

 と郵便を受け取りに、吹き抜け向こうでドアは開く。短パンにTシャツ姿の、寝ぼけ眼を絵に描いたような男は玄関口へ姿を現していた。情報通り見てくれは二十代が妥当な若者で、先だっての老婆よろしく囲まれた状況に目を覚ますと、ハートが突きつける令状へ唖然とし、突入してゆく署員たちへ押し入られるがまま道を空けている。

「あれ、つまりここがアタリってことですか?」

 やり取りをうかがうストラヴィンスキーから言葉はもれた。

「じゃなきゃ、まずいってのもあるんですけど」

 待つ理由はもうないだろう。疑いだけにしては少々手荒だとしても考慮している事態でこそない。

 腰から銃を引き抜く。チェンバーへ弾を送って安全装置を解除し、背後の署員へ手を挙げた。

 従い防護服を着込んだ署員が前へ出るとドア横へ張り付き、残る全員が壁ぎわへなお身を寄せる。完了したところで防護服が振り上げたハンマーでノブをひと思いと叩き落とした。食らった勢いにドアは跳ね上がり、やんわり空を切ると開く。

 飛び込む前の一息は、ハボローネの二の舞を考慮してだ。だがそこから火は上がらず、聞こえていたメロディーの音量をわずかに上げただけだった。

 この先、防護服は動きづらいだけで出番がない。立ち位置を交代してストラヴィンスキーが進み出る。銃口は床を指したまま。メロディーの出所を探るようにそっと中へと片目をのぞかせていった。

 入ったすぐ左にリビングダイニング。その奥にベッドルーム。つなぐ廊下の途中にバスルーム。頭の中の見取り図と、実際、目にした立体を重ね合わせてゆく。同時に人影もそこに探すが、空間を満たしているのは滔々と流れる音楽のみで姿はおろか、揺れる影すら見当たらない。

 踏み込む前、足元へ、左右へ、視線を這わせた。

 息を整え、ワン、ツー、で身を翻す。

 銃口を肩の高さに、玄関を塞いで立った。

 ままに前進すれば銃をかまえた署員も後に連なる。うち三人を入ってすぐのリビングダイニングへ振り分けた。残りを従えさらに奥へ足を擦ってゆく。行く手に色があふれ始める。映画のポスターだ。どれほどうとかろうが忘れられる代物ではない。「バスボム」を始めスタンリー・ブラック作品のポスターは、あらゆる言語でバージョンで埋め尽くすほどに貼られていた。

「……ビンゴですね」

 背へ、リビングダイニングを確認していた署員が合流する。目配せで異常がなかったことを受け取りストラヴィンスキーは、突き当りに現れたドアへ静かにその身を寄せていった。

 この向こうだ。

 かすかだったメロディーは、薄い板きれを挟んだ向こうから今やはっきりと聞こえてくる。だとして決断に勢いだけはいただけないだろう。あえて間をおき儀式のように、重い瓶底眼鏡のブリッジを中指で押し上げていった。

 その手でゆっくりノブを握りしめてゆく。

 見て取った署員が狭い廊下をフルに使い、援護の態勢に入った。

 ポスターから投げかけられる視線は無数だ。見守られつつストラヴィンスキーはドアノブを、慎重にひねっていった。

 感触に違和感はない。わずか、手前へと引く。

 とたん隙間からバイオリンの音色は噴き出していた。

 浴びながら部屋の中へ目をのぞかせる。

 真正面だ。スチール製のパソコンラックの前に、背を向け置かれた椅子はあった。茶色い髪を乗せた頭はその背もたれから突き出ると、メロディーに合わせさも気持ちよさげと揺れている。

 いつからか開いていた口から細く長く息を吐き出していた。合わせてストラヴィンスキーはドアノブの握り方を変える。開け放ち飛び込める角度を取ると、軽く沈み込ませた体でひとつ、ふたつ、突入のカウントを取った。

 スリーと同時だ。

 剥がすかのごとくドアを開け放つ。

 洪水と廊下へバイオリンの音色は溢れ出し、蹴散らしとらえて離さぬ銃口で一気に椅子との距離を詰める。

「公安です!」

 張り上げた声には鉛のような固さがあった。切れることなく署員たちもなだれ込むと突き付ける銃で椅子を取り囲んでゆく。

「WHOサーバーへのハッキングと、テロ行為の重要参考人として、ただちに同行願います!」

「重要参考人?」

 聞き返されて眉間を詰めていた。

「思ったより遅いなぁ」

 椅子はそこで回転する。

「眠い事いわないでよ。僕が犯行予告を送った。それで間違いないんだからさ」

 言う顔を知っていた。だからこそ驚きのあまり凝視してしまう。かつて娯楽施設「ビッグアンプル」爆破の案件で入国管理局へハッキングをかけたハッカー。そして後の移送中、強襲で消えた犯罪者。エリク・ユハナはそこにいた。

「ようこそ。公安のみんな」

 呼びかけに言い知れぬ嫌悪を覚える。

「僕がロンだ」

 放つエリクはさも愉快と笑っていた。

 ストラヴィンスキーの背へ、そのときハートは息せき切って駆けつける。


 足取りは至って軽い。乙部はガロの座るテーブルへと駆け寄っていた。

「まったく、あんたの時間のルーズさには定評がある」

 確かめ視線を腕時計へと落とす。そう、定刻を大幅に外していれば遅かろうと早かろうと大差はない。

「早く顔が見たかった。いいフレーズだろ」

 笑ってはぐらかすガロはそつなく立てた指で、通りがかりの店員を呼び止める。


「いいフレーズだが」

 代わってコーヒー、とだけ乙部は告げた。ガロの向かいへ腰を落とす。

「あんたから聞くモンじゃないな」

 これもまた豪快に笑い飛ばすガロは、ことのほか上機嫌だ。

「選ぶな。贅沢には天罰が下る。何年ぶりだ?」

 身を乗り出した。

「気にするのか、あんた」

「社交辞令だろうが。少しは付き合うのが礼儀だ」

「ガラだったとはね。老けた気分になるだけだよ、数えない」

「それこそ気にし過ぎだ。よけいに老けるぞ」

 間違っているか、と言わんばかりに眉間を広げた。

 などと冗談へは言ってやってもいいはずだろう。

「あんたこそ、まだ飛んでるんだって」

「ほほう、羨ましいのか。後悔するのが遅すぎるな」

「まさか。そういう仕事は早く若いヤツに譲ってやるべきだってことだよ。昔のよしみで教えておいてやる。あんた、嫌われているハズだ」

 だとしてガロの様子にこそ変わらず、その通りとずいぶん芝居がかった仕草で首を振り返してみせる。

「仕事は奪い取れ。教えを請うなら誠意を見せろ。惰性でやるヤツは目的を見失いやすい。おっと、全て俺の名言だ」

 などと全てはこれを言わんがための前置きだったらしい。

「そうだ、だから見失ったお前はとっとと足を洗った」

 一本取ったと、ここでも白い歯を披露した。いかほど経とうと師が師であることに変わりはない、と見せつける。

「引き際を見誤るとあとが悲惨だ。そういう哲学もあるんだよ」

 負け惜しみと返す乙部へ面白い、うなずき返し乗り出していた体を引き戻していった。場を仕切り直すように一呼吸入れてのち、ポン、とヒザを打ちつける。

「さて。戻って来る気で打診してきたのかと思っていたが、違う様子だ」

 期待されることは有難いが、どう転んでももう可能性はない。ウエイターも乙部の前へコーヒーを置き去ってゆく。

「ならどうした?」

 聞きながら乙部は一口、すすった。

「仕事があるってことは、この辺りはまだ相変わらずなのか?」

 もちろんそれが漠然とした問いであることは承知している。だがもう全てを明かせるような関係でこそなく、ゆえにガロも戸惑ったような顔をしてみせる。さてどう話すか。思案するまま椅子の背もたれへと体を倒してゆき、やがて沈み切ったそこから選ぶように低く言葉を紡ぎ始めた。

「独裁と独立と、抵抗と仲裁と。無政府状態に民族間紛争と飢餓。そこにたかる偽善と商売と。物資を届け、人を運び、メディアへ道案内するかたわら実戦の援護。行く先は棍棒を振りかざして襲いかかってくるところもあれば、実弾撃ち込む物騒なところもふんだんにある。お前が知る頃と大して変わらない。いや、何も変わっていないだろうよ」

 傾き始めた日のせいでガロの上下はいつしかセピア色に変わっていた。変化を眺めつつ乙部は、それは何より、とくどいほどうなずいて返す。

「つまり、途切れさせずに火を配り歩く輩も昔とおり、ってことだ」

 小首をかしげた。

「ナイロン・デッカードか」

「確か、あんたより年上だったろう」

「そうだな」

「変らないならあんたに負けず劣らずの頑張りだ」

 たたみかけてガロの目をのぞき込む。見合えば途切れた会話を取り戻すように、ガロはおもむろと両手を広げていた。

「つまりオツはその話のためにここへ来た」

 その通りだ、とは言ってしまえない。代わりと乙部はもう一口、コーヒーをすする。

「そのためにわざわざか。まぁ、つくづくお前もここを離れて長くなったってことだな」

 じゅうぶんに伝わったなら頭を掻いて吐いたガロは、投げやりだった仕草も姿勢も改めた。

「ヤツのことは俺たちの間じゃ、もうよく知られた話になっている」

 語られ始めた話には出し惜しみがない。だからこそ信用できる全てへ乙部は耳を傾けていった。


「送信者はエリク・ユハナだ」

 アパートの一室はいくぶん残念な構図をかたどっていた。エリクがおさまっていた椅子は倒れ、転げ落ちた当人は床へ這いつくばると、何とも情けない顔つきでそこからハートを見上げている。

 どうせ日本語は聞き取れない。横目にとらえてハートはさらにオフィスへ続けた。

「こいつはとんだバカ野郎だ。自慢らしいぞ。自分がやったと早々に自白した。しかもフィンランドでの自供を忘れて、自分のことをロンだと名乗って笑うようなイカレた野郎だ。おかげでストラヴィンスキーが一発、殴ったぞ」

「す、すみません。あまりにも冗談がつまらなかったもので、つい」

 などと通信へ割り込むストラヴィンスキーは、ここでも間違いなく確信犯だ。

「射殺していないなら、かまわん」

 気づかぬはずもなく百合草もまた少々疑問が残る引き合いと共に切り捨てる。

「おかげで自白はすんなり取れたがな。実際はロンから部屋とパソコンをあてがわれ、指示されたとおりデータを改ざん。犯行予告を送信しただけらしい。バカはロンの居所どころか、文言以上、テロの詳細は知らんとぬかしやがる」

 聞かされ珍しくも百合草が、通信の向こうで舌打っていた。

 聞きながらハートは裏返した目でエリクを睨みつける。浴びてたじろぎ椅子へしがみつくエリクの顔は、まだ鼻血も涙も乾かず哀れが服を着ているようだ。見ているだけでこちらの気持ちも萎えてならない。

「ロンとのやりとりはネットのみ。実際に部屋から何から世話をしたのは代理人だと言って現れた心底、気に食わん男だ、ノルウェイ・ノワール。アパートへの出入りが確認されていたそれが理由おいうわけだ。確かにヤツは支援者への足がかりかもしれん。だがブライトシートでもそうだ。ロンまであと一息と言うところで絡んで全部持って行きやがる。どうにも邪魔でならんぞ」

「だがここで方向転換している時間はない」

 言い切る百合草のそれは正論だった。

「ウィルスはコートジボワールが追跡中。オスローは引き続きその線から支援者ロンの特定、回避すべくテロの詳細把握につとめろ。そのためならあと二発は黙認する。ノルウェイ・ノワールが邪魔なら即刻外へつまみ出せ」

