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10# YOU GIVE A NICE DAY TO ME! -1

 上映終了は朝の五時。田所に揺さぶられて目を覚ます。

 目が覚めて百々が初めて気づいたのは、映画をほとんど見ていないと言う事実だった。手をつなげばもう少しドキドキするものかと思ったものの、その実、眠ってしまっていたらしい。

 それにしても警察病院まで送ってくれた田所は、あまり目を合わせようとしてくれない。そのぎこちなさにほんの少しでも期待していたお別れのキスなど夢のまた夢となり、帰った時は一番に連絡する、とだけ約束して別れる。

 などと浮ついた気分を引きずっていられるのもそこまでだった。地下駐車場の冷ややかさが、乗り込んだエレベータの駆動音が、ここに来た目的を百々に思い出させる。

 みな泊り込んだのだろうか。こんな時間にもかかわらずオフィスは通常稼働と騒がしく、仮眠室のシャワーを浴び終えた午前六時、百々はペレーティングルームへと足を踏み入れていた。

 目指す丸テーブルではオスロー行きのハートにストラヴィンスキー、ハナが曽我を交え最終確認を行っている。立ち会っているのだろう。腕組みしたままで耳を傾けるレフもまた昨日と同じオレンジ色のTシャツとジーンズで、傍らの椅子に腰かけていた。

 決して遅刻したわけではないが最後なら慌てずにはおれない。駆け寄り百々は輪へ加わる。だがそうして交わされた挨拶はといえば、緊張感を伴う目配せだけに終わっていた。

 何かあったのだ。感じたそのとき追いかけるようにして百合草は姿を現していた。

 歩み寄る百合草は背広をはおっていない。加えてワイシャツの袖もまたまくりあげていたなら、たどり着くなり丸テーブルへその腕を突き立てていた。

「現地時刻、二十時四十五分。日本時刻、本日、四時四十五分。乙部らの踏み込んだIPアドレス先の家屋が仕掛けられていた手榴弾により爆破された」

 まさかと目を見開いたのは百々だけだ。

「負傷者は出てるんですか?」

 漂う緊張感の正体はこれだったらしい。すでに知っていたと思しきストラヴィンスキーが珍しくも鋭い口調で問い返す。

「現地署員が三名、重体。彼らほどではないらしいが、乙部も病院へ運ばれたとのことだ。まだ本人からの連絡はない」

 答える百合草にその服装以外、乱れたところはない。

「一人、ボツワナへ向かうことになるのかしら?」

 ハナが確かめる。だが迫られた決断の土壇場加減は昨日の比ではなかった。百合草の頬は苦々しく削げ、やがて決断は下される。

「いや、当該家屋へ人の出入りは確認されていない。証拠物件のほとんどは爆発で粉砕したとも報告を受けている。向かったとして手がかりを失った後なら十中八九、調査は行き詰まることが考えられる。我々は当初の予定とおりノルウエィ・ノワールからのロン追跡に集中。乙部には今後も単独で行動してもらう」

 聞き取った頭は周囲で緩慢と揺れ動き、向けて百合草はさらに続けた。

「あの場所からアクセスしていたことは事実だ。ロンの手がかりが残されていたからこそあえてトラップは仕掛けられていた。いいか、今後も同様に手掛かりの周囲にはトラップがあることを頭へ叩き込んでおけ。接近の際はいかなる状況であろうと慎重を極めろ。単独での行動は許さん」

「聞いたか、ミスタースタンドプレー」

 すぐさまハートがレフへ目玉を裏返す。

「そっちこそ。家族を泣かせるな、ビッグダディー」

 突き返すレフにもスキはない。

「心優しい支援者様が一番の危険人物、ってわけね」

 聞き流してハナはこぼし、その横顔を盗み見たストラヴィンスキーも分厚いレンズを押し上げていた。

「でも熱烈歓迎、好きですけどね。僕は」

 言わせておいて百合草は、そこでなお表情を引き締める。

「我々の最終目的は SO WHAT 支援者ロンの確保だ。場合によっては次なるテロの阻止を必須とする。入口はオスロー、コートジボワール、ボツワナと三方に分かれるが目的はいずれも違わない。各自、身の安全を考慮したうえで優先順位にのっとり行動を取れ。間違ってもこれ以上、私の肝を冷やさせるな」

 そうしておいた一呼吸に思いを強く滲ませた。

「一人残らず戻って来い。終われば好きなだけ飲ませてやる」

 などと豪儀な提案にそれぞれの視線はいっとき宙で絡む。見届けて百合草は「以上」とこの場を締めくくった。

 経た七時半。ハートにストラヴィンスキー、そしてハナの手が、空港へ向かうべくそれぞれの荷物を掴み上げる。今生の別れでもあるまいし、いや、そうしないためにもそのさい何か特別な挨拶を交わしたことはない。投げたいってらっしゃい、は百々にとってもありきたりな言葉であり、入れ替わりに曽我からコートジボワールまでの旅程を、目的地で蔓延しつつある病原菌についてを、地元警察の協力体制に、WHOに掛け合いミッキー・ラドクリフの身元を確認するよう要請が出されたことを、聞かされる。終われば最後、コートジボワールまでのチケットが挟み込まれた通常のモノとは異なる旅券を受け取っていた。

 レフが思い切ったように曽我へ声をかけたのは、百々が支給品の詰まったスーツケースの中身を確認している最中だ。百々たちもオフィスを離れる時間が近づきつつある九時前のことだった。

「裏付けは何もない」

「何の話?」

 次々と舞い込んでくる通信をさばく曽我は、その唐突さに片手間と返してる。

「そのせいでチーフに報告しそこねたが……」

 瞬間、ヘッドセットのマイクを握り絞めた曽我は振り返っていた。

「それ、どういうことなの?」

 何しろ報告し損ねたという言い回しは現状、許されるものではない。

「俺はどこかでノルウエィ・ノワールに会っている」

 しかしながら言い切るレフはある意味タフだろう。とたん曽我の口はまさに唖然の「あ」の字に開いて固まり、途中となっていた通信をどうにか片付け改めレフへと向き直っていった。

「あなた、それを今さらわたしがチーフへ言う気持ちになって」

 もっともだと目を瞬かせるレフは、さすがに気まずそうだ。

「だがどうしても、いつどこで会ったのかが思い出せない。俺の感覚の中では確かだが、報告すべく現実が曖昧だ。思い過ごしのような気もしてきている。言えば混乱させるだけだと、はっきりするまで控えていた。だがコートジボワールへ発つならやはり耳へ入れておくべきだと判断した。遅くなったことは詫びる」

 唇を噛みながらうつむき聞いて、どうにか曽我はうなずき返している。

「わかった。わたしから伝えておく。けれど何か思い出したのなら今度こそすぐに連絡して。あなたが無口なのは私生活だけで十分よ」

 きびすを返したレフが足元に転がっていたグレーのボストンバッグを掴み上げていた。

「行ってくる」

「ええ。気を付けて」

 低く送り出す曽我の声には少なからず不安がある。

 背に聞いてレフは丸テーブルの傍らを横切った。

 だがやり取りを見つめていた百々には悲しいかな、会話の全てが聞こえていない。ただそうしてオペレーティングルームの外へ向かうレフの様子に、出発するのだと気づかされる。

「わ、行くなら行くって言って下さいってばっ!」

 スーツケースを閉じるとパスポートやなけなしの現金が入ったセカンドバックを肩へかける。ずんずん先行くレフを八方破れで追いかけた。オペレーションルームを飛び出したところで中へ身をひるがえす。

「いってきますっ!」

 深い一礼で誰もへ放った。

 残念ながら手の離せないオペレーターたちは振り返りもしなかったが、曽我だけがきつく組んでいた腕を解いて手を振り返してくれる。様子を力に変えて今度こそ、百々は通路へ飛び出した。レフはもうエレベータに乗っており、一瞬でもこの調子でゆけば自分はアフリカのど真ん中で置き去りにされるのではなかろうか。心配を過らせる。隣へ飛び込めばエレベータはゆったりドアを閉じていった。

 コートジボワールまでおよそ二十四時間。

 その手始めに二人を乗せて、地上を目指し動き出す。


 そんな日本からオスローへはヘルシンキ経由でおよそ十六時間。

 などと一口で言ってしまえば、機内で持て余した時間も光陰矢のごとし。相応の労力を費やしハートにストラヴィンスキー、ハナは日本時間で同日の二十三時。現地時刻で十七時。ノルウェーもオスローの地に降り立っていた。

 マイナス八時間の時差のせいで時差ボケは一日が少々長いという程度におさまると、もとより白夜よろしく日照時間がきわめて長い北欧の夏だ。それは馴染むにぴったりの誤差となっていた。

 木目が香ってきそうなナチュラル仕様の空港を歩けば周囲は、すっかり色の白い金髪のゲルマン民族ばかりだ。ノルウエィ・ノワールもここならたいして目立つ面構えではなさそうに思え、むしろ三人の方が異質と浮いた存在になっていた。

 紛れて今もロンと共謀しているのか。

 入国審査を別ゲートで抜け、拾った荷物を手に空港を後にする。夕暮れはそこで夕暮れとも呼べぬほどあいまいな高さを保つと三人を出迎え、見回してロータリーに止まるタクシーへストラヴィンスキーが手を挙げた。協力を仰ぐのだから、オスロー警察へは大きな荷物で押しかけるわけにはゆかないだろう。滞在も一日や二日で終わる予定にないなら焦って駆けつけたところでみあう収穫が得られはずもない。加えて欧州をテリトリーとするCTセクションもまたここでそれなりに動いていると聞いている。本腰を入れた捜査は明日からだ。

 街並みは色も形も誰かがデザインしているかのようで、眺めながら一路、ホテルへ向かいタクシーを走らせた。


 そしてこれはおよそ七時間後、同日の深夜にあたる。

 三人が後にしたオスロー国際空港の搭乗ゲートでは、パリ経由の最終便が離陸準備を整えていた。

 無論、彼はその機に搭乗するつもりでいる。だが荷物はといえば彼と行き先を違う予定にあった。それが彼をいまだチェックインロビーの片隅に押し止めている理由にもなっている。

 二十三時を過ぎた地点で全てのサービスが終了した空港は昼間のことがウソのように静まり返り、客のほとんども搭乗ゲートをくぐったせいで辺りはなおさら人影がない。

 少々不自然が過ぎただろうか。様子に自動販売機の傍らで心配してみるが、もう手遅れだと諦めることにした。何しろ荷物を託す相手は初対面で、勝手気ままと場所を変えることは許されない。

 まださほど時間は経っていないはずだったが持ち上げた左腕をひねり、再び時間を読む。それにしても遅いな、と指先で耳を掻いた。だが気をもんだところで機に乗り遅れた時はその時だ、と思えるのが彼の自由な所であり無責任な一面だろう。ゆえに潰す時間など、そうも残されていないハズだったが、あえて時間を潰すため辺りを見回す。鈍い明かりを灯す壁際の自動販売機は、その目にとまっていた。

 眠気はないがコーヒーは好物だ。突っ込んだ手で尻ポケットの小銭を確かめる。

 そうして買い求めた紙コップのコーヒーを片手に、色の失せたオープンカフェへ寄り添っても、状況は何も変わりはしなかった。

 元々サービス品だ。手を伸ばし、彼は掛けられた布の下からスティックシュガーを掴めるだけ失敬する。包みを破り、惜しげもなくコーヒーへ投入していった。

 人はこれを見て体に悪いと忠告するが、見ての通り、さして今まで健康を害したこともない。むしろ糖は脳に欠かせぬエネルギーで、過剰摂取に身長が伸び悩んだと言う話も聞いたことがなかった。そう、彼が自身に不満を抱いているとすれば、周りに比べて少々背が低いことくらいだろう。

 離れた場所ではベンチを占領し、新聞紙を頭からかぶった旅行者が何をや待ちくたびれて眠っている。露呈して差し障りないほど人はおらず、だからして近づいてくるその人物は、砂糖を入れることへやっきになっていた彼にも、すぐに気づけていた。

 ずいぶんの遅刻にどれほどの大物かと思う。

 だからといって、こちらから歩み寄るようなマネはしない。

 最後のスティックを逆さにし、彼は仕上がったばかりのコーヒーを素知らぬ顔ですすり上げる。

 ならオープンカフェへ辿り着いたその人物は、寄り添い立つ彼の隣、二つほど隔てた椅子へのそり、腰を下ろした。

 注文を受け付ける店員がないのだ。そして何某が占領しているとはいえ、休むなら座る場所は他にいくらもあるだろう。彼は、この人物が待ち合わせの相手、SO WHAT を名乗るテロリストで間違いないと確信した。

 向こうも同じらしい。閉店したオープンカフェでうまそうにコーヒーを飲み続ける彼を、待ち合わせの相手だと踏んで先ほどから、チラリチラリと視線を投げている。

 大物どころか、その動作はいちいち固い。

 だからして、あえて知らぬフリを続けたなら、おそらくこの人物は見せぬよう隠し続けているプレッシャーに押しつぶされてしまうだろうことは簡単に予想できた。見てみるのも一興だったが、浮かんだ様子は哀れさを誘ってやまず、たちの悪いイジワルはこの辺りでやめにして、彼は紙コップから唇を離すことにする。まだ中身が半分ほど残るそれをカウンターへ戻し、寄りかかっていた体ごと向きなおってやった。

