9# BLACK & WHITE
砂浜へ呼び出されたのは「写真の二人」だった。つまりこの件で百々も報復対象であることが決定的となる。
もちろん自宅へ戻れば警護がつき、傍らには殺しても死にそうにない用心棒がいることは理解していた。だがどう考えても家で何食わぬ顔をし続けるなどと、ましてや「20世紀CINEMA」でいつも通りに立ち居振る舞うなどとできそうもない。
もう煙幕臭かろうがシワだらけの上に砂まみれだろうが、クリームイエローのワンピースを着続けることに抵抗はなくなっていた。百々は帰りの車内、オフィスの仮眠室を借りたい、と百合草へ申し出てさえいる。
聞きいれた百合草にどういう反応はなかった。当然だ。職員へ戻らなかった場合、緊急時は自宅を離れる可能性があり、その期間については約束ができないとすでに百々へと説明している。想定内に違いなかった。
決まるまでレフは当初の目的通り、ワゴンを百々の自宅へ向け走らせている。行き先が変更されてからは「20世紀CINEMA」最寄り駅のコインロッカーから紙袋を回収すると、オフィスへ向かいハンドルを切った。道中、そんな互いに余談はない。普段から百々が話しかけなければまったくと言っていいほど無駄口はないのだから、百々にその余裕がない今、状況は徹底していた。
だが何がどうであろうと時間が経てばワゴンは駐車場へ到着し、互いに無表情のままオフィスへ下りる。足を踏み入れたオフィスは何が起きようと整然としたもので、強いて言うなら夜勤体制に入った今、今日も終わりが近づいていることを表している程度だった。
ふさわしく時刻はすでに二十一時半。
ハナは海水浴場の件で署へ詰めており、ストラヴィンスキーにハートも増えた仕事に姿はない。ゆえに誰に会う事もなく百合草への報告をすませ、代わりに百合草から明日、朝八時にミーティングがあることを聞かされると百々は、曽我から仮眠室のキーを受け取っている。
「すみません。急に言い出して」
当然なのか己が情けないのか、ごちゃまぜの気持ちだ。曽我へと頭を下げた。
「気にすることじゃないわよ。ただしルームキーパーはいないから出る時は清掃をお願いしてるわ。シーツなんかの洗い物は午前中に廊下へ。食堂職員が回収する段取りになっているから、よろしくお願いね」
「はい、わかりました」
返してキーにぶら下げられたタグの部屋番号を確認すれば、何の因果か部屋は倒したクレーンの反省文を書かされたあの部屋だ。
「本件の報告書はミーティングで預かる。それまでに用意しておけ。以上だ」
前で百合草が締めくくる。やおら緩めたネクタイで、花火会場は不発で何よりだったとこぼしてみせた。ならその言葉は百合草にこそ必要そうで、ご苦労だった、と付け加えられてレフと共に部屋を出る。
その足で報告書原本のコピーをとった。
手に百々は、仮眠室の前でレフと別れる。
あれから数か月。仮眠室に窓がないことはすでに知る事実だ。だが変わらず臭がこもっていないことは有難く、中央に置かれた机へ鍵と書類、振り回し続けたセカンドバックを投げ出した。どすん、とベッドへ腰を落とす。棒切れよろしく百々はベッドへ倒れ込んだ。
どこかがジンジン痺れているようで気分も気持ちも判然としない。ままにただ両目を閉じた。痺れのせいか疲れのせいか、それとも不安が見えないほど大きいからか。急に心もとなさが、いや淋しさか、胸へとこみ上げてきて、耐えかねてぎゅう、と百々はヒザを引き寄せる。抱えて小さく丸まった。
部屋には今もテレビが変わらぬ位置に置かれ、鏡は閉めれば蛇口がキュッキュと音を立てそうな旧式の洗面台に一枚貼り付けられている。傍らの吊り棚には見るからに使い古されて固そうな、それでいて洗濯だけは行き届いた真っ白なタオルが積みあげられており、シャワーブースはその隣、電話ボックスよろしく蛇腹の扉を閉め切っていた。
眺めて百々は田所の声が聞きたいな、と思う。
思い出す顔に泣きたいのかも、と気づいて引き寄せた両足をいそいそスカートの中へ潜り込ませていった。だが今すぐ会えやしないなら、スカートで包み込んだ足を引き寄せいっそう小さくなってみる。息を殺すと点になるまで縮こまっていった。
だが困ったことにそれ以上、うまく悲しくなれない。悲しくなるには何か、どこかが足りないようで、詰めた息と湧き上がってくるモノはひたすら喉の奥でせめぎ合い続けた。つかない決着に息苦しさだけが増して、ついに「うー」と声をもらす。
駄目だ。思い起き上がっていた。こんな時はとっととシャワーを浴びて寝るに限る。動き出すがすぐにも投げ出された報告書に気いて思いとどまる。伸ばした手は義務感からのみ。触れるかどうかというところでノックの音に顔を上げていた。
誰だろう。
思うからこそ身なりを一度、確認する。百々はそうっとドアを引き開けていった。
「晩飯だ。今から食いに行くぞ」
レフだ。見下ろす顔はそこにあった。おかげで百々が思い出せたのは、砂浜でそんな話をしたっけ、ということだ。だがすっかり忘れていたほどに空腹感は欠片もない。
「あ、でも、ほらもう十時だよ。行ってもお店、間に合わなくない?」
だからして遠回しに断ってみる。だが返すレフのそれこそが、時間を置いてのち声をかけに来たカラクリだった。
「今、電話を入れた。行くまで開けて待っている」
「ええっ。っていうか、そこまでして割り引いてもらうの心苦しいんですけど」
訴えたところで気にするな、とレフは言う。
「あの店の地上げ屋を追い払ったのは俺だ。色々融通が利く」
「な、何やってんですかっ?」
どうやらそれが永久クーポンのいきさつらしい。
「何でもお前には関係ない。いいか、融通は利くが待たせるのは悪い」
否定はできなかった。だったらなおさら早めに決着をつけるべきだと思えてならなくなる。
「ほんとは……」
百々はおずおず口を開いていた。
「あんまり食欲ない。残したらマスターに悪いし、遠慮しとく」
しかしそれだけでは後味が悪いことこのうえないだろう。
「何を食べたのか明日、チェックを入れる。覚えておくように」
百合草の口調を真似てレフへ笑いかけた。だが笑みは浅すぎ、それ以上もちそうにない。おやすみ、と同時だ。百々はドアを引き寄せ閉めた。笑みは案の定、タイムリミットとそこで途切れる。なけなしの気力もついに干上がり、書類を片付ける決意もどこへやらだ。どうでもいい、と抱きつくようにベッドへ向かいダイブした。
「らめら。うん。明日、怒られよう。その方が健康にいいよ」
振った足でパンプスを脱ぎ散らす。おさまりのいい場所を探して体をくねらせ、見つけたカタチに深く大きく息を吸い込んだ。
ところでドアは勢いよく開く。
「ぎゃ」
段取りに施錠が欠けていたことは言うまでもない。尻尾を踏まれた猫だ。百々は跳ね上がっていた。そうして追い返したはずのレフが立っているのをドア前に見つける。
「わ、でっ。開けるならノック、ノックがなぁいっ!」
喚いて当然だ。だがレフは一点を睨みつけたままズカズカ部屋へ入ってくる。そこに友好的だとか穏便だとか、穏やかな雰囲気は一切なかった。だいたい断りもなく入って来た地点でそんなものが望めるはずもない。
「たっ! てっ。あのっ。晩御飯だったら次、次っ、必ずいただきますぅ」
ままに後じされば、空いたベッドの端へレフは腰を落とした。苛立ちを隠せない仕草で前屈みになると、両膝の間で手を組み合わせる。何事かを押し殺し吐いた息は大げさで、ひねった頭で今さらのように百々を睨みつけもした。その面持ちはだいぶ慣れたつもりでもやはり怖い。なら恐れおののく百々の前でレフは言う。
「食う気になれないが疲れのせいなら、なおさら消耗した証拠だ。気分でなおざりにするな。何か口へ入れておけ」
説教か。
瞬間、百々の口こそポカンと開いていた。
「でなければ必ず途中でくたばる。いや、くたばったヤツは食っていなかった。俺は本土でそういうヤツを見てきている」
「て……、て言われても」
本土と言えば消防士の頃だろう。一緒にされて百々は言いかけ、遮るレフにいいか、とかぶせられていた。
「脳の低血糖状態は気づかないうちに集中力と判断力を鈍らせる。つまらないミスの原因だ。だが気づいた時にはもう遅い。そのミスには人の命がかかっている場合もある。神経質になり過ぎることはよくない。だが今はそういう局面だと覚えておけ」
言わんとしていることは、ようやくそこで百々にも伝わってくる。開いていた口を閉じていた。それ以上、結んで百々は尖らせる。
「あたしだけの問題じゃないってことは、分かってます……」
おかげで響きは不満げとならざるを得ず、不満げな響きは裏腹に、全く分かっていないという事実だけを浮きぼりにしていった。だからだろう、前へ向き直ったレフはなおさらむっとした様子で微動だにしなくなる。感じ取って百々もベッドから足をおろすと座り直していた。
「けど今は個人的に、食べたくない。レフはそうじゃないかもしれないけどさ、いろいろショックだよ。気持ちの整理がつかなくなった。誰かに殺されそうになるなんてさ、そんなこと考えてる人がいるってさ、ここに詰めてる人はみんなそうかもしれないけど、あたしは、あたしには結構ショックだよ。案外、へこむ。食欲、わかない。無理やり食べたらなんか……、吐きそう」
言葉にむしろ喉を詰まらせる。振り切り百々はレフへと顔を上げていた。
「言ってることは分かる。けど、そういうのまだムリだよ。明日はちゃんと食べるからさ、今日はもう寝る。寝てちょっと忘れる」
部屋のドアはレフが入ったきり半分開いたままだ。聞きながら睨むレフは隣でただ手を組み変えていた。何ごとかを言うべく口を動かしかけ、迷った挙句に噛み潰す。代わりに握り続けていた手をほどいた。
つまり立ち上がるのかと百々が横目に捉えたその時だ。のけぞるようにしてぐい、とほどいた手を後方へ伸ばす。そこに枕は転がっており、掴んで百々へ投げつけた。そんな枕はソバ殻か。のしかかるように百々の頭へ潰れて張りつく。ぼとり、落ちたところで食らった百々こそ無反応なら、これがどうにもしまり悪かった。
「ぼうっとするな」
耐えかねたレフがこぼす。
「早く投げ返せ。ここにはそれしか枕がない」
否や、弾かれ百々はレフを見ていた。
不本意だと言わんばかり、そこでレフはじっと反撃を待っている。そうして向けた横顔で、かつて百々が込めた思いを見せつけていた。それくらい笑い飛ばせと。教えたのはお前だろうと。だからして食うために付き合ってやる、と語っていた。いつもの仏頂面で仕方なく、とも添えて。
一言、多いよ。
見つめるほど結んだきりの唇が震えだす。
泣いてはだめだ。
思うほど百々の両目へ熱はこみ上げ、隠して咄嗟にうつむいていた。だが隠そうとすればするほど止まらず、そんな己がどうにも憎たらしくて、腹立たしいから情けなくもあり、どうしてなんだと思えばヤケクソ紛れだった。百々は枕を拾い上げる。ああ、殴られたいならそうしてやる。思いの全てをぶつけて振り上げた。レフへこれでもか、と叩きつける。
そう、投げたりなんかしない。
握ったきりでフルスイングだ。
どすこい、レフをブン殴った。
そら一発で気がすむような状況じゃない。
吹っ切れたかのごとく立ち上がって滅多打つ。想定外の強襲に身を丸めたレフが何事かを呻こうが、挙句「ゲームが違うぞ」と訴えようが、誘ったのはそっちの方だ。しかもデカいうえに頑丈ときている。溜めに溜めた不条理をぶつけた。力の限りに右から左から、滅多打ちと殴り倒した。
その激しさにやがて息が切れ、握力の失せた手から枕が飛び、振り回す両手が空を切る。そうしてなくした手応えが張り詰めていた気持ちに穴を開けた様子だ。うまくつながらないでいた感情はそこでようやくつながると、ついに喉を越えて押し寄せてきた感情のまま百々は力が抜けたように座り込む。天を仰ぐと泣き声を上げた。その顔がたとえ雨に打たれた鬼瓦と化そうが、人目もはばからず声を上げて泣く。うぉう、うぉう、と泣きに泣いた。
レフもたじろぐその顔でひとしきりを終えるまでいくばくか。
やがてぎゅう、と噛んだ唇で口を結んでいた。
「……ぐふぃ。ず、ぐぅ」
そのさい妙な音がもれるも致し方なしだろう。
「す、少しは気がすんだか」
殴り倒され、毛の三本も跳ね上げたレフが恐る恐ると確かめる。
「ず、ずっぎり、じだ」
「そ、そうか」
「……ず、ずっぎり、じだら、お、おながずいでぎだ」
宙を睨んで百々は返し、悪びれることなく言って豪快に鼻をすすり上げる。なら見ないフリだ。レフもひねった手首の時間を読んだ。
「十時半だ」
「海鮮、焼きぞば、食べる。キクラゲ、すき、だぁ、もん」
嗚咽の合間から言うそれは言葉じゃあない。が、このさいどうだっていいだろう。関わることなく携帯電話を抜き出しレフも、あと十五分でつくと店へ詫びを入れている。
「ジャズミン、ティー。マンゴー、プリン。プリン、プリン、食べる」
何のコンビネーションか、聞きながらいそいそ立ち上がると脱ぎ散らかしたパンプスを探す百々の挙動はそら恐ろしく、果てに店へ向かう準備は整っていた。
在りし日のごとく駆け込んだ店内、店主は嫌な顔一つ見せず待ち時間なしで料理を出すと、むしろ三日と来なければ心配するやもしれない面持ちで帰り際には百々へゴマ団子を握らせてくれている。
腹は重いが先ほどまでが嘘のように体は軽かった。己が単純、お気楽でよかったと百々は心底、感謝する。ついで改め、レフへ至って丁重に有難うございましたと頭を下げた。