 そのとおりと残り時間はもう十時間を切っている。ああだのこうだの試している暇はない。

 ハートとストラヴィンスキーは了解と締めくくる。切られた通信に、それぞれの耳からイヤホンを払い落した。そうして何を言う前だ。互いに互いの顔を見合わせた。

「ま、手はあるわけですが」

 切り出すストラヴィンスキーはなぜかしら、握った拳を撫でまわしている。

「そうだ。ロンと直接やりとりしたパソコンを洗うしかない。ただし分析にかけている時間はないぞ」

 ハートもぬらり、白目を光らせた。

「いえいえ、ここに有能な専門家が転がっているわけですから」

 などと話が弾めば結論は、すでに出たも同然となる。

「あとはそいつ次第と言うわけだ」

 二人はエリクへ振り返った。

 ままに浮かべる笑みは至極優しいもののはずだったが、むしろその優しさが逆効果となる。掴んですがった椅子を盾に、エリクは部屋の隅へと後じさっていた。


 比べて遮蔽物は何もない。

 互いの間にはただ距離があるだけだった。

 だが滑走路を挟んだ向こうというそれは、隔てているだけで案外、障害物にも匹敵する効果があるらしい。加えて格納庫らしき平屋へ沿わせ車を停めたミッキーは、自らもその影へ紛れたい様子だ。車から降りるや否や保冷庫を抱えた顔を上げることなく返すきびすで奥へと足早に立ち去っていた。

「一人かッ?」

 確かめレフが声を上げる。

「一人だったよ。けっこう急いでた。全然こっちに気づいてない。建物の向こうへ走ってったよ」

 エンジンが次第にトーンダウンしていた。果てに滑走路の脇でブレーキは踏まれる。

「徒歩に切り替える。俺との回線は常時、開いておけ」

 指示を飛ばすレフがサイドブレーキを引き上げた。

「りょ、かい」

 あわせて百々も引っかけていただけのイヤホンを耳へ押し込む。言われたとおりに端末を設定しなおした。

「緊急連絡」

 傍らでレフがオフィスを呼び出している。イヤホンの向こうで声は交錯し、だがジープを飛び降りたレフに待つ、という気遣いはないらしい。

「ブーンディアリ空港到着。WHOの車と女を発見した。空港に発着便はない。女は一人。徒歩での移動に切り替えた。こちらも徒歩で女を追う」

「ウィルス所持の確認は?」

 だとして百合草が聞き逃すはずもない。

「入れてあるって聞いた保冷庫、提げてるのを見ましたっ!」

 セカンドバックを握りしめ、百々もジープから飛び降りた。

「中の確認は取れていない」

 レフが付け足す。

「今しがたオスローで送信者が確保された」

 切り出す百合草に瞬間、百々とレフはジープの両側で目を合わせていた。

「送信者はエリク・ユハナ。支援者ロンから指示のみを受け、一連のハッキングを決行。以外は知らされていないとのことだ。ロンとの面識もなく、間を取り持ち機材等を用意したのはノルウェイ・ノワール。引き続きオスローはそこから支援者ロンの特定と散布場所の解明に当たっている」

 ここでこつ然と消えていた彼が姿を現すなど、驚きすらすんなり馴染むのだからおかしなものである。

「お前たちはそのままミッキー・ラドクリフの行動を監視。報告を上げろ。ウィルスを所持している限りロンは必ず接触してくるぞ。バックアップがいないことを忘れるな。確保は体制が整うまでこちらの指示を待て」

「……やってみる」

 レフの返事は微妙だが、百合草もこだわったところでどうにもならない無駄を省きたいらしい。

「オスロー側から何か出るかもしれん。それ次第だ」

「了解」

 返すレフに百々も小さくうなずいき返した。

「百々は聞いているのか?」

 おかげで注意されるなどと、こういう時は頭数に入っているのだからかなわない。

「はい、はいっ。聞いてます」

「はいは一度でいい」

 それは小学生へ言う言葉である。

「いいか。失態は自分ではなくレフ・アーベンの身にかかわることを忘れるな」

「それバービーさんに一生、恨まれるし」

「返事はっ?」

 ぼやいて急かされ、背筋を百々は伸び上げた。

「りょぉっ、解しましたっ!」

 無駄な時間を過ごしたと言わんばかり、それきり通信は切られる。

 見計らい、行くぞとレフがアゴを振っていた。返すきびすで駆け出せばオレンジ色は枯れた大地にちょうどと紛れる。追いかけ百々も身を弾ませた。広がる荒野へと飛び込む。


 整備された広場の片隅。

 話すガロの口調は実に淡々としたものだった。

「ナイロン・デッカードは、もうお前の知るナイロンじゃない」

 乙部はどういうことだと眉を寄せる。

「ナイロンの潤沢な資金がヘロインやマリファナに支えられていることは、お前も知ってた話だろう。三年ほど前か」

 自らへ確かめるようにガロは広場へ視線を投げた。引き戻して身を揺すり、今一度座りなおし口を開く。

「買い付けに北から生っちろい若造がやって来た。ナイロン・デッカードの名で今、商売をしているのはその若造だ」

「二代目、か?」

 問えばガロは苦々しく笑っていた。

「そいつは聞こえがいいな。確かにナイロンは表向き譲って引退したということになっているが、闇へ葬り去られたというのが言わずもがなの真相だ。右へ左へ、何しろナイロンはいい顔で嘘をつき儲けてきた。そうやって踊らされてきた商売相手の中にはいいカモにされていると気づき、奴をどうにかしたいと考えているやつも少なくない。そこへ現れた若造はちょいと様子が違ったというわけだ」

 どう? と乙部は首を傾げる。

「買い付けに来るうちナイロンの便宜を図って商売を手伝い始めたらしいが、そのついでに若造は、顧客の不満をうまい具合に吸い上げてやったというわけだ」

 教えたガロは何をや深くうなずいた。

「聞くところだと若造は正直者らしい。商売ではなく、自分たちの勝利のために力を貸してくれるということだ。同じ黒人のナイロンより信用できると、これがたいした人気者になっている。おそらくナイロンを始末したのは取引相手だな。その後押しで若造は成り上がった」

 直後、もれた笑いは皮肉の塊でしかない。

「どうだか怪しいもんだ。思うだろ? 仕事を取っても命まで取って平然としている野郎が真っ当であるわけがない。そういうヤツこそ俺なら関わらない類だな」

 口にするガロに嫌悪の表情は浮かぶ。

 ならこのことを確かめずにはおれないだろう。

「その北から来た若造、って言うのはどこの誰だ?」

 向ける眼差しは強くならざるを得ない。

「さぁ、首を突っ込みたくはないんで詳しくは知らない」

 だがガロの返事は冴えず、

「ただ」

 付け加えて一呼吸おいた。

「若造は界隈じゃこう呼ばれている。ノルウェイ・ノワール。北欧から来た白い兄弟、ってな」


 滑走路を横切る。容赦、手加減ないそんなレフの走りっぷりに、それこそ足を引っ張っていない証拠だと割り切った。だがおかげでとにかく息が切れる。ならばちょいと止まって一服休憩。ゆきたいところだが飯もついえた、英語も話せぬ、野営の知識も持たぬ百々がダチョウも通らぬド田舎の、枯れて荒れたこの地に置いて行かれてなお、あははと笑って過ごせる道理がない。だからして走る。そういう理由も兼ねているから根性、絞り出し走り続けた。こんなことなら田所と遊んでいる場合じゃなかった。鍛錬怠った後悔すら背負い走りに走り、走り切った。

「うご、あが。吐く」

 辿り着いた管制塔の足元で手をつき悶えること、しばし。

 かまわずレフは、伝った壁のついえた角から早くも隣り合う格納庫へ頭をのぞかせている。誰もいないことを確かめたなら、振り返りもせず駆け出していった。

「どぉ。わた。待って」

 ギブアップが許されないという点では、追い回された階段室よりキツいのではなかろうか。百々も再び追いかけ駆け出す。

 と、イヤホンから聞こえてきたのはレフの声だ。

「黙ってついて来い」

「はっ?」

 なるほど。ホイたら、ソラたら、ヨイヤたら、いつからか上がっていたのは掛け声だ。取り急ぎ百々はその締りのない口を閉じる。近づいてくる格納庫らしき平屋はずいぶん奥行のある細長い造りをしていた。近づくほど低い屋根に並ぶ天窓も目につき始める。

 いち早く辿り着いたその壁へレフが背をはりつけた。

 ゴールだと思えば踏ん張りは利いて、百々も遅れて隣に飛び込む。

「ずは。ぐは。だぁ、黙ってたら、息、止まってたよ」

 などとそれはどうでもいい報告にほかならない。聞き流してレフも見ろ、と滑走路側へアゴを振る。車両はそこに停められていた。言うまでもない、ミッキー・ラドクリフが乗り付けた車両だ。車体にはしっかりWHOのロゴも貼られている。恐らく持ち去った地図を頼りにここまで車両を走らせたのだろう。

 と考えておや、と顔を歪ませたのは百々だった。

「レフ、おかしいよ」

 だがすでにきびすを返したレフは動け、と百々を促している。

「管制塔の入口は滑走路から見えていた。奥へ行ったなら入るつもりはない。この建物から確かめる」

「あたしたちより何時間も先に保健所を出てるんだよ。どんなにゆっくり運転したからって、ここまで時間かかり過ぎじゃないかな」

 従いミッキー・ラドクリフが消えた方向へと格納庫沿いに足を進めながら、とにかく百々は訴えた。片側にあった壁が途切れたところでレフは辺りを見回し、向こう側へと頭を突き出してゆく。

「それにさ、まっすぐなのに地図いるかな。あたしだって覚えられるよ」

 引き戻してようやく百々へと振り返った。

「どこかに寄った」

「そんな気がする」

 サングラス越し合った目に百々はうなずく。黒いガラスの向こうでレフの目は、間違いなく言っとききつく細められていた。

 かと思えばホルスターから銃を引き抜く。途切れることなくスライドを引いた。

「見てみろ」

 のぞいたばかりの方向へアゴは振られ、従いそうっと身を乗り出した百々の目に左右、全開とされた格納庫の大きな扉は映り込む。

「違う。地面だ」

 訂正されて視線を落とせば、刻まれたばかりの真新しいタイヤ痕はあった。それは引き戸の敷居をまたぐと数本、格納庫の中と外つないで伸びている。

「女も、乗った車両が外へ向かったとしても、この視界だ。姿は見える」

 言わんとしていることはもうそれだけで知れてならない。

「中に?」

 振り返ったそこでレフは安全装置を外し終えた銃を、元の位置へ押し込んでいた。

「仲間が来た。中で落ち合っているとみて間違いない。ここで待つか?」

「帰ってくる?」

 即座に確かめていた。

「報告出来るだけを確認したなら戻る。ただし」

 だが言うレフに過るのはあの予感しかない。

「場合によってはウィルスの回収と女の確保に踏み切る。帰らない時はオフィスへそう連絡しろ。お前自身の指示を仰げ」

 案の定と百々は眉に肩を跳ね上げていた。

「それっ、振り切られる前に捕まえるかもってことですかっ?」

「追いついた。逃がすつもりはない」

「わぁわぁ。きたきたぁっ。それ、だめだめっ」

 小躍り、大踊り。全勢力を傾け押し止める。だがレフは聞いちゃいない。次の瞬間にも身をひるがえす。角の向こうへ飛び出すと、開いたままの扉の脇へ背を張り付けた。チラリ、中を確認したかと思えば吸い込まれるような具合だ。中へと姿を消し去った。

「うぁっ。だめって言ってるのにっ!」

 もう、じっとしているなど出来ない。追いかけ百々も飛び出す。入れ替わりで同じ場所へ身を添わせた。だがそこから先こそ肝心だろう。勢いでのぞき込みかけて思いとどまる。パニックなのか、運動量のせいなのか、乱れ切った息をいくらか整えたその後で、横文字ではなく、いち、にの、さん、だ。臭いからして埃っぽい格納庫の中へと頭をのぞかせていった。

 飛行機は見当たらない。

 ただ木箱が、重機が、空港整備に使うのだろう数々の備品が、倉庫よろしく保管されていた。それらは所によっては天井に届きそうなほど高く、投げ込まれただけのように雑然と、広い空間を迷路に仕立て置かれている。照らす明かりは頭上の天窓だけらしく、その至る所にひんやりと濃い影は落ちていた。無論、そのどこにも人影はない。ただ紛れ込むようにレフだけが、タイヤ痕の終着点、隅に停められた二台のバンの傍らに身をひそめていた。