 らしからぬ様子でドキリ、テロリストが身をすくめている。

 しょせんは素人集団だ。様子に改め、彼は思った。受け渡される物に怯えて、使いこなせるのだろうかとうがって止まない。だからこそ優しく話しかけてやることは、彼のささやかな思いやりで間違いなかった。

「おめでとう。君は今、世界の夜明けに立ち会っているんだよ」

 投げたほほ笑みに反して、音が聞こえてきそうなほどに生唾を飲み込んだテロリストの喉が、上下するのを彼は見る。ままに半歩、一歩と、テロリストへ近づいていった。

 詳細についてのやりとりは、もう文字上ですまされているのだから今さら説明することは何もない。テロリストが避けた二つの椅子の片方にも、キャメルのボストンがすでに置いてある。

 きっかけは、こんなものでいいだろう。

「そうそう、君の鞄、それいいね。中身を見てみた?」

 彼は二言目に、そう言った。

 促されて初めて自分の物だと気づいたらしいテロリストは、恐る恐る鞄へと手を伸ばす。ヨレヨレになったジップを幾度もつっかかりながら、その場で開いた。中を確かめたかと思うと、即座に閉じる。小脇に抱えた姿は見ていてあまりスマートなものではない。もう少しリラックスした方がいい。思うからこそ、冷やかすような笑みはここでももれていた。

「さて、これで君も僕らの仲間入りだ。改めておめでとう。もっとも、もう会うことはないと思うけどね」

 聞いているのかいないのか、返事はなかった。ただ闇で化け物にでも会ったような目を、彼へ向け続ける。

「じゃあ、僕はもう行くよ」

 サラリかわして、彼は飲みかけのコーヒーを、伸ばした手でカウンターのシンクへ流した。押し固まるテロリストの肩をひとつ叩いてから、オープンカフェを後にする。

 やれやれ、どうやら機には間に合いそうだ。

 出国ゲートへ向かう足取りは軽い。

 が遮り、バイブレーションモードにしていた携帯電話は急に彼の尻ポケットで騒ぎ立てた。

「ん? まだ約束があったっけ」

 ため置いて後からまとめてチェックするために所持している携帯電話でないなら、面倒でもすぐさま引き抜く。親指の先でひとつふたつ操作した。届いたばかりのメールへ目を通し、とぼけた様子で彼は眉を跳ね上げる。

「まだ使う予定があったのにな。ま、吹き飛んだなら仕方ないか」

 唯一、持っていた荷物をテロリストにくれてやったのだから、持つ物は何もない。手早く返信を打ち込み、彼は手ぶらのままで出国ゲートを潜り抜けた。そもそもコソコソ動くほど神経質なタチでもなく、その堂々とした態度こそ逆に、周囲の目を欺くにうってつけだった。

 打ち終わった携帯電話を尻ポケットへ戻して彼は、機内でひと眠りする時はブランケットを二枚、借りようと考える。朝食はベーグルだ。サワークリームが苦手だなと、思い返す。そんな彼の視界に闇夜へ飛び立つ機の丸い鼻先がじわり、映りこもうとしていた。


 夜が明けようとしている。

 どうやら勘は今でも健在らしい。

 日本ではついぞ働く機会がなかっただけだと乙部は振り返った。

 違和感はなはだしい脇腹をかばえば体は傾ぎ、そのままでICUの小さな窓をのぞきこむ。そこで物々しい機材に囲まれたヘディラ警部補は黒かった面持ちを白く一変させると、包帯に巻かれ静かに身を横たえていた。

 あの瞬間、乙部も例外なく爆風に巻かれ道路まで投げ出されていたが何も覚えていない、というのが実際だ。目を覚ませばここへ運び込まれた後となり、全てはまったくもって小男のせいとしか言いようがなかった。前にいた二人のおかげでケガはこの程度ですむと、むしろ調子が悪いのは耳の方ときている。それこそ寝込むような傷でなく、ここへ来たのも仕事のためなら、日が昇れば始まると知らされた現場検証に立ち会うことを自身の状況も含め、オフィスへ伝えていた。オフィスからは予定通りオスローへ三人が発ったことを、加えて予定外のコートジボワールへ二名、飛ぶことになったことを聞かされる。合間、百合草は無事で何よりだった、と投げてもいるが、言葉には労いよりも不手際を思い知らされたようで返せてはいない。

 思い返せる自分を冷静だとは思っている。だがやはり多動気味な今に動転しているフシは自覚せずにはおれなかった。

 帰るまでにもう一度、言葉を交わしておきたい。動かぬヘディラ警部補へ別れを告げる。着ていたシャツは切り捨てられ、今身に着けているのは病院のロゴが入った半袖のTシャツだけだ。ひるがえすと寒さに震えてホテルへ向かった。

 迎え入れたフロントマンは眠気の方が勝っていたらしく、一変した様子を一瞥しただけで伝言を預かっている、と一通の封筒を差し出している。待っていたと言えば闇雲だったが、とたん冷えていた気持ちが一思いに活気づくのを感じ取らずにはおれなかった。案の定、部屋で封を切ったそこには懐かしい旧友の字が並んでいる。

 あまり大っぴらにできないこの訪問だ。だからして前もって打診しておいたのは淡泊な数字の羅列だけで、いわば現地で使っていた同胞間の暗号だった。組み合わせでいくつかの意味を伝えることは出来るが、その羅列で宿泊先までもを明示することはできない。ただハボローネにある滞在先はそう多くなく、どうやら人が手榴弾に吹き飛ばされている間その旧友は探してまで訪れてくれた様子だった。

 読みにくい文字を追えば明日夕方、マーケットのカフェで会おう、とある。

 差出人は、ガロ・アガンソ。

 いい年をして、いまだ紛争地上空を飛んでいるらしい。そんなガロはナイロン・デッカードと直接、会ったことのある男でもあった。そしてそもそも支援者ロンにナイロン・デッカードの気配を感じ取ったのも、そんなガロから聞き及んだ言葉に由来している。


 この世界にはプロしかいないが、身近な素人を支援すれば後の金回りが違ってくる。


 ガロがナイロン・デッカードから聞いたというくだりは、確かそんな具合だったか。

 言わんとしていることはごく単純で、戦火を絶やさず弾と火薬を消耗させるには、火種を抱えた素人へ無償で銃器をあてがい、きっかけに始まった紛争をリピーターの宝庫とマーケットのすそ野を広げる、それだけだ。当時から業界で幅を利かせていたナイロン・デッカードゆえの資金力と、マーケットリサーチ、情報量がものを言う、それは彼、独特のやり方でもあった。

 だからしてロンがすなわちナイロン・デッカードである、という見方が安直なことは乙部も重々承知している。言えばIPアドレスが彼の拠点、南アフリカはボツワナと一致し、素人へのばら撒きが彼独特の手法に匹敵しているだけとも片付けることができた。そして組織も活動も旨味が見込めるほどまとまっていない SO WHAT が今後、彼の顧客としてリピーターになり得ることこそ考えづらくある。

 だが、ぜひとも確かめておきたかった。

 そう勘が囁く。

 そしてないがしろにできないことは、つい今しがた学習しなおしたところでもあった。

 軽く目を閉じて現場検証へ向かえば、ちょっとやそっとで片付くはずもない仕事を抱え込むことになるだろう。なら明日の夕方というガロとの待ち合わせは、ちょうどいいタイミングだと思えてならなかった。

 乙部は着替えたシャツの胸ポケットへ読み終えた封筒をねじ込む。

 数時間後、訪れた現場で乗りつけた車両から足を下ろした。

 あれほどの爆発が起きた後だとは思えない。現場は夜、眺めたそれとは縮尺すら違うようで、ひどく呑気と間延びして見えた。

 腰のグロッグを確かめる。吹き飛び半壊したあばら屋へ、ここまでハンドルを握ってくれた署員と共に入っていった。

 室内には火薬の炸裂跡が焼き付くと、爆風の広がりを模写してあれやこれやが同心円状に散在している。壁へは飛び散った手榴弾の外皮も点々と食い込み、漂う臭いが火事場にも似て異なる火薬臭さを放っていた。

 フラッシュライトの中に見た水瓶や椅子は粉砕されて跡形もなく、壁際のテーブルと乗っていたパソコン本体だけがその形を残している。だがそれも一瞬にして時を経たかのような廃品状態だ。専門家でもない乙部にさえ何の手がかりも得られそうにないと一目で知るありさまだった。

 そのただなかで、行き来する鑑識職員の一人を呼び止めた署員は乙部を紹介する。なら汚れた手袋を剥いで相手は、乙部へ手を差し出した。

「昨日は、眠れましたか?」

 髪の縮れ具合まで全てが丸で構成されたような面持ちだ。職員は責任者のセレツェ・モハエだと名乗り、乙部はその手を握って返す。

「強制的に、ずいぶんとね」

「あなたは運がよかった」

 解いたモハエは再びそこへ手袋をかぶせ、改めパソコンへ歩み寄っていった。

「三人には、本当に申し訳ないことをした」

 言わねばと思うが、他に言葉が見つからない。

「あなたも、間接的には我々も被害者だ。そのセリフは仕掛けた相手に吐かせるべきものです」

 回収に取り掛かる前、振り返ったモハエが投げる。

「探っても?」

 気遣いをこれ以上、毟り取りたくはない。乙部は問いかける。答えて返すその代わりだ。モハエは腰道具の中から引っ張り出した一対の手袋を乙部へ投げた。

「持ち去る場合は必ず確認を」

 空中で左右に分かれたそれをどうにか受け止め、乙部は中へ手を滑り込ませる。名画でも鑑賞するよう具合だ。見るもの全てが吹き飛ばされた室内をじわり、見回していった。感性が足りないのか何一つ目にとまらないなら、行き場を失った視線を隣室へと投げる。

 左手奥、裏口向かいの部屋は爆心へ背を向けるようにドアが設置されており、被害が少ない。回り込めば寝泊り用にか、ベッド台らしき骨組みだけの台が見えた。吹き込んだ爆風に飛ばされたのか、部屋のど真ん中にCDラジカセも転がっている。左右に丸いスピーカーが組み込まれたボダンだらけのゴツさは間違いなく年代物だ。見回し拾い上げ、重みに電池が入っているのではと電源をいじっていた。電波を拾ったラジオがすぐにも歌声を流し始めたなら、切って邪魔にならない所へ置いておこうとしたところでスピーカーの間、放り込まれたままのコンパクトディスクに気づき、イジェクトボタンもまた押してみる。だがそれこそ爆風のせいなのか、フタは開かず再生ボタンを押していた。ラジオとはケタ違いの爆音だ。とたんスピーカーからつんざくようなギターの音色と小気味よいベースラインは吹き出す。切れのいいリズムセクションには手練れて逆にいい癖があり、一瞬にして乙部の心を掴む。やがてしゃがれて野太く、しかしながら高音をキープする歌声は鈍っていた乙部の鼓膜を叩き始めた。

 英語だ。

 と辺りで数名、音に鑑識職員たちが振り返る。

 確かに場違いにも程があった。

 切らねば、と思う。

 が乙部の指はそこで止まっていた。

 なぜなら曲には聞き覚えがある。それは自分が好きで聞いていた曲だから、というようなものではなかった。資料だ。仕事の一環として耳へ入れたメロディーラインだと、耳にしたさいの環境は蘇ってくる。連なり、詳細は思い出せそうで思い出せず、もどかしさに乙部は曲をまだらと口ずさむ。ならCDのしゃがれた声は教えて、サビをこう歌い出していた。


 ゲット・バック・ザ・デイ ゲット・バック


 まったく、と思う。まだ一週間も経っていないならすぐにも思い出せなかったことは、吹き飛ばされた後遺症だとしか思えない。 乙部は通りがかりの鑑識職員を捕まえる。「スカンジナビア・イーグルス」が歌うこの曲を知っているかと問いかけた。だがその場にいた彼らは互いに顔を見合わせる。冴えない面持ちで肩をすくめて返しただけだった。


 搭乗チェックインを前に百々はレフを待たせてまで、ストレートのブルージーンズに白のTシャツ、つま先が光るスニーカーをチョイスしている。有名安価な総合衣料メーカーは空港隣接のショッピングモールにもあると、四日ぶりにしてようやくクリームイエローのワンピースとさようならしていた。

 経て辿り着いたのはオランダ、アムステルダム国際空港だ。

 さらにそこでのトランジットを終えた五時間後、深夜二時にコートジボワールのアビジャン国際空港へ到着していた。

 その北部は砂漠に隣接した僻地と認識されているが、象牙海岸の呼び名で有名な海側、ここアビジャンはいわゆるビジネス都市と広がっている。ゆえに空港からしてハイテクかつ近代的雰囲気で、これぞアフリカのような土臭い風景こそありはしなかった。

 抜けない時差ボケに眠気はまるでわいてこない。だが移動の疲れは確実にたまると今日はこのままアビジャンで一泊する予定になっている。レフともども乗ったタクシーはだからして今、曽我が押さえてくれたホテルへ向かい走っていた。

 ハンドルを握る必要がないレフはその後部座席でひたすら端末を睨んでいる。いや移動中、世間話で盛り上がるハズもない互いはずっとこんな具合ではなかったか。辛うじて会話が成立したのはアビジャンに降り立ってすぐ、仕事あがりに送られてきたバービーからの着信を確かめた時くらいだ。様子に変わったところはない、というのが会話の全貌だった。

