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8# PLAY ON YOU!

 詳細を捕捉するならこうだった。支援者ロンの存在が確認された直後、スタンリー・ブラック解放のタイムリミットは思い出したように突きつけられ、切れた十日後、つまるところのライブ前日の昨日、報復として「ブライト シート」へのテロ予告は舞い込んだのだということだった。

 従業員の身元確認に当日予約客の照会、アカデミー賞受賞式での失態をふまえて「スカンジナビア・イーグルス」メンバーの身辺チェックが即時、行われたことは言うまでもない。全てがクリアだったからこそ定刻通り「ブライト シート」は門戸を開き、しかしながらコトは百々が田所を前にそわそわしていたライブ開始十分前に兆しを見せた。楽屋へと一本のギターは届けられたのである。

 持ち込んだ男は当初、日本公演を担当するマネージャーだと名乗ったらしい。この時、スタッフを装い楽屋付近の警備を担当していたのがハートなら、それはスタッフリストに挙がっていないことですぐにも知れるお粗末な嘘だった。

 ハートはフロアからストラヴィンスキーを呼び出し、マネージャーを名乗る男のボディーチェックと、持ち込んだギターの確認を申し出ている。当初こそ素直に応じる素振りをみせていた自称マネージャーだったが、いざコトにかかるかという段階にさしかかったとたん態度を豹変。季節外れと着込んでいだスゥエットの上着をまくり上げたのだった。腰回りのた煙幕弾は誰の目にも明らかとなり、そのひとつはバックヤードで投げつけられている。ひょうしにスキを突いて自称マネージャーはステージへと駆け出したわけだが、ハートとストラヴィンスキーはこの地点で疑いがかかることとなった「スカンジナビア・イーグルス」メンバーを放置することは出来ず、レフたち会場に制圧を預けて拘束を優先し、まんまとステージへ抜け出たマネージャはといえばあの宣言後、百々に銃を突きつけられるとレフにのされる顛末を迎えている。

 ふまえて百合草がまとめた今後の焦点は、ピンキリ極める SO WHAT から声明文を送りつけてきたグループを特定し確保することがひとつ。もうひとつが物騒な支援者ロンを SO WHAT から引き剥がせ、というものだった。これにより当面の SO WHAT の無力化が見込めるはずだというのが狙いである。確かに企むだけでいるのと実行できるだけの力を携えているのとでは、雲泥の差があるというものだ。

 準じた捜査分担はといえば相変わらず各自が認識している様子だった。日が昇ったならハートは「ブライト シート」の現場検証へ向かい、ギター内部から発見された爆発物の解析に付き合うことを告げている。ハナは調べの及ばなかった百々たちの例があることから従業員と客の照会を徹底すると言い、ストラヴィンスキーは自称マネージャーの取調べに向かうことを知らせていた。かたやレフはといえば、その身柄は手続きを経た数日後にも本国へ送還される予定にあるらしい、ギターの受け取り先である「スカンジナビア・イーグルス」メンバーの事情聴取に加わるよう指示されている。

 そんなレフに同行するよう指示された百々は、今回の入職が臨時ではなく正職員扱いであることを知らされのけぞっていた。だからというわけではないが今後の見通しが立たないだろうことだけは予想できその後、適当な嘘で帰らぬ旨の電話を家へ入れている。ちょうどいい具合に明日は田所もろとも「20世紀CINEMA」のバイトも休みだ。以降については状況をみながら考えることで保留にした。

 そして最後、別行動が常となっている乙部はこの件に限り退くことを知らされている。と言うのもこうなる以前だ。ハンドルネーム、ロンのアクセスは常にその一角から行われていることが突き止められており、しかしながら地域にオフィスがないことから、アフリカはボツワナへ向かうことがすでに決められていたせいだった。予定にはレフとストラヴィンスキーも含まれていたらしいが土壇場でのこの騒ぎである。ひとまず乙部だけが赴くらしい。

 そのさいストラヴィンスキーが久しぶりの大陸なんじゃないですか、と乙部へ笑いかけたことは今でも百々の中でどういう意味だろう、と死力を尽くし想像を膨らませている。

 などと、よく似た光景を夢でも見て、半ばうなされる格好で百々は目を覚ましていった。

「え、だだ、だだだっ……」

 ベッドの傍ら、妙な態勢で眠ったせいだ。動かそうとすればどこと限定することなく体が痛む。どうにか起こして、何とも気持ちよさげに眠る田所を見た。その腕にはレフが放り出してこしらえた打ち身のほかに、終えた点滴の痕が残されている。寒いんじゃないだろうか。感じるままにそうっと布団をかけてやる。

 そんな気遣いを無に帰して聞こえてくるテレビの音はやけに大きい。放り込まれた大部屋には田所のほかに患者は一人しかおらず、だから習慣づいたのか、敷かれたカーテンの向こうのテレビは騒がしかった。百々が目を覚ましたのもおそらくそのせいだ。まもなく田所もまた薄っすらまぶたを開いてゆく。

「気分、どう?」

 その焦点が合うまでしばらく。

 頭をひねった田所の目は、おっつけ百々をとらえてみせていた。

「あれ? なんでおま、いるの?」

 第一声は何とも間抜けといただけないが、今は許さざるを得ないだろう。言った田所もすぐさま額を押さえつけると顔をしかめる。

「ったぁ。あったま、ガンガンする」

「それ、二日酔いだよ」

 いやあの格闘でレフに投げ出され、それこそどこかでぶつけたせいかもしれなかったが、それは言えない。

「つか、ここどこ?」

「病院だよ。ほら、20世紀から少し離れた所に警察病院あったじゃん。あの後、お店が火事になってさ。それでタドコロ、ここへ運び込まれたんだよ。覚えてない?」

 たずねる田所へ、表向きの事実を擦り込みにかかる。裏付けてテレビも相変わらずの音量で、明日、開通式が行われる地下鉄の新路線と、後進国で広まる疫病ニュースの後に「ブライト シート」のボヤ騒ぎに関するニュースを読み上げていた。

 と、再び固く目を閉じて田所は、失敗だったと言わんばかりに呻く。

「あー、俺、あいつの酒、飲んだんだった」

「いやしいことするからバチが当たったんだよ。そんな弱いならなおさらじゃん」

「なわけないっての。ありゃ酒じゃなくて消毒液だっつうの。て、あの後ってどういうこと? 火事? あいつは? あいつ、まだそこらへんウロついてんのか?」

 顔をなでまわした後で問いかけ、痛みとは違う意味で顔をしかめ百々の背後へくまなく視線を走らせた。

「え、えと……」

 心配こそ嬉しく思うが、同じ仕事場へ戻ったのだなどと、百々には言えるはずもない。だからして口ごもる様子に田所は何をや確信したようだ。

「それとも俺、酔っぱらった勢いでやらかした?」

 開く眉間でまじまじ、己が腕を眺めまわしてゆく。

「なんか知らない間にアザ、できてるし。尻もイテ」

 それこそレフが投げ飛ばしたせいだったが知る由もなく、膨らむ妄想のままにない記憶を補い始めた。

「俺もしかしてあの後、あいつ相手に相当、暴れてたりして」

 むしろそうじゃないのか、と確かめ百々をのぞきこむ。

「……あの。えっと」

 もちろん暴れたのはレフだけで、田所はその肩で寝てたんだよ。これも決して言えやしない話だ。

「そっ、そう、そうなんだよねっ! あ、あたしがトイレから戻ったらさ、タドコロ、すんごい勢いでレフに、えと、ストーカーに掴みかかっててさ。千切っては投げ、千切っては投げでこてんぱんにやっつけてくれたんだよね」

 だからして全てを封印すると心に決める。えいや、で百々は両手を振り回した。最後、投げのポーズを決めたところでニッ、と田所へ笑いかける。

「アイツ、尻尾巻いて逃げちゃった」

 その再現シーンは度が過ぎたか、見せつけられた田所こそ驚いたような表情を浮かべていた。まあ実際はどうあれ心意気はきっとそうだったのだから、百々はおしまい、で両手をヒザへあてがいなおす。

「ありがと」

 改まれば、ようやく事実と飲み込めたらしい。田所の頬へまんざらでもない笑みは浮かび上がっていった。

「そっか、あのシベリアンハスキー、尻尾まいて逃げたんだな」

「シベ……」

 だがその言い草はどうだろうか。百々の方こそ頬を引きつらせる。

「う、うまいこと言うじゃん。タドコロ」

「今度またウロついている所を見つけたらソリ引きの犬にしてやるっての」

 調子づく田所の高笑いは病室に響き渡り、それは言い過ぎだ、過らせずにおれない百々の乾いた笑いがそこに重なる。

「あは、は、は。それいいね。ソ、ソリだって」

 身の危険を覚えて早々に切り上げた。

「もうそんなこと、ないって」

「じゃ、ライブは?」

 問いには首を横に振り返すほかないだろう。

「残念だよな」

 田所がしんみりこぼしていた。

「タドコロ、へべれけだしさ、実家に連絡した方がいいかなって思ったけど番号わからなくて」

「あ、おう……。で、ここでずっとついててくれたわけ?」

 向けられた眼差しには期待が満ちている。前にしたならこれまた違う、とは言い難く、百々はひとつうなずき返していた。そうして今なら、とあのくだりを口にすることにする。

「でさ、お店で言ってたタドコロの大事な話、のことだけど」

 だというのに切り出された田所は、まるで豆鉄砲でも食らったかのような顔だ。

「ああ……」

 挙句、吐き出したのは覇気のない言葉だった。

「うん。また今度、な」


「……ま、た?」

 そう、つまるところ意味するのは「見送る」であり、見送られるということはいまだ目的は達成されておらず、総じて田所の記憶にあれもこれもは残っていないと理解するほかなかった。確かに疑い、薄々は気づいていた百々ではあったが、だから否定してもらいたかった、などと言うのは面倒臭いだけか。