 見定め百々は前のめりとなる。

 蘇った声にたちまち勢いを削がれていった。

 つまるところ一線を越えて引っ張る足で、レフを危険に晒すのか。

 想像して負えない責任に、何より怖気づく自分の頼りなさにうろたえる。

「あは」

 だからこそひっこめた頭で空を仰いだ。放つ笑いで無理にでも余裕を作りにかかる。作って、行くのか、待つのか、いや自分がすべき事は何なのか。考えた。選ぶにあたう経験も根拠も持たぬなら、振り切って白く弾き上がったそれに目を奪われる。目の前へ落ちてきたそれを受け止めてみれば、いつしかの枕だったとして続く動作こそ条件反射などではなかった。そう、今日こそ無事に帰さねば、あの日以来の自称だろうと「みんなが納得して誰も怪我しない方法担当」はここぞで名倒れだ。

「まかせな、さいっ……」

 引けていた腰を入れなおす。レフの背はといえば、まだ同じ位置にあった。めがけて、えいや、で百々は駆け出す。慌てず騒がず、運転席の窓越し、奥へと目を凝らすレフの隣へ滑り込むと屈みこんだ。

「待たない」

 言ったところでサングラスをはずしたレフは、窓の向こうを眺めたままだ。

「俺の前へは出るな。間違ってお前を撃つ可能性がある」

「そぅ、そっちですか」

 とりあえずつっこむが、そもそもそういうお約束だ。

「心配してない。ドンパチさせないために来たから」

 言葉にようやくレフは振り返る。

「だって、レフがここで怪我したら本当に誰も追えなくなるんだよ」

 顔へと百々は指を立てた。

「でも、ギリギリまで」

「お前はいつから俺の上司になった」

 相変わらずの返答に、あはあは、笑ってとにかくしのぐ。

「大丈夫だってば。自分より薄給の上司はいないって」

 一部始終にフンと笑ったレフは、再び前へと向きなおっていた。横顔はいつもとなんら変わらないはずだった。だが何かが違う。感じて百々は「あ」と息をのんでいた。それはTシャツのせいでもなんでもない。これまで必ず土壇場にあったあのカドは、確かにレフの表情から抜け落ちていた。思いつめたような頑なさは姿を消すと、そこに確かと余裕をのぞかせている。

 なら、そうかと閃くに時間はかかっていない。見ていなかっただけなのだ。その間にレフは案外、たくさん笑ったんだと思いなおす。たとえ距離が離れていようと相手がいたなら想像することは、実に容易いことだった。

 すごいよバービーさん。胸の内で呟きはもれ、きっと突き刺した注射には解熱剤の他にも何か、痛み止めが入っていたのだと思う。

「壁伝いで奥を確かめる」

 呼び戻してレフが進行方向を指し示した。百々が視線を走らせたそこへ、手で床を撫でるほどの姿勢を保ち駆けてゆく。高く積み上げられた木箱と壁の間、黒く塗りつぶされた影の中へと潜り込んだ。おっつけ百々も合流したなら、そろって奥へと足を進める。

 両手を広げたならついてしまいそうな細い回廊の果てで、頭上より射しこむ光が白く弾けていた。近づけばその中に蜘蛛の巣が絡んだフォークリフトは見えてくる。すっかり目も慣れて来た頃だ。声は微かと割れて辺りに響き始めた。反響のせいで何を言っているのかまでははっきりと聞き取れないが、変わりようがないのは声色で、咄嗟と百にレフのTシャツを掴ませる。


 つうやくの おねえさん の こえ

 こえ まちがいないよ


 引っ張られて振り返ったレフが、訴える百々の口の形を読む。

 歩みはなおさら慎重にならざるを得ず、最後、肩で木箱を手るとついえた角で立ち止まった。

「誰も聞いてやしないわよ。それでもこっちがいいなら付き合う」

 瞬間、まごうことなき日本語は耳へ飛び込んで来る。通訳、いや看護師を装ったテロリストか。ミッキー・ラドクリフの声がつづっていた。

「言われたとおり、処分は済ませたわ」

 周囲は開けているらしい。まだ残る残響が感じさせる。位置は斜め右前方、いくらかの距離があることも測った。

「中を確かめる?」

 投げかける言葉が、そこにもう一人の存在を知らせる。

 確かめレフも体を傾けていった。

「緊急連絡」

 遮りイヤホンから百合草の声は漏れ出す。

「ナイロン・デッカード、武器商人の正体が判明した」

 踏み止まればガサリ、とのぞき損ねた場所で置かれた保冷庫が音を立てる。続く金属音はフタを開ける間合いと完全に一致していた。

「ナイロン・デッカード、別名ノルウェイ・ノワール。容姿からも我々の追うノワールと同一人物で間違いない。いいか」

 止まることなく吐き出してゆく百合草の語気は強い。

「我々はノルウェイ・ノワールを共謀者だと認識していたが、それは誤認だ。ノワールこそ支援者のロン。ロンでありナイロン・デッカードだ。同一人物であると考えたならハボローネという地の利も、重火器提供の自由も腑に落ちる。このタイミングでアフリカへ渡航したワケもだ。いいか」

 まさか、と奥歯を噛んでいた。

「ウィルスの受け取りにミッキー・ラドクリフの元へ現れるぞ。間違っても共謀者と誤認、確保には踏み切るな。現れた地点で報告。ハボローネの二の舞を踏むな。距離を取れ。態勢を整える」

 とたん、ぼむ、と保冷庫が閉じられる音は響いた。

「好きにすれば?」

「聞いているのか!」

 ミッキー・ラドクリフは何者かへ促し、ない応答に百合草が声を荒立てる。

「こんなカラ箱でも必要だなんて。とんだ嘘つきだわ、アナタ」

 だが状況が状況だ。答えて返すことこそできない。

 確かめレフはただ止まっていた動きを再開させる。

「既成事実っていうのは、大事じゃないかな」

 聞えて思わず動きを止めていた。

 会った覚えがあるハズだと思う。とたん目の前に浮かび上がってきたのは取逃がしたあの路上で、間違いない、トランシーバー越しに聞いたあの声は今ここに響いている。

「ともかくきみにはお疲れ様、って言っておくよ。こっちもIRカメラに映って来たしね。これで確かにウィルスは僕らの手に渡った。文脈さえ通ればそれでいいんだ。何しろ本当にバラまいたら僕らだって危ないからね。ほどほどにしておかないと」

 会い、話したが、会って話しはしていない。そのちぐはぐがネックだった。

「あとは SO WHAT が上手くやってくれるよ。噂が感染すれば、このテロは成功なんだ」

 そしてさっぱり変わった髪の色に長さ、メガネさえもが盲点だったのだと分かる。写真と違わぬノルウェイ・ノワールは、身軽さが忘れがたい眼鏡男の声を放つと、うかがい見たそこで支援者ロンの企みをラドクリフへと明かしていた。

「解放、するの?」

 確かめるラドクリフは懐疑的だ。

「ありのままの事実を伝える。僕は正義を行いたいだけだよ」

 答えたノワールはそこから一歩、退いてゆく。とたん強い光の向こうで影だと思っていた背景は揺れ動いた。なるほど、一人で二台の車は運転できるはずもない。一、二、三、四、五まで数えてレフは諦めた。武器商人、ナイロン・デッカードの付き人らしく手に手に銃器を握りしめた黒人たちは壁と浮かび上がってくる。その黒い腕で保冷庫を、ミッキー・ラドクリフの前から掴み上げた。


 引き戻されたレフの面持ちに、目にしたものが何だったのかを百々もまた理解する。案の定レフの口は「ノワール」と動き、「戻れ」と百々を促した。などと指示されなくともそれが最善だとしか思えない。何しろミッキー・ラドクリフはウィルスを始末したと言ったのだ。そのための寄り道であれば辻褄は合い、そんな彼らは初めからウィルスをバラまく気などありはしなかった。世間を混乱させるだけの事実をでっち上げる。それがテロの目的だと言うのである。

 ずるい。

 百々はへの字と曲げた口を結んだ。

 ひどい。

 植えつけられる恐怖の大きさを推し量り、両の拳を握りしめる。

 だがこれで未曽有の混乱も終息のメドがついたも同然だった。しょせん嘘なのだ。放っておけばいいだけである。ここで無茶をしてまで確保する必要はなく、大人しく撤収。テロがハリボテであることを報告するだけで企みの効力は一切を失い、事態の公表は回避され、世の中は何も変わらぬ明日を迎えるはずだった。

 返事ができないせいで先ほどからしつこいほど百合草の呼びかけは続いている。心おきなく伝えて返すためにも百八十度、百々はその場で方向転換する。狭い通路で先頭を預かると、おっかなびっくり暗い回廊をあと戻りしていった。

 さて、このシチュエーションにおけるゴールデンパターンがあるとすれば、わざとらしいほど置かれた小枝をパキャと踏み折り、そのかすかな物音で悪漢どもに気付かれるあの構図だろう。冗談ではなかった。悪いイメージを振り払う。足元へ視線を巡らせ鼻で笑った。やはりそれは映画の中だけの話だ。屋内のここに小枝は一本たりとも落ちておらず、あるのは長らく放置されて朽ちた木箱の残骸だけだった。

 が瞬間、その残骸を踏み損ねる黄金法則。

 ただし、折らなかったなら音も立たなかった。

 傾ぐ体に、おおう、と心の中で声が上がった、ただそれだけで、支えて百々は木箱へ手を突く。

 はずが正拳突き、とはどういう事か。

 朽ちていたのか。

 いたんだろう。

 腕は木箱を突き抜ける。

 バキ、と大きな音は鳴り、メキメキ、めりめり。傾ぐままに木箱の中へ体を沈めていった。

「……バッ、カヤロウッ」

 背後でレフが絞り出す。

 何だ、どうした。ノワールらがたちまち色めきだっていった。

「すっ、びばぁせんぅっ」

 涙浮かべて詫びるがどういうわけだが、ミチミチ、やがてはバキバキと、頭上から音は聞こえ始める。

「ふぁ?」

 見上げた百々の目に、覆いかぶさるようにたわむ木箱は映り込んだ。

「ぎゃ……」

 瞬間、体は掴まれる。

 木箱の中から引き抜かれていた。

「うわはっ」

「走れッ」

「はいぃっ」

 怒号は飛び、もう小枝ごときを何本踏んでも追いつくまい。つんのめりながらも駆け出した百々の背後を、怒涛と崩れゆく木箱が埋め尽くしてゆく。叫んで頭を抱えれば、もうと舞い上がった砂埃が四方を覆い尽くした。そのカビ臭さもまたアフリカ独特。払い、蹴散らし、抜け出して百々はえづく。

「ひど。けほ。何これ。うぉホっ」

 開けてゆく視界にようやく光は差し込み始めていた。

 だとして助かった、と思えるはずこそない。

 ノルウェイ・ノワールとミッキー・ラドクリフは、いや、いかつい銃器を提げたその取り巻きが、砂ぼこりの中から現れた百々をひたすら見つめている。果たしてその目と目が合ったとして、いつもの愛想笑いが出せる道理はない。むしろ悲鳴を上げかけて、真横で爆ぜった銃声に身を跳ね上げた。

「止まるな、走れッ」

 レフだ。

 吐きつけ引き金を絞る。弾き出されて薬莢が空を舞い、白と黒の人垣は一気に左右へ散っていった。同時に飛び交うのは理解不能な言語で、やにわに黒い顔は振り返る。闇雲と引かれた引き金は木箱をさらに木っ端微塵にした。

「聞こえたのかッ。走れと言ったら今すぐ走れッ」

 制するレフの体が切り返される。向けなした銃口で引き金を絞った。弾き出された薬莢は再び百々の視界をかすめ、光景に百々はようやく目を覚ます。止まっていた息を吐き出した。

「はっ、はぁいっ!」

 だが動転するあまり踏み出す足が選び切れない。あいだにもレフは右へ左へ小気味よく弾を放って後じさり、その尻で百々の体を押し出した。きっかけに百々はようやく走り出す。だが目指す出口こそ一息の距離にはおさまらない。おっつけレフもきびすを返せば物影から、退避していた黒人たちも追いかけ飛び出してくる。