 そんなバービーへは二人が向かっていることを知らせていない。行って驚かせるなどとドラマチックな展開目当て以上、万が一を考え相手にこちらの動きを気取られないようにするためだ。

 その旅程も明日、セスナで小一時間。降り立った空港から車で一時間が残されている。辿り着けたところでいまだ地元警察の協力は得られていない。日本を離れれば離れるほどバックアップがないことは百々を不安にさせた。

 同様にバックアップがなかった乙部は先ほど無事だと知らされている。ほっとする半面、早々に捜査へ戻ったことも知らされていたなら無理はしていないだろうか、乙部を心配しもした。

 つまり先ほどから端末にかじりついているレフは、そんな乙部からの報告を読んでいるためか。向こうと時差もほぼなければ、百々は眺めていた外の景色から振り返った。

「何かあっ……?」

 否や向けられた視線を避けて百々へ背を向け座りなおすレフは、明らかに挙動が怪しかった。目にした百々がいぶかしく思わぬわけがない。ビンゴ、とレフが握る端末のカタチに気づかされていた。

「ああっ、メッセージでやりとりっ!」

 さきほどからレフが手にしていたのはどうやら、バービーとのホットラインだ。握り絞めて扱いにくそうにこまごまと、レフは小さなテンキーなんぞを打ち込んでいる。だから食堂で勝手に見ようとしたら鬼の形相で取り上げられたのか。と言うことはそこにはとんでもなく恥ずかしい文面が並んでいるのか。妄想は妄想を呼び、持て余していた退屈に空想は爆走を極め、眠気の欠片もない百々の瞳に真昼のごとく光は明々宿る。

「なになに。なんて打ってるの」

 ここぞとばかり食らいついていた。レフがよじる肩で払いのけたなら、なおさら迫って身を乗り出す。

「いい加減ちょっとだけ。いいじゃん、さぁ」

 だいたい人のデートをつけ回しておいて自分だけは秘密などと、どう考えても納得できないのだ。だが無言を貫くレフに譲歩するような気配はない。その深刻すぎる顔は生来のものと承知していた。そしてこの緩んだアホ面もまた生来のものと承知されている。恐れるものなどもう何もない。いや、というかすでに慣れだ。だが沈黙は続き、嫌というほど聞かされ百々は、浮き上がっていた尻を渋々シートへ戻していった。

「こっちはバレバレでさ。自分だけ不公平だよ」

 こぼせば送信し終えた携帯電話を内ポケットへ落とすレフがようやく口を開く。

「定時のコールは電源を切っていた。返事を返さないと心配される」

「あ、はぐらかした」

 つっこめば舌打ちなんぞを食らわされる。

 だとして負けてなんぞやらないのだ。

「いっこでいいからさぁ。デートとか、話、聞かせてよ。ね、ね」

 せがめばその顔へとレフが、頸椎あたりから軋む音が聞こえてきそうな具合に振り返る。一瞥くれて、何事もなかったかのように再び外へと向きなおった。

 つまり、だ。

 無視する気なら、だろう。

「照れてやんの」

 後頭部へ百々は投げる。ついではやし立てるなら、やーい、やーい、が相当だった。だがそれこそ負けず嫌いのせいだろう。

「するか。出かけたのは一度だけだ」

 レフが先にこぼす。

 うそうそ。

 連呼したい気持ちを抑え込むのは至難の技というヤツだ。

「へ、へぇ。どちらまで?」

「テルミン」

 教えられてこの距離で聞き返す。

「はひ?」

「楽器だ」

 言うレフは至極面倒くさげで、おかげで百々が思い出せたのはロシアの物理学者が発明した磁気だか何だかを操り演奏する楽器だった。

「へ、へえぇ、コンサート」

 と普通は思うだろう。

「違う」

 訂正されていた。

「何?」

 眉を寄せればレフは言う。

「講習会だ」

「えんっ、演奏する方ぉ?」

 だから、いまだ相方の興味と趣味のベクトルが掴みきれない。

「前から気になっていた」

 おかげで消し去りたいのに想像してしまったのは、魔法使いがごとき怪しげな手つきで真剣に興ずるレフの姿だ。 それだけで楽しいはずのデートがどんどん楽しくなくなってゆくのはなぜなのか。

「ていうかバービーさん、それに付き合ってくれたのぉ?」

 もう百々の方が申し訳なさにまみれてみる。外を眺めたままでレフはひとつ、うなずき返し、様子に百々はなぜだか悲しみに襲われていた。

「あのさぁ、レフ」

 たまらず訴える。

「あたしが色々教えたげるよ?」

 無論、真剣だ。

 だからして心外だ、レフが心の内で吐こうともその声こそ届くことはない。デートプランはああだのこうだの、それはそれで的外れな説教は直後より白熱する。乗せたタクシーが走り抜けるアビジャンの夜はどこまで行っても明るかった。


 だが指先は眠らず、キーボードの上を走り続ける。最後の一文字を弾き、そこでようやく沈黙した。

 新しい世界の始まり。向かって明日、船は未知なる海原へ漕ぎ出すことを彼は知っている。それはこの指先ひとつをきっかけにして、と言うこともまただ。武者震いさえ覚えてエリク・ユハナは椅子の中、身を強張らせる。

 同時に思い出すのは一国家の出入国管理局、そのデータベースへ潜り込み指紋データを改ざんした、あれもまた痛快だった全ての始まりだろう。それは彼らを知らなければ味わうこともなかった最初のスリルと達成感で間違いなかった。

 あの時、エリクはむしろ自らの手腕を誇示するためにも当局に逮捕されることを望んでいる。だが彼らは義理がたく、いや、こうして再び利用したかっただけかもしれないが、いずれにせよ驚くような大胆さで護送車からエリクを連れ出し、スリルと果たせば得られる大きな達成感を再びこの身へ与えてくれていた。

 ロンには感謝しても感謝しきれない。エリクはそう感じている。

 さて問題は、と伸ばした背でデスクチェアを軋ませた。しかしながらこのチャンスを作り与えたロンは事態に対しなんら指示をよこしてこない。ハボローネの中継基地が使えなくなったことは一種、迷彩を剥がれたようなもので、木端微塵に吹き飛ぶことで計画を前にここを守ったとしても、デコイがない今、手を下せば身元を晒してしまうに等しかった。だと言うのに指示をよこさない彼は、その段取りも身の振り方も自分で考えろと暗に言っているようでエリクは悩む。

 思いつめて渇いたのどを潤すため、大好きなソーダー水が入った紙コップを掴み上げた。ストローを吸い上げチラリ、傍らに貼った「バスボム」のポスターへ視線を投げる。艶めかしい裸体を晒すナタリー・ポリトゥワは映画の中、最後まで己の主張を貫き通した主人公よろしく、装うことをやめてそこから堂々、エリクを睨み返していた。

 いい女だ。自分なんかには指一本触れさせないだろう。

 尽きたソーダー水を最後、ズズズとすすり上げ、次いであと一日で完璧だったのにと思い返す。少しばかりの腹立たしさと共に空気しか上がってこなくなったソーダー水の容器をポスター真下、ゴミ箱になっているフランケンシュタインの口めがけ放り投げた。

 うまいもんだ。

 ホールインワンに笑いももれる。

 見届けナタリーもあなたなら出来るわよ、と囁いていているかのようでならない。

 そう、最初はそれでいいと思っていた。貫き通すことこそ悪くない。

 エリクはタオルで拭き取る代わり、容器のかいていた汗で濡れた両手を擦り合わせる。その手で顔をなでつけ再び前屈みの姿勢をとった。

 指先が少しばかり震えている。しかしながら明日に備えあつらえた文言は、このパソコンのハードへ保存しておこうと思っていた。これは自分がやった事だ。証拠はできたと、ほくそ笑む。

 予定までまだ半日。エリクは軋む椅子の中で疲れた目を閉じていった。


 何くわぬ顔で日は今日も地平線からハローと爽やかに顔をのぞかせる。

 オスロー、午前八時半。

 ゆえに恩恵授かる、早起きは三文の得らしい。だが今ではもう皮肉でしかなかった。

「空港のIRカメラに、ノルウエィ・ノワールだとっ?」

 そのお粗末加減に訪れたオスロー署内、ハートの口調はいつも以上と荒くなる。

「ええ、昨日の深夜。国際線の搭乗ゲート付近でカメラが姿をとらえていたとのことです」

 挨拶は握手と同時に名乗り合っただけで終えており、ハート、ストラヴィンスキー、ハナの三人は担当者、トーマス・ハルキモによって署内をガレージへと案内されていた。

「入れ違い?」

 ハナが口走る。

「出国したかどうかの確認はもうとれているんですか?」

 言葉を質問へと整えなおしたストラヴィンスキーがトーマスへ投げた。

「空港警察側で確認した限りでは間違いないって話ですよ。合流したCT職員も同じ結論です」

 上がったばかりの階段を駆け下り、何度か折れた通路の突き当りに表へ通じるドアが立ち塞がる。開けばそこにガレージは広がり、睨んでトーマスは持っていたキーホルダーに山とぶら下がるキーからお目当ての一本を毟り取った。ストラヴィンスキーへと投げる。

「こいつのキーです!」

 駆け寄った、白を基調としたトリコロールカラーがお菓子の包みを彷彿とさせるパトカーのボンネットを叩いた。

「探す前から姿を現すとは気の利いたヤツだ」

 どうやらオスロー警察はボルボ車を採用しているらしい。角ばった車体へストラヴィンスキーはキーを差し込み、並ぶもう一台のドアをトーマスは引き開ける。その助手席のドアへ手を伸ばしたハートが吐いた。別れてストラヴィンスキー車へ乗り込んだハナがイヤホンを耳へ押し込む。

「緊急連絡」


「IRカメラのことは今、こちらへも連絡が入ったところだ」

 十七時。おりしもハボローネの爆発で騒然としていたオフィスが落ち着きを取り戻し始めた頃のことだった。柿渋デスクを前に百合草は答えて返す。

「他の動きは?」

 ハナの口調は早い。答えるべく百合草はこの二十四時間を振り返るが、およそ十時間前に現場から手掛かりを得られなかったことで設置されたパソコン周辺の捜査へ切り替える、と乙部がよこした以外、何も進展していないのが現実だ。

 夕方には何かいいハナシが送れるかもしれない。

 そのさい付け足された口調にはどこかアテがあるようで、またつまらないことだと断ったうえで家屋に残されていた「スカンジナビア・イーグルス」のCDについてもまた話している。確かに無関係とは言えないものの、それが何を意味しているのかまでは見えてこない。些細なことでも報告する乙部に比べてただ、出立間際、自分はノルウエィ・ノワールを知っているなどと言い出すレフ・アーベンを思い出していた。

 含むコートジボワールの二人はあと四時間もすれば現地へ到着する予定だ。早ければ今日中にもミッキー・ラドクリフの件は明らかになることが予想され、それら全てはすでにデータ化、各自へ送信済となっていたなら「動きはない」の一言をハナへと返す。


「活動拠点がここですからね。ジェットは必ずノルウェーへ帰って来るんですよ」

 などと話すトーマスのハンドルさばきには遊びが多い。じれったく横目にとらえながらハートは自分が運転すればよかった、と後悔してみる。

「出国は陸路でがこれまでのやり方でした。そこから先は船か列車か、使って移動しているんでしょう。足取りはこれが全く分からない。パリ、ベルギー、ギリシャ、ポルトガル。ただ出先で姿が確認されて知ることになる。もしかすると確認されていないだけでヤツは案外、欧州圏外へも赴いているんじゃないかというのが正直な所です」

 そんなパトカーの左から路面電車、トラムがゆったり交差点へと侵入していた。朝日にさらされた光景の全ては爽やかを極め、しかしながら街並みをハートは苦々しい面持ちで眺める。組んだ腕をさらに深く絡めていった。

「その辺りは先に受け取った書類で読んだ」

 片耳へ押し込んだイヤホンからは、あいだもハナと百合草のやり取りが流れている。


「空路での出国には前例がない。特異な行動パターンは事態が彼にとっても特別だと推測できる。ハボローネの爆発があった後だ。非常事態にジェットはロンへ接触するつもりなのかもしれん」

「ええ、それを一番考えてる」

 だからして百合草は釘を刺す。

「あくまでも行動は……」

「慎重に、ね。チーフ」

 先をさらうハナはどこか得意げだ。様子に百合草こそ声を落とす。

「最後まで話へ耳を傾けない。これも周りが見えていない者の共通点だ。覚えておけ」


 経て駆けつけた空港警備保安室は一気に手狭となっていた。そこで初めて欧州エリアのCT職員とも顔を合わせることとなる。そのさいイタリア人らしい黒い髪の男はジェラルドと名乗り、フランス語訛のはげしい英語を臆面もなく話す女はアニエス、と名乗った。

 さて残念ながら同じ組織に属しているとはいえ誰もが初対面だ。慣れるまでなんらかの齟齬は生ずるかと思われたが、とある人物の活躍は皮肉にもここで五人の連帯感を強めることとなる。厄介者がこうじてあちこち流されたレフ・アーベンはどこへいっても噂の人物だ。だからといって和むまでには、もちろんゆかなかった。