「……お、覚えて、ないんだ」

 ゴゴゴ、と地響きはどこからともなく聞こえてくる。

 知らず恐れず、何が、と繰り返す瞬きで訴える田所は、とぼけていればいるほど憎たらかった。過ぎてイイッと歯ぎしりは百々の指の先まで回り、いてもたってもおれず腰かけていた椅子からガバリ立ち上がる。

「ど、どした?」

 田所の布団をひっ掴んでいた。力いっぱいだ。上下に振る。振ってひん剥き、目の前も遮ってやった。

「わ、ちょ、寒いって」

 田所が情けない声を上げ縮こまる。だがそれごときで怒りはおさまるはずもない。

「知らないっ!」

 放り出し、百々はきびすを返していた。

「か、かえんのか?」

 田所の問いかけに、投げ飛ばすように開けた部屋のドアがテレビよりも大きな音を立てる。

「おま、あ、頭に響くんだけど。ここ病院」

 反動のまま閉まりゆくドアを背に、知った事かと百々は両の拳を握りしめていった。

「覚えてんだもん、今度なんかあるはずないじゃん……」

 吐いた言葉が田所に届くはずもない。静けさはただ満ちて百々へ現実を擦り込んでゆく。

「話はすんだか」

「ぎゃ」

 はずが、話しかけられ飛び上がっていた。レフだ。腕を組むと振り返ったドア脇で壁に寄りかかっている。

「が、あ。おっ、驚いたっ……」

 なぜこんなにデカいのに気づけなかったのか。身構えずにはおれず、前で腕を解いたレフは壁からその背を浮かせていった。

「行くぞ」

「りょ、了解」

 そうして歩き出した背を追いつつ百々が付け加えたのは、ずいぶん待たせたのではないかと心配したからである。

「遅刻しない?」

 だがレフの返答は朝から痛烈を極めていた。

「俺が引くソリは遅れない」

「ブはっ」

 ぐうの音も出ず百々は飛び上がる。


 果たして乗り込んだ地下駐車場に停まるソリ、もといシルバーのワゴンに新車独特の臭いはなかった。車種もバズーカーで吹き飛ばされたワインレッドと同じらしい。見覚えのあるボディーラインと内装が百々に親しみさえもをわかせる。

 レフがそれ以上、言及しないならソリのくだりは忘れるが勝ちだろう。本格的な夏も近づく眩しげな光の中を事情聴取へ向かう。

「終わったらさ、着替えに家へ帰るけどいいよね。このままじゃ動きづらいし……」

 病院の売店で買ったパンに口を動かしつつ、だいぶとくたびれたクリームイエローのワンピースへ百々は鼻を近づけた。

「うん、臭い」

「煙幕だ」

 目もくれず返すレフの説明はいつも通りと極端に短かい。

「かまわないが周辺警備との兼ね合いがある。行動はオフィスへ連絡を入れておけ」

 だからか付け足すが、それはすでに百合草から聞かされているハナシでもあった。

「了解。でもやっぱり気が引けるなぁ。いちいち大ごと」

「だからチーフはお前の復帰を提案した。なるべく手数を減らす」

「だよね。とっとと捕まえて、こんなの早くおしまいにしないと」

 しかしながらマニュアルなどないこれからは百々の気を塞ぎこませてやまない。

「それにしてもさ、報復だとか自爆しようだとか、いくらロンとつながってても前の SO WHAT と何だか様子が違うね」

 と、緊急事態でないなら赤信号にワゴンはブレーキを踏む。止まった車体にレフの頭もうなずくように揺れ動いた。

「元来テロ組織は殲滅が難しいとされている。組織の動向が変わろうと先制とコントロールが肝心だ。俺たちの仕事はそう簡単になくなりはしない」

「なんだかマラソンやってるみたいな感じ」

 うんざりが百々の体を座席へ沈み込ませてゆく。またあの気詰まりしそうな顔で言っているのだろうと、その低い位置からレフの様子を確かめた。おや、とその目を瞬かせる。いや、見間違いかと思うが確かに今日のレフは何か、どこかが違っていた。最中、灯る青信号にワゴンは動き出す。強い日差しに白く弾けた街並はそんなレフの向こうで流れゆき、気付いてようやく百々は腑に落ちた。なにしろ会うたび同じだったそれは今日に限って白ではない。どこへ行けば手に入るのか。無個性極まるジャケットからのぞくシャツの襟はうっすら淡い桜色だった。

 とたん、へえ、と声は胸の中でこぼれる。それは感心と驚きの中間くらいにある、へえ、で、何しろこうも気づくことが遅れるほど桜色はレフによく似合っていた。白い紙をはりつけたような無表情はただそれだけでワントーン明るく、いや柔らかくなると与える印象を変えている。

「何だ」

 観察が過ぎたか、振り向きもしないレフに問われていた。

「だってピンクだもん。自分だけ家に帰って着替えてきたんだなぁ、って思っただけです」

 隠すほどのことでもないならズルイよ、百々は声をこもらせる。署を示す標識はその頭上を流れていった。見て取ったレフはウインカーを跳ね上げ、交差させた腕でゆるり、ハンドルを切ってゆく。もちろんそれら作業に特別神経を使うような所は一切ない。だが会話は切れると沈黙は訪れ、その沈黙に感じ取れるものがあるとするならこの話題に関してはノーコメントだ、というボディーランゲージのみだった。

 どういうことだ。

 なおさら百々はレフをうかがう。

 よほどの何かだ。

 ピクリとも崩さないそのポーカーフェイスにむしろ確信した。なら感心していた、へぇ、はお節介の、ははぁん、へ変わってゆく。

「でさでさ、その色、自分で選んだの?」

 とたんフロントガラスを睨むレフの両眼へ見る間にむっ、と力はこめられていた。

「だったらどうした」

「そんな言い方ないじゃん。あたしはさ、そっちの方がいいなぁって思ったから聞いたのに。ほらレフ、ずっと真っ白だったし。なんかあれ堅いんだよね。そっちの方が似合っててイイ感じだよ。あんまり怖くないもん。これイマドキの若い子が言うんだから間違いないっ!」

 なにしろラスベガスでの事は、気持ちのどこかを変えたとしてもおかしくない出来事だ。だから自分で選んだんだ、素直に言っても何ら差し支えることはないのに。百々には思えてならない。だがとどめと睨み返されて急速冷凍。立てた指の先までもを百々は凍りつかせてゆく。

「……ど、して?」

 行く手には高層造りがレフ同様、いかつい署のビルがあった。脇に併設されたガレージ前に濃紺の制服はちらつき始め、伴い増えゆく路肩の人影にレフも逸らした視線を正面へと戻す。

「……油断はできない」

「はい?」

 瞬間、あの音は鳴り響いた。携帯電話の呼び出し音だ。響かせワゴンは開けられたガレージの門扉へ突っ込んでゆく。外来者用の駐車スペースを探してレフは頭を振り、すぐにも見つけた場所へハンドルを回した。あいだ中、ブライトシートでもそうだったように呼び出し音はしつこいほどと鳴り続ける。

「鳴ってるよ」

 百々も思わず言っていた。

「運転中だ」

「もう着くし」

 促せば余計な指図だと、またもや一瞥、食らわされる。

「えぇ?」

 それがシベリアンハスキーのせいだったとしても、桜色を追及したせいだとしても、あまりに大人げない。

「だ、だから、どして」

 理解しきれず百々は冷や汗にまみれる。

 乗せたワゴンをレフは空きスペースへ停めた。仕方なさげに取り出した携帯電話を、抱いた不満をぶつけんばかり無言で耳へ押し当てる。


 引いて腰かけた椅子は薄く、補うようにストラヴィンスキーは今朝のチェダーチーズの溶け具合が絶妙だったことを思い起してみた。

 無彩色の部類に入るだろうスチールデスクを挟んだ目の前には、そんな至福の時と無縁の面持ちで男は一人、うずくまっている。仕方ない。左右非対称に崩れた輪郭は見ているだけでも痛々しく、だからして幸福のおすそ分けとまずは微笑みかけることにしてやる。

「おはようございます。アゴの調子、どうですか?」

 何しろこれから始める作業はお互い心地よく進む予定にないのだ。準備体操は不本意な怪我をしないための大事な手順でもあった。

「強敵に殴られちゃいましたからね。お医者さんは何て?」

 だがほぐそうとしたところで、「ブライト シート」でレフに殴り飛ばされた男に答える気配はない。試合に負けたボクサーさながら、腫れた顔を上げてチラリ、ストラヴィンスキーを見やっただけだった。つまるところ報復相手とすっかり恨みをかっているようで、ストラヴィンスキーは今一度、薄い椅子の感触を確かめなおすことにする。

「あ、無駄に話しちゃ辛いだけでしたね。じゃ、とっとと終らせちゃいましょうか。なので、シンプルな回答をお願いします」

 口調のせいか、傍らで筆記につとめる署員が呆れたような顔を向けている。他に四畳一間ほどのここに誰もいない。高い位置にある窓だけが、食い込ませた格子で切り刻んだ空から爽やかな光を投げていた。見上げて眼鏡のブリッジを押し上げる。ストラヴィンスキーはクイズでも始めるかのような具合に男へ問いかけた。