「ひゃあぁっ」

 たちまち飛び来る弾は節分の豆か。

 百々は頭を抱えかける。

 体を宙に吹き飛ばされていた。

 足に代わって背が地をとらえる。

 押し倒したレフが真上でロシア語をまくし立てている。悪態に違いない。気合に変えて身を起こし銃口を振りかざす。

 だからして入れ替わりと、寝返った百々の目に飛び込んできたのは壁へ鼻先をつけて停め置かれた一台の車両だ。神様、仏様、遮蔽物サマの勢いで匍匐前進。援護するレフもろとも回り込んだなら半死半生、車体へ背をはりつける。集中砲火は、そうして幾回りも大きくなった的へと息継ぐヒマなく浴びせられた。

「ふひゃあっ!」

 衝撃はすでに銃弾を浴びたがごとし。今にも撃ち抜かれそうに背で跳ね踊る車体が究極、心もとない。

「いい加減に、しなさいってばぁっ!」

 たまらず吠えて十倍返し。飛び来る弾の密度こそ増して百々は詫びる。

「うそっ、うそでぇすっ!」

「オフィスへ報告ッ!」

 屈みこみ、傍らで残弾を確かめるレフが声を張り上げていた。かと思えば尻を跳ね上げ車体を回り込むや否や、引き金を絞る。その肩が放たれた二発に跳ね上がり、百々がイヤホンを手繰るうちにもさらに二発、浴びせて元の位置へと背を押し付ける。

「これが最後だぞッ」

 グリップから落とされたマガジンが乾いた音を立て、予備を押し込んだレフはチェンバーへ弾を送り込む。声に百々も顔を上げていた。だが答えて返すなどもう二の次となっていた。

「レフっ!」

 逸れた視線にレフも身をひるがえす。

 男が車体を回り込んできていた。

 発砲音はレフの手元からで、身を引いた男のみならず後続の影も車両の脇でちらつく。

 目にしたレフが両手でグリップを握りなおした。添わせていた背を車体から剥がし、そんな影をも追い払って弾を撃ち込んでゆく。

「どっ、百々ですっ!」

 前にして冷静に話せたならもう転職すべきだろう。

「……のわっ、のわっ! ノワールきてます。ロンにっ、見つかっちゃいましたぁっ!」

 どうにか吐き出す、なんちゃって報告。

「ばんばん撃たれて、撃ち返して。そのっ、あ、え、へっ?」

 いや、実況中継している場合ではないと我に返る。

「そ、てっ、テロが分かりましたぁっ!」

 伝えなければならないのは、その一点だけだ。

「ウィっ! ウィルスはおねーさんがっ、しょ……」

 と、レフが振り返る。連射に煙をくゆらせた銃口で百々を指した。

「ぶんぅ、ぁぎぁゃっ!」

 絞られた引き金に百々はのけ反り、日本語は崩壊して、軋んだ車体から撃ち落された男は百々の足元へ降ってくる。

「ぎゃわぁっ!」

 のみならず新たな影は真上を過った。

 まさにレフの肩先に着地したなら、互いが振り返ったタイミングこそ同時だろう。近さにかけたレフの足払いが男を跳ね上げる。虚を突かれて仰向けと転んだ喉へヒザ頭を叩き込み、押さえてレフは車体を回り込んで来た新たな顔へと銃口を突き付けなおす。

 だが一人、二人と車両の屋根から、こぼれるように男たちは降っていた。

 目にして「後ろ」と知らせる百々の声はもう悲鳴に近い。

 応えて振り返ったレフの銃口が二人目を弾き飛ばし、三人目をとらえてみせた。

 が、そこで弾切れとスライドは開き切る。

 だからこそ決断の早さは電光石火と、突き付けられた銃口を一歩、踏み込むと同時に手で払った。逸れた銃弾は車体へ一列に穴を空け、のけぞった相手の横面めがけレフは拳を叩きつける。殴り飛ばされた男の体は地面へ投げ出され、入れ替わりと四人目の気配は過る。向かって踏み込み、前屈みとなった位置から視線を上げたその時だった。ヒヤリ、鉛の塊はレフの額へ押し当てられる。

 感触に止まったのは動きだけではないだろう。

 息もまた、だ。

 背へ、にわかに追い払ったはずの足音が近づいてきていた。

 やがて熱の残る銃口が後頭部もまた突いてみせる。

 すでに伸されたような百々に声を出せる余裕などない。

 埋めてゲームオーバーと、乾いた拍手も緩慢と鳴った。

「やあ、公安のトム」

 いつからか息はあがっていた。

「相変わらず勇敢で感動したね」

 視界の端から歩み寄る足は現れ、レフの前で立ち止まる。

 上下する肩のままだった。突き付けられた銃口を押しやり顔を上げたそこに、ノルウェイ・ノワールの、いやあの眼鏡男のか、見下ろす姿をとらえる。ならば言ってやるほかないだろう。

「最終回だ。知らせに来てやった」

「ああ、その話か」

 覚えていたらしい。逸らした視線でノワールは参ったよう頭を振ってみせる。肩をすくめたその後で、青い瞳だけをレフへと裏返していった。

「仲良く喧嘩しな。だったっけね」

 だがそれが合図だったようだ。

「けれどその前にトムには聞いておきたいことがあるんだ」

 何を、と問う間もない。

 後頭部めがけ銃は振り下ろされる。

 それきり崩れ落ちたレフに起き上がる様子はなかった。

 目の当たりにした百々は血の気が引いてゆくのを感じ取る。

 ならやがて、白と黒の顔に顔はオマケのように取り残された百々へも振り返っていた。だがそこまでだ。多分にもれず百々へも銃器は降りおろされる。百々の意識もまた、それを最後に途切れていた。


 回線から悲鳴と怒号はもれ出し、最後、ピタリと止んでオペレーティングルーム内に水を打ったような静寂は流れる。

 だからして急ぎ伝えたハズだった。

 思いは百合草の中で渦巻く。だが転んだ後から前を見ていなかったせいだ、と怒鳴ったところで無駄に時間を費やすだけと、その無駄を省き尽くせるだけの手を打ったところで最大のネックは食って止まないこの距離にあった。

 事態を認めるまでしばらく。百合草は止まってしまったような時を動かす意を固める。

「端末のGPSは生きているなッ?」

 移動することを願ったのは、最悪のケースとして「死亡」を想定したからだ。

「大丈夫です」

 声は返され、曽我へ振り返った。事態を前に固まる曽我はやはり事務職だからというべきか。

「NATO軍機同乗の件には上の名を通しているな」

 問えば、我を取り戻した目が泳いで記憶を辿り始める。

「はい。そのための許可をいただいています」

「ハナを乗せた機のフライト責任者と話をする。残り職員とインターポールもだ。つながった箇所から片づける。急ぎ手配しろ」

 落ち着け、と言い聞かせているその顔へ、むしろ与える仕事で後押しした。

 たちどころにオペレーティングルームに声は交錯する。先陣を切り職員との通信はつながっていた。向かって百合草は余計な憶測を切り捨て現状のみを伝える。インターポールが応じたところで一旦、切り上げた。

 そんなインターポールとはエリク・ユハナ確保の件以来か。ノルウェイ・ノワールの緊急国際手配及び確保、実際には法的見地から地元警察が行うわけだが、手配を要請する。経て最後につながったのが、同乗を依頼したNATO軍機のフライト担当者だった。

 だいたい誰の名前を使おうと同乗させろ、と言った地点で無理を通していることは承知している。だが物理的に無茶を言っているわけではなかった。ノルウェイ・ノワールのアビジャン通過が確かとなった今、当初予定していたアビジャン着を撤回する。北上すること四百キロ、通過地点でもあるブーンディアリへの着陸を願い出た。

 無論、伴い発生する手続きと詳細の擦り合せは曽我とオペレーターたちの仕事と降りかかり、時間に比例してその量は増すと最高潮に達するまで一時間足らず。費やした時間を惜しんで百合草は再度、職員らを呼び出させる。

「レフ、百々がブーンディアリ空港にてノルウェイ・ノワールと接触。銃撃戦のち音信が途絶えた。以降、両名の安否、ウィルスの行方は不明のままだ」


 テーブルの向こうで立ち去りかけていたガロが、不可解な面持ちで振り返っていた。間一髪、引き止めたのが乙部なら、百合草の声へ耳を傾けつつ跳ね上げた眉でおどけて返す。

「ノルウェイ・ノワールを国際手配。関連するすべての事象に対しボツワナ警察も動く。共同で乙部はノワール、いやナイロンでもいい、追跡。立ち寄り場所を洗え。今度こそ奴の先手を取るぞ。発見次第確保。テロの攻撃対象となっている空港の割り出しに全力を注げ」

「了解」

 なら辺り一帯、ナイロンがかかえる商売相手の数だけ情報も潤沢と、なまじ無謀な話でもないだろう。ガロへと乙部は立ち上がる。


「ハナはアビジャンを変更。ブーンディアリへ直接、降りる」

 続けさま振られてハナは空輸機のベンチシートで顔を上げた。

「到着はおよそ一時間半後。コートジボワール当局へはインターポールを通じ、再度、捜査協力を願い出ている。事実、事件は起きた。もう無視はできないはずだ。共同で現場に当たれ。レフ、百々両名のバックアップとウィルス確保に専念しろ」

 パンギではなくアビジャンを取った根拠はこの最悪の事態に備えてであり、ハナもうなずく。

「了解。降りる時は、チップをはずんでおくわ」

「なら領収書を忘れるな。公費はおりんぞ」

 返す百合草に一人、吹き出していた。


 同様に鼻で笑い飛ばしたハートもまた、端末へ口を開く。

「今、エリク・ユハナのパソコンからノワールの所在地を逆探知させている」

「させている?」

 引っかかる言い回しだ。百合草が声を裏返していた。

「本人の持ち物だ。解析の手間が省けてなかなか早い」

 おかげで納得するような間は空くと、滞った話のリズムもそこで取り戻されていた。

「場合によっては百々とレフはノワールと行動を共にしている可能性がある。だがそれがいつまでかは分からん。解析を急がせろ。そのためならあと三発は黙認する」

 どんどん増えるが、いいのかそれで。

「その代り、顔ではなく腹にしておけ」

 なるほど、この分だと要求すればするだけ許可は下りそうでならず、聞いたハートもストラヴィンスキーへ目配せを送る。

「了解」

 返してストラヴィンスキーもエリクへ微笑んだ。その分厚いレンズはモニターの光を反射してホラーと光り、持ち上げられた拳がそこへ重なったなら何を語らずとも意味はエリクへ伝わる。横目にとらえたエリクがキーボードを打ち込む速度を上げていた。

「こっ、こっちへアクセスしてるのが携帯電話、ってことまでわかったんです。あとは、その電波が今、今どこで拾われてるかって。それで、それで位置はつかめますからぁっ」

 待ってください。

 言葉は飛び散る冷汗に書き込まれている。

 待てません。

 返される言葉もそこに尽きるとひたすらエリクを追い立てた。


 そうして残る二人からの連絡を待ち、百合草は動かぬGPSの表示を睨み続ける。連絡は必ず入るハズだと自らへ言い聞かせた。なぜなら、何かにつけて百々が強運であることを知っている。そして目的のためなら時に手段を選ばぬしたたかさで食い下がるのがレフ・アーベンだった。その二人が揃ってなお、こうもあっけなく任務は放棄されるものなのか。疑わずにはおれず、そんなハズこそない。信じるからこそ入れば決定的となるだろう一報を、万全を期して待った。


 だが百々に、誰の思いを推し量ることもできていない。ただぼんやりと、こう考える。

 天国ならもっと素敵な場所のはずだ、と。

 かつて刷り込まれたイメージが営業用の嘘、誇張でない限り見解に間違いはなく、途切れた意識の続きなどそのあたりくらいしか思いつかなかった。

 だが比べて辺りはやたらと固く、体はずいぶん痛い。そのうえ揺れてひどくうるさくもあった。極めつけに臭いとくればもう浮かぶ場所はそこしかない、と思えてくる。

 地獄だ。

 いや、落ちる理由こそいくらでも挙げ連ねることはできた。

 お父さん、お母さん、娘は世のため人のためとはいえ、つまらぬ嘘をついて外泊を重ねました。田所へ、好きなのにちゃんと言えなくて苦しい思いをさせました。バービーさん、大事な彼氏をこんな目に合わせました。それから世界中のみなさん、どんくさくて迷惑をかけます。しかも大事なことを言いそびれたのだから、半日後のパニックはわたしのせいです。あと、たとえ木箱が砕けるなど想定外だと言い訳したところで、巻き添いにしたレフにこそ謝らなければ、と心からの黙祷を捧げる。