そのさい返したレフの返事は曖昧で「む」だか「ん」だかよく分からない。だが早く忘れたい素振りこそあれ、滅多打ったことを根に持つ様子こそなさそうだった。
そんなレフと地下駐車場のエレベータ前で別れる。
鼻歌交じりで降りたオフィスに人気はなかったが、そっけなく感じられることこそなかった。
仮眠室のドアを開き、百々は今度こそしっかり鍵をかける。シャワーを浴び、誰の使い残しかシャンプーを失敬して髪も洗った。さっぱり爽快、バスタオルを巻きつけ、表の自動販売機で買ったペットボトルで喉を潤す。落ち着いたところでそうだった、とセカンドバックへ手を伸ばした。
携帯電話の確認はバービーの出現と花火大会の一件でなおざりのままだ。自宅は事後承諾の方がいいにしても「20世紀CINEMA」へは休む事を伝えておかなければならないだろう。事務所へ連絡をいれるべく液晶をのぞく。
瞬間、驚かされていた。
「へ?」
何しろ着信履歴にはメールが五十件。通話が二十八件。留守録が三件も溜まっているのである。無論、日頃、百々にそれほどまで連絡が入ることはない。恐れおののき目を通せば、そこに田所俊の名前に名前は連なっていた。
「なっ、何?」
とにもかくにも留守録だ。再生させた携帯電話を耳へあてがう。なら田所の声は息せき切って再生されていた。
「百々、お前、今、どこにいんだよ! 俺、お前がテレビに映ってんの見たぞ。あれ、どういうことだよ! っていうかなんでずっと出ないわけ。出られないような理由があるわけ。あのさ……言っとくけどな。枕投げとか俺は、俺はっ、絶対許さないからなぁっ! 死んでも許さないからなぁっ! とにかく早く連絡しろぉっ!」
言い放つだけ言い放つって録音は切れていた。余韻すらない。
ただ百々は脳天の毛を逆立てる。ついで完全にこと切れると気づけば頭からだ。携帯電話片手にベッドへ突き刺さっていた。その脳裏に滔々と流れるのは、どうして田所があの一瞬を目撃していたのか。なぜ枕投げの事を知っているのか。これで明日、シフトに穴を空けたなら一体どうなってしまうのか、の三点だ。
先ほどまでの至福感はどこへやら。だがその三点に関してはどうにもなりそうになくただ絞り出す。
「さっ、最悪らぁ……」
まさにそれは怒涛の一日に相応しい締めくくりと、違う意味で百々を深く静かに眠らせていった。
「百々さん、口にゴマ」
「ふえ?」
翌朝、七時五十分。
「わ、ほんとだ」
ハナに知らされ、百々は手さぐりでゴマ団子の名残を回収する。何しろ朝八時の集合は手ごわかった。「20世紀CINEMA」へは電話を入れたが田所へは決心はつかず、いつ眠ったのか記憶にないのだ。他にまだ誰も百合草の部屋へは現れていない。これ以上、被害が広がらぬうちにと、百々は笑って証拠を隠滅した。
直後、飛び込んできたおはようございます、の声はストラヴィンスキーのものである。さらに時間は迫るとハートが暑い、とドアをくぐり、やがて最後にレフが姿を現した。
とたん誰もの目はレフに釘付けとなっている。それもそのはずとレフが履いているのはグレーのデニムで、羽織るジャケットの中などミカンも裸足で逃げ出すオレンジ色のTシャツだった。昨日、発ったところで今日も来るのか、ミス、バービー。言葉が百々の脳裏に過ったことは言うまでもない。無論、誰も同じ思いだったなら、それら猛攻を避けるため定刻間際に入室してきたのだろうレフのタイミングこそ完璧だった。間を置かず柿渋デスクの脇でもドアは開く。奥から百合草は姿を現していた。
「早くから、ご苦労」
風切るような足取りで、オレンジだろうが花柄だろうが帳消しにできるだけの緊張感を部屋へ吹き込む。
「繰り返すまでもないが昨日、スタンリー・ブラック解放を要求するグループにより一日で緊急配備が二度、三件のテロが発生した。対処が立て込んだため個々の状況把握にばらつきが出ている。ここで現状の擦り合わせと今後の方針を定めておきたい」
ゴマどころか眠気の欠片すら張り付いていない目で一同を見回してゆく。
「ならわたしから。朗報だから安心して」
応えていち早く手を挙げたのはソファに埋まるハナだった。
「昨日の花火大会で一連の犯行グループは全員が検挙と判明。女性ライダー、彼女の家宅捜査で押収したパソコン内から連絡を取り合っていたメンバーのアドレスや当日のスケジュールが発見されてる。車椅子の少年もこれで全員捕まったって知って死ぬほど悔しがってた。つまり今朝の報道をきっかけに、また呼び出されるんじゃないかって心配はなくなったと思って」
すくめた肩でレフへと視線を投げ、続きを促す。
「ただしその中に支援者ロンの名はなかった。部屋にはつながりを示す物証もだ」
などと実行犯らの家宅捜査を担当していたのはレフだろう。言えば、いいえ、とストラヴィンスキーが指を立てていた。
「それはまだ、とつけ加えるべきですね」
確かに、とうなずき返してこうもレフは続けて言う。
「パソコンで行った通信履歴の洗い出しはこれからだ。確保した五人が爆発物を所持していた以上、必ずどこかに接触の痕跡はある。そのIPアドレスを辿ることで南アフリカの線が浮かび上がってくる可能性もだ。スカンジナビア・イーグルスについてはただの受け取り相手だ。それ以上は何も出てきていない」
「ならぼくからもひとつ」
聞き終えたところでストラヴィンスキーが改め切り出していた。
「ブライトシートの身元確認ですが、今のところ何ら浮上してきませんね。とはいえ今後のためにもリストはファイリング中。昼頃には渡会さんの方から転送されてくる予定です」
「じゃ、本当にもう安全なんだ……」
呟いたのは百々である。
「いや、ロンが支援する限りまた現れる可能性はある」
「ええぇ」
レフに刺されて肩を落としていた。
「フン。繰り返し、か」
こぼすハートへ視線を投げたのは、百々のみならずその場にいた全員だろう。浴びてハートは今一度、百合草を見やる。だがそれが何かを意味していたとして、百合草に答えて返す様子はなかった。おかげで諦めたらしい。
「フェンダーのギターに仕込まれたC4と手榴弾二発。昨日、ガキが腹に巻いていたC4。四点の解析結果を報告しておく」
ハートは組んだ腕のままで昨日の成果をつづり始める。
「防いで一日、走り回ったようだがな、四つとも作動はせん。信管のないものが二点。信管の作動しないものが二点。いずれも発火の構造が欠落していた。偶然だというヤツがいたらこの仕事は向いていない。今すぐ帰れ。いいか、これは故意だ。故意に爆発しないよう四つには細工が施されていた」
唖然とした空気はたちどころに流れていた。
「最後のC4もか」
百合草だけが確かめる。
返すハートのうなずきは重かった。
「待て。最後の、とはどいう意味だ」
などと、やり取りの真意にレフが気づかぬはずもない。
「それまでの分については知っていたのか?」
百合草へ確かめる。なにしろ海岸では最前線に立っていたのだ。聞かされてないとなれば重大な連絡ミスだろう。
そらみろ、と言わんばかり、ハートの指が組んだ腕を弾く。
答えて返さない百合草は握り合わせていた両手を解く間合いで落ち着け、とレフへ言いきかせた。
「不発の報告は受けていた。そこから花火大会会場の爆発物もまた作動しない可能性が高いと予測している。だがフタを開けるまでは五分五分だ。言ったところでお前ならタカをくくって賭けに出る可能性がある。ゆえに伝えることを控えた。でなければ百々は同行させない」
「う、そ」
声は百々の口からもれ、たまりかねたレフが立ち上がる。やめておけ、とすぐさまハートにアゴを振られていた。
「前科を作ったのは、お前だろうが」
到底納得してはいないだろうが、どうにかソファへ身を押し戻したレフの面持ちは険しい。目もくれず、ぶり返さぬうちにとハートは話を進めていた。
「いいか。重要なのは実行犯らがハリボテを握らされた意味だ。今までこんなことはなかったぞ」
などと問いかけに答えられる者などいない。
「……それは」
重みに部屋の空気が淀み始めたその時だった、ストラヴィンスキーがやおら切り出す。
「最初から僕たちを引っ掻き回すことが目的だったから、じゃないですか?」
指は眼鏡のブリッジを押し上げたきりで止まり、向けてハートも目玉を裏返す。
「そうならざるを得んな。事実、抱え過ぎで手が一杯だ」
「つまり陽動作戦です。それも三カ月も前から仕込まれた」
と、ブリッジを押さえ続けていた指はそこでふい、と浮き上がる。
「つまり、僕らが躍らされたのは SO WHAT じゃないんだ……」
その額は正面を、まさに空を捉えていた。
「その実、ロンに、ってワケですよ」
誰もへ振り返る。
「なかなか面白い見解だ」
顔へと返す百合草は、むしろその先を求めていた。だからして次に口を開いたのはレフとなる。
「その間にロンは裏で、何かを進めていた、ということか」
「何か、じゃないだろう。支援者ロンだ」
なら眠いな、とハートがすかさず訂正をかけてみせた。
「次の支援、いや次のテロ準備以外、何がある」
言葉は百々の胸に鮮烈と刺さる。
「だとすれば何を? 最低でも準備期間は三か月よ」
ハナが問いかけ、隣で忙しく揺らした視線をレフが百合草へと跳ね上げていた。
「オツから連絡は?」
なら思うところは同じらしい。百合草も立ち上がったそこから思案のままに、デスク前へと回り込んでゆく。
「今日、現地入りするはずだ。まだない」
「俺たちの動きは知られている。一人で嗅ぎまわるのは危ない」
確かに、とうなずく百合草はしかしながら、こうつづりもした。
「今回の出張はそもそも乙部の希望でもある。武器支援者の線で確かめたい人物がいるという申し出を受けていた」
「あれ? 土地に覚えがあるってことでチーフの抜擢じゃなかったんですか」
言うストラヴィンスキーに百々が驚く事があるとすれば、それはアフリカに馴染みがあるとかないとか、そこではないだろう。
「ここへ来る前、オツはアフリカの紛争地を中心に飛んでいた。人脈がある。だからだ」
「へっ?」
レフに教えられ、なおさら混乱に陥る。
「通称、ナイロン・デッカード」
百合草が口にしていた。
「アフリカを中心に活動している武器商人だ。この人物が支援者ロンと関わりを持っているのではないかと感じているらしい。切り出した以上、乙部も何らかを想定したうえで出向いていると思われる」
言い切る百合草には、しかしながら冴えたところがなかった。ままに優先すべき事項へ思考を切り替える。
「一連の案件が陽動作戦であることに間違いなければ、続く案件が起きない場合い、支援者はすでに隠れ蓑を必要としていない可能性が考えられる。すなわち進めていたテロの準備が整ったということだ」
それは降ってわいたような事態だった。
「突き止めるべく乙部の情報には期待したいところだが、無論、我々は我々で引き続き支援者の特定に当たる」
切り返す肩で再びデスク向こうへ回り込むと椅子へ腰かけた。
「ただし」
そうして前のめりとなった顔の前、組み合わされた手はおそらく百合草の中で巡る思考と符合している。
「五人を叩いたところでベガスの件同様、行き詰まることは予想するに容易い。なら我々は、どこから攻めるかだ」
一点を百合草は睨みつける。
とその時だった。
「いや」
レフが声を上げる。向けるまなざしでお前も聞いただろう、と百々を促してみせた。
「ノルウェイ・ノワールだ」
名前はしばし百々の記憶を辿らせ、やがて記憶は初老のロックスターへと辿り着く。
「そうだよっ! スカンジナビア・イーグルスのリーダーはノルウェイ・ノワールからギター受け取れって。じゃ、ノルウェイ・ノワールもロンにつながってるんだよ」
その通りだ、とうなずくレフの面持ちは、ただTシャツのオレンジ色を映しているだけかもしれなかった。だが珍しくもその目に熱がこもるのを、百々はそのとき確かに見て取る。
「手引きした麻薬組織はロンと繋がっている可能性がある。俺たちにはその線がある」
直後にも決定したのはノルウェー行きだった。だが問題は、その準備が整うかどうかの方だろう。
スカンジナビア・イーグルスメンバーは、明日、朝九時二十五分発の機で送還される。同行するに越したことはなく、書類上のことだとしても手続きにオペレーターたちの慌ただしさは連続テロの事後処理に加え、直後より増すこととなる。
任せて百々たちも時間を惜しむと、台車を使って過去の事件ファイルを運び出し、三十冊余りのそれらをオペレーティングルームの傍ら、丸テーブルの上へと積み上げていった。
果たして新しく上がった名前、ノルウェイ・ノワールがいつから支援者と、いわば SO WHAT とかかわりを持ち始めたのか。過去の案件から辿れはしないかと地道な作業は始められる。
さて、この作業に対する百々の気合いはといえば結構なものだろう。なぜならノルウェー行きの件に関して当然のことながら、百々ははずされていた。だとして言い渡された百々に移送車警護からはずされた時のような抗議はない。それもまた大事なチームを守る。階段室で追いかけ回されたあの時の言葉は印象深い。
「けっこう量、あるね」
「ぼくたちと SO WHAT のお付き合いの経歴ですね」
たたんだ台車を壁際にもたせ掛けたストラヴィンスキーが、いつもの笑みを浮かべる。その隣で曽我が、プリンターから吐き出されたばかりの生暖かい用紙をつまみ上げていた。
「やっぱり。SO WHAT に絡むだけのことはあるわね。欧州随一の麻薬組織、ノルウェイ・ノワールは一帯で広域手配の指定を受けてる。向こうで資料が共有されているなら、こっちも入手可能かも」