「それじゃ、お名前からどうぞ」



「マイニオ・コレル」

 腰かけた椅子が華奢に見えるほどの巨漢だ。初老独特の腹の出具合もまた圧巻で、バンドのロゴが入ったTシャツが破れそうに引き伸ばされていた。

 数分あっただろう電話を一言も発することなく終えたレフは、マイニオと名乗った巨漢と取調室の中で対峙する。

「職業は?」

 ミュージシャン。マイニオが答えて返した。間違いはない。彼こそ「スカンジナビア・イーグルス」ギタリスト、マイニオ・コレルであり、持ち込まれたギターの受け取り先だからだ。

「バンドリーダーをしている。事務所の責任者もだ」

 などとマイニオは、尋ねた以上をもまた答えてみせた。だとして不服はない。レフはただ開きかけていた口を閉ざし、そんなマイニオを吊り上げた片眉の奥から見やる。一見、素直に話しているような素振りだろうと、すでに広く世間へ知れ渡った事柄なら明かしたところで意味はなく、想像できるのは会話の主導権を握りたいだけの小細工。よほど話したいくだりがあるのだろうと様子をうかがった。

「出身地は?」

「ノルウェー。首都オスロ。パスポートは偽造じゃない」

 またもやマイニオは一言多く語る。省いたうえで筆記の署員へ訳して伝え、レフは一息ついた。マイニオ同様、先回りしてやることを決める。

「記述には年齢、六十四。入国は三日前とある」

 噛み合い始めた調子にマイニオは満足げだ。確かにこの取調べを受け持つこととなったのは残された時間に比例したスムーズな処理が理由のひとつで、彼らの出身地、バンド名通りスカンジナビア半島もノルウェーの地では英語が併用されており、使えるための役回りだった。取調べ室の隅でコート掛けのように突っ立っている百々はといえば話せないせいで全くの無駄だったが、こちらも気が抜けないなら盗み見て諦め、レフはマイニオの顔へ集中しなおす。年齢分しぼんだお世辞にも健康的とは言い難い色に何らかの疾患をうがり、これもまた迅速な処理のうちだと次を繰り出していた。

「あんたは色々話したい様子だ。なら率直に聞こう。あのマネージャーと名乗った男との関係について知りたい」



 「ブライト シート」で見せた動きから察するに、二回りも三回りも歳の差がありそうなこの男は「スカンジナビア・イーグルス」の面々と古くから付き合いがあるようには思えなかった。見るからに国籍も違えば彼は「スカンジナビア・イーグルス」の祖国がノルウェーであることも知らない様子で、関係は刹那的であることが考えられた。つなぎ合わせるものがあればそれは SO WHAT の多用するインターネットだろうと思えたが、思い込みこそ分岐を誤る代表格にほかならず、しかしながら勘という感知機の精度は思った以上に高いのだ、とも眼鏡の奥で巡らせる。

 なにしろ名前と現住所、年齢に職業を聞いたところで男は何一つ答えようとしなかった。なおさら確かめたい経緯についてなど話しそうもない。

「あ、これも黙秘ですか」

 鼻を鳴らし、うーんと唸った。

「あの、ちょっとは動かさないと、うっ血した頬の腫れもなかなか引かないと思いますよ」

 促してみる。

 もちろん渡会たちの方で撮影した顔写真と採取した指紋を元に前歴者から身元の割り出しは進められていたが、その時すでに男の人相は変わると顔写真に決定力は望めず、指紋もまた該当するものは上がってこなかった。所持品からも同様なら今のところ頼れるのは本人の自供だけとなっている。

 しこうしてストラヴィンスキーはゆったり広げた腕をスチールデスクの上へ置いた。あえてデスクの大半を占領してやると軽く男のパーソナルスペースへ触れる。触れて笑みを浮かべると、引く気がないことを示してやった。

「じゃ、僕の方からお話させていただきますね。あなたの持ち込んだフェンダーのギターから、油の塊に似た固形物が回収されました」

 一晩のうちに明らかとなったそれが事実だ。リトマス紙代わりと男へ浸す。

「ご存知でしたか? 仕込まれていたこと」

 とはいえこれごときで反応するとは思っていない。奪われたスペースのせいで背筋を伸ばし距離を取り直した男もその通りと、目を逸らしただけだった。

「これは現在、成分を分析中ですが、塊に施された細工がギターのコイルへつなげられていたことから、演奏が始まれば反応する爆発物の可能性が濃厚だと考えています」

 とたん声色を変えてやる。

「要求はのまれなかった。よって報復を決行する」

 呼びつけられたように男が逸らしていた視線を振り戻した。

「いやね、あの日あの場所で、この話を出来るあなたが何者なのかなんて今さらどうだっていい話なんです」

 意地悪だったかと笑ってなだめれば一瞥くれたきりだ。また興味なさげと男は顔を逸らしていった。

「それだけであなたが僕たちへ声明文を送りつけた SO WHAT の一人だってことは明白ですからね。ならぼくたちが今すぐ知りたいのは、二つだけです」

 さて、ここからが本実験のハイライトとなる。

「ひとつは他に仲間がいるのかってこと。もうひとつは、あの爆発物を、いえ言ってしまえばプラスチック爆弾をどこで手に入れたか、ってことです」

 ストラヴィンスキーはその名を口にした。

「ハンドルネーム、ロン」

 と、逸れていた男の視線はまたもやストラヴィンスキーをとらえる。

「知らないなんて言って欲しくないですね」

 それきりまじまじ見つめ合った。しかしながら男は何も言いはしない。ただ力が抜けたように再び視線を逸らしてゆく。

「というわけで、ぜひとも教えてもらいたいことがあるんですけど」

 引きつけなおしてストラヴィンスキーは投げかけた。

「ロンとどうすれば、会えたりしますか?」



「あんたはどうして、こんなところで働いている?」

 問いかけは交換条件のように聞こえていた。

「日本人じゃないだろう」

 マイニオはレフへ突きつけ返事を待つ。

 確かに絡んだ事情に流れ流されレフは日本にいた。だがそんな話を聞かせるメリットは時間も含めてどこにもなく、答えることを迷うよりも問いかけの意味を考えしばし口ごもる。

 と、ひとつ息を吐いたマイニオは、やおら手の平を空へ広げた。

「どこで働くかを決めることは大事だ。若いうちはなおさらよく考えなければならん。あんたの選択がこうして一日のほとんどを食い尽くす。その選択から日々は生み出される。後悔するに膨大な時間は、そうして積み重ねられてゆく」

 仕草は取調べを受けているとは思えぬほど落ち着いており、そのときとりわけ重い瞳が強くレフをとらえる。

「だが俺たちは、その場所を選び間違えた」

 このくだりをレフは訳せず見送った。一通りを聞いてからでも遅くはないだろう。つかめない話へただ相槌を挟むことにする。

「音楽活動が、か?」

 訳されることなく進む話に、筆記していた署員はどうしたのだろうと不審な面持ちだ。前でマイニオは首を振っていた。

「音楽はいつも正しい。だから俺たちは成功した。しかし成功が足かせだった。契約は俺たちを退屈にさせた」

 広げられていた手はそこで、しおれた花のように握りしめられてゆく。



 まただ、とストラヴィンスキーは眉根に力を込めた。

 男の目がまた動く。

 その振れ幅が一定であることに気付いたのは、取調べが始まってからもう小一時間ほどが経ってからのことか。一見すると弱気な仕草にも見えたがその目は、紛れてこちらの目を盗むと同じ物を確認し続けていた。

 瞬間、ストラヴィンスキーはさいさん動く視線の先をなぞって体をよじる。部屋には探るほどの広さもなく、視線はすぐにも筆記者の手元へ、そこに巻きつけられた腕時計へ行き当たっていた。いや、そんなはずはないと咄嗟に思う。

「こんなところで、待ち合わせですか?」

 問いかけた。

 答えず男は、さらに時計からも視線を泳がせ、腫れたアゴをひと撫でする。ままに繰り返したのは、動くことを確かめる大げさなほどぼ開閉だった。やがて手ごたえを得た男の頬へと、粘り気のある笑みはじんわり浮かび上がってくる。

「ええ、俺を待ってる同志は結構いるんですよね」



「世界中、待ち望む観衆へ同じ演奏を繰り返す。そうはいかない。だが、そうしろと契約はいう。それが良いプレーだと言うなら、ロックはままごとじゃない。攻め続ける。それが俺たちの選んだスタイルだった。観衆の求める俺たちだった」

 憤慨したようにマイニオは唇を結んだ。

 そんな彼らの音楽論を聞くつもりはなかったが、大事な話に及ぶ時はたいがいバーブシカもそうだったと思い出す。知っているかのようにマイニオも、十分にもったいをつけたうえで唇を開いていった。

「退屈には耐えられない。クスリを選んだが力を借りてもバンドは死んだ。むしろ斬新だったのは、そうして新たに垣間見た世界の方だった」

 だいぶ高くなった日差しは窓から差し込む光の色合いを変えつつある。レフはなおさら見て取れるマイニオの顔色に、そのせいかとひとりごちた。

「俺はそっちの取締官じゃあない。あんたはまだクスリをやっているのか?」

「そう簡単にはやめられない。ドラムのレイヨはバンドの解散を期に手を引いたようだが俺を含めた何人かは違った。続けることで組織を知り、売人のようなマネもした。だが気まぐれで入ったとして同じように抜けることは、体も組織もさせてはくれない」