 あーめん。

 そのポーズはあまりにもサマになっていなかった。

 そう、自分はキリスト教徒だったろうか。

 そして何より本当にレフは死んだのか。叱られる前に疑った。それ以上、浮かび上がってきた基本的な疑問に、そもそも自分は今、死んでいるのか。過る違和感へ立ちかえってみる。

 経て、鮮明になっていったのは意識だ。

 百々は閉じていたまぶたを開いていった。

 なるほど、目にしたそこは天国でも地獄でもない。内装も塗装も施されていない、鉄骨が黒く交差する無骨な現実空間だった。つまり見上げる格好でどこぞに寝かされており、理解すれば急に距離を詰めて声もまた、百々を呼んでいることに気づかされる。

 レフだ。

「レフっ?」

 咄嗟にアゴを持ち上げる。たちまち首をすくめて縮こまっていた。また殴られたのかと思うほどだ。覚えた頭の痛みはひどい。かばって百々は手を持ち上げようとするが、今度はその手が動かないことに気づかされていた。

「へぇっ?」

 挙句、目にした光景こそ、あり得ぬものとなる。

「何ぃっ! これ縛られてる。ぎゃー、レフっ! あたし映画みたいに縛られてるよっ! 縛られてるってばぁっ!」

 足は束ねて、手は背中で、ビニールテープらしきもので何重にも固定されていた。それはもう、うら若き乙女がする格好ではない。おかげで揺すった体はイモムシさながら。この緊急事態に無様と無防備極まりない醜態を晒す。

「ぎゃぁ、助けてー。ちょっと、うわぁぁっ!」

 騒々しさに、起こして失敗だった。レフが後悔したことはいうまでもない。

「言われなくても分かっているッ」

「な、なんで、そんなにすんなり飲み込めるのよぉっ! しっ、縛られてるんだってばぁっ!」

「起きてすぐ、よくそれだけの声が出るな。少しは落ち着け」

「落ち着けませんぅー」

 揺すった体で百々はありったけ訴え、その目をはた、と瞬かせた。

「って、レフどこ。どこにいるの?」

 声はすれども先ほどから姿は見えない。

「も、もしかして、やっぱ天国とか……」

 恐る恐るだ。空へ視線を持ち上げた。

「勝手に殺すな」

 結局どやされる、これぞ鉄板。

「お前の頭側に拘束されているだけだ」

 言われて再び頭をひねろうとするが、なぜにや転げ落ちそうになるのだから百々はその場に張り付いた。

「う、動けないよぉ」

「仕方ない。お前が木箱を叩き割ったせいだ」

「ず、ずびばしぇん。バンバン撃ち合いにもなりました」

 まったくもって何をしに来たのかさっぱり分からない。

「で、でもさ、チーフは失敗したらレフだけが大変だって言ったけど、あたしもこんなになっちゃったからさ、お、おあいこでよかったね。あはあは、あは」

 どこがだ。

 笑ってみるがレフの声は聞こえず、むしろ聞きたくない心の声を聞かされる。おかげで無理のあった笑いもそこで枯れていた。疲れはどうっと押し寄せて、百々はただただ天井を睨む。

「ぶたれた頭、痛い……」

 もう声に力も入らなかった。

「俺もだ」

「あ、それ、メイヤードでも聞いた。でも今日は全然、笑えないんですけど」

 などとそれは数少ないレフのジョークのはずだったが、この状況ではホテルの修羅場など天と地ほども差がある。

「当たり前だ。笑うところじゃない」

 つまり、こう言うことらしかった。

「じゃ、や、やっぱりあたしたち、どこか人里離れたところで処刑されるんですかぁ?」

 もう痛みはどこぞへ吹き飛んで、睨んだ天井もたちまち滲じみ始める。

 というか、すでに人里離れたところで拉致されたのだからもうあれ以上、人里離れた場所はこの世に存在せず、処刑とは処罰であり、過程に法の裁きが介在するのだから誤用も甚だしいが、それら随所に引かれた赤線など知ったことかで絶望のどん底、百々はひたすらヒンヒン鼻を鳴らした。

「そんなのやだよぉ。こんなところでレフなんかと死にたくないよぉ。おぉおぉおぅ」

「泣くなッ。こっちからも願い下げだッ」

 一喝するレフの声は大きい。

「いいか、俺たちだけの問題じゃない。テロが公表されれば混乱は必至だ。それが奴らの狙いなら、させないためにも必ず脱出する。必ずオフィスへ連絡する。必ずだ」

「そんなカッコイイこと言い過ぎだよぉ。もういいじゃんさぁ。バービーさんがいるんだからさぁ」

「つけていない。仕事だ」

「嘘だぁ。嘘だぁ」

「つけるなら、もっと他を選ぶッ」

「じゃ、そっちにすればよかったのにぃ」

「お前に言われる筋合いはないッ」

 いつしか百々は泣いて他人の人生を悔やみ、悔やまれてレフもキレると声を荒立てた。おかげで脱出するその前に、なぜにや互いは息を切らす。

「クソ。とにかくグズっている暇はない」

 不毛だ。

 気づいたレフこそ賢明だろう。

「何とかこっちへこい。拘束を解く」

 百々を誘う。

「えぇっ。動けないって言ったじゃんさぁ」

「グダグダ言うなッ。支柱に腕がくぐらされている。俺の方こそ動けない」

 なら百々の頭側で、そんな支柱と格闘しているのだろう。鈍い音は連続した。

「ガンバレ、ガンバレ」

 他人事と送るエール。

 と、混じり鼻歌は近づいてくる。「ゲットバック ザデイ」、スカンジナビア・イーグルスの楽曲だと知れたそのときだ。口ずさむ人影は百々の頭側を横切ると、風をまとってこの場に現れていた。

「さすがトムだね。起こす手間まで省いてくれるなんて助かったよ」

 声に思わずアゴを持ち上げる。

「ならついでだ。手っ取り早く行こう」

 見えた黒い上着をなぞればそこに、楽し気なノルウェイ・ノワールはいた。傍らには対照的なまでに黒い顔に白いシャツを着た不機嫌そうな男も立っている。

「僕は正義を行いたいだけなんだ。だから理由ははっきりさせておきたい」

 かと思えば端正な白い顔は、そんな百々へふいと振り返ってみせた。

「言っている言葉は聞き取れているだろ?」

 ニホンゴハ、ワカリマセン。

 百々こそ言えるような造作をしていない。

「そう、トムたちは一体あの場所でどこまでを聞いたのかってこと。そのことをぜひトムの口から聞いておきたいんだ。何しろ根拠もなくひどい仕打ちをするなんて、正義に反するからね。


「何の話だ」

 図星とほのめかされようと返すレフは頑なだった。

「そういえばトムは駆け引きが上手かったっけね。最初、てっきり見えているのかと勘違いしたくらいだ」

「貴様はそうやって裏で SO WHAT を操ってきた。リーダーだと思われていたスタンリー・ブラックさえもだ」

 挑発的な口調がむしろ百々の鼓動を早くさせる。ノワールも声のトーンを上げていた。

「おかしいんじゃないかな。質問しているのは僕の方のハズだけど……」

 だが続かず、高ぶる気持ちは抑え込まれる。

「まぁ、いいか。たいした事実でもないから出し惜しみする気はないよ。その問いに答えるなら違う、だね」

「違わない。仮想空間に結成された集団へ実行力を与え、貴様が真のテロ組織に仕立て上げた。全ての首謀者は貴様だ」

「そっか」 

 などと譲らぬレフに吐いたノワールは気が抜けたような具合だ。

「ならそっちのトムに聞いた方が早そうかな」

 視線を百々へと反転させる。

「好みじゃないけど体に、ね」

「へ?」

 目を点と瞬かせる百々を前に、ノワールは傍らの黒い顔へアゴを振った。待っていたように百々へ向かい、その足は一直線と繰り出される。

「歯医者さんごっこ、って知ってるかな?」

 見送りつつ問うノワールには不穏の二文字しかない。

「おっ、大人はごっこなんか、やらないですぅっ!」

 精一杯に張った声は、黙秘を貫くレフへの最大の援護だ。だが次の瞬間にもアゴを掴み上げられる。ペンチは目の前にかざされていた。赤黒くサビのまわった金属のくちばしを前にしたならば、否応なくあった心積もりも揺らぎに揺らぐ。見透かしてペンチは口の中へと押し込まれていた。力には「フリ」のような手加減などなく、酸い鉄の味をまき散らして奥歯を掴もうとして動く。

 抜くつもりだ。

 予感を飛び越えた確信が百々の背筋を凍らせる。たまらず声は上がっていた。

「分かったッ。話す」

 押し留めたのはレフだ。

 それこそダメだ。

 力の限りそんなレフへも百々は唸り返す。

「ウィルスは女が処分した」

 言うレフの声をただ聞かされていた。

「バイオテロが引き起こす世界規模の風評被害。それが貴様らの目的だ」

 おかげで助かったハズだというのに、襲い来るこの絶望感こそなんなのか。吐いた息と共に涙は勝手と目じりへ滲み、どう解釈することも出来ず百々はまたしゃくりあげる。

「それは君らの手を離れた情報なのかな?」

 確かめるノワールは用心深い。

「誰も知りはしない。俺たちがあの場所で聞いただけだ」

「他に僕のことについては?」

「何も知らない」

「それは嘘だ」

 弾かれた指がひとたび合図を送る。受けて身構えなおした男に百々はひとたび身を跳ね上げた。

「別名、ナイロン・デッカードッ」

 制するレフの声は鋭い。ついたため息で本当にこれ以上はないと締めくくる。

「ハボローネが使えなくなったんだ。あそこまで来てバレないはずはないと思ったよ」

 同時に二度、指を弾いたノワールが遊戯へ終止符を打つ。

「トムは勇敢で紳士だ。おかげで僕も嫌いな血を見ずにすんだかな。ありがとう」

 などと解放されたところで、こぼした涙は百々の頬へやたら熱い痕を残して止まなかった。なにしろ引き換えに得た無事こそ完膚なきまでの敗北なのだ。やるせなさが代わって嗚咽をこみあげさせる。

「戦争屋がふざけたことを言うなッ」

 吹き飛ばすレフの声は感情的だった。

「それは僕の前にいたナイロンだ。僕は好んで煽るようなことは何一つしていない」

「詭弁だ。少なくとも貴様が介入しなければテロは起きなかった」

「だから僕が首謀者だって? それじゃバカの言い分だよ」

 肩をすくめてノワールは首を振る。

「いいかい、僕はただリクエストに応じただけさ。そこに需要があるから供給した。解放してやっただけのことさ。後のことこそ彼らと君らで話し合えばいい。僕には関係ない。いや、僕は感知しない」

 そう、「解放」という言葉は随所で聞かされてきたものだろう。耳にして濡れた頬のまま百々はノワールへ体をひねっていった。ノワールが入って来たと思しき入口を頭上にとらえ、その向こう、壁際に自分も寝かされているのだろう作り付けのベンチシートがあるのを確認する。区切って手すりは数本、電車の中のように立っているのを目にし、その一つに後ろ手を通し座り込むレフの姿を初めてとらえる。

「君らは君らの正義を行使することで昨日と同じ明日を維持したいらしいね。巷もそれが日常で平和だと信じてる様子だ。けれど僕から言わせてもらえばそんなもの日常とも平和とも言わない。そいつは不平等って犠牲の上にある真っ赤な嘘、デタラメさ」