「ここと、ここと、これ」

 失笑したその後、アニエスはIRカメラのビデオを止め、映る人物を示してみせる。

「ロビーが零時七分。こちらが二十九分。最後の手洗い前が三十五分。以降は確認されていない。映像の人物がノルウエィ・ノワールだと判別されてすぐに警備とあたし、ジェラルドで空港内の捜索もしたけれど発見には至らず。オスローを離れていると考えていい」

 ビデオの中で黒っぽい上着を着込んだ小柄な人物はロビーの片隅を歩き、搭乗ゲートをくぐって吊り下げられたフライト時刻表の真下を行くと、軽い足取りで真っ直ぐ搭乗口へ向かっている。解像度が低かろうと映し出されたその面持ちは日本で見た写真と似通っており、映像解析を通さずとも本人だと思えるほどだった。

「この時間帯、乗れる機は?」

 情報を求めたハナへ、飾り気のないキナリのコットンシャツの袖をまくり上げたジェラルドが指を立ててゆく。

「ひとつがパリ経由、中央アフリカ、パンギ行き。もうひとつもパリ経由、コートジボワール、アビジャン行き。いずれも昨日の最終便。次まで六時間、便はない」

「コートジボワール?」

 すかさず繰り返したのはハナで、ハートとストラヴィンスキーも視線を絡ませる。つまり何かある、と察したところで切り上げないジェラルドは最後までを言い切っていた。

「ノルウエィ・ノワールという名前を搭乗名簿で確認したが、当然ながらどこにもない。その他の名前も、だ」

「ええ、そんなこんなで彼が使用したと確認されている名前は十を超えるって、資料で読みました。今回はつまり十数個目ってことですね」

 眼鏡のブリッジをストラヴィンスキーが押し上げる。

「嘘つきノワール。そのようね」

 アニエスも唇を曲げ、ジェラルドもオーバーなほど肩をすくめて返した。

「両機は残念ながら、こちらが動き出した地点でもうパリを出ていた。降りたかどうか、パリ空港内の監視カメラ映像も分析に掛けたが形跡はない。飛行中の同機とも、残りのフライト時間はおよそ十時間。今はちょうどアフリカ上空だ。もちろん機内で確かめさせる手はあるが、密室だからね。乗務員にはどうかな。とにかく着陸先へは手を回しておいた」

 そのエールフランス機は間違いなくジェット機だったがジェラルドは、飛行中のプロペラ機を模すと唇を震わせ、アフリカまで飛ばしていた。

「で、アビジャンに何か?」

 到着したところで先程の三人の反応を確かめる。

「あ、実はミスターアーベンが訳あってそちらへ向かってまして」

 答えるストラヴィンスキーはなぜかしら、はにかみ顔だ。

「わお。さすが」

 驚くジェラルドのそれはホンモノらしい。

「どちらだろうと空港で確保される。俺たちは身柄を引き取りに行くだけだ」

 気に掛けず、ハートがふん、と鼻を鳴らした。なら物憂げとアニエスがかぶせる。

「そう、残念ね」

 言葉の意図を測りかねたハートの白目が、やおら彼女へ裏返されていた。

「どういうことだ?」

「ここまで来たようだけれど、今回は諦めた方がいいかもしれない」

「ここはそんなに諦めがいいのか?」

「ノノ、ノ」

 細かい舌打ちを繰り出したアニエスの言い分はこうだ。

「海を越えればルールが変わる。私たちの正義はわたしたちだけのものだってことを思い知らされる場合があるわ。大陸がクリーンであることを祈るしかないの」

 汚職だ。

 とたん誰もの脳裏に閃いていた。だがそれこそ一捜査員にはどうにもできない状況である。ただ絞られた行き先をハナは日本へ伝えていた。


「うぇっく、じゅっ!」

 そして噂は伝播する。たとえ北半球から南半球までだろうと、だ。だからしてレフは豪快なまでに心地よく、くしゃみをぶちまける。

 国際線とは打って変わって国内線の空港は、強いて言うなら竹竿に旗がなびいているだけのような実に簡素な造りをしていた。駅舎にも似た木造の待合に、出たすぐそこに伸びる滑走路など、先ほどから乗るだろうセスナをスクーターかなにかと勘違いさせそうな力がある。漠然と眺めながら出立時刻を待つと、セスナの機長から声がかかるのを百々はひたすらレフと、これまた駅にあるようなベンチに腰掛け待っていた。

「ぅばぁっく、しゃぁっ!」

 またレフがくしゃみを飛ばす。疲れが引き込んだひと眠りでずいぶん時差ボケも解消されたなら、さすがの百々にもそんなレフを心配する余裕くらいはできていた。

「サボったんだ。乾布摩擦」

 言ってやる。

「違う。誰かが噂しているだけだ」

 やたら大きな咳払いでくしゃみを締めくくったレフは、今日もオレンジ色のTシャツを着込んでいた。

「わ。まだ続けてるってことだよ、つまり」

「怠ると調子が出ない」

 その手がバービーとのホットラインを抜き出す。見下ろす表情に変わりはなかったが、先ほどからマナーモードでもないのにチェックする頻度がいただけない。確かに時差もないこの場所で今朝、仕事前に入るはずの一報はまだ届いていなかった。

「お昼から仕事かもしれないよ」

 慰めてどうにかなるものでもないが、察して百々は言ってみる。

 否定せず聞き入れ、

「昨日、聞き損ねた」

 失敗したと息をもらすレフはらしくない。

「メールは?」

 見せてもらえないので、これまた聞いてみる。

「送った時間が遅かった。まだ見ていないのかもしれない。返って来ていない」

「うーん……」

 理由を探して百々は妄想を膨らませた。やにわにその場で跳ね上がる。

「……もっ、もしかしてレフっ!」

 音量に百々へ振り返ったレフの顔はすでに、その半分以上が面倒くさげだ。

「ついにバービーさんを怒らせたんだよ」

 違いない。深くうなずきそんなレフへ、百々は熱いまなざしを送る。ままに譲らずしばし互いに見合えば、延々と続きそうな沈黙をレフはこう絶ち切っていた。

「怒らない」

 視線を正面へ戻してゆく。

「会いたくなった。明日の昼、時間を作っておいてくれと打診しておいた」

 なるほど。間際で訪問を伝えていたのか。納得するしかなく百々もまた前へ向きなおる。

 そこでカーキーの制服を着た精悍な人物は、重たげとセスナの腹を開いていた。手際を観察しつつ思い出したように百々は、肩でレフを突っついてやる。だがなおさら心配が増したことに違いはなく、冷やかしはそうも続かなかった。

「かけてみたら?」

 されるがままのレフを見やる。

 聞き入れたレフが決断するまで一呼吸ほどか。携帯電話へ指は伸ばされていた。そのとき声が二人を呼び止める。やはりそうだ。セスナの腹を開いていたその人物こそ機長だったらしい。搭乗の準備が整ったことを知らせて満面の笑みで近づいてきていた。

 乗れば一時間余り。さらにもう一時間も行けばバービーはそこにいる。

 顔を見合わせると同時だ。二人はベンチから立ち上がっていた。


 今や外は明るく、閉めきった部屋だけが暗い。その暗がりの中、保存していた文言はすでに転送フォームへ貼り付けられると、モニター画面で浅くやわらかな点滅を繰り返していた。

 溢れんばかりと響き渡っているのは「バスボム」のサウンドトラックだ。 エリクはこの哀愁がかったバイオリンの音色が好きでならなかった。ファンファーレにかえて指で指揮を取れば、いつも以上に気持ちも高ぶる。あと、ワンクリック。メロディーが終われば置いたタクトで送り込む。スリルと興奮は引き裂かれんばかり、鳴り響く音色に絶好調と高まっていった。

 ままに最後のビブラートを切なげと揺らしてバイオリンの音色は部屋の四方へ吸い込まれてゆく。途切れて静けさに耳を澄ましエリクは思った。

 ボンボヤージ。

 良い一日をお過ごし下さい。

 人差し指で握ったマウスをひとつ弾く。そのわずかな動きでかつて手を加えたそこへ再び文言を送り込んだ。終えて両手を振り上げる。これでもかと椅子の上で大きく伸びあがれば、笑いはどこからともなくこみ上げていた。放ち椅子を軋ませ、心行くまで笑い転げる。


 その身はひとたび空を行く。

 裂く翼は貧相だったが、風をとらえる様はしなやかで力強かった。ままにムラある大気の層を突き破ること数度。一時間余りの飛行を経て再び大地へ降り立てば、コロゴの大地は百々の前へついに地平を横たえ広がる。

 遠い。まったくもって遠い場所だと思えていた。たどり着けたことで目的の半分以上を達成した気になるのだから、費やしたエネルギーは尋常でない。だがこれからが本番に違いなく、セスナを後にした耳へと端末のイヤホンを押し込む。ホロさえ張られていないジープへ乗り込むと、レフの運転でわだちがそうだと告げる一本道をひた走った。

 手元に余計な荷物はひとつもない。スーツケースにボストンバックは、レフが握らせたいくばくかの紙幣と共に、コロゴの町からこのジープを届けてくれた何某の手によって宿へと送り届けられている。だからして今、百々が握っているのは必要最低限を詰め込んだセカンドバックがひとつだけ。サングラスをかけ、脱いだジャケットをジープの後ろへ投げ込んだレフなど所持品をポケットやホルターの予備マガジンに振り分けるという、遠方から来たばかりとは、むしろ旅行者とは思えないいでたちになってもいた。

 十五分余りで乾燥しきった土壁が印象的なコロゴの町を背へと回す。

「……シ、シマウマもいないよ」

 その向こうには全くもって何もない。澄み渡る青い空。すっぱり視界を二分して広がる大地は枯れたような下草に覆われると、ジャングルなのか森なのか遥か彼方に幻のごとく緑の塊を点と置いていた。

「バービーさん、ほんとにこんなところにいるのっ?」

 信じられず、悪路で跳ね踊るジープの上で百々は声を張り上げる。返すレフもかき消されまいと大声だ。

「あいつは、やる時はやる女だッ」

「あと、どれくらいっ?」

「あの木は越えるッ」

 と、端末は鳴りだす。

「あたし出ます、出るっ!」

 わめいて尻ポケットから引き抜くと、制御できぬ声のまま百々は端末へと返した。

「はぁいっ、百々ですっ! レフは運転中。今、保健所へ向かってます。もう道、めちゃくちゃヒドイですっ!」


 離れること数千キロ。日本時間、二十一時半。

 そのおよそ十分ほど前か。オスローよりオフィスへノルウエィ・ノワールを見失った、という連絡は入っていた。コートジボワール、中央アフリカの両空港警察から到着機にノワールは乗っていなかった、との報告があったのだ。同時に舞い込んできたのは欧州側のCTオフィスからで、WHOから送られてきたという詳細はただちに転送されている。それらへ百合草が目を通したのはノルウエィ・ノワールの件に対応しながらという慌ただしさだ。だがそのマルチタスクが現地へ飛びたい、と申し出るオスローを待機させ、百々のみならず残る全職員をこうして呼び出すことになっている。最後、乙部がそろったところでヘッドセットのマイクを今一度、調節しなおしていた。

「全職員へ緊急連絡」

 あたかも全員がこの場にいるかのごとく、丸テーブルを見回してゆく。


「およそ三十分前。SO WHAT から新たな犯行予告が入った」

 開いていた口をつぐむ。懸念してここへ来たのではなかったのか。百々はすかさずレフへと振り返っていた。その顔がいつもとおりのポーカーフェイスに見えるのは、単にサングラスのせいか。陰るレンズの奥で確かとそのときレフの目もとに力は込められる。


 そういうことなら保留にされて当然だろう。空港内の警備保安室でハートにハナ、そしてストラヴィンスキーは互いに視線を絡め合う。

 また、この一報は欧州側の二人にも入っているらしい。間髪入れず鳴った端末、そのイヤホン越しにアニエスとジェラルドも表情を変えていた。


 ただ乙部だけがハボローネの外れで砂埃に巻かれ、一人、事態と対峙する。聞き込みに付き添ってくれていた通訳へ一言入れると、通りを横切り手近な木陰へ向かってゆく。


「内容は二点」

 その誰もへ向け百合草は声を張っていた。

「二十四時間以内のスタンリー・ブラック解放。またその事実が確認されなかった場合、報復措置として行われる空港内でのウィルス散布についてだ」


「わお。バイオテロ……、ですか」

 吐いたストラヴィンスキーに言葉以上の他意はない。

「これは氏が解放されるまで断続的に続けられるものだと宣言。ご丁寧にも目印はキャメルのボストンだと指定されている」

「二十四時間だと?」

 ハートの声色はいつもにもまして重い。

「奴らはまた俺たちを振り回すつもりか。なら何をばら撒く気か知らんが、そのウィルスを所持しているという証拠も明らかにしているのか」


 確かに脅されるままハナシを鵜呑みにするバカではこの仕事も立場も務まらないだろう。転送去れてきた予告文を丸テーブルへ押し戻し、百合草は大きく息を吸いむ。止めていっとき、空を睨んだ。