 マイニオはとつとつと言ってのけ、そこへ挟める言葉があるとすればこうだろうとレフは言ってやる。

「あんたは働く場所を間違えた」

 あけすけな物言いに、マイニオの目がいっときレフを睨みつけた。だがすぐにも間違いない、と冷静を取り戻す。

「音楽は創造的だったがクスリは破壊的だった。遠ざけることで破滅を遅らせたが、それで何もかもが解決するハズもない。残念だ」

 言葉は途切れ、マイニオは顔を伏せた。いくらもおいた沈黙ののち、うかがうような視線だけをレフへと投げる。

「転がり続けたハズが、俺たちはとどまり過ぎて立ち往生したと言うわけだ」

 浮かべた卑屈な笑いが、その時ばかりは大男を小さく見せていた。



 男の態度は一変している。のけぞるように浅く椅子へ座り直すと、投げ出した足を机の下で忙しく揺すり始めていた。

「もう朝刊も行き渡って、テレビにネットにだって一通り目を通した時間ですよね。けれどブライトシートの騒ぎはどこにも上がっていない」

 信念の強さをうかがわせる声が部屋に端正と響く。厄介なことになりそうだ。分厚いレンズの奥で目を細め、思うからこそストラヴィンスキーはその力を解いて男へこう返していた。

「そうですね。少なくとも SO WHAT のテロ未遂があったって記事は載りません。これまでのようにね」

 と、しゃっくりでもするかのように男は肩で笑い始める。引っ込めるや否や、思い当たるフシを探るように、伏せた目を忙しく動かした。共につぐまれた口が再び開いた時、舌打ちにも似たような音は鳴る。

「俺が失敗したってことは、俺が知らせなくてもそうやって同志へは伝わるんだな」

 否や大きくつけた反動で、奪われたスペースを取り戻す。机の上を這うように、ストラヴィンスキーへ一気に身を乗り出した。

「まぁ、俺たちと遊びましょうや。これで終わりってのは、あんまりだ」



 笑いを剥いだマイニオが肩を落とす。

「取り戻すために闘うことを決めた。音楽へ還ると口にしたのはもう二十年近く前の事だ。だが組織というやつは根が深い。こんな老いぼれにも声をかけてくる」

「それはあんたが深いところまでを知っているからだ」

 そうじゃない、とマイニオは首を振る。

「噂は聞くが新しいボスとは面識がない。だから利用された」

 レフは書きとめるよう署員へこれまでを要約して伝える。

 マイニオもかまうことなくこう話していた。

「手を切るなら最後に一仕事、頼まれて欲しいと伝えられた。届いたギターで演奏すれば、それが俺たちの別れの歌になる。ただそれだけだ。持ち込んだ男のことも、何も知らない」

 弦を押さえ続けて変形した指が体をさする。

「危ない橋だ。勘付いて、それ以上を確かめるヤツはいない。深く問うなとも釘を刺された」

 動きを止めると心底凍えたように身を強張らせもした。

「確かにこれで縁は切れた」

 そうして名は、小さく吐き出される。

「ノルウェイ・ノワールともお別れだ」

「レフ、取調べはお預けです!」

 その時、取調室のドアは開いていた。珍しくも血相を変えてストラヴィンスキーが飛び込んで来る。

「現場へ急行します!」


 果てに聞かされたくだりはこうだ。「ブライト シート」一件が報道にのらないことで失敗を確認した同志は次に、朝の情報番組「おはよう! ズームアウト」のお天気コーナーへテロを仕掛けるつもりだと言うのである。言わずもがな番組は全国放送で、現在進行中の生番組でもあった。

「ええぇっ!」

 叫んで百々は解いたイヤホンを耳へ押し込む。

 署の中を探せば慣れていないだけで、英会話の一つや二つこなせる者はいるだろう。切り上げた取調べを渡会たちに預け、レフもろともガレージへ走る。

 そんな時刻は現在、午前九時二十分。お天気コーナーは放送も終盤、毎回、九時四十五分頃の開始が常となっていた。だというのに局はだいぶと海寄り、国道沿いのインターチェンジ入口をさらに越えた開発途中の埋め立て造成地に引っ越したところときている。

「インターまで二十分くらいあるのにっ!」

 時間内にたどり着ける道理がない。喚き、ワインレッドと違って目を泳がせた。

「テレビ局へは?」

 マイクへ吐きつけたレフが、平凡すぎるシルバーのワゴンを探し尻ポケットからキーを抜き出している。かざして握り手を押せば応えるワゴンが前方でロックを跳ね上げ、重なりイヤホン越しに返された百合草の口調は、まさに反論、許されぬ業務命令と届いていた。

「この短時間で当たり障りなく放送内容を変更させることは不可能だ。時間は電波掌握と路面確保に使用する。お前たちはテロが実行される前に容疑者を押さえろ」

 重なりオペレーターが、端末で番組を確認できる準備が整ったことを知らせる。

 聞きながら三人して、ぶつかるようにワゴンへ群がった。

「運転、僕がします!」

 ボンネットを回り込んだストラヴィンスキーが手を伸ばす。めがけてレフがキーを投げ、キャッチしてストラヴィンスキーは運転席へ沈み込んだ。譲ったレフも助手席へ身を屈めたなら百々も頭から後部座席へ転がり込む。

「あれ、そう言えば外田さん、ここまで何で?」

「あ、近所なもので自転車で」

 なるほど。それじゃ、どうあがいても間に合わない。

 エンジンがかけられる。もんどりうつ百々などおかまいなしだった。ワゴンは猛烈なバックで駐車スペースから抜け出してゆき、テレビ局までのナビゲートを開始したオペレーターにあわせてストラヴィンスキーが、握り絞めている時間の方が短いんじゃないかと思うほどの手さばきでハンドルを切り続ける。

「その番組、僕はよく知らないんですけれど。お天気コーナーってスタジオ内の、ですか?」

「ええっ、見たことないんですか。局前の広場からの中継で、人気番組なのに。ほらこのポーズ、知りません?」

 映画の時もそうだったが、あまりメディアをチェックしないらしい。教えて百々は後部座席から身を乗り出すと、シートの間から前方へ腕を投げ出した。「ズームアウト」の掛け声と共に、耳の辺りまで一気にその腕を引き戻す。仕草は朝から俯瞰で社会情勢をとらえてやろう、と言うもので、中継への有名なキューポーズでもあった。だがルームミラーでチラリ確認したストラヴィンスキーにどうという反応はない。信じられず百々はなおさらしゃかりき、繰り返す。

「うっそー。知らないんですかぁっ」

「ただの広場だ」

 すぐさま今重要なのはそこじゃない、とレフに一瞥食らっていた。

「周囲に遮蔽物はない。キャスターの後ろには見物客が集まっている。その気になればどこからでも入って来れるような場所だ」

「あ、レフ、見てるんだ」

 瞬間イヤホンから「おはよう! ズームアウト」メインキャスターの声は聞こえだす。咄嗟にのぞき込んだ端末で百々は、尖ったメガネがカマキリを思わせる男性メインキャスターが、芸能ニュースを読み上げ始めたことを確認した。

「わわっ、お天気もうこの後じゃんっ!」

 そこでタイヤはひときわ大きく鳴る。

「うぉっと」

 どこを走っているやらさっぱり見当のつかなかったワゴンはインターチェンジ脇をかすめ、国道へと抜け出していた。例のごとく見渡せる限り信号は青を連ね、後方からは警察車両のサイレンが聞こえてきている。

「何分、食いました?」

 ストラヴィンスキーがレフへと投げた。

「十分強」

 ジャケットの内ポケットへ端末を落とし音声だけを聞いていたレフが、ひねった腕で時刻を読む。

「番組、どうです?」

 つづけさまストラヴィンスキーは百々へも確かめた。

「え、えと、歌舞伎俳優の鶴様が海外セレブと夜遊び、って盛り上がってます」

「あの、ではなくて進行状況の方、教えてもらえるとありがたいんですけれど」

 そらそうだ。誰がこの期に及んで番組内容を気にするか。

「って、そんな話題はあと二つ。予定通りみたいですっ! あは」

 などと他人のスキャンダルが世の平和をつなぐうちにもワゴンは空地に工場、流通倉庫の目立つ埋立地へ飛び込んでゆく。伴い車線は大型の輸送車を増やし、かいくぐって先を急げばクラクションの嵐は巻き起こった。だが無理を通したおかげで市街地から伸びた国道の果てに前衛的なテレビ局ビルの一部はのぞく。隠しているのは手前に立つ流通倉庫群か。回り込めばオペレーターはついに、そのくだりを口にしていた。

「左手、公園向こう。テレビ局ビル。局前広場到着です」

 誰もが告げられた方向へ視線を飛ばす。ナビゲート通り遊具らしき鉄塔を並べた公園は流通倉庫の向こうに広がると、道を隔てた位置にテレビ局とその傍らの局前広場は見えた。ほかに目立つ物は何もなく、あるとすれば局前広場中央に立つ風見鶏らしきオブジェと、広場三方を囲む道路沿い、並べ置かれたベンチだけだ。