用紙を指で弾くと足早にオペレーティングルームから出ていった。
「あっちの資料がそろうまでに、こっちはファイルへ目を通すぞ。時間がないからな。ちまちま見るな。要領よくやれ」
見送ったハートが椅子へ腰を落とす。
「イエッサー」
答えてストラヴィンスキーも腕まくりすると、レフもその真向かいからファイルを一冊、掴み上げた。並んで百々も山の中からよっこいせ、で適当なものを引き寄せる。
「あたし、こういうのが苦手だから捜査職を希望したんだけれど」
こぼしたのはそんな百々とストラヴンキスキーの間で長い髪をまとめたハナだ。
「えー、そうなんですか」
ラスベガスの一件で慣れた百々にとっては、意外でもあった。
「言うな。外回りのヤツはたいがいがそうだ」
えい、と言わんばかりにファイルを開いたハナをハートはいさめる。なるほど証明して直後より、誰もの間に沈黙は訪れた。
「そういえばお前はこの後、射撃研修でマンターゲットでもやるのか」
破り、投げたのはハートだ。言わんとしていることは百々にも、すぐにレフのTシャツだと知れる。
「着替えようと思えば袋にこれしか入っていなかっただけだ。俺が選んだわけじゃない」
返すレフへ、ふーん、と百々は鼻を鳴らした。鳴らして誰が選んだのか、過ったところで、どちらがついでかファイルの添付写真ごしにレフを盗み見るハートが言うのを耳にする。
「昨日、ここまで来たらしいな。この色付き男が。これで少しは命が惜しくなったか」
「あ、バービーさんだ……」
などとその情報がもれるとした、らひとところしかないだろう。資料を読んでいたレフの目はすぐさまストラヴィンスキーへと裏返される。だとして手を振り返すストラヴィンスキーはツワモノだった。
「へー。新品そうなのにサイズぴったり。すごいね。あたし、タドコロの足の長さなんて知らないよ」
無論、言う百々に悪意はない。
「退院する時、タキシードしかないと言えば、買ってくると言い出した。俺がその時、教えている」
弁解するレフの口調はいつになく早い。続けさまハートへも放ってみせた。
「あんたこそ四人目が生まれたんだろう。命が惜しいなら職場を変えた方がいいんじゃないのか」
「よっ、四人目っ?」
思わず百々は伸び上がる。
「そうだ! これがアメリカから帰れば一人、増えていた!」
「えー、すごーい! 知りませんでしたぁっ。遅くなっちゃいましたけど、おめでとうございまーすっ」
なんのなんの、と浮かべるハートの笑みは、これまで見たことのないものだ。眺めて百々は手を叩き、お決まりの台詞もまたそこで投げていた。
「で、男の子なんですか? 女の子なんですか?」
「男だ」
胸を張るハートは誇らしげである。
「これが俺に似て可愛い!」
いや、似ていたら可愛くないのでは。
「一番上が十歳かしら。男、男、女。みんなハートのミニチュアみたいで、お人形さんみたいなのよ」
ハナに教えられるまま想像すれば、なぜだか全員がタンクトップだ。
「へ、へぇ。会ってみたいなぁっ」
それこそ真実を確かめるために。
「ガキはいいぞ。仕事に張り合いが出る!」
ともあれ謳うハートの声は高い。頭上に浮かぶ我が子へバイバイすると、心置きなくレフへこうも放った。
「お前も早く作れ」
そのあと続く豪快な笑いに遠慮はない。乗じてストラヴィンスキーも向かいで人差し指を立てる。
「式の日取りが決まったら、早めに教えておいてくださいよ。余興のジャグリング、練習しておきたいので」
「でもレフの友人って、きっとあたしのタイプじゃなさそうなのよねぇ」
空を仰いでハナも思案してみせた。目にして百々は吹きだしそうになり、ままにレフへと振り返る。
「だって。楽しみだ……」
だが死んでも「ね」とは言い切れなくなる。目にしたレフの横顔に急速冷凍。縮み上がると、ひたすら資料へかじりついた。直後、レフの手元で乱暴と資料のページがめくられたなら、かみ殺したような笑いは方々からもれ出す。かしこまったように途絶えたところで今度こそ沈黙は訪れていた。おかげで作業効率が向上したところで何ら有益な情報は上がってこず、正午は近づき、やがて腹の虫だけが景気よさげと騒ぎ始める。
「来たわよ!」
声はそこで投げ込まれていた。曽我だ。オペレーションルームへ戻ってきたその手には一枚の紙が握られており、言葉より先、半分ほどに減ったファイルの山へと叩きつけた。誰もが腰を浮き上がらせる。写る異国の風景をのぞき込んでいった。目にした最初の印象は、デコラティブな窓の埋め込まれたアパートがカラフルで可愛らしい、だろうか。電線のない空も印象的で、そんな紙面を奥へ伸びる街並みはひどく間延びして見えた。それはのどかを通り越すと見る者へ侘しさを訴えかけるほどで、カラフルだった窓も急に空騒ぎへと変わる。街並み沿いに生える街路樹、その一本、一本へ孤独感すらまといつかせた。なるほどそれもこれも季節が冬だからか。石畳の隅に積もる雪が確認できる。曖昧なわけは、そのどれにもピントが合っていないからだった。くっきりと、全てから浮きあがって背にした人物だけが歩いている。
「その男がノルウェイ・ノワール」
決定づけて曽我は言った。
寄り集まった頭は揺れて、もう半歩、輪を縮める。ただレフだけが、そこから抜けて曽我へ振り返っていた。
「組織の名前じゃないのか?」
「これは第一便。詳しい資料は追って転送されてくる。けれど概要によれば組織は北欧を中心に長いあいだ活動を続けていて、組織の呼び名も何度か変わっている。名前は、そのとき中心にいる人物の名前で呼ばれているそうよ。つまりノルウェイ・ノワールという名前は今、仕切るこの男の名前であり同時に組織の名前ってこと」
腰に手をあてがい話す曽我は、堂々としている。
「物騒なわりに、きれいな顔」
やおらハナがこぼす。
確かに、彫の深い顔立ちは無個性なほどと整い、額にかかるほど長めに整えられたプラチナブロンドの髪と合わせて見たなら、組織の中心人物よりモデルの方が似合っていそうなほどだった。
なら褒めてどうすると、ハートがすぐさま突き返してみせる。
「それは人殺しの顔だ」
「あたしより、ちょっと上かな。若そう」
無論、百々にそんな顔と凡人の顔の区別がつくはずもなく、呟いてた。ならストラヴィンスキーがその見解へ首をかしげる。
「ぼくには、そうでもないように見えますけど」
などと意見は誰一人として噛み合わず、それほどまでにナニか、ドコか、風貌には存在感が欠けて見えた。ゆえに正体不明の文字はピタリ当てはまると、誰もに妙な胸騒ぎを抱かせる。
「どっちでもかまわん」
迷走を、ハートがばっさり切り捨て言った。
「今どきの若造か。お前より白い野郎だな。気に食わん顔だ。何を考えているのかが読めん」
言って、なんら返してこないレフを一瞥した。レフに答える様子がなかったなら、つまらん奴だと話を切り上げ時計を仰ぐ。
「なんだもう一時を過ぎているのか」
昼飯が先だ、とそれきりハートはテーブルを離れていった。情報漏えいのせいだ。見て取り、割引中華が望めないストラヴィンスキーもキリがいいので、と追いかけてゆく。見送ればそもそも苦手な作業をそうも頑張る気にはなれないらしい。ハナも束ねていた髪をほどくと立ち上がっていた。
「じゃ、わたしも」
だがそのどれにもレフは反応しない。気づけばテーブルには百々とレフ、そして曽我だけが残っていた。その中、ようやく動いたレフの手は、ファイルの上から写真をつまみあげる。
「借りてもいいか?」
眺めながら曽我へ確めた。
「構わないけれど。どうして?」
だが食い入るように写真を見つめるレフには聞こえていない様子だ。
「食うなら先に行って来い。俺はまだしばらく残る」
ただ百々を促した。横顔はそれこそテコでも動きそうになく、素直に百々も読みさしの資料を伏せる。
「なにか食堂から持って来てあげようか?」
問いかけるがそれもまた、レフには届いていないようだった。
揚げ出し豆腐、キノコあんかけ丼。
百々の選んだ昼食だ。
ペロリたいらげ、先行くハートらに連なり通路へ出る。たいして行くあてもないオフィスならその後、三人は再びオペレーティングルームへ戻る者、気分転換、地上へ出る者と道を違えた。百々も借りたままの仮眠室へと足を向ける。何しろ朝のミーティングから流れはノンストップで、ついぞ機会を逃していた。だからしてこれ以上、放ってはおけまい。「揚げ出し豆腐キノコあんかけ丼」を頬張りながらようやく田所に連絡を入れる決心もつけたところであった。
ドアを開け、机に投げ出したままのセカンドバックへ目をやる。なぜかしら深呼吸して取り出した携帯電話の電池は、もうずいぶん消耗してしまっていた。確かめたところありえない数の着信件数は昨日きりのようで、一件のみ田所からの留守録だけが追加されている。
胸にあるはずの鼓動はいつからか鼓膜の内側で鳴っていた。
聞きながら百々は留守録の再生を試みる。
昨日と違い、しばし流れる無音に果たして田所はいつ話し出すのか。息を飲んだところでうって変わってひどく落ち着いた声を耳にしていた。
表は日が傾き始めているに違いない。資料の全てはそこで目を通し終えていた。だが支援者ロンの存在はおろか、ノルウェイ・ノワールらしき何某の影に、それぞれを繋ぐ第三者の介入さえ見つからない。
並行して送られてきた組織関係の資料もそこで端末への配信が完了となり、広域手配がかけられているため日頃から隣接する諸外国より捜査協力を求められることが多いのやもしれない、ノルウェー当局とのやりとりもまとまる。
多方面へ引き継いだとはいえ、しばし日本を離れるための残務整理とそれなりの身支度は必須だ。収穫のなかった疲れを引きずり、それぞれオフィスを離れてゆく。ノルウェー行きからはずされた百々もまた、二日ぶりに自宅へ戻るべくオフィスでの後始末にとりかかった。
そうして眠る久方ぶりの自宅のベッドが心地よいものになるかどうかは、帰りに立ち寄る「20世紀CINEMA」で決まるだろう。なぜなら恐る恐る耳を傾けた留守録へ田所は、アルバイトが終わった後「20世紀CINEMA」で待っているから、とだけ吹き込んでいたのだった。
業務終了後、着替えの時間を考慮すれば六時あたりが適当か。かまえるほどに百々の脳裏を今朝、休んだ事実は過ってゆき、田所の至極冷静な口調が背を一滴の汗となって流れ落ちてゆく。
ひと山越えたオペレーションルームは今や落ち着いてた。中に見つけた曽我へ仮眠室の鍵を返し、世話をかけたあれやこれやへ礼を言って百々は頭を下げる。百合草にも挨拶しておかねば、と所在を尋ね、不在であることを知らされていた。急遽、決まった、いや決めたノルウェー入りの件である。おそらく込みで上へ色々と報告しなければならないことがあるのだろう。ここではトップの百合草だが、組織全体を見回せば中間管理職となる労を心の中でねぎらってみる。
ままに食堂の自販機へ足を向けたのは、本日最大の局面にそなえ飲み物の一つでも買っておこうと考えたからで、食事時をはずした食堂は通路に漏れる光からして利用者の気配も、調理する者の気配すら感じ取れず活気がなかった。
もうただの休憩室だ。足を踏み入れ、オレンジ色の派手な壁を目にする。まだオフィスを出ていなかったらしい。ジャケットを脱ぐと背負ったホルターもあらわに、背を向け座り込むレフの姿はあった。足音で人が入って来たことは気づいているだろうに、だからといってそんなレフに確かめ動くような様子はない。
横目に百々はひとまず己の目的を果たす。ミルクティーを自動販売機の取り出し口から拾い上げ、レフの前へと回り込んでいった。
長机の前で足を組んだレフはジーンズのポケットへ両手をかけると、珍しくもだるそうに椅子へ浅く腰かけている。視線の先にはバービーのホットラインと、曽我から奪ったノルウェイ・ノワールの写真が供物のように並べ置かれていた。見下ろす目はいわずもがな初めて目にした時から飽きもせずじっ、と写真だけを睨みつけてる。
「やだなぁ。そればっかり見てたらバービーさんの顔、忘れちゃうよ」
百々は向いへ腰を下ろした。挨拶にしては不躾だと思わざるを得なかったが、光景を前にしたなら黙っている方が難しく、また明日、と言えない出張も控えている。
だがレフが顔を上げることはなかった。そのうち写真が浮かび上がるか、燃え出すのではなかろうか。あまりの集中力につられて百々ものぞき込む。何度見てもザッツ外国人が無個性なその顔から何を読み取ろうとしているのか、考えてみた。考えながらペットボトルのキャップをひねる。一口、ミルクティーを口に含んだ。
瞬間、レフはボソリ、言う。
「……俺はこいつを知っている」
あやうく誤飲しかけた体が、前のめりになっていた。押し止めて百々は、そのまま長机の上を這うとレフへ詰め寄る。
「そっ、それ、早く言わなきゃダメじゃんっ!」
だが、だからこそこうして睨み合っているのだと、レフは眉ひとつ動かさない。
「確かなことは以前、会っているということだけだ。だがそれがいつ、どこでだったのかが思い出せない。話しもしたはずだ。しかし何を話したのか、声も場所も思い出せない。報告のしようがない」
「な、に、それ?」
長机の半分以上を占領したところで、百々の体は固まっていた。解いて慎重を期し、レフの話をまとめにかかる。
「それって、つまり、さ……」
「気のせいじゃない。どこかで会った。間違いない」
ぴしゃり、遮られていた。