「ない」

「なら話にならん!」

 ハートの一言は痛烈だ。

「そいつは脅しだ。むしろ無駄足で俺たちの手を煩わせるだけの陽動作戦だろうが。もうその手は食わん。こっちはこのままノワールを追うぞ。アフリカ渡航の許可をくれ」


「許可? なんだそれは」

 などと話は唐突でしかない。レフが割って入っていた。向けて百合草はオスローの状況を手短に伝える。

「いずれかの虚偽報告を確認するため、直接向かいたいと申し出があったところだ」

 だが実際はこうだ、と続く話こそまだ誰も知らないものだった。


「犯行予告の第一発見者は、我々の依頼に基づきミッキー・ラドクリフの人事データをチェックしていたWHO人事、情報管理技術担当者と地元警察の両名。両名はODA参加志願時、提出が義務付けられているミッキー・ラドクリフのペーパー書類が存在しないことから、元に作成されるはずの人事データがハッキングによって書き加えられたものではないかと調査を開始。そのさなか犯行予告は発見された。ミッキー・ラドクリフの人事データに追加する形でだ。このことから隔離地区へミッキー・ラドクリフを送り込むべくデータ改ざんを行った人物と、この予告文を送りつけた人物が同一ではないかというのが結論だ。すなわちミッキー・ラドクリフは現地点でバイオテロの一員である疑いが生じた」

「……欧州側、パンギで了解です」

 曽我がやおら、百合草の傍らから知らせて吹き込む。

「……ミッキー・ラドクリフがバイオテロ? バーバラに張り付いているんじゃないのか」

 こぼすレフも声を揺らしていた。

「さては肝心のウィルスを確保にきました、ってアピールも兼ねての予告かな?」

 だとして乙部はあくまでもマイペースを崩さない。

 声へ百合草も一人、うなずく。

「それが今回も陽動作戦だと言い切れない根拠だ」


 瞬間ピタリ、と風景はレフの視界で動きを止めていた。現在、保健所へ確認中だと百合草は話すが、もうどれも耳へ入ってこない。ただ、だから今朝に限って電話はかかってこなかったのか、と、なぜなら場合ではない事態に陥っているからだと頭の中で言葉は回り続ける。

「今朝だ……」

 呟いていた。

「今朝がそうだ」

 耳から入った己の声がよりいっそう確信を強くする。

「今朝?」

 百合草に問い返されたレフの周りで動き始めた風景は以前にもまして鮮やかだ。

「三カ月だ。三カ月間、欠かさず入っていた知り合いからの連絡が今朝に限ってまだ入らない。これはもう可能性の話じゃない。保健所で今朝、間違いなく女は動いた。ミッキー・ラドクリフは今朝、ウィルスを入手している。だから連絡はなかった。確かめるまでもない証拠だ」

 とたん全ては一つ歯車をかみ合わせて回り出す。合わせてレフもまたジープのギアをトップへ押し上げた。抜けるほどとアクセルを踏み込む。

「コロゴの保健所、どうなっている。まだかっ」

 通信の向こうで百合草がオペレーターへ声を張っていた。

 悪路に跳ね踊る車体は土を散らし、乱暴な加速に百々もとなりでのけぞり喚くが、そんなもの喚くだけ喚かせておけばいい。ホルスターに挿していた携帯電話をつまみ出す。

「今すぐその知り合いへ連絡を取れ」

 おっつけ百合草の指示も飛び、続けさま各自の行動を以下に振り分ける、と湯r草は全員へと呼びかけもした。


「レフ、百々は当初の予定通り現地でミッキー・ラドクリフの動向を調査。ウィルスが本当に持ち出されたのかどうかを特定しろ。持ち出されていた場合、その足取りを追え。ただしハボローネの件がある。ウィルスを所持しているなら必ずロンと接触するぞ。お前たちだけでそれ以上は近づくな。追跡、監視に徹底しろ。いいな」

 誰に話しているのかを分かっているからこそ、念を押す百合草の口調には並々ならぬ力がこめられている。

「了解」

 返してレフは、どうにか取り出せた携帯電話へ目を落とした。だがいつもなら手探りで操作できる短縮番号も揺れのせいでままならず、それどころか悪路にハンドルをとられ大きくジープを蛇行させる。

「クソッ」

「首がもげる。もげるってば」

 うめく百々へ振り向いた。

「お前がかけろ」

 携帯電話を投げつける。


「オスローの三人は二手に分かれてもらう」

 北の地へ百合草は呼びかけていた。

「パンギとアビジャンか?」

 待ち侘びていたハートが例の二語を弾いて返す。


「ええっ、あたしがぁっ?」

 バカ揺れする車上でどうにか携帯電話を受け止めた百々の声はここでも大きい。

「シャープで一番だ」

 メールでさえのぞかれることを嫌っていたくせに、と言いたいところだが、言い合っているヒマがない。もうなんだかよく分からないままだ。握らされたそれへ視線を落とした。

「って、あたし、何て挨拶すればいいんですかぁっ?」

 とにもかくにも見つけたシャープをえいや、で押し込む。

「しなくていい。出たら代われ」

 聞きながら覚悟を決めて一番のボタンを押した。登録番号をなぞるダイヤル音は百々の杞憂など知らぬ存ぜぬと小気味がいい。

「困るよぉ。ハイ、ベイビーとか言われたらショックだよぉ」

「言わないッ」


「いや、パンギは欧州側でチェックする」

 知らされハートは同じくオフィスからの通信に耳を傾けるアニエスとジェラルドへ振り返った。なるほど間違いないらしい。目が合うなりジェラルドが立てた親指はハートへ向けられている。


「機はこちらで手配する。ハナのみ、ただちにアビジャンへ向かえ」

 などと聞こえたのだから任せなさい、で己が仕事を詰めに向かったのは曽我だ。

 視界の隅にとらえて百合草もまた、残りの指示を連ねていった。

「アビジャン空港でノルウエィ・ノワールの入国を再確認。場合によってはレフと百々の応援へ向かってもらう」

「ええ、喜んで」

 むしろそれが目的でパンギを欧州側に取らせている。ハナの返答には理解しているフシがあった。

「ハートと外田は犯行予告の送信元を特定。および送信者確保に全力を挙げろ。そこからロンを割り出せ」

 了解、と返される声が重なる。

「で、こっちはどうなる予定かな?」

 最後となった乙部が問いかけていた。

 そんな乙部から事前に聞かされていた話は、百合草にとっても思うところが大きい。

「変更はない。『夕方の一報』に期待している。もっともこちらは深夜だ。目の覚める報告にしてくれ。事態の進行状態いかんではハボローネから離れてもらう可能性がある。その予定で動け」

 あいた、ほくそ笑むような間合いは乙部独特のものだろう。

「了解」

 そうして百合草の目は再度、丸テーブル見回していった。

「歓迎されることではないが彼らの思惑が我々の読み通りであった場合、このテロの阻止はすなわち SO WHAT 支援者、テロリストを生み出し続けてきたロンの確保につながる。おそらく実行力を伴う最後の案件だ。そしてこれを最後にできなければ違う意味で世界は最後を迎えることになるだろう。二十四時間後以降、そこに我々の出番はない。それだけは避けろ。全職員、自身の安全を確保しつつテロの阻止に全力を注げ。以上だ」


 切れた通信を百々が耳にすることはなかった。

 代わりに途切れた呼び出し音に続いて、もれ出す女性の声を聞く。その声はハイ、ベイビーと語りかけるどころか通話状態に切り変わった瞬間から怒涛のごとく英語をまくし立てていた。

「じゃす、じゃすた、もーめん、ぷりーっ!」

 片言で遮り急ぎレフへ電話を突き出す。

「で、出たっ! 出たよレフ。なんか、なんかすごい勢いで喋ってますぅっ!」

 その様子をわずか盗み見たレフが、アゴを振って促した。どうやらそのまま耳へあてがえということらしい。

「はいはい、はいっ!」

 嫌だも何もありはしない。ジープに揺すられながら百々は身を乗り出す。レフの耳へ携帯電話を押しつけた。

 そうしてレフが聞いたバービーの第一声はこうだ。

「レフ、来るってあなた、今一体どこなの? このことで電話を? とにかく今すぐ来て。ミッキーが、サンプルウィルスと一緒にいなくなったのよ!」


 行く手にあった緑の塊は右へ移動してゆくと、進むほどにぽつねんと建つコンクリート造りの建物から遠ざかってゆく。建物の前、緑に代わって風になびくのはWHOの旗か。判別できる距離はもうそう離れてはいなかった。

「あと、十分もあれば到着する。詳しい話はそれからだ」

「十分?」

 繰り返すバービーは明らかに時計を確認している。

「その件で向かっていることを責任者へ話せるか?」

「ええ」

「所属はセクションカウンターテロリズム。言えば通じるハズだ」

 所属先を口にしたのはこれが初めてになるだろう。

「って……。あなたそんなところで働いていたの? わたしはてっきり……」

 間違いなしと裏付けてバービーもそれまであった会話の間合いを崩している。だが説明など始めてしまえばジープは保健所へ着きそうだ。

「隠していたわけじゃない。言えないことが多い」

 挙句、バービーが放ったオーマイガーには、そんな組織がこの件に絡んでいる意味を多少なりともくみ取っているフシがあった。だからこそ声に芯もまた戻る。

「大丈夫、話してくるわ」

 否や通話は切られ、察して百々も携帯電話を下げる。おずおずレフへ視線を上げていった。

「なん、て?」

 事実は事実だ。

「女がウィルスと共に消えた」

 レフは教える。

 百々の反応はない。

 いや、単に相応のそれが返せなかっただけだった。証拠にやがてのみこむと、顔面を引きつらせてゆく。

「そんなの困る。困りますぅっ! あたしタドコロと約束したんだよ。ブライトシートの続き、やり直すんだよっ。なのにさ、バイキンなんて全然見えないじゃん。色も臭いもないんじゃんっ! お薬もないのに撒かれたら、それどころじゃなくなっちゃうじゃんっ。人が、人もいっぱい死んじゃうし。もう出かけられない……。ていうか空港、空港はどうなるの。もしかして帰れ、ない……?」

 のんだ息と共に目を瞬かせる。

「……う、そ」

 次の瞬間、風に散っていた髪を目いっぱい逆立てた。

「ぎゃぁ。そんなの困る。めっちゃくっちゃ困りますぅっ!」

 ままに残る思いを涙目に託して振り返ったレフと見つめ合う。だがそこに流れる雰囲気はおおよそ迷惑気でしかなく、極まったところでレフも百々へと吐いていた。

「困るのは……、お前だけじゃないッ」

 保健所がまた近づいたせいだ。行き交う車両が多いせいで伸びる

わだちは深くなり、ハンドルを取られたジープが尻を振る。押さえこむレフの手元は目を覚ましたかのようで、ゆすられ百々もドアを掴むと身を縮めた。

「約束は俺にもある。誰にでもだッ」

 まき散らされた小石が車体を叩いていた。

「いいか。現実を混同するな」

 パリパリと鳴る音は言うレフの声をより低く響かせる。

「動かしようのない事実は女とウィルスが消えたという点だけだ。撒かれると決まったわけでも撒かれたわけでもない。今はその狭間にある。つまりまだ俺たちにはまだ介入できる余地がある。なら必ず介入してテロは阻止する。そのためにもお前にはここから先、必ず俺の動きについてきてもらうぞ」

 グレーのシルエットを剥いだ建物が、間違いなく保健所として目前にはあった。

「そんなの……」

 無理だ。

 百々の喉元にまで言葉はこみあげてくる。

 だがレフは、それを言わせようとしなかった。

「今の俺たちに泣き言をいって枕を投げている時間はない。そして立場でもだ。お前の都合は何の利益ももたらさない。できないと言うなら俺は放ってでも行く」

 投げるいつもの睨みでとどめを刺す。

「わかったか」

 だとして百々に「はい」と言える無責任さも、度胸もありはしなかった。

「そ、そんなの無理だよっ。自分だって階段室で追いかけまわして言ったじゃんっ」

 同じに動けないなら諦めろ。

「状況が変わった」

 それが飲み込めないのだ。

 だが今こそ手段を選んでいられあいなら、飲み込ませるべくレフは続ける。

「無理だと思うな。イメージしろ」

「なっ、何よそれ?」

「二十四時間後も今も何も変わらない。変えないことが俺たちの目的だ。頭に入れば体は自ずとそう動く。ダメだと思えばそうなる」

「そ、そんなノー天気なこと、真顔でいわないで下さいっ!」

 だがレフは聞いちゃいなかった。

「便宜上の見張り役は忘れろ」

 百々へと一言、呼びかける。

「……相棒」

「は?」

 聞き返して当然だろう。

「今、なんて」

 だとしてレフは二度も言う気がないらしい。

「そのつもりでついて来いということだッ」

 瞬間、窪地へ沈み込んだかと思えばジープは宙へと跳ね上がる。

「クソッ」

「ぎゃぁ!」

 だとしてレフと同等にやれていたなら、百々はおそらく「20世紀CINEMA」でバイトなどしていなかった。

 それでも「そのつもり」でついて来いと言うのなら。

 言っていることを二人とも理解しているんだろうな。

 お前は素人とやれるのか。

 浮き上がったジープはいっとき重力から解き放たれ、シェイクされた百々の脳裏を次々言葉は過ってゆく。

 出来やしないことだらけはハナから承知の遠征なのだ。

 その中でただ一つ望まれているこがイメージすること、ただそれだけなら。

 がってん、その気になるのは十八番で、相棒、呼ばわりの意味などそれくらいしか思いつかなかった。そう、泣き言を捨てただけで生きたままの二階級特進。辞退したとして待っているのは二十四時間後のウィルス散布と後こそないのだ。