 向かいで講釈を垂れるノワールの余裕が受け入れがたい。そんな二人のさらに向こうには、あろうことかスペースに入りきらぬ翼を折りたたんだグライダーが据え置かれていた。

「こうして僕らのところへ押しかけて来るように、日々はファシストの手によって刈り込まれた都合のいいデタラメさ」

 開かれたキャノピーの中を、百々の傍らを離れた男が覗き込んでいる。

 一体ここはどこなのか。

 倉庫のようだがそうでもなく、見回し百々は壁にあいた数個の窓を見つけて目を凝らした。だが真っ赤な窓には町も、枯れた草原も映っていない。ただ霧がかった遠近感のない風景がのぞくばかりとなっている。

「戦火の火種に、スタンリー・ブラックのような構造への不満。殲滅されようとしている菌だってそうかもしれないよ。彼らは君らの嘘の犠牲者さ。君らの言う日常がデタラメだという事を明かして真実の声を上げたおかげで、君たちの日常のためにこうして駆逐される対象になった。違うかな」

 考えさせるようにそこで一息、ノワールは挟んだ。

「僕はそんなファシストの手によって抑圧された世界へ、正しい日々を取り戻してやっているだけさ。不平等と抑圧されてきた彼らを解放してやっているだけだよ。事実、僕が意思のあるところへ吸い寄せられても僕の意思で動いた話はひとつもない。まぁ、マイニオやミッキーみたいにまやかしの世界へ戻りたい、なんてがっかりさせる奴らへは最後の仕事で勉強してもらったくらいかな」

 とキャノピーから男は顔を上げた。

 気付いたノワールが軽く手を振り返してみせる。

「いいかい、僕は戦争屋でもテロリストでもない。全てにおいて平等な正義を施行する、真の日常を愛してやまない者だよ。トムからすれば物騒な輩かもしれないけれど、偏見の目で見るのはよしてほしいな。言うならむしろ僕こそが、本物の平和主義者ってヤツだ」

 合図し終えたその手でジャケットの襟を立てた。

「だから血は好まない」

 ピタリ合わせた前のジップを一気にアゴまで引き上げてゆく。

「安心していいよ」

 どこが、と思えるセリフを吐くとポケットから、一組手袋を抜き出した。

「色々知り過ぎたからって、今ここで殺したりはしない」

 振って広げ、きつそうに片手ずつを通してゆく。

「残ってもらうだけだ。あとはお互い神のみぞ知るってことにしよう。天秤がどちらに傾くか、それは君らと僕のバランスにかかっている。最近のオートパイロットは有能みたいだからね。すぐ落ちるってこともないらしい」

「おっ、落ちる、って?」

 星と疑問符は、とたん百々の目から飛んでいた。

「ナイロン・デッカードことノルウェイ・ノワールは自家用機と共に海に沈んだ。……足のついたロン、って名前ともこれでおさらばだ」

「貴様、最初からそのつもりでッ」

 絞り出したレフの声は、さらなる熱を帯びている。

「二階級特進おめでとう。いや、それとも運が良ければまた地上で会おうかな、公安のトム」

 壁際へと回り込んだ男が大ぶりのボタンを押し込んだ。

「何、落ちるって……。オートパイロットって。これっ、飛んでるの? 飛行機の中、だってことっ?」

 なら答えてグライダーの向こう、壁面だったそこは上下に割れる。我てゆっくりと、実にゆっくりとだ。開いてその隙間から窓の外にあった赤をのぞかせていった。伴いあり得ない勢いで吸い出されてゆく空気が、気温を急激に下げる。のみならず吹き荒れる風の唸りと、バカがつくほど大きくなったエンジン音をこれでもかと辺りに響かせた。

「う、そぉ」

 つまりここは空輸機の格納庫だ。ゆえに全開となったハッチの向こうは夕焼けか朝焼けか、空が広がる。

 見届け男がグライダーの後部座席へ潜り込んだ。ノワールもまた暴かれた全てを捨て去り操縦席へ身をひるがえす。なら落ちる落ちないの問題はもう、ここに操縦桿を握る者がいないという話に集約されていた。

「うそ、やだっ! 待ってぇっ!」

 百々は叫ぶ。

 だが唱える正義に従い足を進めるノワールに立ち止まる気配はない。そんな彼の向こうに公平極まる正しい世界はのぞくと、行かせてしまえばおそらく確定するだろう明日はちらついた。

「待ってよぉ。ねぇってばぁっ、お願いしますぅっ!」

 その公平を受け入れ歓喜する人は果たしてどれほどいるというのか。

 でないなら、何をもって正義と呼ぶのか。

 懇願しても振り向かず、振り向かないそこに在りし日の百合草の言葉は蘇る。

 大多数の幸福に準ずることが正義の大義だ。

 だからこそ、そこに振りかざしてまかり通る理由は生まれる。日常はそうして続き、守られ、創られ続けていた。幾度となく破壊されようと、困難に失おうと、涙に暮れても、絶望に立ち尽くしたとして、記憶を埋め尽くす在りし日を彩ってきた笑顔のままに、明日は明日と呼び込まれ続けていた。消し去ることも手放すことも出来ないなら、例外なくそれはフツフツと百々の中へも腹の底から沸いてくる。走馬灯がごとく在りし日の笑みに笑みは、織りなす日々のイメージは、譲れず明日を呼び込まんと広がっていった。

「のわぁっ、ノワールの……」

 教えて百々は意を決す。

「ばか、ぶぁーかぁっ! ワンワン、逃げ帰るのは、そっちなんだからぁっ!」

 いや、そもそも一言、言ってやらなければ死んでも死にきれなかった。

「絶対、絶対、帰って言いつけてやるんだからぁっ!」

 罵声にさすがのノワールも素っ頓狂と、グライダーへ手をかけたところで振り返る。

「レフだって言ってたんだもん。絶対帰るって、言ってたんだもんぅ! だってレフには超美人の彼女がいるんだからぁっ! こぉんなところであたしと死んでる場合じゃぁ、 ないんだからぁっ!」

 そうして明かす超絶個人情報。

 それはよけいだ。

 おかげで振り返ったレフの真顔が恐ろしかろうが、怯むようでは相棒など務まりはしない。

「あたしにだってタドコロと約束があるんだもんっ!」

 百々は続ける。

「帰ったら絶対、絶対、返事してチューするって決めたんだぁもんっ! そんな相手もいないから正義だとかバランスだとか、よくじつだとか」

 いや、そこは抑圧だ。人の話はちゃんと聞け百々。

「なんっか、人を困らせることばっか言う人になっちゃうんだよっ。大事な人がいるから明日も今日と同じがいいんだよっ。大事な人の笑う顔が見ていたいってみんな考えてるんだよ。イメージするんだよっ! だからみんな頑張るんだよっ。その中にあたしの明日と、みんなの明日と、本当の正義は詰まってるんだぁっ! だからぜぇったい、帰ってやるぅって決めたぁんだぁっ。テロなんて、死んでも、起こさせなぁいぃっ!」

 とまぁ、自分もばらしたなら痛み分けか。

「てい、ほどけぇー、ばかー。アンタのおでこに肉って落書きしてやるぅー。うー」

 喚いて体を揺らしに揺らした。

 様子にノワールも思わず吹き出す。

「なら試そうよ」

 嬉々と瞳を光らせた。

「僕の存在意義もそこにある。そして僕の成すべき正義もそこにある。トムとジェリーだ。互いが存在する限り、心行くまで追いかけっこしようじゃないか」

 繰り出す動きは逃した日本で軽自動車へ飛び込んだあの身のこなしと同じだ。声を上げて笑いながら操縦席へ潜り込む。すかさずキャノピーを閉じると、開き切ったハッチをスロープに変え、グライダーを後退させた。

「わー、逃げるな卑怯者ぉっ!」

 鼻先から伸びるワイヤーがギチギチ音を立てている。機上で結ばれていた三角の翼は解かれて広がり、申し訳程度についた車輪がハッチを踏み外した瞬間だった。タイミングもばっちりと機体からワイヤーは切り離され、グライダーは落ちるように百々の視界から消える。後にいくらも後方でフワリ、浮き上がったのが最後だ。赤い空の中、あくまでも優美に旋回してみせる。見る間に機影を小さくしていった。

「あー、あーっ!」

 引き戻す術があればなんだろうと惜しまないだろう。だが叫んで突きつける指すら今はないのだ。現実はあまりに虚しい。そしてそんな状態で正真正銘、風、吹き荒れる無人の機内に取り残されていた。喚く声もついにそこで枯れ果てていた。

「さっ、最終回ら……」

「場合かッ」

 言う百々をレフが叩き起こす。

「ずびばしぇんぅっ。全部あたしのせいですぅっ」

 反射的に謝る、負い切れない罪。

「後でいいッ。そんな事より今すぐこっちへ来いッ」

 ノワールが現れる前、拘束を解くと言っていたあの続きだ。ならもうこれ以上、足を引っ張るわけには行かないだろう。合点承知で百々は身をくねらせる。が、動きは早くも止まっていた。

「って、だめ、だめっ! それ、落ちる、落ちるってばぁっ!」

 何しろハッチは機を排出すると、レフの傍らで開け放たれたままとなっている。もう百々の脳裏には縛られた足でジャンプ、勢い余ってどんぶらお空へダイブというコントのような構図しか浮かんでこない。

「落ちないッ」

「嘘だぁ。だって足もくくられてるんだってば。起き上がれるかどうかもわかんないしぃ」

「嘘じゃない、起き上がれるッ」

 言い切るレフの根拠こそただただ怪しい。

「無責任ぅっ!」

「なら、このまま死にたいのかッ」

「それはっ……」

 死んでもいい、とは言えなかった。究極の選択に返した百々の声も自然、低くこもる。

「……やだ」

「絶対テロは阻止するんだろ。阻止して帰って、タドコロと会うんだろッ」

 たたみかけるレフにスキはない。

「……ぅ……会うぅ」

 そう、これもまた諦めづらい話だった。だが頭の中ではけれど、だけど、が吹き荒れる。それ以上を制してまくし立てるレフに容赦はない。

「俺の尻ポケットに匙が入っている。覚えているか。バーバラの昼飯についていたやつだ。ビニールテープくらいなら切れるかもしれない。だが自分の手は届かない。お前が取って俺に渡せ。早くしろ。酸素が濃い。気流が乱れたならすぐにも落ちるぞ」

 それは困ると顔を上げ、そうして目の当りにしたハッチの向こう、揺れて上下する空に百々は無理だよ、とはたまた頬をすぼませた。そんな百々を動かすためならもう何でもアリらしい。伝わった戸惑いを吹き飛ばして、レフはこれでもかと怒号を飛ばす。

「タドコロと会ってキスするんだろッ。それも諦めるのかッ」

 なら百々の脳裏を巡るのは、悔やんでも悔やみきれないあれやこれやだ。

「……する、もん」

 挙句、誰に宣言しているのか。

「だったら余計なことは考えるなッ。落ちない。辿り着ける。だから早く来いッ」

 煽られうー、と百々は唸り声を上げた。唸ってやるしかない、と妄想と恐怖に見切りをつける。えいや、で台から足を投げた。

「だってさっ! ブライトシートでのこと覚えてないって言うんだ……っ!」

 が案の定、足だけではなく体ごと放り出される。だとして出せる手がないのだ。顔面から床へ落ちた。

「ぐげ」

 女の子なのに。思ったところで助けてくれるような人こそいない。赤い額とへの字に曲げた口でゴロリ、仰向けになる。

「そんなの、ひど過ぎるよぅっ!」

 吠えて今度こそどこへも落ちようのない床の上、台を頼りに上半身を起こしにかかった。

「だから」

 束ねられた足を体へと引き付ける。

「だからぁっ!」

 前屈みでグイと尻を持ち上げた。勢いあまって前へ転がり出しそうになろうとも、揺れた機体に押し戻されたなら御の字だ。ままに座り込んだ場所も今まで寝ていた台の上とくれば、それだけで最後までいけるんじゃないかとさえ過りだす。よっこら、どっこい。力に変えて、百々はついに立った。