なるほど。レフの記憶力の良さは嫌というほど思い知らされている。そのレフがそこまで言うのだ。とにもかくにも百々はペットボトルのキャップを閉めた。これほどの重要事項などほかにはない。是が非でも思い出させるべく、疑っていた気持ちを入れ替えにかかった。むしろ悪いのはこの整い過ぎて覚えづらい顔なのだ。因縁さえつけて技の伝授にレフへと唇を尖らせる。
「そういう場合はさ、すっかり忘れたフリするんだよ、レフ。忘れたフリ。全然違うことして記憶にフェイントかけるやり方。そうしたらお風呂入ってる時とか、トイレ行った時とか、目が覚めた瞬間とか、ふっと思い出したりするんだよね」
レフの顔はそこでようやく持ち上がる。百々はその顔へ、間違いなしと熱いまなざしを注ぎこんだ。だがレフが答えることはない。再び写真へ視線を落とす。
「ここを発つのは明日だ。余計なことをしている時間はない」
「あぁ、そっか」
大きくのけぞった。どうしたものかと考え、再び前のめりとなり声をひそめる。
「もしかしてレフが会ってるってことは、あたしも会ってる? ならアメリカで? それとももっとずっと前? まさかロシアで? うーん、レフが話すくらいだから中華のお店とか。ええっ! もしかして地上げ屋ぁっ?」
それはない。気づけ、百々。こんな地上げ屋こそ日本にいない。
「うるさい。お前は邪魔しに来たのか」
「わ、協力しようとしてるのに」
いや、あなたは引っ掻き回しに来ただけです。
と、並べ置かれていた携帯電話だ。呼び出し音は鳴っていた。視線は集まり、百々はそうだと思い出す。今度こそミルクティーを堪能する時がきた。キャップを回してラッパ飲む。ままに外の風景を眺められる窓はあったろうか。食堂の中を探すフリで振り返った。
逸れた視線にレフも携帯電話を耳へ押し当てる。たがわず百々へと背を向けた。
ならば味は二の次となる。今度こそ何か話すに違いない。百々の耳は期待に任せてダンボほども大きくなり、だがまたもやレフはうんともすんとも言わずテーブルへと携帯電話を戻していた。
見つけることの出来なかった窓をそれでも探しながら百々は、正面へ向きなおる。そこですでに腕組みまでして写真を睨むレフと再び対峙した。
確かに仕事は大事な局面にきているだろう。だがここでバービーに愛想をつかれてしまえば、おそらくこの相方が次に彼女と呼べるような存在を捕まえることこそテロ支援者を捕まえるより難しいとしか思えなかった。だからして我慢がならない。百々は自分が丸一日、電話口にでなかったことを棚の一番高い段に上げる。かつ、この後の修羅場を遠く脇へ押しやり、言って聞かせる意を固めた。
「あのさ、せっかく電話してきてくれてるんだからさ、なんか言ってあげた方がいいと思うよ。いくらバービーさんでもそのうち怒り出しちゃうよ」
が、切り返すレフにスキはない。
「電話は俺が持たせた。何か起きてからでは遅い。仕事の前後、連絡を入れるよう指示を出している。今がそうだ」
「でっ。そ、そうなの?」
「だが通話も安心できるとは言えない。無駄なことは話さない」
徹底している。思わざるを得なくなっていた。つまるところ色々対処できるのも罪だと痛感させらる。それほどまでに脅かされているのだと知れば、百々は気難しげなレフの顔を複雑な気持ちでただ見つめた。そして事態に、レフならなおさら神経質になって当然だと過ぎた事件もまた思い出す。
テロで近しい人を失うなど、一度で十分だ。
「そっか」
と、携帯電話は再び鳴る。
「おぉう、噂をすれば影」
言うもレフは目もくれない。
「鳴ってるよ」
これまたいらぬお世話で投げかけてみる。
「鳴ってるってば」
「放っていい。後で保健所の画像を送ると言っていた」
瞬間、百々の杞憂こそ吹き飛んでいた。なにしろその画像、誰が四角四面のビルだけを写して送りつけるものか。湿気たレフの顔めがけ指を突きつける。
「ああっ、それバービーさんが映ってるんだよ」
握りしめた拳を振りに振った。
「見たい、見たいっ! 今すぐ見たいっ! ほらほら、さっきのやつ実行だよ。白衣の天使みて忘れたフリ。ほら、素敵な彼女。目の保養。ラッキー! 充電。そしたら思い出せるって。だから今、見よう」
あやし、そそのかす様こそ全力投球だ。だがレフは、費やした努力をたった一言で無にかえす。
「そうか」
さすがに百々もむっ、と頬を膨らませた。どうにか気をとりなおせたのは埒があかないなら、と開きなおれたせいだ。
「えとこれ、どれがメールボタン? 日本のじゃないから分かりにくいよ。適当に押していい?」
自ら携帯電話へ手を伸ばす。その指がボタンへ触れるか否かのところでレフに毟り取られていた。
果てに食らう、ひと睨み。だとして目的が達成されるなら大したことではないだろう。むしろ笑って返す。目じりに捉えたレフの、指がついに並ぶボタンを二つ三つと押し込み始めた。
「好きなだけ見ろ」
エサをくれてやるかのごとくだ。テーブルへと携帯電話を投げ出す。もろ手を挙げて百々は、そんな電話へ飛びついた。
「わーわー。ホントだ。アフリカだ。地面が赤いよ。空の色が違う。建物がすん、ごくボロい……」
送信されてきた画像は十枚近くあるようだ。原色の布をまとったハートも顔負けの真っ黒い顔の人々や、黄色くくもった窓が衛生的とは程遠い保健所らしき建物に、地平線が横たわるだけの一枚等々、なかなかカルチャーショックな映像が送られていていた。経てようやくお会いしたばかりのブロンド美人は登場する。自分で自分を撮影したに違いない。百々なら間抜け面をさらしているだろう角度にもかかわらず残念の欠片もないバービーは現れて、わたしは元気でやっています、と言わんばかりの笑みをこちらへ向けていた。
「レフ。ほら、ほらってば。そっちよりこっちだよ」
片手で写真を繰りつつ、手招く。
「ほら。さぁ、やっぱり美人のままだよ」
「どういう意味だ」
しつこさにレフもついに渋々顔を上げていた。
だというのに百々は、握った携帯電話を譲れなくなる。
それは何とも言えない違和感だった。
おかげで何度も瞬く。
ままに確かめたのは最後の画像、数枚だった。行ったり来たりするうちに振っていた手も止まってしまう。
「どうした?」
気づかぬはずもない。レフも投げかけていた。
「だってさ」
百々は返す。何しろレフの曖昧な記憶とでは比べ物にならないのだ。それは百々にとってひどく鮮明な記憶だった。忘れもしない。いや、出来やしない出来事として残る最高で最低の一日。「20世紀CINEMA」で行われた「バスボム」試写会は、今でも一部始終を事細かに思い出すことが出来ていた。
その日、スタンリー・ブラック監督は数名を引き連れ「20世紀CINEMA」へ現れると、彼女はその中にいた。送信された画像の中で赤毛の女性通訳は、あらぬ方向を見つめバービーの背後に写り込んでいる。
「あたし、この人知ってる」
レフへ携帯電話を差し出した。言い出すのか、と言わんばかりそんな百々を何をレフは一瞥する。おっつけ画面をのぞきこんだ。
「榊の移送警護で知らないいだろうけどさ、あの日、ウチでバスボムの試写会があったじゃん。あの時、監督と一緒に日本人の友達と通訳さんと、ツアーコンダクターの人が来たんだよね。これ、その時の通訳の人だよ」
バービーの左肩、壁を背に視線を逸らして立つ赤毛の彼女は、腰から上を画像におさめていた。顔も人を見分ける大きな手がかりだが、体型というものも案外、確かな判別基準といえよう。彼女とは幾つかやり取りを交わしたこともある百々だ。自信はあった。間違いない、と説明する。
「びっくりした。通訳で来たのかな」
「貸せ」
言うよりも手の方が早い。レフは百々から携帯電話を奪い取る。あれほど後でいいと言っていた画像へ手早く目を通していった。
のちに何をや考え込んでその目は重く沈みこみ、決断したかのようにレフはひとつ、ボタンを押し込む。耳へ携帯電話をあてがった。
コールにバービーが出るまではまだしばらくかかりそうだ。待つレフの目は落ち着きがない。
「もしかして監督と一緒にいた、ってことだけで疑ってる?」
読み取り百々は眉をひそめた。
「偶然だと信じる理由は何だ」
薄い色の瞳は百々をとらえ、百々の耳に、ならこの仕事には向いていない、と言うハートの声は蘇ってくる。
「でもさ、監督の事務所から来てる専属の人だって聞いたよ。飲み物の手配、間違えた時も、監督、スタッフの手違いでしたって謝ってくれてたし」
それが何の確証になるのか、言っていて自分でもよく分からない。
「そのことは知っている。襲撃と同日の来日は疑われていた。この女も事情聴取は受けているはずだ。資料を確かめれば出て来る。いいか、スタンリー・ブラックを解放できない理由は他にもある」
そうして知らされた話はこうだ。
「スタンリー・ブラックの取り調べは一週間も行われていない。彼は今、精神科の患者だ。介護と監視がなければ生活ができない。おかげで取り調べは細部が不明なまま終了した。代わりに俺たちが奔走することになりアメリカでの滞在は長引いた」
そこでひとつ、声のトーンは落とされていた。
「女が向こうでどう名乗っているのか確かめる。通訳以外なら」
瞬間、電話はつながったらしい。レフは視線を跳ね上げていた。
都市ハボローネはアフリカ大陸南部、ボツワナ共和国の首都である。国土の八割はカラハリ砂漠に覆われ自然が豊かだ。だが首都ハボローネには野生動物もいなければ砂漠に湿地帯もありはしなかった。古くよりダイヤモンドの輸出で発展を遂げると、スタジアムや病院を、大学に公園を、ショッピングセンターに銀行を点在させた街は、いわゆる近代都市だった。見渡したとき街並がどこか閑散として見えたとして、それは土地が有り余っているためで田舎などではない。
しこうしてサファリを求める観光客の大半は、南アフリカ共和国のヨハネスブルグより別の航路をとる。日本を発っておよそ三十時間。乙部はといえばここハボローネの外れ、国際空港セレツェ・カーマへ降り立っていた。
現地時刻、午前六時四十二分。
吸い込んだだけで空気の乾燥具合が分かる。吐き出す息は白く目の前に広がり、機内で羽織ったフライトジャケットのジッパーを上げた。そんな寒さのおかげか空は呆れかえるほど澄んでいる。これから始まろうとする一日を荘厳な儀式さながら迎えて、隅から隅までを心地よいほどの朝焼けに燃え上らせていた。
だが長旅のせいで同乗していた客の中からはやれやれ、という声が聞こえてこなくもない。確かにアフリカは遠い。ここで乙部が仕事にあぶれることがなかったように、空路は日本のバスや電車感覚で使われるほどだ。その疲れも通過儀礼ととうの昔に慣れ親しんでいたなら、乙部はただ帰ってきたらしいことだけを実感した。
スポーツバッグを肩にタラップを降り、空港施設まで自らの足で移動する。前を行く観光客にならい、機から運び出されてきたトランクを拾い上げると入国手続きを済ませた。
確かめた時刻は七時半。
午後、予定では地元の警察へ顔を出すことになっている。一息入れるに時間は十分あり、ホテルへ向かうべく迷いようのない簡素な空港を後にした。
暗いうちは昼以上に治安の保証がないのがこの辺りだ。もう少し時間が早ければ捕まえることが難しかったろうタクシーをロータリーに見つけ、その窓ガラスをノックして、ウェルカム、トゥ、ボツワナ、と迎え入れられる。だがそれ以上、コミュニケーションを望めそうにないと思うのは発音のせいだろう。植民地時代の名残と英語が公用語採用されていようと、母語のセツワナ語が強いここで話せる者は半分にも満たない。そして乙部にセツワナ語を話せ、というのもまた無理なハナシだった。ただ微笑み返してホテルの名を告げる。
見上げればいつしか空は焼き尽くされた後と、そこに鎮静の色を広げていた。気まぐれとしか思えない間合いで遠く高く雲は浮かび、タクシーは都心部と空港をつなぐエアポートロードを一直線と街へ向かう。
豪快に飛ばすドライバーの運転は危なげだったが、この辺りには信号がないのだから杞憂だろう。おかげでタクシーは五分と経たないうちに増えた建物の中へ潜り込んでいった。あっという間に直線的な造りがモダンなビジネスホテル「モアパーレ」の前でブレーキを踏む。
当然ながら辺りは黒人ばかりだ。自分も有色人種だというのにここでは異質だと感じざるを得ない。
メーターの金額へチップを上乗せしタクシーを降りた。安直なもので気温はもうフライトジャケットが必要ないほど温んでいる。脱げば荷物になると羽織ったままでホテルのドアを押し開けた。頭上で緩やかにファンを回すフロントはこじんまりとしている。自身のデスクかと占領するホテルマンを相手にチェックインをすませ、エレベータで四階の部屋へ向かった。
部屋はありきたりなシングルルームだったが、小ぎれいに整えられているせいでか実際より広く見えて悪くない。いかにもアフリカを演出したアースカラーの寝具、植物で編んだレイが枕元には飾られると、砂漠をモチーフにしたタペストリーが絵画の代わりに一枚、吊られていた。臭いはこもっていない。むしろ部屋にはどこか懐かしい土の匂いがしている。
エアコンはフライトジャケットさえ脱げばちょうどで必要なかった。ソファへ投げ出し、さして量のない荷物を解いて変圧機を端末へつなぐ。ボツワナ共和国と日本の時差はプラス七時間だ。日本は今頃、昼食に膨れた腹のせいで眠くなっている頃だろう。到着を知らせて一報、入れる前に、移動中にも送られていたファイルへと目を通していった。ノルウェー行きの決定や、ロンと SO WHAT の仲介者の存在、その顔写真を確認してゆく。