「よっく……」

 百々は腹の底から絞り出す。

「言うよぉっ!」

 格別の着地がジープのサスペンションを弾けそうなほどに軋ませた。

「チーフの前では死角以外、アテにしてないって言ってたくせにっ」

 振り落とされまいと掴んで吐いてやるのが相棒だろうと、大股で前へ前へ進むレフに歩調を合わせにかかる。

「二人しかいないなら死角だらけだ。お前でも十分役立つ」

「お前でも、って現実的すぎて傷ついた」

 乗せてジープは保健所前へと滑り込んでゆく。観音開きの木戸が立てかけられたポーチを前にピシリ、小石を踏みつけホコリまみれのタイヤは止まった。セカンドバックを肩にそのドアへ百々が手をかけた時、やにわにレフの手は突き出される。

「返せ」

 問い返すまでもないだろう。

「お邪魔しましたっ」

 投げ返すのは携帯電話だ。

「うるさい、行くぞ」

 キャッチしたレフがジープを降りる。エンジン音は保健所内へ筒抜けだったらしい。迎えて木戸もまた開け放たれていた。バービーだ。暗がりから白いワンピースは飛び出してくる。後ろで一つにまとめた髪がいくぶん雰囲気を変えているが、大きな瞳の童顔めいたブロンド美人に間違いはない。ジープのボンネットを回り込んで駆け寄るレフとぶつかるように顔を突き合わせた。無論、バービーがレフへ飛びつくようなことはない。言い及ぶまでもなくレフもまた抱き寄せることもなかった。ただ険しい顔つきでバービーは両手を握り合わせ、レフもまたサングラスを外しただけに過ぎない。

「所長にはあなたが来てること話しておいた」

「女とウィルスが消えただと?」

「何かの間違いじゃないかって、もう仕事になってない」

 うろたえるバービーはたたみかけ、だからこそどうにか落ち着きを取り戻しもする。

「そう。彼女、昨日の午後、本部からODA参加時の履歴のことで連絡が入ってた」

 言うまでもない、百々が写真にその顔を見つけたことで発覚したデータ改ざんの疑いだ。

「至急、アビジャンの支局まで顔を出すようにって。昨日が業務の引き継ぎ日で、今日がウィルス搬送の初日。なら支局に寄るのも都合がいいわねって話してたのに」

 濃いアゴひげをたくわえた男性はそのとき保健所から駆け寄ってくる。所長かとレフが視線を向ければ案の定、輪に加わった男は所長のアザロ・バチスタだと名乗りレフへ手を差し出した。手早くレフも握り返す。

「ウィルスの搬送?」

 sの脇にむき出しとぶら下がるホルスターに目をやるアザロへ口を開く。

「ああ、ワクチン開発用ですね。突然変異や亜種のチェックにも定期的に専門施設へ運ばれておるんですよ。実際はコロゴの空港からアビジャンへ。そこで先方の担当者に受け渡す。あとはスイスの本部までひとっ飛び。任せて彼女は支局へ顔を出す予定だったんですが、もう二時間ほど前になるか」

 右腕のタグホイヤーへアザロが視線を落とした。

「受け取り側から予定の時間になっても保健所の担当者が現れないと連絡が入ったんです。驚いて携帯電話へ連絡したんですがね、これがつながらない」

 そのまま頭を掻くように爪を立てると、髪をかき上げる。

「そこへ今の連絡です。聞きましたよ。バイオテロの犯行予告がサーバーに? ラドクリフが関係しているというのは本当なんですか?」

「本当なの? それ」

 初めて聞くらしい。バービーが目を見開いてみせた。ならもう話したところで害はないだろう。

「女にはテログループの一員である容疑がかけられている。当初はお前をターゲットにした報復テロかと考えていたが目的は違っていたらしい。間違いない。ウィルス入手が目的だ」

「だから急に電話を? ミッキーの話なんて。らしくない約束だと思った」

 バービーの口は塞がらない様子だ。と唐突に手を額へあてがいもする。

「じゃあ彼女、昨日から変だったのかもしれない」

「どういうことだ?」

 レフは身を乗り出した。

「体調が悪いからって昨日、ミッキーは搬送のて引継ぎだけを済ませてあとはコロゴの専用宿泊所で休んでたのよ。食事はわたしも彼女も同じ。衛生面の管理はそれが私たちの専門だわ。ここへ来てそれはないと思ってた。何かやっていたのかもしれない」

 だが理由はしれている。

「女は看護師じゃない。通訳が本業だ。履歴が露呈すると仮病を使った」

 あっけにとられたバービーはもうしばらく話すことが出来なさそうだ。顔からレフは目を逸らす。

「運搬は一人で?」

 アザロへ確かめた。

「いや事務職員と二人ですね。けれど彼もどこで何をしているのか。ともかく」

 思案しかけたアザロはそこで声の調子を強くする。

「検体は保冷ケース内で凍結保存されてます。今のところ解放してもすぐにウィルスが大気中に浮遊する心配はない。ただ保冷剤が利いているのは密閉状態でも二十四時間が限度。ケースの口を開ければ融解はもっと早いでしょうな。そうなれば感染力は一般的な感冒ウィルスと違わなくなる。それをテロに使うというなら……」

「所長、電話です!」

 言い淀んだところを振り向かせて保健所内から声はかけられる。アザロは口をじれったげとすぼめてみせた。

「ええい、ウィンストン君、ひとまず君に任せるよ。わたしはちょっと離れる」

 言い残すが早いか、今すぐ行く、と上げた声で再び保健所へと戻っていった。

「昨日の女の行動を知っているヤツはいるのか?」

 見送るまでもなくレフはバービーをのぞき込む。

「子供じゃないわよ。見張るなんて。けど」

 こぼしたバービーは早くも手がかりになるナニカを思い出した様子だ。

「宿泊所の管理人なら出入りした人がいれば知っているかもしれない」

 上出来だ。

 レフもうなずき返す。

「空港までは何で?」

「保健所のロゴが入った白のバン。ナンバーなら事務室が把握してる。行方を追うのね」

「ほかには誰も……」

 遮りバービーはもう背を向けていた。

「おい」

 呼び止めたレフへ振り返ったその眼差しは「くどい」と言わんばかり鋭い。

「分かってる。そろえてくるまであなたはそこで待ってなさい」

「いや」

 本当に分かっているのか。

 確認しようものならいつぞやの笑みは、バービーの頬へ不敵と浮かび上がっていた。

「頼ん、だ」

 不本意ながら託したのは、間違いなくあの日、敗北したせいだ。

「十分後に」

 軽やかな足どりでバービーもまた保健所の中へと消えてゆく。

「レフさ」

 と、傍らから日本語は放たれていた。

「今一瞬、尻に敷かれてなかった?」

 百々だ。

 無駄だ。思うしかない。その鋭さを他へ回せと言うかわりに、レフは端末を掴み上げる。


 つながったオフィスもすでに女の失踪を把握しており、加えて決定的なこの事実に上層部とWHOを交え、今後に備えた協議へと百合草が向かったことも知らされていた。つまり通信に出た曽我へとレフは、これからの動きを伝える。次いでオスローとハボローネの様子を確かめた。だが事態は動き出してまだ一時間と経っていない。乙部から新たな連絡もなければ、ハナのアビジャン到着はおよそ八時間後であり、ハッカーについては所在が明らかとなり次第ただちに知らせる、とだけ告げられる。

 それら会話が終わるかどうかという頃合いだった。バービーは紙袋を二つ抱えて戻ってくる。

「地図。宿泊所に印をつけてきたわ」

 重たげに足元へ置くや否やレフへと突き付けた。

「で、こっちが今日の搬送スケジュール」

 受け取ったレフが位置を確かめて広げかけたところへ別の紙束もまた押しつける。

 仕方ない。宿泊所の確認を百々へ譲ってレフは予定表へと手をかけた。が、めくる間もなくその上にファイルはどっか、と積み上げられる。

「これが搬送に付き添った職員のID。これがバンの登録書で、こっちが保冷庫の取扱説明書。それからこれが電話番号一覧。いい?」

 矢継ぎ早と教えたバービーの目がレフを鋭くとらえる。

「こっちが搬送の二人へ持たせた携帯のもの。次が引き渡し相手。こっちがわたしがミッキーから聞いたプライベートの番号で、最後が宿泊所の管理人につながる。なくさないで」

 メモは手書きだ。小さなそれを失くさないようレフは尻ポケットへ押し込んだ。 

「わかった。助かる」

 合間にも「それから」とバービーは言う。

「もう足りているぞ」

 だが聞こえていないらしい。

「これ、日焼け止め。鼻の頭、もう赤い」

 頭を突っ込んだ紙袋の中から小瓶だけを取り出し振った。

「そ、そうか」

「みっともないから、もう、すぐ塗りなさい」

「む……」

「で」

 まだあるらしい。

「昼に来るってあったでしょ」

 再び紙袋の中へ手を突っ込んだかと思えば、えい、の掛け声と共に持ち上げてみせた。

「お昼ご飯」

 バナナの皮のゴツイ包だ。

 それもまたバービーはレフの抱えるファイルの上へドカ、と乗せる。

「中は二種類の蒸し芋。片方は皮がついているから削ぐように剥いて食べて。道具はそこに挟んであるでしょ。使って。で」

 などと目はさらにもう片方の紙袋を見下ろしているのだから、言うほかない。

「まだあるのかッ」

「飲み物はこれで我慢してくれる?」

 かまわずそちから取り出されたのは正真正銘、小ぶりな椰子の実だった。とたん目にした百々から、わー、と声は上がり、バービーは違わずそれもレフに持たせる。

「い……」

 ……らない。

 断りたくとも贅沢らしい。

「上に栓がしてあるでしょ。抜けないなら落とすといい。早めに食べて」

 教えるバービーの目にイエス、と言わされる。

「残りは着替え」

 などと、それこそどこで一体、都合したのか。

「日本に寄った時もそうだったもの。じゃないかと思ってた。それも似合ってるけど……。見せてもらったから気を遣わないでもう着替えて。だいぶくたびれてる」

 どうにも二の句が継げなくなる。

「家に帰る暇がなかった」

 絞り出した言い訳もあまりにひどいものだった。ままに恐る恐る、レフは紙袋の中をのぞきこんでゆく。

「他にまだ必要なものはある?」

 遮るバービーが爆速。取り出した品を紙袋へ戻してゆく、迷いのない手つきは素早く、紙袋はあっという間に元通りと膨らんでいた。

「大丈夫、ね?」

 掴んで差し出し問うその意味は、もちろん中身についてではないだろう。渡しても大丈夫なのか。眉はこれでもかとひそめられている。

「宿泊所へ向かう」

 渡されていたはずのものを拒まれ、レフは引き剥がすように受け取っていた。

「隔離区画での仕事がなければ案内できるんだけれど。もう行かないと」

「仕事はお互いさまだ。気にするな」

 不安げな顔へ返す言葉などしれている。ただ先を急ぐことだけをほのめかしサングラスをかけた。とたん世界は装うことをやめ、精彩を欠いたバービーもまた誤魔化しようなく不安と不満をあらわとする。

「そうする」

 言ったところで本意でないと、言葉の向こうも透けていた。なら荷物を毟り取ったことにさえ罪悪感は過り、そもそもその顔では本末転倒だろうと思えてならなくなってくる。

「どうだ、宿泊所の位置は分かったか」

 百々へと確かめていた。案の定、他人のやり取りに気をとられた百々の手は止まったきりだ。

「え、えと。あ、と、ど、どっちが北だろ、これ?」

 今さら慌てて地図を広げるが、単なるポーズであることも分かり切っている。

「先に車で確認していろ。ついでに荷物も持って行け」

 レフは紙袋を押し付けた。

「うぇ。あたしアシスタントじゃないよ」

 言うだろうと思っていたのだから、返す正論の用意も一つや二つではい。

「お前がハンドルを握るなら俺が地図を読んで隣で飯も食ってやる」

 が、じゅうぶん披露する間もなく意図は最短で伝わっていた。

「い、嫌味だ」

「事実だ」

「う、ぐ。りょ、かい」

 紙袋を両手に重いだの何だの、ジープへ遠ざかってゆく声はあてつけがましい。その時間などしれている。背が向けられているうちに、だった。レフはバービーへと向きなおる。

「余計なことは考えるな」

 言葉にバービーが視線を跳ね上げていた。

「当然でしょ。出会った時、あなた撃たれてたのよ」

 言う頭を抱き寄せる。胸へ押し当てしっかりしろ、と込めた力でそれ以上を封じ込めた。

「こっちが阻止できても、ここが守り切れないと意味がないだろう。自分の仕事に集中しろ」

 聞き入れいっとき身を預けたバーバラは押し黙り、やがて小さくうなずき返す。大丈夫だ、と自らの力で傾いだ体を引き離していった。

「あたしたち本当にタイミングが悪いみたい」

 その困ったようで頼りなげな笑みは、初めて見る顔だ。

「俺たちじゃない。問題は職場にある」

「まったくそうね。とにかく気を付けて……」

 おどけたあとでまだ足りない、と残る距離をバービーは詰めた。

 重い紙袋をジープへ放り込み、百々は助手席へと飛び上がる。振り返ればレフもまた一直線とジープへ歩き出していた。背後には道を分け、保健所へ戻ってゆくバービーの姿もある。