 目指しワゴンは走り続けた。

 なら一握りの群衆は、ひときわ強い光を浴び目に飛び込んでくる。

「あれっ!」

 百々が指さした広場も中央だ。扇に広がる観客を従えた中継現場は見えていた。

「中継現場を目視」

 レフがドアへ手をかける。

 「おはようズームアウト」のメインキャスターも、「さて」とその時、芸能コーナーを締めくくっていた。

「芸能ニュースの後は山ガールみっちょんの、お天気コーナーです!」

 その冠、なんとかならないのか。苛立ったところで放送は十五秒刻みのコマーシャルへと突入する。

「コマーシャル明けまで四十五秒の予定です」

 知らせるオペレーターが珍しくも「予定」などと濁すのは、この短時間で都合をつけた情報の信憑性に由来してだろう。ともあれ、ないよりは助かる事うけ合い。コマーシャルを一つ消化したところでワゴンも中継現場を左にブレーキを踏んだ。そのために助手席をあてがわれていたに違いない、ほぼ同時にレフが助手席から飛び出す。

「周辺に警戒対象なし。現場に向かいます!」

 降りたストラヴィンスキーも局前広場をぐるり見回し、レフの後を追う。始まった二つ目のコマーシャルを聞きながら、百々もワゴンを飛び出していた。

 そうして走れば大中小と、広場に姿は連なる。

 とそれは進行方向、広場を挟んだ道路上だ。二人乗り、一台のバイクは何食わぬ顔で滑り込んできていた。ライダーはフルフェイスのヘルメットに革のつなぎとフル装備が印象的で、至って丁寧なブレーキングで路肩に停止してみせる。後ろにまたがっていた人物を、その場に降ろした。

 素振りからして降りた人物は明らかに男だ。ライダーと違いヘルメットすらかぶっていない彼は、黄緑色の半袖シャツにジーンズという軽装が拍子抜けでもあった。ままに駆ける百々たちへ向かい、いや間にある中継現場へだ、歩き始める。

「南側車道よりバイク。二人組。うち一人が現場に接近中」

 見逃すはずもないレフがマイクへ吹き込んでいた。

 視界で男は軽くスキップする。それは見る間に跳ねてつけた助走へ変わると、上背を前傾させてゆく。全力疾走と中継現場へ駆け出した。いや、そんなに山ガールみっちょんのファンなのか。思えないのだから見てとったレフの背も加速してゆく。

「ヤツだッ」

 追い上げて、ストラヴィンスキーの腕が高く振り上げられた。

 だがスタートラインが違い過ぎた。中継現場へは圧倒的に相手が違い。差を埋めることはかなわず、証拠に男はもうみっちょんの背後、並ぶ観客の間へ己が身を割り込ませている。

「はい、ただいま午前九時、四十四分。それでは気になります、今日のお天気はどうなんでしょうか?」

 容赦ないメインキャスターの声に、手配を急ぐオフィスの声が交錯していた。

 もつれそうな足へ百々も血の気が引く思いでムチを入れる。

 だが知ったことかとあのセリフは放たれていた。

「山ガールみっちょんからっ、ズゥームアウトッ!」

 笑顔でキューを受け取ったに違いない。山ガールみっちょんの声は至って高く、同時に観客を割って男はみっちょんの背へ躍り出る。振り上げた手の中に鈍い光りを放つ金属塊はあり、突きつけられたところでそれがなんであるのか、理解できる者こそその場に一人もいなかった。

 騒ぎにみっちょんだけがすくめた首で、少し遅れて振り返る。


 想定外の出費は、店側の都合で中止となったライブの補償でどうにか埋め合わされるのではないだろうか、と考える。

 九時を回ったところで現れた看護師は、気分が良ければいつ帰っても大丈夫ですよと田所へ声を掛けていた。頭の中で特大の鐘を鳴らされているようだった二日酔いもだいぶましになっていたならそれ自体、もう伏せているような病でもない。乱れた寝具を気持ち程度まとめて田所は病室を後にすると、すっかり淋しくなった財布をのぞき込みながら一人、病院のロビーを歩いていた。

 さなか思い出されてならないのは百々の事だ。せっかく夜通しついていてくれたのだから、帰りまで付き添ってくれてもいいんじゃないか。思うが急にヘソを曲げて帰った理由は分からず、今もなお「枕投げ」の三文字が別の痛みを引き連れ頭の芯をうずかせる。

 あれは牽制の嘘だ。それともそうまでこだわる嫉妬深い自分に振り回されているだけなのか。忘れたくとも忘れられず、気にするなとひたすら己へ言い聞かせ続けた。

 知らず百々は「ブライト シート」の後でするつもりだった話をせがんでいたが、そんな疑念を抱いたまま口に出すことこそできはしない。しかも体調が体調なら場所も場所だ。二人で外泊したのか、などと問いただせはせず、いや本音を明かせばたとえ笑ってはぐらかされたところで口に出す腹こそ決まらないでいた。

 奴さえ現れなければ、と唇も勝手と尖ってゆく。

 だがボヤ騒ぎはそのあとで起きたらしい。ハナからうまくゆく予定になかったのだと思い知らされたようで、なおさら痛む頭で田所は深くうなだれた。

 持て余して顔を上げればそこにいるのは受付前に据え置かれたテレビを漠然と眺めて会計を待つ、老若男女の姿だ。ポケットの携帯電話を確かめればすむことだが、それ以上にてっとり早い。様子に田所も、ところで今は何時だろうとテレビを仰ぐ。画面の隅に刻まれた時刻は、九時四十五分。だからして人気番組のメインキャスターは田所の憂鬱などつゆ知らず、お馴染みのポーズを軽快と投げているところだった。

 楽しそうでなによりだ。思い、前へ向き直りかける。がそのとき、笑顔で応じたお天気キャスターの背へ人は飛び込んできていた。どう見てもスタッフではない。見知らぬ男の乱入である。勢いに中継を囲んでいた観客が後ずさっていた。拾い上げられた鈍いどよめきがテレビから流れ出し、コーナーを仕切り始めたお天気キャスターが振り返ったのはその声を聞いたからで、すぐにも乱入者に画面の外へ押し出されている。上がる悲鳴はそこで切れていた。テレビ自体が音を流さなくなったのだ。しかしながら男はテレビカメラを独占すると、ここぞとばかり突き上げた腕で何事かを喚き続ける。

 もう一部始終に釘づけとなっていた。ならさらに田所の目を釘付けにして、その姿は画面へ飛び込んでくる。半日前に会ったのだから見間違えるハズもない。昨日、本当にのされて逃げ帰ったのか。にっくきソリ引き犬こと、あのシベリアンハスキーは猛烈な勢いで男へタックルを食らわせていた。もつれて吹き飛ぶように二人は画面から消えてなくなり、すかさず眼鏡をかけた男も踊り込んでくる。追いかけとどめとクリームイエローのワンピースもまた翻って地面へとダイブした。

 ブ、と田所の口から息は吹き出す。

 これも見間違えようがない。

 最後の一人は百々だ。

 刹那、中継は切れ、白々しいほどすました顔で「しばらくお待ちください」の文字は差しこまれた。



 体幹を押さえつけるレフを援護し、ストラヴィンスキーが金属塊を握る男の腕へ十字固めを決めている。観客はなおさらどよめき、それでも抵抗する男の腹へ、遅れて百々も馬乗りとなった。おっつけテレビ局のガードマンが息せき切って駆けつけてくる。ずいぶん後方を走っていたパトカーも数珠なりと路肩に停車し、中からわらわらと警官を吐き出した。

 そうして全員が全員、暴漢を押さえつけるべく上から上へ折り重なってゆけば、その姿はもうラグビーか何かの試合だ。押し合いへし合いもみくちゃとなり、一体だれが犯人なのか、気づけば百々は弾き出された広場で尻もちをつく。

「ひ、ひょえ」

 この光景を目にしたなら悪いことはするもんじゃないと、つくづく思えて仕方ない。呆然自失で眺め、立ち上がりかけたところで視界に入ったのは路肩に停まったままのバイクだった。この一部始終を眺めてライダーはまだそこにいる。

 「あ」と口は開いていた。きつい日差し以上、瞳孔がライダーへ絞れてゆくのを感じ取る。

 気づいたか、ライダーが思い出したように正面へと向き直った。アクセルを吹かせて体を上下に揺する。

 仲間だ。

 確信したなら笑顔で見送れる道理こそく、なんだかもうそんなシワ加工だったかもしれないワンピースをひるがえす。百々は夢中で地面を蹴り出していた。

「待てッ」

 背へレフの声は飛ぶ。だが百々へ言ったのならとうに手遅れで、バイクに言ったのだとしたらなおさら止まって従いはしなかった。証拠に、マフラーからガスを吐き出したバイクはもう、ヨレるように後輪を振ると走り出している。

 せめてナンバーだけでも確認したい。百々はそんなバイクと入れ替わりで道路へ飛び出す。肝心のナンバーはといえば、折り曲げられてこれがてんで読めやしない。

「それ、違反っ!」

 も、何もない前歴を積み上げている最中なのだが、ともかく襟元のマイクを引っ張り上げた。

「共犯の人がにっ、逃げましたぁっ! バイク、えと、青いバイクでナンバー折られて読めませんぅっ!」

「方向は?」

 不備だらけの内容にも冷静に対応するオペレーターはプロだ。

 聞かれて百々は四方に頭を振る。だがいかんせんこの辺りにはうとい。東西南北すら怪しかった。

「わたしたちの来た方向ですっ!」

「了解、緊急配備、要請します」

 それ以上、追及したところで無駄とオペレーターが返してくれる。言う間にもバイクはみるみる小さくなり、もう血眼だ、百々は必死で辺りを見回した。だがワゴンは広場の向こう側に停められたままと遠く、かくいう百々には免許がない。