失笑していた。
何しろ見てきたとおりボツワナ共和国はいくつかの部族からなる黒人社会だ。混じればアルビノよろしく際立つ写真の男は、隠れて活動するに不向きとしか言いようのない白さだった。その人物がここでロンと共謀し、何かしらか動き回っていたとしてずいぶんな秘密工作だと考える。いや、だとすれば仕事はずいぶん早く終わることになるのかもしれない。巡らせながら乙部はオフィスへ通話をつなげた。
「到着した。資料へ目を通したところだ。忙しそうでなによりだね」
官公庁の建築物群は、グレーの外壁に朝日を鋭く反射させすでに揺らめいて見えている。次に出かける頃は羽織れるものさえ持っていれば半袖で充分だろう。考えながら、オペレーターに代わり百合草が電話口へ出るのを待った。
大陸は広く、そんなボツワナ共和国から離れること直線距離でおよそ五千キロ。西アフリカ、コートジボワール共和国は国土を広げていた。
進行中のアウトブレイクを監視する保健所施設は、コートジボワール北部の町、コロゴからさらに数十キロ離れた集落に臨時で設営されている。
朝、八時半。
バーバラ・ウィンストンことバービーは、画像を送り終えた携帯電話をカバンへしまい込んでいた。保健所施設内、迫る時間に先行く同僚たちから遅れまじと二棟建つ保健所の建物と建物をつなぐ廊下を急ぐ。
一帯は湿潤期に入っているためか、慣れない湿気でとにかく蒸し暑かった。時折、バケツをひっくり返したような雨が降ると聞いているが、現地に入ってまだその光景には出くわしていない。いっそまとわりつくようなこの空気もろとも豪快な雨で洗い流してくれたらいいのに。思うが自然はウィルスも含め人が思うように動いてくれないようでただ持て余す。
そんなウィルスが蔓延する問題の地区は、ここからさらに数キロ西へ向かった場所に隔離されていた。人口五千ほどの小さな町で、最初の症例から三カ月経った今では、町への出入りすら厳しく管理されている。入るためには検問を越えねばならず、そのための最終ガイダンスとカンファレンスが今日、一日のバービーの仕事になっていた。
つまりバービーたちは処置や拡散防止に加え、ワクチン開発に必要なウィルスの取り扱いが主な仕事の二次隊だ。それは何もかもが不明な先発隊と違い、隔離地区の運用も確立された、いくらも安全なポジションだと言えた。だとしても感染すればおよそ二週間の潜伏期間を経て発症し、臓器へ際限のない炎症で死に至らしめるウィルスが相手である。感染も飛沫等と気が抜けず、その死亡率もいまだ五十五パーセントを切る事はなかった。決して侮っていいような相手ではなく、だからこそここへ来た。エキスパートであるという自負を思い出し、大丈夫、と自らへ声をかける。到底ガラスなどはめ込めそうもない歪んだ窓へ視線を投げた。
と、携帯電話の着信音は鳴る。しかも鳴ったのは通話着信用に設定したメロディーだった。区別したのは彼がメールしか送ってこないからで、だからしてこれまで一度も鳴ったことのないそれは音楽でもあった。
至極単純に何かあったのだと思う。不思議なほどそれがいい方へ想像できないことに違和感はなかった。立ち止まれば同僚たちが遠のいてゆく。一人、廊下で鳴り続ける携帯電話を掴み上げていた。止まらない胸騒ぎと共に耳へあてがう。
そもそも声の主、彼、レフ・アーベンは最初からあまり平穏な生活を送っている様子がなかった。出会いがしらからして、二枚も胸に鉄板を仕込んでいる意味がバービーには全く理解できていない。それはまるで撃たれることが前提であり、現実、弾は見事、心臓の上、第二、第三胸骨を砕いていたのだから、当時は自分から当りに行ったのかしらんと正気を疑ったほどだった。
直後カルテから彼が警察関係者であることを読み取っている。だがその警察が誰もよく知る警察かと問えば明らかにバービーの中に疑問は残った。何者かと怪しみ観察したのは、看護時の接し方や同室の患者へ配慮するための業務上のものだ。けれどそれ以外、ごく単純な個人的興味も混じっていたことを今なら明かしてもいいと思う。
人に説明できる彼についての最初は、とんでもない注射嫌いだという点だろう。いい大人があれほど拒むのを見たのは久しぶりで、その抵抗はとにかくすさまじかった。無理にでも打てば次の日、憤慨して帰ると言い出し、その時ばかりはあきれてこちらも彼以上、憤慨して引き止めている。どうにか入院することを承知したのはドクターに死ぬかもしれませんよ、と脅されたからで、それでも納得ゆかずむすっ、とした面持ちの彼はただの困った人でしかなかった。
それは、その次の日だったろうか。
夜、検温に向かった先でバービーは、何をや映画を見て号泣する彼の姿に遭遇している。あからさまにうろたえ取り繕ったのはそれしか知らないしかめっ面だったが、一部始終は不憫に見えるほどサマになっていなかった。見ていた物を隠す動きも怪我のせいで滑稽なほど間に合っておらず、おかげで垣間見ることのできたポータブルプレイヤーの画面に舞い飛ぶ綿毛と戯れる小熊が映っていることを、傍らに置かれたケースに「小熊のチェブ」と言うタイトルが書き込まれていることを、バービーはしっかり見て取っている。
映画を観て泣くような人なのだと知ったことも意外だったが、正体不明の気難しげな男をそうまで泣かせているのが小熊だったと知った時は、一体どんな内容の映画かしらんと心底、不思議に思ったものだ。
その日は夜更かしはほどほどに、と言っただけで病室を後にしている。あとで取りに来るからと知らぬ顔で預けた体温計も、他の看護師に取りに行ってもらっていた。
夜勤明けの翌日は昼間の勤務が入らないルールだ。昨日の夜の様子をナースステーションで語ればそうでなくとも噂の人物である。話は電光石火で広がるはずだった。だがバービーは一件を胸の内におさめ、ただ帰り道、真相を確かめるべくレンタルショップへ寄ると店員の手をわずらわせてまで探し、彼が見ていたのと同じ「小熊のチェブ」をレンタルしている。
帰ってすぐ、二、三時間の睡眠を取った。
目が覚めたなら、チップス片手にそこまで言わしめる映画と対峙する。
九十分後にはチップスではなく、ティシュの箱を抱きかかえていた。
それは透明が過ぎて、何もない物語だった。だがその淡々とした美しさに惹かれ、癒されもする。癒されて、そこにある無の世界と住まう者へ思いを馳せると、とてつもない悲しみと切なさに襲われた。
看護師なら人の最期を看取ることもある。バービーはその透明が過ぎる無の世界に、そのとき感じる死を連想し、誰かへの哀悼の意が込められているのかと想像した。すぐにも視点はもっと身近だと思いなおし、スタンリー・ブラックが自身を葬っているのかとも深読みしている。
しかしこの監督を知ったのはこれが初めてだった。詳しいことは分からない。そうしてもしかすると彼なら何か知っているのかもしれないと思い当たり、知らなくとも彼がどういう思いでこの作品を見ていたのか確かめてみたいと思うようになった。
仕事と注射嫌いを除けば彼はごく普通の男性だ。ただチャイニーズフードがやたらに好きで、少しばかり羞恥心が強いだけに過ぎない。おかげで人前では感情をあらわにしたがらず、無愛想に見えるのはそのせいだともわかった。よくよく話を聞けば黙っている分、いろいろ考えているらしいことも見えてくる。そこには独特の繊細さもうかがえた。会話の訛を問うと彼は出身をロシアだと言い、熊はロシアの森で畏怖の対象だったことを、信仰と崇拝の対象であったことを教えてくれている。
口調は始終、穏やかだった。大きな体に加えて胸のコルセットのせいもあったかもしれない。彼の方こそ熊のように見えていた。
気づけば寄り道ばかりだったが結局、彼も作品の前後について知らないらしい。ただ作品に関しての意見だけは一致していることを確認して話を終える。
「小熊のチェブ」の話はそこで途切れたが、次の日から他の話が代わりに続いた。
おかげで幾度か垣間見ることとなったのは、彼の持ち合わせる無頓着な一面だろう。周りがどんな目で見るやら。退院の準備を問うた時など、彼は穴の開いたタキシードで帰る気でいたのだから驚きだった。驚き、あきれて、あきれついでに問えば、荷物はホテルにあるが同僚の手を煩わせてまで持って来てもらうことを遠慮しているらしいと理解する。
バービー自身が見繕ってくると提案したのは身寄りのない患者との間にままにあることだったからで、さほど特別なことでもない。だが彼はがんとして断わり、むすっとしたきり提案に取り合わなくなった。もちろんそれもまた怒っているのではなく、遠慮しているだけだと察するにもう時間はかからない。ゆえに無理矢理でもメモを毟り取り、幾ばくかの現金を預かって仕事帰りに店へ向かっている。
そのメモを開いたのは店に入ってからが初めてだ。サイズと必要なものが殴り書きされたリストの最後、付け加えられた項目はそれでも律儀な彼からの礼に違いない。「ミスウィンストンの部屋に飾る花」という項目は、通院に切り変わった後も個人的に彼と会い、話すきっかけを作り続けることとなった。
しかしながら日本へ帰る間際、彼がとりわけ会うことを嫌ったことや、連絡先を告げることなくアメリカを発とうとしていたことについての釈明は、何とも歯切れの悪い話を聞いてどうにか察したような具合だった。それは彼の仕事に由来していて、何か危なげだということをバービーは結構な時間をかけて飲み込んでいる。会わず、告げずに立ち去ろうとしていたことも、巻き込みたくないと言う彼の配慮だとも理解した。
そもそも彼、レフ・アーベンは、最初からあまり平穏な生活を送っている様子にない人物だ。そんな彼が言う「危なげな事」とは、自分もいつか胸に鉄板を二枚仕込むことになるような事なのではないか、とバービーは予想している。そして彼が危惧していることの一つは間違いなくそうだと確信していた。
けれど始まったばかりの付き合いに比べてその危なげな事は曖昧で、闇雲に恐れようにも彼の心配にこそ実感はわいてこない。だからしてバービーは悩んで選び抜いた言葉をこう彼の前に並べている。
仕事の邪魔はしない。
彼は提案を断らなかった。それを条件に、連絡先としてただこの携帯電話を渡してくれている。
ままに日本へ帰ったなら、これだけがその日から互いをつなぐ唯一の窓口となった。話すのはいつもバービーだけだ。あらかじめ聞かされていたとおり彼が喋ることはほとんどない。ただその罪滅ぼしのように彼は時折、メールを送ってくる。内容はよく晴れて暑いだとか、一級試験に合格しただとか、仕事仲間が帰ってきて面倒だとか、他愛もないものばかりで日記に近い。この間はクリーニングを取りに行く暇がないとあったので、足しになればと取り急ぎ買い揃えた服を日本へ置いてきた。
やりとりは人から見ればすれ違いの連続に違いなく、友人とも言い難い、遠い異国の文通相手と失笑されそうだった。だがすれ違う気配で感じ取る存在は、時に饒舌な会話より思うところを深めるらしい。
ひと月が経ち、もうひと月やり取りの更新は伝えられ、さらにもうひと月、延びた。
コートジボワールの件は、こんなことになるとは思ってもいなかった頃、申し出ていたものだ。そんな彼に愛想をつかしたからではない。
思えばいつからか、すれ違うことで互いは無事でやっていることに安堵していたように思える。いつか近い未来、なに気兼ねなく会うための、それは続くべき平穏にもなっていた。
「さっき画像を見た」
破り、レフは言う。
「よく撮れている。不便そうだが空気はうまそうだ」
「待って、それだけ? それだけのことで、こんなに驚かせるの? あなたから電話なんて何かあったと思っているのに」
案の定、電話口の声は動揺していた。
「何もない」
予期していたからこそ言葉には準備がある。とは言え相手も子供ではない。
「いつもならメールよ」
当然を問うてくる。
英語が聞き取れないせいで百々は食い入るようにこちらを見つめ、やりにくいと思うが割り切るしかなく、レフは疑うバービーを納得させにかった。
「日本で何も言っていなかったことを思い出しただけだ。それでかけた」
「今? 何?」
とんでもないことを告げられるのではないかとバービーの声は強張っている。罪悪感を覚えるとすれば、こんな時ぐらいだろう。
「行きに寄ったんだ、帰りも必ず寄って帰れよ」
罪など見ないフリで言ってやる。なら安堵したように電話口の声も笑いに揺れた。
「そんなこと? もう、怒ったくせに。押しかけたのはわたしのルール違反よ。がっかりなんてしてないわ。気を遣わなくてもけっこう。ただあの話はじかに言っておきたかったし……」
そこで言葉は切れ、バービーは話を元へと戻す。
「そうね、スクリーニングをパスしたら必ず寄るつもりよ。その頃はきっと冬ね。年越しに間に合えば素敵だけど」
思いを馳せるような間はあいて、レフは無言でうなずいた自分にこそばゆくなっていた。ついで、それまでに百々が英会話を習得する、などと言い出したなら全力で回避しなければと本気で考える。などと、これ以上の無駄話に耐えかねて問いかけても唐突でなくなった本題を持ち出した。
「最後の三枚に知らない人物が写っていたが、あれは誰だ?」
「写ってた?」
我に返ったようにバービーの声は跳ね上がっていた。
「ああ、ミッキー・ラドクリフね。赤毛の女性でしょ? 撮った時、彼女しかいなかったからきっと彼女だわ」