 キリリ引き締まった後ろ姿には、男女を問わず人を惹きつけて止まない魅力があった。思わず見とれてなぜかしら百々は鼻の下を伸ばし、運転席へ蹴上がったレフにジープが揺れて我を取り戻す。

「行くぞ」

 挿したままのキーをレフがひねった。

 再び悪路へ跳び込めば、やってきた時と同じ揺れと騒音に襲われる。違うことがあるとすれば、ずいぶん近くにコロゴの町が感じられることだった。

「場所が確認できたら宿泊所へ連絡しろッ」

「あのね、番号が分かんないですってばっ」

 投げる百々へレフは一枚のメモをつまみ出す。

「一番下だ。女の部屋の出入りを止めさせる。出たら俺に代われ。あと一番上と三番目。番号をオフィスへ連絡しろ。搬送用に持たされた携帯と女のプライベートの番号だ。位置を確認できるか聞け」

 突きだされたそれは今にも飛んでしまいそうで、両手で受け取り百々は目を通した。

「りょかいっ」

「着くまでに飯もすませろ」

「こ、この状況でですかっ?」

「止まっているヒマはない」

「んなのさ、口より鼻に入るよ」

「ついでに俺にも食わせろ」

 などと、返事に間があいたのは当然だろう。速度はどうあれ百々はよっこらせ、でジープを降りかける。

「……バービーさん呼んでくる」

「誰でも出来る」

「むうっ、絶対あたし次までに免許とるっ!」

「すんだら片手間でいい」

 などとまだ言うレフに、百々の顔はたちまち伸びていった。

「ええぇ、まだあるんですかぁ?」

「女のプライベートへかけろ。出ないならすぐ切れ。バッテリーの無駄だ」

「相棒って忙しいよ、もう」

 と、グチって広げかけた地図の手はそこで止まる。

「て、もし出たらあたしどうすればいいんですか? あはあは」

 ぶーたれた後で教えを乞うのだから、笑って媚びるほかない。ならレフの顔に薄く笑みは浮かんでいった。

「何でもいい、日本語で話しかけてやれ」

「わー、それ」

 素晴らしい提案に百々は手を叩く。すぐさま眉をひそめていた。

「すごいイジワルら」


「了解。その二件、やってみるわ。ただし足の着くようなものならを相手も持ち歩いているとは考えづらいけれど」

 傍らのオペレーターへ曽我は目配せを送る。前屈みだった体をさらに倒してヘッドセットのマイクをつまみ上げた。

「それからオスロー側からの報告よ。声明文送信元の件で、送信に利用されたサーバーが判明したわ」

 百々に直接、言ってもかまわないと思えたのは、今しがたの報告をしっかりした口調で伝えてきたからだ。たとえレフに指示された通りだとしてもウブの素人なら、むしろ指示された通りが出来るだけで十分だとレフ本人を呼び出す手間を省く。

「同じオスロー市内だった。ラッキーと言うより必然性があるのかもしれない」

「へぇ……」

 肩透かしと反応が鈍いのは、意味を掴み切れてないせいにほかならない。こればかりは致し方ないと調子を狂わされつつ、曽我は最後までを押し切る。

「現在、現地警察を通してサーバー元に情報の開示を請求中。所在地が判明次第、ハートとストラヴィンスキーが確保に向かう予定よ。結果は即時、送るわ」

 通信の向こうから、そのままをレフへオウム返しする百々の声が聞こえていた。つい聞き耳を立てるのは、それでも彼女を信用し切れていないせいだ。動転して使えない人間の場合、たいして複雑な内容でなかろうと文章が前後したりと要領を得ないことが多い。比べれば百々の伝聞に訂正を入れる必要はなさそうだった。

 と、同様に気になっていたらしい。隣のオペレーターと不意に目が合う。いわずもがな互いに笑みはもれるとうなずき合っていた。


 しこうして百々は宿泊所の位置を地図の中から見つけ、かけた電話を再びレフの耳へ押し付ける。その後、ミッキー・ラドクリフへも通話を試み、有難いことに先方が出なかったなら変わらず飛ばすジープの上で昼をとった。

 蒸しパンだと思っていたバナナの皮の中身は芋らしく、付属の薄い匙のようなナイフで切り分け渡せばレフも最後のひと口を咥えたまま、コロゴの町中へハンドルを切る。

 ジープの速度はそこでグンと落ちていた。

 土塀と軒の低さが時代劇かなにかのセットのようだ。レンガとワラで設えられた赤茶けた小屋の間を、好き好きに行き交う人々や家畜を避けて回り込みながら宿泊施設を目指す。

 その近道が右回りだったとして、左回りでも到着すれば問題なしだろう。

 明らかなるよそ者ゆえ、周囲の視線が痛い。粗相のないよう百々は食べた後のゴミを綺麗にまとめ、くわえていたナイフを尻ポケットへ押し込んだレフと共にジープを降りた。

 そうして見上げた建物はリゾートコテージに近い。だが肝心のリゾート施設を持たないそこは代わりに、WHOのマークを掲げていた。

 先もって不審者でないことを確認させたおかげで管理人との話は早く、道端でコークでも売っていそうな若く愛想の良い地元民の彼は英語も堪能なら、ミッキー・ラドクリフは昨日、午後からほとんど部屋にいたと、今朝に至っては彼女に次いでルームメイトが仕事に出て以降、部屋に出入りはないと教えてくれる。ついで中を改めたいと申し出たレフへ、わらぶき屋根の小屋を指さしミッキー・ラドクリフの部屋は二つあるうちの左だ、と示しスペアキーを渡してくれた。

 礼を言ったレフは、強硬手段を取ればものの一分で突破できそうな薄い木造のドアへ鍵を挿す。

「わ、ちょいまち」

 ひねる寸前で百々は声を上げていた。

「なんだ」

 振り返ったレフの顔はもうすでにうるさい、と言っているようでならない。だとして過るのは何をさておき、ハボローネの一件だろう。

「開けたら爆発するかも知れないよ」

 百々は鍵を握るレフの袖を掴んで揺すりに揺する。が、前へ向きなおったレフは問答無用だ。

 鍵をひねりドアを引き開けた。

「ひょ、わぁたぁっ!」

 同時に繰り出された百々の小躍りはアフリカンダンスと野性味にあふれる。

 ほどに滑稽なだけで、爆発は起きなかった。

「しない。後からルームメイトが出ている」

 吐き捨てレフは室内へと踏み込んでゆく。

「……あ、そか」

 こぼす百々を管理人がまじまじ見つめていた。だとして異文化交流、とまでは行かないだろう。

「ひどいよ、それ。先に言って下さいってばっ!」

 ともかく逃げる。もとい、百々もレフを追うと部屋へ入った。


 しこうして百々は宿泊所の位置を地図の中から見つけだし、宿泊所へかけた電話を再びレフの耳へ押し付ける。その後、ミッキー・ラドクリフへも通話を試み、有難いことに先方が出なかったなら変わらず飛ばすジープの上で昼をとった。

 蒸しパンだと思っていたバナナの皮の中身は芋らしく、付属の薄い匙のようなナイフで切り分け渡せば最後のひと口を咥えたままで、コロゴの町中へとレフはハンドルを切ってゆく。そこでグンとジープは速度を落としていた。

 集落と広がる一帯は、土塀と軒の低さが時代劇かなにかのセットのようである。どれもレンガとワラで設えられると、赤茶けた小屋の間を好き好きに行き交う人々や家畜を避けて宿泊所を目指した。その近道が右回りだったとして、左回りでも到着すれば問題なしだろう。明らかなよそ者ゆえ、止まったジープに周囲からの視線は刺さる。粗相のないよう百々は食べた後のゴミを綺麗にまとめ、くわえていたナイフを尻ポケットへ押し込んだレフと共にジープを降りた。

 見上げた宿泊所の建物はリゾートコテージに近い。だが肝心のリゾート施設を持たないそこは代わりに、WHOのマークを掲げていた。

 先もって電話で不審者でないことを確認させた管理人との話は早く、道端でコークでも売っていそうな若く愛想の良い地元民の彼は英語も堪能だったなら、ミッキー・ラドクリフは昨日、午後からほとんど部屋にいたと、今朝に至っては彼女に次いでルームメイトが仕事に出て以降、部屋に出入りはないと教えられる。ついで中を改めたいと申し出たレフへ、わらぶき屋根の小屋を指さし、二つあるうちの左の部屋だ、とスペアキーを受け取った。

 礼を言ったレフは、強硬手段を取ればものの一分で突破できそうな薄い木造のドアへ鍵を挿す。

「わ、ちょいまち」

 ひねる寸前で声を上げたのは百々だ。

「なんだ」

 振り返ったレフの顔はもうすでにうるさい、と言っている。だとして何をさておき思い出さずにおれないのはハボローネの一件だろう。鍵を差したレフの袖を百々は掴んで揺すりに揺する。

「開けたら爆発するかもしれないよ」

 が、前へ向きなおったレフは問答無用だ。鍵をひねるとドアを引き開ける。

「ひょ、わぁたぁっ!」

 繰り出す百々の小躍りにもアフリカの精霊が宿る。

 ほどに滑稽なだけで爆発は起きなかった。

「しない。後からルームメイトが出ている」

 吐き捨てレフは踏み込んでいった。

「……あ、そか。て、ひどいよそれ。先に言って下さいってばっ!」

 百々もレフを追いかける。


 だがしかし民間企業のフットワークが危機管理に見合うものであるかと問えば、それなりに、が限界だった。乗り込む先を見定められぬままハートとストラヴィンスキーはオスロー空港から戻った署内、借り受けた会議室の一角でしばし時間を持て余す。

 埋めてつないだのは、こうなるなど予想もつかず用意されていたノルウェイ・ノワール、その組織に関する情報となる。トーマスはそれら写真に資料を壁へ、順に貼り付けていた。

「まあ、どいつもこいつもジャンキー上がりといったところで、ノワールも元は組織の下層からのし上って来た口だといわれています。ただし……」

「そこまでうまく立ち回れたのは売りはしたが、自分は手をつけなかった、ってことですね」

 張り終えられた資料はさながらパノラマとなり、一望してストラヴィンスキーは言葉を継ぐ。

「でしょうなぁ」

 瞬間、電話は背後で鳴っていた。弾かれ振り返ったトーマスが机へ這いつくばるようにして取り上げる。二言、三言、返した視線をハートへ投げた。

「サーバー元からです。所在が割れましたよ」

「どこだ」

 受けてハートが傍らのパソコンを操作し始めたストラヴィンスキーへと振り返る。

「びっくりしないでください」

 口調は至って冷静なままだ。ままにストラヴィンスキーはパソコンのモニターをハートたちへ向けなおした。

「発信者の所在地もオスロー市内です」

 しない地図は表示されると真ん中にひとつ、赤いピンは立っている。

「踏み込むぞ」

 睨みつけたハートがトーマスへアゴをった。だがトーマスの返事こそかみ合わない。

「それはここですよ」

 やにわに先ほど貼り終えたばかりの写真へと駆け寄ってゆく。目はそれを次から次へ舐めてやがて、一枚の上でピタリ、止まっていた。

「その住所はここです!」

 歩くノルウェイ・ノワールを、その背後に映るアパートを押さえつける。


「嘘でしょ?」

 かたやオスロー空港内。ハナは肩を跳ね上げていた。だが自分の手配したスケジュールだ。返すオペレーターの口調は強い。

「次の便は二十四時しかありません。到着も十二時間後ですので、テロ予告時間に間に合いません。それに乗ってください」

 だからこそ確認せずにはおれなくなる。

「NATOの輸送機に乗れってあるけど、本当に大丈夫なの?」

「基地の方には了解を取っています。離陸は三十分後。同乗して下さい」

 もうこうなれば戦闘機でなかったことをよしとするしかない。ハナは残り時間に合わせて思考を切り替える。

「分かった。スーツケースは捨てていくわ。ホテルの始末、ストラヴィンスキーにでも頼んでおいて」

 いや、彼はこの組織内そんな立場なのか。

 しかしここでも迷うことなくオペレーター返していた。

「了解しました」


 見回せば宿泊所は土壁で仕切られた、現地ならではの造りをしていた。並ぶ部屋の入り口にドアはなく、代りに布は吊るされると左に掲げられたミッキー・ラドクリフのプレートを見つける。見れば右はバーバラ・ウィンストン、バービーの部屋だった。

「あ、ルームメイトってバービーさんだったんだ。後でちょっとのぞいてく?」

 誘う百々へ、サングラスを外して振り返ったレフの睨みはそら恐ろしい。

「じょ、冗談だってば」

 籐製のベッドと同じ素材のチェストがまず目に入っていた。ミッキー・ラドクリフの部屋はそれ以外、片付けられたどころか使われた痕跡のないほどに何もない。様子は明らかに数日で立ち去るつもりだったことを裏付けるものだった。