 と、迫りくる気配に咄嗟と振り返っていた。

「ストォーップっ!」

 おそらく超能力と魔法の根源は眼力と気合だ。のみで百々は、路上を直進してくる車両を押し止める。

「公安ですっ。ドア開けてっ!」

 慣性に放り出されてハンドルにしがみつく運転手へ駆け寄るなり、ドアを叩いた。

「な、何っ?」

 けんまくに驚き運転手は窓を下ろし、その顔へ理解してもらえようがなかろうが、百々はセクションCTの身分証を突き付ける。

「公安ですっ。今すぐこの車、貸してくださいっ!」

 だが身分証以前、百々自身に説得力がないこと山の如し。

「こ、公安て、おねえちゃんあんた……」

 そこへレフは駆けつけていた。

「逃げたのかッ」

 答える代わりだ。百々は運転手へと訴える。

「バイク、追いかけたいんです。コレ貸してくださいっ!」

 そんなバイクは公園の傍らを海側へと曲がってゆく。睨んだレフが大きく舌打ち後じ去った。そうして見回すのは目の前に停まるこの車体だ。しばし眺めて眉間をうごめかせ、断ち切り回り込んだ助手席のドアを引き開けると、どっかとシートへ腰を下ろした。

「悪いが降りてくれ」

 そうして投げた視線は別段スゴんだわけでもない。だが慣れない人間がこの視線に対抗することこそ至難の業だ。案の定、押し入られた運転手は転がるように逃げ出してゆく。

「ご協力、感謝しますっ!」

 その背を百々はしたこともない敬礼で見送った。入れ替わりで車内へ蹴上がる。

「この身分証、役に立たないんですけど」

 後部座席へ移動した。

「そいつは民間人に提示するものじゃない」

 フロントガラス向こうでは、おっつけ駆けつけたストラヴィンスキーがそんな車体を見上げている。

「てこれ、トレーラーじゃないですか……」

 いや、間違いない。百々が止めたのは後方上段に軽自動車らしい新車を一台積んだ車両運搬車だ。

 もっと他に、とストラヴィンスキーは言いかけるが、そもそも選んでいられる状況にないのだから禁句だろう。受け入れ、その尻を運転席へ投げる。

「とにかくバイク、追跡します。しっかり掴まっていてくださいよ!」

 ゾウ耳がごとしドアを引き寄せ閉めた。


ぶら下がる成田山のお守りを前にめいっぱいアクセルを踏み込む。だが巨体ゆえにかスピードに乗るまでがじれったい。

「その角、右に曲がりましたっ!」

 気持ちでカバーしそれ行けと言わんばかり、後部座席から百々は公園を指さす。従い後方を確認したストラヴィンスキーも、カーブを前に大ぶりなハンドルを全身で回した。

 スピードに乗り始めた車体が空気押しのけ、大きくカーブしてゆく。荷台も騒がしい音をたてると同じラインを描いてカーブをすり抜けていった。

 引き連れるかっこうでバイクは一帯をさらに海へ走ってゆく。

「容疑者は局前公園東側道路を海側、南へ向かい逃走中」

 睨みつけてマイクへ吹き込んだのはレフだ。

「了解。位置は捕捉できてる」

 電波掌握の修羅場から解放された曽我がようやく返してくる。

「この先はどうなってます?」

 問うストラヴィンスキーに百合草の声も聞こえていた。

「海側は周辺二キロが港湾施設だ。東が海水浴場、西が工場敷地といずれも大型車両の乗り入れは難しい袋小路になっている。かいくぐるつもりでそちらへ逃げている可能性がある」

 オフィス側で操作されているに違いない。前方で信号が黄色を点滅させた。バイクとトレーラーはその下を二つ、三つと潜り抜け、灯った赤の下もまた突っ切る。気づけば辺りは積み上げられた野ざらしのコンテナに囲まれていた。切り刻むように道路は敷かれ、疾走するバイクのエンジン音が細く響き渡る。無論、追い上げるトレーラーが排気量で負けるハズもなかった。だが草原を逃げる小動物よろしく右へ左へ角を折れるバイクを追えば、明らかにレーラーは引き離されてゆく。様子を確かめライダーも、向けた尻の奥から振り返っていた。

「この車体じゃ、どうしようもないですね」

「緊急配備は?」

 こぼすストラヴィンスキーに、レフもオフィスへ投げる。

「今やってる。海側は港湾警察にも指示を出した」

「だが本件はシコルスキー抜きだ。上空から追えない以上、一度見失えば確実性に欠く。この場で容疑者を押さえろ」

 返す曽我の後に続き百合草が言い切った。とたん、聞こえでもしたかのように正面へ向き直ったライダーが断続的とエンジンをふかせる。

「それで全開か?」

 挑発的な仕草にレフがじれったげとストラヴィンスキーへと吐いた。

「さっきからベタ踏みですよ」

「車重か」

「まったくオツさん、せっかくの出番だっていうのにアフリカだなんて、ツイてるんだかいないんだか」

 と前方、バイクの後輪が軽く傾いだ。こう何回も仕掛けられたなら、それは百々にもわかるカーブの合図だ。

「あぁっ。また曲がるよ、アイツっ!」

 瞬間、正解といわんばかり振り戻されて車体は深く反対側へ倒れてゆく。それきり吸い込まれるようにして赤い自動販売機の角を右へ折れていった。

「じゃ、このさい軽くするしかないですね」

 レフへちらり、視線を投げたのはストラヴィンスキーだ。

「無駄な荷物だ。ここで降りてもらう」

 受けてレフもまた、背後へと頭をひねった。そこに座っていたのが百々ならば、走行中のトレーラーから放り出されるスタントマン顔負けの修羅場を脳裏に過らせる。

「へっ。あたしぃっ? や、やだっ。ちょっと待ったぁっ!」

 これでもか、とシートへしがみついていた。

「ということで百々さんっ」

 ここぞでストラヴィンスキーの声は張り上げられる。

「そのまましっかり掴まっていて下さいよっ!」

「へぇっ?」

 どういうことかと問い返している暇がない。トレーラーはむしろ加速しながらバイクを追ってカーブへ突っ込んでゆく。曲がりきれない。思えばこれまでにないほどの勢いでストラヴィンスキーはハンドルを回し、サイドブレーキを引いていた。果てに生み出されたのが未曽有の遠心力だったなら、百々の悲鳴もろとも吹き飛ばされつつトレーラーは片輪、浮かせて路面を滑る。斜めと立つ赤い自動販売機がフロントガラスを舐めて右から左へ流れ去り、吹き飛ぶすんでで切り戻されたハンドルにタイヤが喉を詰めたサルのように鳴くのを百々は聞いていた。

 甲斐あって浮いていたタイヤが路面へ押しつけなおされる。容赦のなさに車体は潰れそうに跳ねて軋み、背後でガシャン、と音もまた鳴っていた。伝わる振動は思わず身をすくめるほどで、伸ばして百々はルームミラーに映る光景へ釘付けとなる。積まれていた軽自動車だ。今の勢いに荷台から振り落とされると路面へ投げ出されていた。様子はまさにバックドロップ。いや、ジャーマンスープレックスか。一回転するとさらにもう一回転。窓という窓からガラスを撒き散らせている。

「あ、断然、軽くなりましたね」

 言うストラヴィンスキーは純粋に嬉しそうでならない。

「これで追いつく」

 手段を選ばないレフも助手席の窓をおろしてみせた。

「もっ、物は大事にしようよぉっ」

 百々だけがついてゆけずに涙目となる。

 だが一瞬にして一トン近くの軽量化を図ったトレーラーは確かにぐい、とスピードを上げていた。前でライダーは振り落された軽自動車の音に振り返り、差を縮めつつあるトレーラーに気付いてその車体を仰ぎ見る。向きなおった前方には、湾岸沿いに横たわる道路が丁字を作っていた。

「左、海水浴場側、塞ぎますよ!」

 もう好きにしてください。百々は座席へしがみつく。なら遠慮なくとトレーラーも、左の路肩へ寄っていった。果たしてフォミュラーカーのノーズアンドテールか。巨体で踏み潰しそうなほどにバイクをあおる。

 バイクに勝ち目などない。やがて右へと進路を変更した。様子にトレーラーは完全に左を塞いでバイクの前へとせり出し、丁字路へ出たその時、海水浴場側を塞いで大きくハンドルを切る。

 唐突と方向転換を図った巨体にバイクが初めて減速していた。間に合わず、近づいてくるトレーラーに巻き込まれかけて自ら横転する。滑る車体から破砕されたパーツが散らばった。バイクとライダーは泣き別れ、ライダーだけがトレーラーの荷台の下へ吸い込まれてゆく。潜り抜けて丁字路の突き当りでようやく動きを止めていた。 トレーラーも丁字路のど真ん中を占領すると、とぐろを巻いて停止する。

 真っ先にレフがドアを押し開け飛び降りていた。

 熱せられ続けたトレーラーのボンネットが、カンカンと音を立てている。耳にしつつ百々も救急車と事故処理班を要請するストラヴィンスキーを車内において、レフの後を追いかけた。

 ライダーはヘルメットも重たげに、どうにか路面から身を持ち上げている。だがすぐにも駆けつけたレフに掴まれると、うつぶせと背にヒザ頭をあてがわれ押さえ込まれた。

「仲間がいたらストラヴィンスキーに預けろ」

 指示してレフは、すり下ろされてボロ雑巾のようになったツナギの脇から腰回りまでを手早く探ってゆく。この様子を他の仲間が傍観していないだろうか。百々も周囲へ視線を走らせるが、海水浴場側から走り来る車両はおろか、周囲には何も見あたらない。