「何者だ?」
「私と同じ看護師。さっきも一緒にいたわよ。どうして?」
あっけらかんとバービーは明かして返す。だがその人物が通訳でないなら、質問は矢継ぎ早とならざるを得なかった。
「アメリカでも一緒だったのか?」
「いいえ、集合場所だったアビジャン空港で一緒になったばかりだわ」
「通訳はしないのか?」
とたんバービーは笑い出す。
「尋問なの? おまわりさん」
咎められて逸らした目が百々と合っていた。
「いや、違う。誰といるのか気になっただけだ」
「やっぱり変よ。帰りも寄っていけ、なんて」
「相方が約束しておけとうるさい」
「気が利くのね」
「自分のことにはあまり回っていない、トンチンカンがウリだ」
その視線を正面へ戻した。
「安心して」
言うバービーを誤魔化すなど、最初から無理だったのだろう。
「ここはフランス語が公用語だけれど、通訳は現地語も含めて先発隊が駐屯している時からずっと専属の人がついているわ。誰でも出来ないのよ。専門用語が多いから。ミッキーはこの間まで南アフリカで同じようなODA活動に三年も参加していた私の先輩。いろいろ頼りにしている人なの」
響きは自慢げでもあった。
「そうか」
「考え過ぎるのは悪い癖よ。ここは誰でも来れるような場所じゃないわ」
「だな」
「もう驚かせるのはよしてね」
「ん」
気を付けて。
言えばあなたも、と付け加えられて口ごもった。
通話を切る。
赤毛の女も到着したところなら態勢は整っていないハズだった。まだコチラを振り回す声明文が出されていない理由にもなる。だとして三年は言い過ぎだと心の内で吐き捨てていた。
ただちに他の情報と擦り合わせるべく資料室でファイルをめくる。ファイルに貼られた彼女の写真は髪の長さからして、送られてきた画像と変わらなかった。しかし名前はミッキーではなくキャメロン。姉妹、兄弟は存在せず、彼女はその時、自分のことを半年前から監督事務所で雇われた専属通訳だと話していた。裏付けるべく過去、ハリウッドの通訳派遣事務所に登録していたこともまた確認されている。だがODAどころか、そこに看護師経験は一切、記録されていない。
SO WHAT との関係を疑われたさい、来日についてを彼女は監督の個人的な旅行だったため何も知らない、と証言している。しかし実際を明かすことなく監督はああなり、付け込んで彼女がシラをつきとおしているとしたなら、彼女の言葉には何の信憑性もなかった。嘘の経歴を並べ立てあの地に立つ今となっては、偽りの経歴など 十八番といったところだろう。
調書を作成したのはやはり地元警察だ。面と向かっていなければ、どうしても詳細まで記憶に残りづらい。つまり一人で写真を見ていたなら映り込んでいたことに気づかなかったかもしれず、相変わらず妙な所で鼻の利く相方だと感心した。
ファイルを閉じる。
バービーの言った通り、アウトブレイクを監視する保健所は誰でも入り込める場所ではない。なら果たして現在の経歴は個人で偽り、WHO等、審査に通るものなのだろうかとうがった。背後に見合う組織が潜んでいるのではないか、と考える。
そうして装ったのは手に覚えのない技術職なら、嘘はすぐにもばれることが予想された。つまりコトが起こるなら暴露するまでの間で、今日か、明日か、あさってか。ともかく時間はそうない。そうして引き起こされるのがさらなる時間稼ぎの陽動作戦なら、バービーの身が心配だった。現地へ呼びつけられることも考える。逆に、でないならと想像し、潜り込んだ彼女の意図をはかりかねた。事態はそちらの方が厄介で、自然、眉間へ力は入る。
そこでようやく百々が何を話したのか説明しろ、と騒いでいることに気付いた。だが二度も三度も、同じ内容を繰り返すなど手間だ。引き連れ、百合草の部屋へときびすを返す。なら当の百合草は外出していたらしい。ドア前に立ったところでその背を、靴音に呼び止められていた。振り返れば歩み来る百合草の姿はあった。
部屋へ入って初めてレフから、百々はせがみ続けたバービーとのやり取りを聞かされていた。
「コートジボワールへ飛びたい」
時間がないとはいえ、挙句、迷わず口にするレフは確信犯だ。
その時、隣室のドアは開いて耳にするため入って来たかのような曽我もまた、部屋へ姿を現していた。その実、百合草がオフィスへ戻ったことで、頃合いを見計らい報告に訪れたらしい。その手にはしっかと紙束が握られていた。
だがデスクの一点を睨みつけた百合草はそんな曽我へ振り返りもしなければ、訴えるレフの言葉を聞いたところで前屈みのまま動こうとしない。アゴの下で組んだ手を堅く握り合わせると、ただ一点を睨み続けていた。
動き出すのを待てば息は詰まる。
と、ついにその視線は持ち上がり、レフをとらえて、いわばそれだけで確信犯の首根っこを押さえつけてみせた。
「外田を向かわせる。お前は予定通りノルウェーへ飛べ」
言葉に百々はすぐさま反論が飛ぶかと首をすくめてレフを見上げる。だがレフの口は動かない。ただわずか目元へ力がこもっただけで、むしろ不気味なほどやがて静かにこう言っていた。
「いや、俺が行く。陽動作戦なら写真の人物を連れてこいと要求が出される可能性がある。間に合わないような時間を指定して、だ」
「だとして現状、我々の最優先事項はジェット・ブラックだ。お前が向かうならそこから一人割くことになる。今ここに無駄にできる人員は一人もいない」
「誰も無駄を要求してはいない。一人で十分だ」
言うレフはバービーの事を終始、知り合いと言う表現を使って話していた。だが相互監視のため行動は筒抜けだとストラヴィンスキーが言っていたように、二人の仲が百合草の耳に入っていないハズはない。
「言う、自分の判断力を疑え」
使えない。
それこそ私情の極みと、百合草の下した判断は百々にも正しいと理解できた。
レフもピタリ、口を閉ざす。
やがてほどかれた百合草の指が弾くデスクの音だけが部屋に、神経質と響いた。
「まったく。お前はウチの人材が無尽蔵だとでも思っているのか」
放たれた言葉はどこまでも辛辣だろう。
「よって判断力に疑問の残るお前に単独行動の許可は出せない。本線のジェット・ブラックへ当れ。ミッキー・ラドクリフについては外田が担当する」
それでもまだかいくぐるスキはないかと、レフが考えを巡らせていることは無表情であればこそ、あまりにも明らかだった。仕方ないよ、これもチームだから。目にあまって言うべきかと、百々は喉元にまで言葉を押し上げる。だが口に出せるだけの図太さこそ持てず飲み込んだ。何しろバービーに携帯電を持たせたのは、こうした事態を危惧したからだ。目の当りにしたとたん見なかったことにしろ、と言うのはあまりにも酷だった。
そうしてこのままノルウェーへ向かったなら、と想像する。百々は昨日のことを思い出し、バービーが西アフリカへ飛ぶことを聞かされた直後よろしくこの人は違う意味で使い物にならなくなるんじゃないかと心配した。いやそれとも、ともう一つの可能性は百々の脳裏を席巻してゆく。
なぜなら目的を果たそうとする時レフはいつも驚くほど貪欲だった。正攻法もその逆も織り交ぜ行使することを見てきている。だからして脳内に広がった光景は被害者となったストラヴィンスキーが空港のトイレで血を流し、奪ったチケットを手にレフがコートジボワールへ飛ぶと言う度の過ぎた劇画だった。だがそれは実にリアルで、百々は一人、セクションCTの危機だとさえ震撼する。
瞬間、この問答の底は抜けた。
「が、言ったところでお前は承知しない」
百合草だ。
「さすがにわたしも学習する」
詰めた息を吐き出し、椅子の背もたれへどうっと身を投げ出した。そうして初めて傍らに立つ曽我へ頭をひねる。
「今から求人をかけるか」
投げた笑いに覇気はなく、受けた曽我もまた困ったように肩をすくめていた。
「まったく、陽動作戦を報告して帰ればこれか」
吐いた胸へ手を乗せる。それきりだ。ひと寝入りするかのように百合草はまぶたを閉じた。おかげでふい、と宙に浮いたのはこの話だろう。様子に一体、どういうことだ、と百々は思う。そう、結局のところ百合草もレフのコートジボワール行きには半ば折れているのだ。ただ組織の責任者として報告してまかりとおる建前、というものが必要な様子だった。
ならかつては勝手ながらも「誰も怪我せず皆が納得する方法」担当を名乗っていた百々である。目にしてどうにか、なんとか切り抜けたい、と思うのはごく自然な成り行きとなる。
ままに最後の一滴まで絞る無い知恵。
果てに、あ、とその口を開いていた。
「えと……」
切り出し挙げる手は、おずおずとだ。
「あたしなら余ってます、けど……」
何しろ肩書きだけとはいえ、立場すらもう臨時ではない。
「えへ」
とにもかくにも次いで笑った。
顔へレフが振り返る。
ああ、と納得したように曽我がうなずいていた。
百合草だけがなおさらきつく両目を閉じる。
「その……、最初に画像に写っていることに気が付いたのはあたしで」
前において百々は言葉を並べていった。
「誰も、あの女の人には会っていないみたいですけど、わたしは舞台挨拶で彼女に会っていて」
それは何とも頼りない話し始めだ。だが続けるうちにも確信は、百々の中で強くなっていった。
「あたし、あの人と話もしたんです。後ろ姿でも見分けられます。会った時は映画館の人だったから、もしあたしを見て挙動がおかしくなったら確実に怪しいって、判断基準にもなれます。あたしがノルウェー行きを却下されたのは足手まといだからというのが理由ですよね。だったら唯一の接触者であるあたし抜きで、コートジボワール行きってないんじゃないかと思うんです」
最後はそのとおりだ、とさえ思い言い切る。その満足感と共に百合草の反応を待った。
だがまぶたは開かない。
何か間違ったことを言ったろうか。確かめてレフを見上げた。そこからレフは何度も強くうなずき返してくれる。その目を百合草へと向けなおした。
「公私混同だと言うなら否定はしない。なら百々は俺のストッパーだ。同行させる。適任だと判断したのはチーフ、あんたが最初だ」
それは実に懐かしい響きだろう。突きつけるレフの口調に揺らぎはなく、百合草のまぶたもそこでついに持ち上がる。
「言っていることを、二人とも理解しているんだろうな」
その目で二人を見比べた。
念を押されて振り返り、むしろ抜けていることだらけのような気がして、引けず百々は力で押し切る。
「た、たぶん分かってます」
何も答えないレフはただ決め込む仁王立ちで意志を表明していた。
前で埋まっていた椅子から百合草が背を起こしてゆく。
「滞在期間は不定。現地はアウトブレイクに隣接。環境は劣悪であることが予想される。加えて何ら確証を得てのコートジボワール行きではない。手続きは急ぐがWHOを含め、思ったように現地警察からも協力を仰げるかどうか到着直後の保証はない。それでも素人を引き連れて、お前はやれると言うのか?」
再び前かがみの姿勢へおさまると、ひときわ低い声でレフへ確かめた。
「こいつは案外、頼りになる」
「は?」
それがコートジボワール行きを確定させるためだからか、答えるレフは考えるような間をあけていない。
「な、なんか、そんなの急に言われると不気味なんですけど」
百々こそ頬を歪めていた。
「俺たちの死角については、だ。他はアテにしていない」
「そ、それ微妙っ」
「微妙でもなんでもいい。人の言ったことは素直に聞け」
「そっちが聞けないような言い方してるんだってば」
「うるさい」
「ウルサかないよっ」
「うるさい」
「他はアテにならないってっ……」
繰り返せば、一本、二本と追加されて行ったのは百合草の眉間のシワだ。それこそ聞くにあたいしないなら、切り上げさせるべく決断を下す。
「陽動作戦であった場合の爆発物は」
何の話かと百々はレフもろとも百合草へ振り返っていた。
「不発である可能性が高い。だがあくまで可能性だ。行動は慎重に行え」
めがけ百合草は言い放つ。
「レフ、百々は明日、コートジボワールへ急行。ミッキー・ラドクリフの調査に当たれ。片付き次第レフはノルウェーへ合流。百々は即時帰国。指示を以上に変更する」
不意を突かれてポカンと眺めていた。
言い放った百合草は、それきり椅子ごとクルリ背を向けている。入れ替わる格好で、間へ曽我は立ち塞がっていた。
「聞いたわね。もたもたしている場合じゃないわよ。ホント、乙部さんの応援で急な派遣があること考慮しておいて大正解。大きい方のバイアルだから、あと二、三人は行けるはず。アフリカ渡航は二人とも初めてで間違いは?」
とたんレフの顔が引きつったのは、錯覚でもなんでもないだろう。百々がないです、と答えたなら案の定と指示は出されていた。
「十日後からじゃないと意味はないけど、滞在期間もはっきりしないから実施します。こちらから連絡を入れておくわ。今すぐ上の受付に寄って、黄熱病の予防接種を受けてきてちょうだい」
とたん明らかにレフの影が薄くなっていた。なるほど。このくだりは計算に入っていなかったのだろうな、と百々はレフを盗み見る。
さかいに、再びフル回転を始めたオペレーションルームの活気に殺気は、昼間かそれ以上と化していた。レフが先に行け、というので百々はとっとと予防注射をすませ、待合で遂次、端末へ送られてくる情報へ目を通す。