「だから帰って」

 バランスの悪さに細心の注意を払いつつ体の向きを変えてゆく。

「だから帰ってもう一度やり直すって、決めたんだもんっ!」

 レフを目指し飛び跳ねた。


むしろ機体の揺れと吹き荒れる風に助けられ、二蹴り、三蹴り、息が切れだした四蹴り目で辿り着く。背中合わせと繰り出す反転も小刻みに、百々はレフの背後に腰を落とした。

「取れるか?」

 言葉は早くしろ、と急かされているようにしか聞こえない。

「取る」

 投げ出した足で低く座りなおし、断言し返す。狙い定めて、えいや、だ。百々は手を突っ込んだ。探してまさぐり覚えた生暖かさに、おや、とたちまち口をすぼませる。

「……それはポケットじゃない。俺の尻だ」

 ワケを明かすレフの声は低く、なるほど、突っ込むところを間違えた。

「ぎゃー、セクハラっ!」

 手足に自由がなかろうと跳ね上がって手を引っ込める。

「それはこっちのセリフだッ」

「なっ、今までダサいスラックス履いてたのにっ。急に格好つけてローライズなんか履くからだよっ!」

「バーバラに言えッ」

「ひゃああっ、レフの方が着せ替え人形だぁっ!」

「うるッ、さいッ」

 投げ合いつつも探りなおすしかないポケット。それこそ尻の下敷きになっていたなら、気乗りはしないが突っ込んだ指先に先のとがった匙は触れていた。

「あった」

 つまんで力任せと引っ張り出す。宙を泳がせ感覚のみで、レフの手へリレーした。粘るケミカル素材を引っ掻く感触は、すぐさま百々へと伝わってくる。ならば嫌でも意識はそこへ集中し、自然、口数は減っていた。沈黙に寒さが身へしみたなら、泣き言を警戒したレフはやおら話し始める。

「帰ったら、またブライトシートへ行くのか」

 あいだも突かれて切り込みが入ってゆくテープは、思っていたより脆い。きっと解ける。予感に百々は帰る、その思いを確かな像へと結びなおしていった。

「いかない。もう背伸びはしない。20世紀の休みの日にバイクで水族館に連れてってもらう。海浜水族館。あそこのイルカショーが好きだから。一番前で見て濡れて、乾かすのに砂浜へ出てお昼、食べる」

 動き出した像を追いかけるまま、語るそれはしかしながら何の根拠もないただのイメージだ。

「遊泳禁止だから貸し切り。眺めながらさ、出店の焼きそば美味しいんだ、あとトウモロコシと広島焼きって知ってる? 食べる」

「そうか」

 だが、その根拠なきイメージだけが人を動かす。

 と、ついにブツリ、テープの切れる感触は伝わっていた。端をつまんだレフが引っ張り、ひねる体でめくり始める。

「で、あとは、ぼーっとするだけ」

 百々も手伝い体を傾けた。邪魔だと思えた腕が次第に軽さを増してゆく。ゴールは近いと百々へ囁きかけた。

「タドコロとならさ、黙ってても困らないもん。日に焼けても、今日も終わりだなぁって太陽が沈むのを見たら帰るよ。やっぱり後が恥ずかしいから、返事もキスもサヨナラの時でいい」

「なら、トウモロコシは歯に挟まる。焼きそばはノリがつくからやめておけ」

 などと至って真面目と受けるアドバイス。

「き、気を付けますです。はい」

 刹那、両腕に自由は戻った。取れた。言うより先だ。百々は足の拘束を毟るように解きにかかる。果てに完了する、イモムシから蝶への華麗な脱皮。嘘のように軽くなった体で急ぎレフの拘束を解きにかかった。

「じゃ、レフは帰ったらどうするの?」

「バーブシカの墓参りへ行く」

 いや、そっちか。つっこみかける。

「バーバラとだ」

 子供じゃないならその意味くらい理解できた。巻き取ったビニールテープは百々の手の中、早くも毛糸玉よろしく膨れ上がっている。握りなおして百々は向けられた背へ小さく笑んだ。ならもう話すことはなにもなく、むしろ作業へ拍車はかかる。あと少しの所でレフも力任せとテープを引きちぎった。

「オフィスヘ報告ッ。すませてから身の安全を確保する。俺の所持品は全てない。お前はどうなっている」

 猛然と足のテープが巻き取られてゆく。

 探して百々はポケットへ手をあてがい、素っ頓狂な声を上げていた。

「ない。ないよ。ぎゃー、カバンごとないよぉっ!」


「GPS発信元に到着。空港内の格納庫。二人の端末とレフのベレッタが残されてる。これ、百々さんのカバンかしら。ただし、誰もいないわ」

 拾い上げ、ハナは開いたままのスライドを元の位置へ押し戻す。無残に崩れた木箱の山と、所々に残る弾痕、そして薄く砂の積もった床を見回していった。

「ほんとに派手にやったみたいね。靴跡がかなりの数、残ってる。にしては血痕が少ないようよ」

 そうして聞こえた人の気配に、ずいぶん離れた入口へ視線を投げた。ようやく駆けつけてくれたらしい。 大手を成して現れたコートジボワール当局をそこに見つける。


「時間は?」

 聞かれてのぞいた腕時計の文字盤には、ビニールテープの粘着剤がこびりついていた。指でこすり取り百々は、あ、と喚いたばかりの口を開く。

「まだ六時半だよっ。あれから一時間半くらいしか経ってない」

 外の赤い色はつまり夕焼けだ。

「コクピットの無線を使う」

 ついに解けたテープを投げ捨てたレフが立ち上がる。

「りょ、かいっ!」

 駆け出す百々の体にもう迷いはなかった。


 そしてエリク・ユハナは自分の行為を棚に上げ、そっと二人へ進言する。

「こ、こんなの、電話局に聞いた方がいいですよ」

 そんな彼の前、先ほどから延々スクロールを続けているのは電話局のサーバーに溜め込まれた通話記録だ。

「正規ルートは手続きが手間だ。民間の動きは遅くて有事に間に合わん。だが犯罪にはそれがないからな。心おきなくやれ」

 励まし、ゆさぶり、共にモニター画面をのぞき込んで、ハートはエリクの背を叩きつけた。嘘かまことか眼鏡のブリッジを押し上げたすストラヴィンスキーも、殴っておいて温和と微笑みかける。

「そういうことです。案外、捜査協力は後の司法取引で有利に立てるかもしれませんよ。頑張ってください」

 だからいったい、この人たちは何者なんだ。思わずにはおれず、こちらへ加担した方がさらにスリリングだったのかもしれない。本気でエリクは考え始める。


 コクピットのドアは半開きと揺れていた。掴んでレフは剥がさんばかりと引き開け中へ飛び込む。目の当たりとしたのはフロントガラスの向こうに広がる空より、無人のそこで頼りなく空を切る操縦桿だった。

「透明人間しかいなぁいっ!」

 いや、そんなモノこそいないぞ、百々。

 ともあれ叫んで、無数と並ぶ計器盤を前にさっぱり分からずなおさら目を泳がせる。身を乗り出したレフがすかさず座席に置かれていたインカムを手に取った。まさか生きているうちに生で聞くとは思っていなかったメーデーを、ここぞで一生分、繰り返す。

 と視界の隅に映り込むものはあった。二つ並ぶ操縦席も百々側の足元だ。思わず二度見し、百々はレフの裾をこれでもかと引っ張る。

「レぇフっ! ばい菌、ばい菌がおいてあるよぉっ!」

 ミッキー・ラドクリフが提げていたあの保冷庫で間違いない。

「中を確認しろ」

「それ無茶ブリだってばぁっ!」

 未知の細菌が保管されているというのに指示はひたすら淡泊でいただけない。

「処分されているから、ここにあるッ」

「ひー」

 叫んでともかく息を止めた。百々は魚釣り用の保冷ボックスさながらの、銀色の留め具を親指の先で跳ね上げる。なるべく遠くからだ。伸ばした足先でフタもまた蹴り開けた。おっかなびっくりのぞき込んだ中に納められていたのは資料で確認していた冷却容器のみ。そのフタはすでに開くと浮き上がっており、しかしながら中から冷気がもれ出している様子こそない。もう恐る恐るの極みだ。百々は伸ばした指先で、そのフタもまた弾いて開ける。ススにまみれたスピッツが六本、中に差されているのを見た。

「……燃え、ちゃってる」

 つながらない通信を諦めたレフは、次に探し出した無線機を弄っている。その口から放たれたのはロシア語で、向かって百々は振った首で目にしたままを伝える。それでも不気味な保冷庫のフタを、えいや、で閉じた。

「遅くとも二時間、事態は必ずオフィスへ伝わる」

 通信を終えたレフのそれは日本語だ。なおさら耳へ明瞭と理解した百々は目を見開く。たった一人だろうと拍手喝采、もろ手をあげる。

「やったぁ、すごいっ! これでもう大丈夫なんだよねっ!」

「テロの公表が回避されれば問題ない」

「って、誰と話してたの?」

「クソ、代わりにゲイシャが見たいと要求された」

 それはもしやのパターンである。

「あれ? 空軍のお友達、とか」

「ヤツは状況が分かっていない」

 らしい。

「あは、会ってみたいな。レフのお友達」

 笑うが、そうも長続きはしなかった。

「って、あたしたちは、あたしたちはどうなるんですかぁっ!」

 舌打ったレフの目はだからして、もう並ぶ計器類を睨みつけている。険しい横顔に過る光景があるとすれば、お約束が恒例のゴールデンパターンだろう。

「そうだよっ!」

 立てた指で百々はレフへと詰め寄った。

「レフが操縦して、降ろしてくれるんだよね、ね」

 だが今さらどの面さげてかわいい子ぶろうと役には立たない。

「無茶を言うな。出来るわけがない」

 今までさんざん人に無茶ブリしておいてそれはない。

 ポカスカ殴りたい気持ちを百々はぐっと押さえ込む。さらにレフへ詰め寄るった

「じゃ、じゃっ、管制塔からの指示で不時着っ!」

「お前がやれ」

 のけぞるほかなく、負けじと再度、踏み込んだ。

「偶然にも乗客にパイロットっ!」

「他に誰もいないだろうが」

「特殊能力、覚醒っ!」

「あるなら使え」

「あたしだって、ただの人間ですぅっ!」 

 ついに噛みつく。

「クソ、落ちるぞ」

 無視したレフのセリフは今さらだった。

「寝ぼけてますかっ!」

 ならレフの爪は「FUEL」と文字を刻んだゲージをいまいましげと弾いてみせる。

「燃料が入っていない」

 すでにフリーフォール。百々は毛を逆立てた。放って前屈みと、レフは他の計器へも視線を這わせてゆく。持ち上げて濃紺を滲ませ始めた空を睨んだ。顔へと投げた百々の問いは、とにもかくにも的外れとしか言いようがない。

「落ちたって、……う、浮くよね? これ」

「浮くも沈むも、グライダーの格納も可能な大型輸送機だ。推力を失った地点で墜落する。着水の衝撃におそらく機体はもたない」

 だから最終回なのだ。

 と、レフが振り返った。

「いや、降りるぞッ」

 ままにコクピットの外へ向かい身をひるがえす。

「パラがあるのを見たッ」

 言われたところで百々にはそれこそ意味不明だ。

「な、なんて? パラ、パラってっ?」

 まさにレフの残像を追いかける。伸びる狭い通路を手繰り、拘束されていた格納庫にまで戻った。ハッチも開け放たれたままのそこは、吹き荒れる風も変わらない。足を踏み入れて百々は早々、壁へしがみつき、真逆とレフは開いたきりのハッチ近くまで進み出てゆく。機体、壁際に吊られていた袋を掴むと、さらに選んで毟り取った塊を戻ってくるなり百々へと投げつけた。

「わっ」

「タンデムで降りる。装着しろッ」

 百々は受け止め百をのけぞらせ、おっつけ押し付けられたそれを確かめる。

 なるほど、ハーネスだ。

 そうかそうか。うんうん。

 ようやく合点がいって、まずは笑った。

 冗談じゃない、で次に唾を飛ばす。

「パラって、パラシュート降下するってことですかぁっ!」

 そのための台だったのか。置いた袋を、いやパラシュートを確かめるレフは振り返りもしない。

「心配するな。軍にいた頃やっている」

 背負い続けたホルターを脱ぎ捨てたレフは、ハーネスへ足を通している。パラシュートの袋、キャノピーを早くも背負い上げた。身に合わせて各所を締め上げてゆく手つきはもう手際が良すぎて機械的でしかない。