 そうして何も所持していないことを確かめたレフは、やがてライダーのヘルメットへと手をかけた。剥ぎ取ると同時だ。驚いたように声をもらす。

「女か」

 聞いて百々も視線を引き戻していた。ヘルメットの中から現れた長い髪と、ツナギの襟からのぞく細い首が、百々の目にもとまっていた。


 ライダーは直後に駆けつけた救急車へ担ぎ込まれていた。無論、女性であったことから付き添いは署の女性警官が務めることとなり、途中でハナにバトンされることが伝えられる。百々はさておき、つまりレフとストラヴィンスキーに出番こそない。

 そんな救急車と同着だった事故処理班の仕事ぶりは圧巻で、鑑識共々、現場を記録。あっという間に路面清掃をすませていた。おかげで昼過ぎにはもうバイクと振り落した軽自動車をレッカー移動。現場から撤収してしまっている。

 トレーラーはと言えば運転手の元へ無事、返却されたそうだが、こつ然と消えた積み荷については申し訳なくもオフィス対応とである。テレビ局前の騒動も、駆けつけたハートが爆発物を回収したことで一段落ついた様子だった。

 いいのだろうか。こんなに経費を使って。

 さびれた貧乏映画館でアルバイトする身なら、染みついた節約根性が百々に抱かせた罪悪感は大きい。

 などと交わした通信の中には百々を不安にさせる話も混じっている。電波掌握は三秒たらず間に合わなかったらしい。とはいえあっという間の出来事だ。放送された自身の姿を見たかどうかこそ確かめて回ることはできないなら、気にしたところでどうしようもないと意識の外に追いやることにする。百合草もこの画像が二度と放送されることはない、そう断言してくれていたのだから、順じて振る舞うに尽きた。

 当然である。SO WHAT 絡みの騒ぎが世に出ることはない。

 怒涛の午前はそこで一区切りがつき百々たちは、レフの運転でオフィスを目指す。何しろ現在、最も警戒せねばならないのはこのテロが失敗に終わったことで引き起こされるやもしれぬ次のテロであり、帰投はすなわち次に備えてだった。

 だからこそ途中、昼食をとってからでもかまわないか、と百合草へ尋ねた百々の脳裏にあったのは、腹がすいては戦は出来ぬと言う名言である。なら百合草も鬼ではない。後にしろ、とは言わなかった。

 しこうして三人は完売していそうな地下食堂のメニューを危惧し、かつて百々がレフにおごってもらったあの中華料理店を訪れる。注文した皿を競うようにかき込んで三十分後、膨れた腹をかかえて退店した。

 時刻はすでに十五時前。

 晴れ渡った空より高く、百々は両の腕を振り上げる。

「ぷはー。もう食べられないよ」

 並んで歩くストラヴィンスキーも別の意味で満足げだ。

「店は知っていましたけど、まさかレフと一緒なら割引価格になるなんて思っていませんでしたね」

 額のシワがサルのような店主は、確かにレフの連れだということで値段の端数を切ってくれていた。

「うんうん。前はおごってもらったから気づかなかったんだよね」

 百々もうなずき、もろともその顔をレフへと向けた。だが毎度たがわずレフが明かして語ることはない。

「もしかしてロシア軍のなんたら、で取引ですか?」

 足はもう、病院の裏口へ差しかかっている。またぎつつ思い出すのはティスティニースタジオ行きのバスで、そのしつこさにようやくレフが口を開いていた。

「ミグで成層圏へ行くにはそれなりに体力がいる。あの店主では楽しめない」

「せ、成層圏? い、一存で宇宙旅行なんて自由にできるんですかっ」

 ならそれすら否定するレフは悪党だった。

「そんなわけがない。知り合いにツアーのパンフレットを送らせた。十分だ」

 聞かされたストラヴィンスキーが、ははは、と笑う。笑えず百々は詐欺師だ、と後じさり、そこでまたもやあの音は鳴っていた。携帯電話だ。性懲りもなくレフの胸元で呼び出し音は鳴り始める。取り出してレフは、またもや無言で耳へとあてがった。

「そうそう、あたしも見とかなきゃ」

 様子に百々も自分のソレを思い出す。急ぎバックをまさぐり、掴み出したところでやおら動きを止めていた。

 前方およそ十メートル余りか。そこに女性は立っている。背まで伸びた髪はこれがプラチナブロンドか。かかるウェーブもゴージャスそのもの、まるで後光と光輝いている。しかしながら重さを感じさないスタイルこそ抜群で、ゆえに近寄りがたいのかと言えば離れていようと見て取れるキュートな童顔が、気取らぬデニム姿が、親しみを抱かせて止まなかった。そんな彼女がここが病院の裏である事も、ましてや日本であることさえ無視して、白昼に迷い込んだ妖精よろしく左右を見回し立っていたのである。

「……」

 きっと午後はいいことがあるに違いない。百々は思わずレフにストラヴィンスキーを手招いていた。

「ね、ね」

 だがストラヴィンスキーはもう駐車場へ降りてしまっており、レフはといえばよほど聞かれたくない電話らしい。返したきびすでどこぞへ向かい離れてゆく。

「ちょ」

 仕方ない。百々は改め彼女へ向き直っていた。なら彼女も前方で、百々へと不意に振り返る。そこにあけすけな笑みを浮かべ、握っていたらしい携帯電話を振り上げると、知らせてぴょこぴょこ飛び跳ねてみせた。

「へ? あ、あたし?」

 思わずにはおれない。

 めがけて彼女も走り出す。

 果たして道を聞かれるのか。なら良き日本の思い出作りを。

 どぎまぎが止まらないのは、話せない英語以上、過剰なビジュアルのせいで間違いなく。だがするりと、彼女は百々をかわしてゆく。

「れ?」

 呆気にとられた百々が振り返ったそこで、レフの腕へ飛びついてみせた。引っ張り振り返らせて、これでもかと笑みを浮かべる。

 目にして百々のアゴはずっぽり抜けて落ちていた。誰だお前は。問う素振りを見せないレフによろめき、腰を抜かしそうになったところで踏み止まる。死ぬ思いだ。ストラヴィンスキーを呼んでスロープを駆け下りていった。

「ふぉ、ふぉとだ、んんっ!」

 奇声に足を止めたその腕を掴んで引っぱり、地上へ引き上げる。これでもか、で百々はレフを指さした。

「なっ、なんかっ、レフが、ふ、ふごい美人に抱きつかれてまふけどぉっ!」

 と状況は、さらなる展開を迎えていたりする。

「ふひゃぁ。ほっぺに、チ、チューとかされてますけどぉっ!」

 どういうわけだか涙目だ。だが眼鏡のブリッジを押し上げたストラヴィンスキーに動揺はない。

「ああ、バービーさん、日本にきてたんだ」

 その呑気さに百々は目を吊り上げ、ブンと音を立てると彼女へ振り返り、違う、と再びストラヴィンスキーへ顔を向けなおした。

「あっ、あたスはバービーは人形しか知りまふぇんけどっ!」

 なら言葉は、そこで決定的と放たれる。

「はい、こちらのバービーさんはレフの彼女です」

 鼓膜の調子がおかしいのかもしれない。

 いや、それより気付けに何か下さい。

「……うっ、うそら」

 百々の目と手と魂はブレて泳ぎ、前にしてストラヴィンスキーは、ははは、と笑う。

「いや、びっくりしますよね。僕だってそうでしたから」

 当のレフはそれが彼女からのコールであったことを示し、携帯電話を胸へさし戻していた。傍らでは掴んだ腕を離さぬ彼女、バービーが、そんなレフを見上げてしきりに何事かを話している。向ける笑顔はまさに天使。月とすっぽん、猫に小判。引用を間違うほどだった。

「そういえば昨日も今朝も」

 見とれてようやくドぢは主追い出す。

「電話って……。服の色とか、油断できないって……。こういうこと?」

 いや間違いないだろう。電話で彼女が来ることを知った。だからレフは着替えたのだ。

「てっ!」

 そうしてひとつ、事実を飲み込んだせいである。

「いつっ? どこでっ? どうやってっ?」

 疑問は押し寄せ、ストラヴィンスキーへと詰め寄れば、後ずさったそのあとで立てた人差し指で詰め寄り返し、覚えてますよね、とストラヴィンスキーに教えられていた。

「ほら、レフ、アメリカで撃たれて病院へ運ばれたじゃないですか」

 確信に触れるのなら、で、ともかく百々はうなずき返す。

「被弾した場所がかなり心臓に近かったんで、骨折とはいえあのあとレフ、用心のため一週間ほど入院していたんですよ」

 それは想像だにしていなかった話だろう。

「まあ当日はなんともなくても受けた衝撃が衝撃ですから、数日後に急な発作で死んじゃうってケース、結構あるそうなんです。経過観察というわけですね」

 やはり命にかかわる一撃だったのだ。百々は眉をへこませた。ならそんな百々へ調子を合わせるように、ストラヴィンスキーは声をひそめる。

「バービーさんとは、そこで」

 つまり、と百々も声をひそめ返していた。

「撃たれた者同士」

 なぜそうなる。

 うなずき返し損ねたストラヴィンスキーが慌てて正す。

「いえ、バービーさんは看護師さんです」

 もう、のけ反るしかない。

「きゃー」

 それは絵に描いたような典型的パターンだった。しかもあの美人が白衣などと想像しただけで反則である。だからそうで、こうなったのなら、爆発的に広がる妄想を止めることなどできはしなくなっていた。だいたいレフが入院したのはたった一週間ではなかったのか。ひと月あまり後にはもうその姿を日本で見ていたりするだけに、ちょっと展開が早過ぎるのでは、と百々のレフを見る目も白く濁ってゆく。