「こんなじゃ手掛かりなんて何もないよ」

 早くもギブアップと立ち尽くす隣でレフは天井にまで視線を這わせてゆく。

「動く前から決めつけるな」

 チェストへと歩み寄っていった。

「いくら今日ここを発つと計画していていも、仕事場へスーツケースを持ち込むマネはできない。捨てるには目立ちすぎる」

 次々と引き出しを引き抜いてゆく。向けた背で、いいか、と百々へ呼びかけた。

「人気のない片田舎でテロを起こすようなことはない。ここでウィルスを撒くにせよ別の空港へ実行するにせよ、アビジャンだ。テロの効果を上げるなら必ず女はそこを通る」

「あ、じゃ向こうで捕まえてもらったら……」

 だがそれは浅知恵でしかなかった。

「忘れたか。アビジャンはノワールを不正入国させた疑いがある。アテにはならない。だからといって俺たちで先回りしたところで空港の広さは手には負えない。時間の無駄だ。介入しない」

 チェストに何も入っていないことを確認したレフは屈みこむと、床へ頭を擦り付けた。チェストの下を、ベッドの下へくまなく視線を走らせてゆく。

「問題はいつ女がアビジャンを通るか、だ。女の現在地が割れればアビジャンを通過する時間も特定できる。通過時間が特的できれば散布予告時間内、移動可能な半径も予想できる。空港で散布する目的はウィルスを世界中に拡散させるためだ。範囲に、見合うだけの規模をもった空港を割り出すことも可能だ。たとえ俺たちがウィルスに追いつけなくとも、代わって確実に誰かが先回りできる」

 と、レフは短く舌打ちした。

「あった」

 早いかベッドの足元、奥へと押し込まれていたスーツケースを引き出す。

「わ、ほんとだ」

 開かれたそこへ駆け寄り傍らへ百々は座り込んだ。あいだにも次から次へレフは、下着もかまわず詰め込まれていた荷物を掴み出してゆく。ブラジャーはデカい。ジーンズのポケットはカラだ。五十枚入りのマスクの箱はわざとらしく、ポップな色柄のガイドブックに、フランス語の手引きはめくられた折り目すらないまま取り出されていた。反して角が丸くちびたコートジボワールのポケット地図は現れ、使うつもりで持ってきたのなら冗談のような日傘も出てくる。受け取り、百々はいちいち全体を点検して唯一、手あかのついた地図を今一度、見なおした。

 開く。

 地図は地域ごとに分割されると、ケースのポケットにそれぞれ差されていた。分割された地図がコートジボワールのどの地域のものか一目で分かるように、開いた右下に番号が振られ分割されたコートジボワール全体の地図もある。

 分割されたな地域は六つ。

 実際を確認すべく百々は地図の束を数えた。だが五部しかない。もう一度、目を通す。いや、間違いない五部だ。急ぎ地図の角に打たれた通し番号へも目を通した。

 三番だ。

 三番が欠けている。

「レフっ!」

 任せて壁際のくずかごへ手を突っ込んでいたレフが首をひねって振り返った。ジョーカーはどれでしょう。百々はその顔へババ抜きよろしく扇形に広げた五冊の地図を突きつける。

「ないよっ。三番の地図だけがない。必要だから持ってったんだっ!」

 みるみる険しくなってゆくレフもまた、その手をくずかごから引き抜いてゆく。

「やられた」

 破壊された携帯電話はそこに握られていた。


 オスロー署内の慌ただしさはこれからの捕物に備えてだ。何しろ相手はテロリストの一員だ。いやそれ以上、ロンに近づくことはハボローネの一件を思い起こさせ、慌ただしさへ緊張すらも上乗せする。

 会議室にはいつしか爆発物処理班、強行班、周辺警備の責任者らがひしめいていた。その誰もはデスクを取り囲むと写真におさめられたアパートの見取り図を、その周辺地図を見下ろしている。

「七階か。最上階なら、窓から逃げ出す心配はないな」

 間取りを確認したハートが呟いた。

 ハッカーが潜む問題のアパートはワンフロア四室の七階建てだ。全二十七室のうち二十三部屋が埋まっており、調べるなら七階からだと目星がついているのは撮影時、ノルウェイ・ノワールが訪れたた可能性があると報告されているためである。

「うち、この一室が空室。管理者へ確かめたところ残り3部屋のうちインターネット回線の工事記録があるのはここと、ここですな」

 見取り図、七階の部屋を順番にトーマスが指さしてゆく。

「回線のない部屋は老夫婦が。回線のある方は両方とも二十代の男の一人住まいだそうで」

 エレベータを降りたところ、吹き抜けを挟んで向かい合う部屋と部屋をことさら強く示してみせた。

 追いかけ確認したハートの目が十分だと、ストラヴィンスキーへ裏返る。

「その二か所は、俺とお前で担当するぞ」

「イエッサー……」

 返す声は小さいが、リズムはいつもと変わらない。ふざけたヤロウだとハートは分厚い唇をめくりあげる。引き締めすかさず囲む一同へと顔を上げた。

「念のため空室も確認する。空室と老夫婦の二か所はオスロー側へ頼みたい」

 了解とうなずく頭が方々で揺れ動く。

「いいか、繰り返し伝えておく。中のヤツは最悪、テロリストへ武器支援を行っている輩だ。でなくとも調達のためハッキングを行なった一員であることに間違いはない。近づいた別の職員は先日、乗り込んだ家屋ごと吹き飛ばされた。細心の注意を払ってくれ。そのうえで容疑者を確保。証拠の押収。発見した場合、この二点だ。この二点を必ず行ってくれ」


 欠けていた三番の地図はコートジボワール北西部、隣接するギニア共和国とマリ共和国の国境付近だった。

「なんだ。内陸へ向かっているのか?」

 言うレフの、影が落ちるほど窪んだ両眼を百々は見上げる。

「それじゃアビジャンから離れてく。別のおっきな空港って、隣の国へ出るのかな」

「……、……、……?」

 巡らせる思考のままロシア語を呟くレフが、やおら端末を胸から引き抜いた。耳へあてがう片手間、早口と答えて返す。

「車にはWHOのロゴがある。手配がかかれば国境越えはかえって目立つ。いったん移動し飛行機に乗り変えてアビジャンへ飛ぶ。国内線に用意があるのかもしれない」

 その指がオフィスを呼び出すべく端末の画面に触れた時だった。見えていたかのように呼び出し音は鳴りだす。

 ワンコール待たずにつなげるレフの動きは早い。聞き逃せはしないと百々も抜き出した端末のイヤホンを絡まったままでも耳へ押し込んでいた。

「ウィルス搬送に同行していた職員が発見された」

 曽我だ。声へ集中すれば自然、視線もヒザへ落ちる。

「コロゴと逆、保健所を北西へおよそ二十キロの地点。ボノングドゥーの町から本人が連絡を入れてきたわ。手前で降ろされて歩いて町へ辿り着いたらしい。容疑者はそのまま西へ逃走。持たされていた携帯電話はそのさい破壊。預かった番号のひとつはこれで消えた」

「ああ、今、女が寝泊りしていた場所にきている。もう一つの携帯電話はここに使えない状態で捨てられていた。この件は忘れてくれ」

「だと思った」

「あと、ラドクリフ荷物から地図が出てきた。だがコートジボワール北西を記した部分だけが持ち去られている」

 言いつつレフは振るアゴで、紛失部分と接する他の地図を広げるよう百々へ合図した。

「職員が発見された位置とも合うわね」

「だが向かうならアビジャンだ。どこまで行こうと無人の場所で散布はない」

「分かってる。手っ取り早くアビジャンとの距離を詰めるなら空港?」

 うちにも百々は地図を広げ、そこへレフは視線を落とした。端に明記された地名を拾い上げると紛失部分の範囲を知らせる。

「範囲内の国内線、位置を頼む」

「追いつける?」

 聞き及んだオペレーターが自発的に動いているのだろう。あえて曽我が指示を出す気配はない。

「彼女が保健所を出てもう四時間近く経つ。乗り捨てられた車を見つけたいわけじゃないわ」

「だが俺たちだけでアビジャンをカバーすることはできない」

「範囲内に空港はボノングドゥーから二十キロ、ブーンディアリ。ブーンディアリから百二十キロ、オディエンネ。この二か所のみ」

 答えない曽我は、ただ検索結果を読み上げていた。

「覚えたか」

 思い出したようにレフが百々へ視線を投げる。

「で、え? あ、ぼ、ぼんじゅーるの、ぶーん、ぶーん? あはは……だめら曽我さん、ちゃんと資料、送ってくらさい」

「もちろん」

「ブーンディアリから当る」

 レフが通信を切ろうとしていた。

「あと一件」

 付け加えられて手を止める。

「オスローが犯行予告送信者の確保に動きだした。遅くともあと二時間ほどで結果を伝えられるハズよ。送信者の所在地はオスロー郊外。オフィスで最初に渡したわね、ノワールの背景に写っていたアパート。彼が出入りしていたそこらしいわ」

 と百々の手元へ早くもファイルは送り届けられ、もはやナビゲーションが担当だ、急ぎ百々は繰る。

「そこがロンのアジトか」

 確かめるレフの声は低い。

「案外これでケリがつくかもしれないわ」

「ブーンディアリで連絡を入れる」

「了解」

「西へ行くって、道はあれしかないよ」

 切れた通信に代わり、端末を睨んだままの百々がレフへと手を振り上げる。

「とにかく保健所のまだ向こう。ここからずーっと、まっすぐだよ。だいたい百キロっ!」

 片付ける義理などない。広げた荷物をまたぐレフの体が外を目指す。

「一時間で到着する」

「え。それ計算、間違ってない?」

 立ち上がった百々も後を追いかけていた。

「ない」

 そう、合うようにあの悪路を走破するのだ。


 思ったよりも近いのか遠いのか、差し迫った状況に感覚は狂いがちだった。オスロー郊外、現場まで道のりは一時間半余り。到着の見込みは午後四時すぎだ。

 つまり犯行予告が送り付けられてからすでに五時間後余りが過ぎ、たとえ送信者を確保したところでテロ実行まで残り半日というタイミングだった。

 間に合うのか。

 きわどければきわどいほど、パトカーの助手席でハートは何とも言えない気持ちにさいなまれる。そこにはいわずもがな万が一にもウィルスが散布された場合の憂慮が潜み、晒されるだろう人々への危惧が色濃くにじんでいた。

 帰れば犬ころのように群がってくる三人のチビどもと、まだ立ち上がりもできない四人目の乳臭い匂いが蘇ってくる。事態は万が一だろうと許してはならない。思いは痛烈と渦巻いていた。

 隣でハンドルを握るトーマスの動きは相変わらず遊びが多い。しかしながら面持ちだけはひどく真剣とパトカーを走らせている。走り抜けるオスローの街並みはハートの杞憂などどこ吹く風とゆったり緑を揺らし、気付けば片側にリアス式の海岸線を長く伸ばしていた。

 眺めてふと、同じか、と気づいたのは理解できない、と思えたレフの白い面だ。いけ好かない面持ちはどうやらそこから一歩、胸の内へ踏み込んできた様子だった。

 だからして帰ったならチビどもをどこへ連れて行ってやろうか、思い浮かぶままに考える。ずいぶん疲れているだろうからこそ、そんな休日を想像した。想像して何度も何度も手繰り寄せればあの言葉から自然、違和感もまた消えてゆく。

 逃がすつもりはない。

 言葉は確かとハートの中にも息づいていた。


 一時間。

 本気で到着させるつもりらしい。

 きっとその頃、ジープは粉々だ。

 思えるほど乗り心地は凄まじかった。だが切る風にも跳ねる車体にも、もう慣れて候。むしろなければテンションは上がらず、不安が顔をのぞかせそうで心もとない。

 味方につけて百々は空港までの道のりを把握しなおす。豪快に椰子の実ジュースも飲み干し、バービーから預かった紙袋をあさると、分からないなりにも預かった資料へ目を通していった。

 過程で保健所の車はトヨタ車らしいことを、そのナンバーを覚え、取り返すのだからこれまた重要なはずだ。運搬用の保冷ケース取扱説明書もレフの手を借り理解してゆく。

 そんな保冷庫の外見は魚釣りのクーラーボックスとさして変わらなかった。ただ中には魚でなく、ウィルスと液体窒素をおさめたスピッツの入る冷却ケースが入っているという簡素さで、説明書にはむしろ感染と汚染を防ぐための取り扱いばかりが連ねられていた。

「ばら撒く人も、きっと感染しちゃうね」

 言わずにおれないだろう。

「一種の自爆テロだ」

「誰も得しないよ」

 レフの返事はそこで途切れる。

 走るジープはとうのむかしに保健所の傍らを通り過ぎると、連絡してきた保健所職員がいるだろうボノングドゥーの町もまた駆け抜けていった。詰まるところ残り二十キロと知れたところで案の定、空港が近いことを知らせて伸びていたわだちは二股に分かれる。

「そこ、左っ! 乗ったらほぼ道なりっ!」

 指さす百々に答えてジープのハンドルは切られる。砂埃を巻き上げ脇道へと逸れていった。


 しかしながらウィルスとミッキー・ラドクリフの失踪を聞かされて一時間余り、代わらずハボローネの町は愛想が悪かった。馴染んでいるのは手前ばかりで、むしろその馴れ馴れしさに拒まれているのではないかと思えるほど収穫は得られない。

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