「むぁ、ムリムリっ!」

 向かって千切れるほどに百々は首を振り返す。

 いや、もちろんレフが消防士だったことは知っている。しかもただの消防士ではなく、燃え始めれば数か月は続くという大規模火災を相手にパラシュートで焦土へ降下。空輸を受けながら現場でキャンプを張りつつ火を追いかけるトンデモ消防士だということもだ。だが当の百々はてんで違った。軍人でもなければ消防士でもなく、辛うじて対テロ組織の一員らしいが、それも危うい貧相極まる一般市民である。そしてそんな一般市民は開いたハッチから放り出されるのが怖くてたまらず、今もなおこうして壁にしがみついているところなのだ。

 だがレフは、あちこちを握っては離し、こっちを握っては離し、降下時のリハーサルか装備の位置を確めている。

「友人にはおおよその位置も託した。最悪一晩だ。浮いている限り必ず迎えは来る」

 いや、その事実はむしろ問題を深刻にしていないか。

「し、沈んじゃったら? 誰も来なかったら、どうするんですかぁっ?」

 ならついに準備万端、整ったレフの目は百々をとらえる。

「何もお前ひとりでやれと言ってるんじゃない。いいか、まだ機が飛ぶとして日が暮れてから墜落に巻き込まれる方が危ない。明るいうちに自力で着水する。安全で確実なそれが手段だ」

 真っ当だった。その理屈は至極、真っ当なものだった。だからこそ百々の口はそれでも探す理由にもごもご動く。

「うだうだ言わず、さっさと着ろッ」

 気づかぬはずもないレフがたたみかけていた。

「タドコロに会えなくてもいいのかッ」

 いや確かにその一心でここまで切り抜けきたようなものだ。だがさすがにその賞味期限も切れかける。

「そんなのっ」

 百々に迷いはなかった。

「キスするだけじゃ、引き合わないってばぁっ!」

 吠えればレフもみあう大声を張り上げ返す。

「男がそれだけで納得するかァッ」

「へっ、へぇ……?」

 力説されて、こんな時に何を言っているのかと思う。

 豪語して、こんな時に何を言ってしまったのかと慌てふためいた。

 というかそんな話だったのか、これは。

 おかげで双方、ほどよく冷める。

「わっ、分かったよ。わかりましたぁっ。きっ、着たらいいんでしょうがっ」

 もう、どうでもいいや。

 百々が思ったかどうかは定かでない。ただ受けたショックは予想外で、少なくともそんな気分に浸ってみる。エンジンも不安定と途切れて空回りを始めていた。調子っぱずれな音を聞きながら、百々はいそいそハーネスへ足を通していった。

「飛んで、泳げばいいんでしょうがぁっ。ほんと知らなかったよ、ムッツリすけべだったなんて」

 こぼせば聞こえたらしい、繰り出されたレフの咳払いはデカい。おかげで作業も粛々と進み、問題ありだろうとなしだろうと結果が全てとなる。レフの腹側につながれると、なぜ嫌がる自分が先頭なのか。開いたままのハッチの前に百々は立った。風とは思えぬ分厚いナニカが体を叩く。バリバリと耳を千切りそうに音は鳴り、混じって途切れがちなエンジン音と、ときおり風切る翼が高音が辺りを包み込んだ。

 ハッチをスロープにかえ、向かって踏み出すレフに押される。百々は機体の外へと足を繰り出していった。左右、遮るものが失せて開けた視界に、ちりめん模様と波の影を張り付け海は広がる。それはもう高い低いを越えた、ただ遠いだけの光景だ。だというのに互いの間をつないで渡すものは何もなく、そんな場所へ身を投じる心もとなさが夢の中、落ちゆくあの感覚をすでに百々の中へ蘇らせる。

「ほん、ほんっとにパラシュート、開くんだよねっ! 大丈夫なんだよねっ!」

 だとしてレフは歩みを止めない。確かめれば肩をつつかれ、咄嗟に百々は教えられたジャンプ時のポーズを取るとハーネスを握りしめた。

「ねっ?」

「開くッ」

 そのつま先で、ついにハッチはついえる。

 延々何もない空だけが「おいでませ」と広がった。

「ただし」

 ならこの土壇場で付け加えて言うレフの言葉はあんまりだろう。

「俺も海へ降りるのは初めてだッ」

 そらそうだ。山火事を消すのだから海なんてありえない。

 思うと同時だった。

 百々はどん、と背を突き飛ばされる。

 宙へ体を投げ出していた。


「よくやった」

 その時、ハートのほめ言葉と共にエリクへ手錠はかけられる。

 おかげでノワールは彼がコートジボワールとリベリア共和国の国境付近へ降り立ったおよそ三時間後から、追跡を受けていた。だからしてグライダーを処分するため取り付けていたその場所で、待っているはずの馴染の顔が見知らぬ警察官にすり替わっていたとして、地上の連係プレーはそれほどまでに緻密かつ迅速だったということだ。

 確保時、抵抗らしい抵抗を見せなかったノワールは最後、こんな言葉を吐いたと言う。

 つまり彼らは無事だってことだ。そして次に脱出するのは、僕の番ってことになる。解放されるのは、ね。それがなされるき正義、あるべき世界の姿だ。

 居合わせていた者の証言では、やけに満足そうな口調だったと言う。


 その通り。

 だからして百々は正真正銘、落ちていた。

 速度は時速二百キロ。

 大気は口を開ければ押し込まれる勢いで襲いかかり、裂く体はひたすら地球へ一直線と吸い寄せられていた。状況に五感はかつてない刺激を吸い上げ、脳ミソだけが統括できず動転するままアドレナリンを噴出させる。

 きっと全ては辿り着いてから把握されるだろう。それが水上だろうと、あの世だろうと、だ。

 最中、再び肩を突かれ、握っていたハーネスから離した両手を左右へ広げた。

 たどり着くべきゴールは眼下でわずか黒く夜を忍ばせると、波の高さをちりめん模様ではないリアルなそれへ、瞬きのたびに変えている。

 一秒ごとに変わる気圧のせいだ。鼓膜はもう二度、勝手に空気を抜いていた。切るように冷たかった大気もまた、馴染む温度へ緩みゆくのを肌で感じ取る。それら経験はほんの数十秒でも後を予測し次を導き出す糧になるらしい。着水までの時間を百々は確信する。同時に太刀打ち不能の落下のエネルギーの凄まじさもまた実感すると、果てに迎える木端微塵に備え全身へ力を込めた。

 ハズが、落下にストップはかけられる。

 絡むハーネスへ、これでもかとGはかかっていた。

 とたん叩きつけていた風は失せ、息が自由と解放される。なにより目の前、景色が様子を変えていた。それは途切れそうな夕焼けの中だ。オレンジ色と染まるパラシュートに吊られて百々は、気付けば穏やかと浮いていた。

 思わず見上げてあんぐり口を開き、乾き切った目を何度だろうと瞬かせる。

 どこからが嘘で、どこからが現実か。

 どこからが冗談で、どこからが本気か。

 疑いたくなるような成り行きは疑いたくなるほど美しい景色に囲まれ、今現在を迎えていた。

 あとわずかで日没だ。

 彼方に一番星を見つけて珠のようなそれに目を奪われ、暗い水平線にまた異なる光を見つけて声を上げる。

「あっ! レフ、あれ。あれ街だよっ!」

 確かに、目を覚ましたのはブーンディアリ空港から一時間半余り後のことなら、とんでもない沖まで出ているハズこそない。

「覚えておけ。着水するぞッ」

 左右、スリングを引くレフが、風に流れるパラの姿勢を保ちつつ準備を促す。段取り通り、百々はハーネスの胸帯をゆるめ、手を体へ巻き付け足元へ目をやった。

 これが近づけば近づくほどふんわり軟着水とは程遠いのだから、とんでもない。容赦ないスピードで水面は近づき、そこにパラの影もまた走った。

 見定めレフがスリングを引きパラを旋回させる。あおられ潮の匂いが吹き上がり、覆いかぶされば窒息しかねない傘の下から体は放り出されていた。

 そのままの態勢だ。

 着水する。

 水圧に体の自由は奪われ、視界を泡は埋め尽くした。満ちる水音が鼓膜を覆い、体はしばしその全てをまとってなぶられるように沈み続ける。止めた息に違和感を覚えたところで、ようやく生じた浮力に今だ、と手足を広げた。

 落ち着こうとしても慌てふためいてしまうのだから仕方ない。百々は緩めたハーネスから体を抜き、最後まで引っかかっていた足を振って脱ぎ捨てる。その体をレフに掴まれ水を蹴りつけた。

 そうして見上げた水面はもう清々しい青でも、突き抜けるようなオレンジでもない。ひたすら暗い空めがけ水面を割る。風が、音が、唐突なまでに五感へ戻っていた。息継ぐレフの声が間近に聞こえ、百々もまた荒い呼吸を繰り返しアゴを持ち上げる。遠く彼方から何とも言えぬ鈍い音が聞こえてきたのはそのさなかで、不気味さのあまり泳ぐというより浮かんだままで振り返っていた。黒く低く、水平線にポウと煙は吹き上がっている。

 乗っていた機だ。

 目が離せなかった。

 しばし煙が風にかき消されるまでを、レフと黙ってただ見届ける。

 そんな百々の呼吸が落ち着き、話せるようになってから放った最初の一言といえば、こうだ。

「あのさ、早く助かったって言いたい」

 すでにパラも流され辺りになく、波もそれなりに高いなら、あの墜落に巻き込まれなかったのはよしとして、万事オーケーには程遠い四方はまだまだ難問だらけだ。

「陸はどっちだ」

 レフが鼻先から滴を飛ばし、探して頭を振った。

「あっち。ほら、それっ」

 アゴで示し百々は誘う。

 と遮り、それはゆるゆる流れついていた。

「あぁっ!」

 木箱だ。さすが南国、バナナのガラ入り。思いきりのクロールで百々はすがりつく。すかさずレフも飛びついたなら、その目が睨みつけるのは間違いない。遠くきらめく街の灯りだ。

「よし、帰るぞ」

 本気なのだから恐ろしい。

「帰るって、どうやって?」

「足がある」

「うえ、遠いんですけど」

 だが聞かず、バタ足は繰り出されていた。

「わっかりましたぁっ!」

 並んでヤケクソ。百々も左右の足で水面を叩きつける。

「おい、そっちへ曲がっているぞ。しっかり蹴れ」

「あ、あったりまえじゃん。レフと同じにやれるわけないじゃん。手加減してよっ!」

「お前に合わせると流される」

 だから無茶振りは、もうたいがいなのだ。

「着く前に足がつるってばぁ」

「つらないッ」

 言うレフを、振り返ってまで百々は睨む。

「あ、そういえば」

 こうなれば腹立ちまぎれだ。言ってやると意を固めていた。

「バービーさんがそろそろ電話、かけてくるかもしれないね。出ないと心配するよ、きっと」

「携帯がない」

 返事へ百々は口を開く。

「そういえば保健所の前で、レフさぁ」

 頭上はいつしか満天の星空に変わると、なおさら街の灯りをはっきり灯し、そこからぬるく南の風を吹かせていた。

 無論、その頃、芸者を夢見る友人は張り切り急いで段取りをつけていたが、あと一時間もすれば救助の手配がされることを二人はまだ知らない。そしてついにヘリへと引き上げられることとなった決め手が、ブイかと思った、と言うハナの一言により、レフのオレンジ色のTシャツであったという事実も、まただいぶ先に知る話だ。

 ただ今は何も知らず、百々はレフへの仕返しに精を出す。

「バービーさんと、ちゅーしてたでしょ」

 その無表情など、もう恐ろしくも何ともなかった。続けさま、からかい口さえ開きかけたなら、遮るレフのバタ足だけが勢いを増す。

「うあた、おわ。曲がる、曲がるってばぁっ!」

 かける軌道修正こそ必死の攻防戦だ。

「そら、しっかり蹴れ。街が遠ざかるってるぞッ」

 右へ左へよれながら、それでも二人は陸を目指す。

 二度と巡らず戻らない、それでも変わらぬ日常の、君が紡ぐ平凡な日々へ向かって。

 そう、どんなに右へ左へくねろうとも、

 どんなに地味なバタ足でもだ。


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