それによるとスケジュールは翌朝六時にオフィス集合。出立は十一時となっていた。時刻までは待機と言う名の自由行動になるのだが、あえて家に帰り、早朝、出かけることこそ現実的とは思えないだろう。どれほど無理があろうが一人暮らしの友人が部屋に幽霊が出ると怖がり、しばらく一緒にいてくれと頼まれている、と言って全てが終わるまで家へは帰らないことを決めた。
交代で診察室へ入ったレフが、ぎゃーだか、うーだか、叫び声を上げた気配はない。ただ何やら物音がしたことだけは確かで、中にテロリストでもいたのか、やがて神妙な面持ちで出てきたレフはその肩を揺らしていた。
おかげでドクターの安否が気になり、百々は他にもっと気がかりなことがあったのではなかったろうかと我に返る。そう、活動的だった日中は怒涛のうちに終わりを告げ、病院の窓からいつしか光は、黄昏も絶好調と侘しさにまみれ差し込んでいた。そのシチュエーションが待ちぼうけているだろう人を思い起こさせる。
思わず頭を跳ね上げていた。
院内の丸い時計を見上げる。
時刻はとうに六時を過ぎていた。むしろ七時が近い。
逆立つ全身の毛をとめおく術などあろうものか。ならこれはきっと体裁保ち、叫びたくとも叫べなかったレフの代わりだ。百々はこの絶望的状況にムンクよりもムンクを極めて顔を伸ばす。
「ぎゃーっ! タドコロ、タドコロだよぉっ! タドコロを忘れてたよぉっ!」
叫び、脱兎のごとく病院の廊下を駆け抜けた。
果たして間に合うのか、ではなくもう間に合っていないのだからそこに田所は待っているのか。とにかく予防接種のショック抜けきらぬレフを病院に置き去りにすると警察病院を飛び出す。
さなか、二つ目のバス停で先を走っていたバスに追いついたことはラッキーだろう。ゼイゼイ喉を鳴らして飛び乗り、車内、一刻も早く田所へ遅れることを、いや、今そちらへ向かっていることを告げるべく携帯電話を取り出して。再びムンクと胸の内で叫び声を上げた。なぜならこの三日間、まるきり充電していなかった携帯電話のバッテリーは切れている。
涙目になりながら、いや実際、泣いていたかもしれないが、ようやく到着したバス停でステップから飛び降りた。国道を脇道へ回り込み「20世紀CINEMA」の入るテナントビルを目指して最後の角を横滑りと折れる。もうすっかり暗くなった通用口の前だ。カワサキのバイクを停めた田所の姿はあった。パンプスのせいで駆け寄る足音は耳障りなほど辺りに響き、気づいた田所もおっつけ振り返る。
「ご、ごめんっ、タドコロっ! すごく遅れたぁっ!」
うふふ。あはは。おほほ。えへえへ。あらゆるパターンで百々は笑った。だがどれを当てはめたところでしっくりくるものなどない。当然だ。これこそが笑えない状況、なのである。
案の定、無表情と田所は、三日間、着通したよれよれのワンピース姿を上から下まで眺め回した。やおらバイクのハンドルに引っかけていたヘルメットを百々へと投げる。
「乗れよ」
押し付けられたように受け取って百々は、身を縮めていた。笑みはもう何の役にも立たず消えて、すでに叱られた後のようにうなずき返す。
目もくれずヘルメットへ頭を押し込んだ田所はバイクへまたがり、スタンドを跳ね上げていた。キーをひねればエンジン音は乱暴な音で百々を急かし、我に返って百々もスカートがめくれないよう、巻き込みながら田所の後ろにまたがる。そうしていつも通りその背にしがみつきかけて戸惑った。今日はひどく触りづらい。まごつけば、それすら咎められているような気がしてえい、と両手を絡ませる。
合図に田所の足は地面から浮き上がった。
バイクは走り出し、迷わず切るハンドルで国道へと合流する。
どこへ行くのか聞きたかったが、田所の背中には聞かせない頑なさがあった。早く説明しなければと気は焦ったが、ヘルメットと風は繊細な話を拒んで止まない。
ただ黙ってバイクを走らせる田所にしがみつく。百々にはもう、そうするだけが精一杯となっていた。
三十分も走ったろうか。田所は奇遇にも、襲う緊張感で胃さえ痛かった海水浴場、その石垣の前でバイクを停めていた。
花火大会の予定などもうない。辺りに人影はなく、二人の前には鉛に似た灰色の海だけがうねっていた。向かって歩き、田所は砂浜の中ごろに腰を下ろす。少し様子をうかがってから追いかけ百々も、そっと隣に並んで座った。会話を邪魔する風もヘルメットもなくなったが、先ほどから互いは一言もしゃべっていない。手で押さえたスカートで三角座り。ヒザを立てると居心地の悪さと静かに百々は闘う。
「す、涼しいね」
言ってみたものの、どちらかと言えば潮風には絡みつく湿気があった。
「だれ、誰もいないね」
見解に間違いはないものの、田所が答える気配こそない。返事がなければ聞いてもらえていないような気がして百々は、気を引き空へ指を向けた。
「月は東に、日は西に、だよ」
が田所はその方向には目もくれず、きっかけにして振り返る。
「お前さ」
「ごめん」
反射的に謝るこの情けなさ。
「もう会わないとか俺に言ったけど、昨日も今日もあいつといたんだよな」
その語尾に尋ねるような抑揚はない。決めつけてただ重く下がる。
「だから電話にも出なかったし、20世紀、急に休むし、今日も遅れたんだよな。俺、なんか間違ってる?」
「え、えと」
間違っている、と百々こそ言って返したかったが無茶が過ぎた。何しろ田所は放送されたあの瞬間を見ている。百々の口から言葉は遠のき、瞬きだけが増えていった。
「そ、の……」
「ブライトシートの時と同じ服ってのも、家へ帰ってないってことだろ」
言われて見回し、おおっ、とのけ反る。急ぎ顔の前で手を振り返していた。
「ちっ、違うよっ!」
だが軽く振り切る田所はもう、前へ向きなおってしまっている。
「テレビ局前の放送、俺、見たから」
アヒルと尖った口が今日ばかりは凶器だった。
「昨日、ここで花火やってたの、お前、知ってるよな」
話は唐突だったが、ここへ来たのは偶然ではなかったのだ。うなずき返すことすら恐ろしくなって百々は、ただ目を剥き田所を見ていた。
「そこでお前がデカい外国人に押し倒されるとこ見たって」
「うげっ!」
「花火、見に来てた20世紀のやつが言ってた」
もう近所で騒ぎは起こさないで下さい。心の底から星に願えば、正面を向いていた田所の顔の中で目だけが百々へと裏返される。
「その外国人って、アイツだよな」
「ちっ、違うよっ」
もう、あだの、うだの、片言だけでどもってばかりはいられやしない。
「家には帰ってないけど、あたしはレフの家になんか泊ってないし、押し倒されたのはあたしがぼーっとしてたからで、20世紀、休んだのも今日、遅れたのも」
もう例のストーカーのせいなんだ、と口にしかけたところで田所に遮られていた。
「どうして俺に嘘つくわけ?」
胸の奥がヒヤリ、凍りつく。
「俺、病院から帰った後、ネットの動画サイトで検索かけたわけ。テレビ局前のやつ一瞬だったからさ、見間違えってこともあるだろ」
吐き捨てるように言った田所は再び水平線を睨む。
「観覧してたやつの携帯画像はさ、テレビのやつと角度が違っててお前らが格闘してるの映ってたよ。でも見たのは二度だけ。三度目には削除されてた。花火会場でお前を見た奴からはさ、そのあとものすごい勢いで車椅子の二人が警察に取り押さえられてたって聞いた。普通じゃなかったけど声かけようと思ったら近寄れなくて、なのにあいつ、あんなところで一体何してたんだろうって」
「な、なに……って」
すでに何をどう取り繕うべきなのか、百々には分からなくなっている。
「お前はあいつとストーカーを追いかけてる、とか言ったけど、それよか何かもっと危ないことに首、突っ込んでんじゃね?」
どうなの? と、投げよこされる視線が痛い。
「枕投げとかさ」
叩きつけられてなおさら怯えた。
「お前が好きなら誰といてもかまわないよ。けど、ヤバそうなことにかかわってるなら俺はお前のこと、放っておけないから」
などとそれはこれっぽちも想像していなかった言葉だ。弁解どころか返す言葉そのものが、とたん百々の中から失せてゆく。
「何してんだよ一体。だから前も20世紀休んだ後、様子がおかしかったんだろ? そんな目に合うくらいなら」
田所は、ためらうようにそこで言葉をのんでいた。
「とっととやめちまえよ、そんなこと……」
絞り出して砂の中へと視線を潜り込ませる。
間違いない。
会話は百々へバトンタッチされていた。
そうするよ。
だからして言えるものなら言って安心させたいと百々も思う。だが現実はかなわず明日、コートジボワールへ向かうことにさえなっていた。それは気まぐれで片づけられない決定事項で、誰に遠慮なく名乗り出てかまわないとさえ思っていた話だった。
百々もまたうつむき返す。
言うべき言葉を胸の内に探した。
果てに考えたこともなかった万が一は過ってまさかと疑い、疑い切れずにうにうろたえる。誤解を解こうなどと、前向きにとらえる呑気さはもうなくなっていた。年貢の納め時だとさえ感じてついに、吐き出す言葉を胸の中から掴み上げる。
「悪いことはさ、犯罪者にならなくても出来るんだね」
「お前がそう。俺、被害者」
言う田所は冗談のような、それでいてすねたような口ぶりだった。
「あたしさ」
そんな田所へと顔を上げる。
「この間のアカデミー賞、実際に見てきたんだ」
振り返った田所は何を言い出すんだ、と言わんばかりだ。その顔へと百々は、唇の端を広げ笑いかけていた。
「隠すの、やめるよ」
でなければ、きっとずっと田所は憂鬱なままだ。そして今まで考えたことがなかっただけで、今日と同じ明日が来るとは限らなかった。この一件へ首を突っ込むことになったように日々は破壊され、創造され続けるものに他ならない。戻れないなら出来る限り誠実でいたいと思う。うわべだけの大切をつなげるのではなくて、本物の「大切」を残しておきたいと思った。
「そうしたのはさ、言えないことも多かったせいもあるけど、その方が田所にはいいと思ってた。思ってきっとあたしが自分を誤魔化してたよ」
けれど伝えて、それもまた心配させるだけだったなら、それでも田所は笑い飛ばしてくれるだろうかと不安は過る。過ってきっと大丈夫だと百々は信じることにした。信じる勇気は、誠実でありたいと思う気持ちとつながっていた。
「だからタドコロが気にしてるところから話す」
かかってこいと言わんばかり、うなずく田所の動きはぎこちない。
「昨日も今日もさっきまでレフと一緒だったし、前に20世紀を休んでる間、ラスベガスのホテルでも同じ部屋に泊ったよ」
最初から選んだ話題がそれでよかったと思う。ショックが強すぎたのか、むしろ田所は最後まで大人しく話を聞いてくれていた。それでもなるべく短くすませたく、百々はかいつまんで説明しようと試みている。だが溜め込み過ぎたせいで話は思うように進まず、時間だけを食いに食った。しかも至る所が伏字ときていて、これがラジオドラマならピーの入り通しで放送事故だ。けれどアカデミー賞に辿り着くまでの話を、そこから始まった新たな話を、レフも自分もそこに帰属しているだけなのだということを、百々は懸命に説明していった。ただし「ブライト シート」でのくだりと報復対象になっていることは伏せて。
話が終わったあとの田所はどこかぼうっとした具合で、的を射なかった。ただ茶化すような返事だけは返さず、つまり内容は正しく伝わったのだと百々は察する。だから最後にコートジボワールへ明日、飛ぶこともまた告げていた。
「ごめんね。またレフと一緒だし心配かけて」
謝る。
「てか、お前、俺に謝ってる場合じゃないんじゃないの? 自分の事、心配しろよ」
けっこう現実的なことへ気を回してくれることが有難い。
「あは、かも」
百々も冗談はやめて話を元へと戻す。
「とりあえず20世紀、シフト出してないから来月はこのまま休むね」
「そんなの、他のヤツがいるから。それよか帰って準備とかするんだろ?」
「うううん。ややこしくなるから帰らない。友達の部屋にオバケ出るから、一緒に寝てくれって頼まれてることにした」
ペロリ、舌を出し返す。立ち上がったなら、田所もろともとんでもない言い訳だと笑い合った。
「帰らないなら、う……」
などとそうして田所が飲み込んだのは、ウチへ泊っていけよ、というものだ。
「う? 何、ウナギ?」
だがそれこそ女の子に気安く言う言葉であるはずもなく、ワンピースから砂を払う百々も繰り返して勝手に空を仰いでいたりする。
「明日からアフリカだもんね。精つけとくのもいいかな」
横顔は、もう十分、先送ったんだからいいだろう、と田所に思い巡らせ、すぐにもシベリアンハスキーは無関係なのだから焦るな、と思いとどらせた。それでいて部屋は汚いが片付けは間に合うかと焦る一方で、間に合わせろ、と奮い立たせもする。
「あは、タドコロ、おごってくれるの?」
はずが、のぞき込まれて吹き飛ばされていた。そこには続く妄想とは程遠い百々の笑みがある。
「ね、ね」
おかげで覚えた後ろめたさに、瞬時で田所の決意は負かされていた。
「おま……、調子いいよな」
「えへ、えへ。だってまたしばらく会えなくなるもん」
自分よりさらりと言ってくれるところが憎らしい。ならせめてもの意思表示だろう。田所は切り変えた気持ちのままに誘うことにする。
「じゃ飯、食ったら五十芸さんとこ行かね?」
とたん、どうして、と間延びしたのは百々の顔だ。
「帰んないなら今、オールナイトで特集上映やってるらしいから」
明かしても今から映画? などといぶかしがられたならそれまでだろう。だが百々はむしろその言葉を待っていたかのようだった。うん、とうなずき返してくれる。
もうしばらく一緒にいたいから。
感じ取るに十分な、それはうなずきだった。
夏の鰻は定番である。駅前の繁華街にある老舗の鰻屋でひつまぶしをたいらげ、肝吸いだって堪能した。オールナイトなのだから焦ることは何もない。店先にバイクを残し、裏手の少し離れた位置にひっそりたたずむ「20世紀CINEMA」同様、小劇場の「五十芸術劇場」までブラリ徒歩で向かう。
着いて初めて知ったのは、組まれた特集が夏のホラー・スプラッター名作選だという事実だ。二人して呆然と見上げ、さすがにどうするかと田所は百々をうかがい、せっかく来たんだからと百々に腕を引かれて中へと入った。
そんな五十芸スタッフとは互いに前売り券を預け合う仲だ。マニアだねと冷やかされつつシアターの分厚い防音扉を押し開け、内容が内容なら選び放題の座席も後ろを選んで陣取った。
客も少ないシアター内の冷房は絶好調である。長丁場を考慮して百々がカウンターで借りたひざ掛けはそこで大いに役立つと、広げて夏の軽装を補った。その下でそっと手をつないだのはどちらから、というわけでもない。むしろ示し合わせていたかのように自然だった。ままに毛布とは別の温もりに身を添わせつつ、ただ黙って凄惨極まるスクリーンを見つめる。途中から見始めた最初の一本はそのうちにもエンドロールが上がってゆき、休憩もないまま二本目は始まっていた。
二時間もすればそれも終わるとプログラムは三本目へ突入し、気がつけば三時間か、さすがに腰も痛くなってきたところで田所は座席を抜け出そうと百々へ振り返る。触れているだけだと思っていた百々の頭は、とたんカクンと肩から滑り落ちていた。様子はどこかスクリーンのゾンビに似ており、慌てて支えなおしてやる。いつからか、百々はすっかり眠り込んでいた。
その丸い頬がスクリーンの光を蒼白く反射させている。相変わらずしているのかどうか分からないほど化粧っ気はなく、しかしながらそんなことなど気にしていない、といわんばかりに子憎たらし気と、ツンと小さな鼻を尖らせていた。
さっき聞いた話はきっと嘘だ。思わずにおれなくなる。いや、そうとしか思えないほどそこにあるのはごく普通の女の子の寝顔で、その力の抜けた柔らかな存在はただそれだけで田所にとてつもない幸せを分け与えてくれていた。
握られていた指の間から手を抜くのに、どれほど神経を使ったことか分からない。そうしてその幸せが逃げてしまわないよう、初めて肩を抱き寄せた。たいして力もなさそうな薄い肩は手に余って、こんなヤツに無茶やらせるなよ、と不意に苛立つ。なら明日、どうにか行かせない方法はないかを考え、それは百々を困らせるだけだと飲み込んだ。あのソリ引き犬に百々のことを頼むから、と一言いっておきたい衝動に駆られ、言って頭を下げる自分を想像してずいぶん負けたような気にもなってみる。
スクリーンでは相変わらず手が飛び、首が落ち、悲鳴が上がって地面から人が這い出し続けていた。
だが、かまいはしない。
ただ迷わず帰ってきてほしいと思っていた。
そのために自分のものだと印をつけておきたくて、田所は顔を寄せる。眠っている間になど卑怯かとも思ったが、その罪こそ後から自分が償えばいいはずだった。穏やかな寝息を立てる唇を探り、そっと自分の唇を押し当てる。
眠る百々に返事はない。
つけた印の痕だけが田所の記憶へ深く残った。
「……ロコロ、うなき、でてふよ。でへるぅ……」
やおら喋り出した百々のそれは寝言らしい。阿呆のようにその後も口だけは動いて何事かを言い続ける。あっけにとられて田所は眺め、こみあげる笑いを鼻から抜いた。
「なに、おま、まだ鰻、食ってんの?」
ずりおちた毛布を引き上げる。
夜は更けた先から明けていた。
あと数時間で、本当は行かせたくない場所へ百々は旅立つ。止められないのは今の自分にそれだけの力がないせいだろう。このままではいけないと田所は思っていた。本当に守ってやれるのは、やりたいのは、自分なんだとその手へ力を込める。
やり取りなら日本にいる頃からあった。午後、腹ごしらえをすませ、徒歩で小一時間のハボローネ中央警察へ乙部は足を向ける。
しかしながら対面するのはこれが初めてで間違いなく、ヘディラ警部補は長身、細身の体型が黒人独特の、そのままライフルを担がせたならすぐにもライオンを仕留めてきそうな眼光鋭い人物だった。縮れた髪にはゴマ塩を振ったような白髪が混じり、自分より歳上なのかもしれない、と眺める。
「所在地はここから百キロほど離れたセントルイーズ地区。この辺りになりますね」
言ったヘディラ警部補はブルーグレーのタンガリーからのぞく手で、IPアドレス元である街外れもかなり外れた場所を指さした。
「この辺りは低所得者の居住区で、治安はお世辞にもいいと言える場所ではありません。市街で発生する犯罪の多くはこの辺りに住む者が引き起こしているのが実情で。普段から取り締まりには尽力していますが、なにぶん出入りの激しいところが難点だ。すぐ行方が分からなくなるのも、ここの特徴といえるでしょう」
並んだ自分はずいぶん小男に見えるだろうが、ここではどこへ行ってもたいがいそうならざるを得ない。諦め乙部は少しばかり高い位置に貼られたハボローネ地図を睨む。それにしても、と口を尖らせた。
「一人も出入りがない、だって?」
言わずもがなIPアドレス元は発見直後から、ここハボローネ中央警察の監視を受けている。出入りする者の顔写真は収集され、それは日本にも送られてくる予定だった。そう、巷でよく言われるこれがあくまでも予定であり未定である、というやつだ。報復文の一件で予定がズレた現在においても、人の出入りはいまだ確認されていなかった。
「そちらからの依頼が少々遅かったのかもしれませんね。道はこっちとこっち。この二本です。ですが道なんてものは後から作りつけたものだ。この辺りでは必要があれば最短距離を行きますよ」
乙部はこだわっても仕方ない事実から離れ、説明するヘディラ警部補の話を追いかける。
「突入は日が暮れてから、か」
聞いたヘディラ警部補が、地図から浮かせた指を自分の視線へ重ね合わせた。
「車やヘリなら、すぐわかります」
ヘッドライトに変えると辺りをさ迷わせて探る。
「むしろそうやって誰かが逃げ出してくれる方が歓迎だね」
肩をすくめて返せばディラ警部補は下げた眉で首を振ってみせていた。
「何も出ないなら私たち部外者はお手上げです。あなたこそ、はるばるここまで来たかいがある。手伝えることがあるなら言って下さい。書類も確認しました」
最後、付け加えたのは拳銃の事だ。
「普段は携帯していなくてね。借りることが出来るなら選り好みするタチじゃないよ」
「あと一時間で今、監視している署員が帰ってきます。銃を装備してから、彼らを交えて今夜の打ち合わせをしましょう」
中心的存在でありながら依頼者であり客というのは、どうもいつもと勝手が違い過ぎた。作る表情一つにも違和感は過ってならない。保管庫へきびすを返したヘディラ警部補を前に、乙部はここはひとまず客になるかとその後を追う。そうしてやはり自分は小男だと思わされていた。向こうの景色は遮られ、どうにもよく見ることができない。
暮れはじめてからが早い太陽を考慮して午後六時、防弾ジョッキに身を包み、乙部はヘディラ警部補の運転するバンでセントルイーズ地区へ続く砂っぽい道路を走っていた。
銃を携帯した後、帰ってきた署員から聞いた話では今日も一日、監視対象に動きはなかったという。十中八九、無人だ。そう感じざるを得ない報告だった。
それでも腰に差したグロッグには治安の悪さも考慮されている。予感させるように狩りへ出る夜行性の犯罪予備群と、いくらもバンの中ですれ違った。
そう言えば今朝からここで目にした白い顔と言えば、ヨハネスブルグからの機内、ナショナルアッセンブリ付近で一人、そして自分くらいだったことを思い出す。だからして見逃したとは思えないジェット・ブラックについてをヘディラ警部補とも情報交換したが、彼についてこれと言った話は上がってこなかった。想像していただけに、それはむしろ納得の結末でもあった。
うちにもフロントガラスの向こう遥か地平線の先、オレンジ色が滲む空との境へ低い屋根は並び始める。いよいよだと段取りを確認するヘディラ警部補が、見える風景を地図に変えてその指先を左右に振った。
「二方に分かれて手前までは車で。残りは徒歩で。目標を囲みます」
聞きながら乙部は腰のホルターからグロッグを抜き出し、落としたマガジンの中身を確かめる。
「長い間、手間をかけたね」
先に礼を言ってもいいだろう。押し込みなおして腰へ戻す。だがヘディラ警部補は至って真面目な面持ちを崩そうとはしなかった。
「まだ終わってはいませんよ」
その横顔を乙部はうかがう。
まさか、と首を傾げていた。
紛争地をまたいで頻繁に近辺を飛び回っていた頃は予知に近い勘がよく働いていたが、離れた今となってはずいぶん薄れてないに等しい。しかし黒光りする肌がブロンズ像を思わせるヘディラ警部補の横顔はそのときばかりは、どこか生気に欠けて見えていた。
おそらく急激に下がり始めた気温のせいだろう。思うことにする。
「忘れてたね」
ずいぶん悪い間合いで答えて返す。
そこでバンは舗装された道路を抜け出すと、小石を踏みつけ立ち並ぶあばら家の間を走りだした。ここでも土地が有り余っているせいで建物と建物の間隔は異様に広く、別れて裏手を進む別車両も見えている。
いつしか日は完全に地平線の向こうへ消え去っていた。影と闇が境界をなくし、車はといえばそんな両者の中へ身をひそめるとついにブレーキを踏んで止まった。消されたヘッドライトに視界は無に等しいほど狭まり、その居心地悪さを振り払って乙部は外へと降りる。同様に裏手でも人は降りたらしい。バン、と閉められたドアの音が聞こえていた。それを最後に辺りから物音は消え失せる。
全てを吸い尽くすような静けさは独特だ。目を慣らして辺りを見回すうちに数軒、電気を通して光を漏らす家があるのを確認する。当然のことながら出歩く人はまるでおらず、三台目の車両から降りて来た署員が二人、背後から加わったところで目配せを送るディラ警部補と共に目的の家屋へ向かった。
空き地に立つプレハブのようなそれもまた、拾い集めた古木とトタンで作られたあばら屋だ。大きさは中に六畳程度の部屋が二つもあれば上等といったところか。どう見てもおおよそテロリスをト支援して世界へ向け情報を発信している場所とは思えず、中に明かりも灯していない。だが指差されて見上げたそこには、電気が通っていることを示して中へと電線は引き込まれ、平らな屋根の隅には小さなパラボナアンテナも乗せられている。
やおらヘディラ警部補が長い腕をひねり、タンガリーの袖口からのぞく時計の文字盤を読んだ。目的のあばら家のドアはもう目の前にあり、闇に白目を光らせ傾げる頭で乙部へ改めここだ、と示してみせる。
出るも出ないも警戒を怠るわけには行かないだろう。腰から抜いたグロッグのスライドを引いて乙部はチェンバーへ弾を送った。見届けたヘディラ警部補が薄い板切れひとつのドアを前に足を止める。そこに呼び鈴などと気の利いたものはなく、掲げた拳でヘディラ警部補はノックを繰り出した。セツワナ語で中へ一言、二言、声をかける。うつむきしばし耳を澄ませた。
反応はない。
今度は力を込めてドアを叩き呼びかける。
だが返されてきた沈黙にこそ変わりはなかった。
見限り振り返ったヘディラ警部補も、腰から銃を引き抜いている。踏み込む合図と一人、署員がドアノブ側の壁際へ身を寄せた。ならって乙部もその傍らにつく。
早いか、ヘディラ警部補の突きつけた銃が、あばら家の秘密を守る貧弱な鍵を撃ち砕いた。閃光が散り、鍵だけでなく薄いドアまでもが弾き飛ばされて浮き上がる。
逃すことなく掴んで引き開けていた。
壁際の署員が間髪入れず、身を翻す。
正面へ銃口を掲げたヘディラ警部補と肩を並べ、中へライトを突きつけた。
合図に裏口もまた開かれたらしい。不躾な音が鳴り響く。そちらからも投げ込まれた光はあばら家の中で交差した。
だがそれだけだ。逃げ出す者の姿も、乗じて反撃に出る者の姿もない。塞ぐ二人の背中越し、どうにか乙部も中をのぞき込む。フラッシュライトの灯りだけが動き回る光景を目にしていた。
そんな光は左壁際、水瓶と椅子、机の上のデスクトップ型パソコンを照らし出してゆく。戻って床をくまなく這った直後、弾かれたように後戻りしていた。
キラリ、そのとき何かは光の中でかすかな光を放つ。細い糸のようなもの。テグスか何かだ。昼間ならこうも光ることはなく、気づかなかったかもしれないほどに些細なものでもあった。
横切るそれをフラッシュライトの光はゆっくりなぞってゆく。片方は今しがた引き開けたドアストッパーへ結び付けられていた。もう片側を辿れば壁ぎわ奥の本棚の前にあり、先端にピンは結び付けられている。
と本棚も中ほどだ。立てかけられていた薄手の一冊がひとりでに倒れた。パタン、と鳴った音にフラッシュライトの光はすかさず後戻り、入れ違いで何かはそんな本棚から転がり落ちた。
追えば白い光の輪の中に、手榴弾は照らし出される。
開いたドアがピンを抜き去り、レバーが跳ねて押さえていた本が落ちた。
どうりで人の出入りがなかったはずだと今さらながら思わされる。
「シット……!」
ヘディラ警部補が吐いていた。
だが遅い。
隙間だらけのあばら屋から、そのとき光は強く漏れ出す。
乾いた爆音はハボローネの夜を駆け抜けていった。