「死にそうだったくせに。ふ……、不謹慎だ」

「あ、いえいえ、それがどうも僕のせいらしくて」

「へ?」

 鼻の頭を掻くストラヴィンスキーは所在なさげだ。

「なにしろあんな人なので、レフ、二日目には帰るってきかなかったんですよ」

 光景は目に浮かぶようでならない。

「だから僕、DVDプレイヤーと映画のソフト、唯一知っていたお気に入りが小熊のチェブだったので悩んだんですけれど、退屈しのぎになればと幾つか持って行ったんです」

 気遣いはさすがだった。

「そうしたら僕が帰った後、レフ、チェブ観たらしくて」

 つくづく好きなんだなぁと、百々は思う。

「泣いてるところをバービーさんに見られたらしいです」

「は?」

 開いた口がふさがらなかった。

「なんだかそれがきっかけで、バービーさんがレフの世話を焼くようになったらしくて。いつの間にかこんな具合です」

 最後に、ははは、と放たれたストラヴィンスキーのはにかみ笑いは意味不明で、見つめる百々も二の句が継げなくなる。ただその映画を観るのは一体、何度目なのかと胸の内でつっこみ、それでも見るたびまだ泣けるのかとブラック監督へグッジョブを送った。ようやく一つ瞬いたなら、最も解せない部分をどうにか口にしてみる。

「な、なにが良かったんだろ。ギャップ萌え、かな?」

 だとして自分ならあり過ぎて引いているところだろう。

「それとも、すんごく哀れに見えたとか」

 ただひたすら奇特な人がいたものだと思わずにおれなくなっていた。そうして改めバービーへ視線を投げたなら、うなずくストラヴィンスキーも同様にレフとバービーを眺める。

「でもまぁ、なんだかんだでうまくいってるみたいで、ハートなんかもう白いツラに色がついたってうるさいくらいですから」

「そ、なんだ」

 だがレフは盛んに話すバービーの声を片耳で聞いたままだ。携帯電話を戻して以来、動いていない。それはもう状況報告をうけているがごとく徹底していた。

「石みたいだけど」

「ええ、ああ見えて」

 とは言え電話も終始無言だったのだから、当然と言えば当然だと思えてならなかった。そうしてついさっきを思い出し、よもやバービーから逃げるつもりだったのでは、とうがる。つまり勝手に世話を焼かれて迷惑だ、などと考えていたならとんでもない身のほど知らずで、しっかり言い聞かせてやらねばならないだろうと考えもした。

 しかしながら幸せそのものと笑い続けるバービーの横顔は、意気込む百々の気持ちすら和ませて止まない。眺めれば眺めるほど次第に怒りはおさまって、言葉も自然、こぼれていた。

「でもさ。これって良かった、ってことなんだよね」

 死んだ人に振り回されるより、美人に追いかけ回されている方がよっぽどましだ。ストラヴィンスキーもニ、と唇を引き伸ばしてみせる。

「撃たれ損はなしです」

 褒められたことをした人ではなかったけれど、ならなおさらブラック監督はグッジョブだったのか。ぼんやり考えながら百々は世の中うまく回っているものだ、とつくづく感心した。

「それにしても外田さん、やたらに詳しいんですね」

 そろそろ行きましょうか、誘うストラヴィンスキーへ投げる。

「報復の件があったので、相互監視のせいで行動がわりあいと筒抜けに」

 どうやらこの数カ月間、監視されていたのは百々だけではなかったらしい。これ以上の邪魔はヤボだと、返すきびすで百々もスロープを降りてゆく。

「よかったじゃないですか」

 唐突なストラヴィンスキーの笑みに首を傾げていた。

「百々さんだけの抜けがけにならなくて」

 すぐにも付け足されてそう言うことか、と笑い返すが、自然、気持ちは複雑なものにならざるを得なくなっていた。抜けがけどころか追い越されたよ。確かめようとしていた携帯電話のこともいつしか忘れ、百々はただオフィスへと足を繰り出してゆく。


 だがレフは十五分も経たないうちに戻ると、何事もなかったかのような顔で百合草へ報告をすませている。

 代わりに百合草から聞かされたのは、テレビ局前の男の身元確認とバイクのナンバー照会が進められているという話であり、おっつけ詳細が知らされるまでは緊急事態を考慮して待機。あいだに本件の報告書を提出しておけ、というものだった。

 仮眠室の向かい、ずっと倉庫だと思っていたスチールドアは資料室のドアだったらしい。表で駆けずりまわるだけが仕事でないなら開き、レフは一点透視法のように並ぶ棚の一角からファイルを取り出している。脇のコピー機でその数枚をコピーすると一枚を百々へ、残りをストラヴィンスキーへ渡し、オペレーティングルームの丸テーブルでそれらを埋めるべく、猛烈な朝が嘘のような地味な作業へととりかかった。

 だが酷かったのは、それからとなる。

 さなか百々は、握ったシャープペンシルの芯側をノックして地味に痛がるレフを目撃していた。引いたままの椅子へ腰かけ転倒しかけるレフに心底、驚かされ、何を考えていたのか女子手洗いへ突入し、悲鳴と共に隣り合う男子手洗いへきびすを返すそら恐ろしい顔のレフに泣かされている。それはもう見てはいけないものを見てしまった恐怖に、曽我へ書類を渡しに行くどころかオペレーションルームへ逃げ帰ってしまったほどでもあった。

 原因は言うまでもないだろう。

 バービーだ。

 思い当たるものはそれしかなく、同時に百々は動揺を越えて奇行に走るレフへ今、この人の運転する車にだけは乗ってはならない、と強く確信する。


 だが十五分も経たないうちにレフは戻ると、何事もなかったかのような顔で百合草へ報告をすませている。代わりに百合草から聞かされたのは、テレビ局前で騒ぎを起こした男とバイクの調査が進められているという話であり、おっつけ詳細が知らされるまでは次の事態に備え待機。あいだに本件の報告書を提出しておけ、というものだった。

 仮眠室の向かい、ずっと倉庫だと思っていたスチールドアは資料室だったらしい。表で駆けずりまわるだけが仕事でないなら開き、レフは一点透視法のように並ぶ棚の一角からファイルを取り出している。めくって数枚、原紙を抜き出すと脇のコピー機でコピーし、一枚を百々へ、残りをストラヴィンスキーへ手渡した。携えオペレーティングルームへ移動するとそれぞれは、丸テーブルで猛烈な朝が嘘のような地味な報告書作りを始めている。

 だが酷かったのはそれからだった。

 さなか百々は、握ったシャープペンシルの芯側をノックして地味に痛がるレフを目撃している。かと思えば引いたままの椅子へ腰かけ転倒しかけるレフに心底、驚かされ、何を考えていたのか女子手洗いへ突入し、悲鳴と共に隣り合う男子手洗いへきびすを返すそら恐ろしい顔のレフに泣かされていた。それはもう見てはいけないものを見てしまった恐怖に、曽我へ書類を渡しに行くどころかオペレーションルームへ逃げ帰ってしまったほどである。

 原因は言うまでもないだろう。

 バービーだ。

 思い当たるものはそれしかなく、同時に百々は動揺を越えて奇行に走るレフへ今、この人の運転する車にだけは乗ってはならない、と強く確信さえしていた。


 がしかし庇護される身の上なら、選ぶ権利などありはしない。

「あの、あたしなら電車で帰れますけども」

 初夏の日差しも色褪せ始めた夕刻。刺し込むフロントガラスを眩しく眺めながらワゴンの助手席でハンドルを握るレフへ百々は訴える。なら今のところまっすぐワゴンを走らせているレフは、百合草と同じ言葉を繰り返しただけだった。

「ドド、一人の問題じゃない」

 それはそれぞれが書類をまとめ終わろうかという頃合いだった。渡会らの手によってバイクの所有者が特定されたことで、午後七時より開始される家宅捜査に同行するようレフへ指示した百合草は、外泊続きもはばかられたなら、明日は「20世紀CINEMA」の早番も控えているからといったん自宅へ戻ることを申し出た百々を、自宅まで送り届けるよう指示を加えたのである。万が一にも何か起これば百々が痛い目を見るだけでなくテログループに屈したことにつながる。それがなおざりにしない百合草の言い分だった。

「もう三人も捕まえたしさ。ちょっとくらいなら大丈夫だと思うんだけどな」

 どうせならストラヴィンスキーの方が安心できたのに。思うがストラヴィンスキーは女性ライダーに付き添ったせいで抜けたハナの穴埋めに向かっている。運転手交代を願い出る理由はもうひとつ、それとは別に渦巻くと、百々はチラリと時刻を確かめていた。だいたい飛行機に乗ってやって来てたった十五分はない、と思えてならないのである。

「ホラ、捜索開始までまだ一時間以上あるしさ」

 促しながら、シートベルトがしっかり体に巻きついていることを確かめる。

「始まっちゃったら夜、遅くなるかもしれないよ。こんなじゃ明日だってどうなるかわかんないし」

 目撃した光景が夢、幻でないなら、ここから先こそ命懸けだろう。覚悟を決めて百々はその名を口にする。

「いつまで日本にいるの? バービーさん」

 ぶち当たるのはそこの電信柱か。

 いや対向車か。

 それともあの自動販売機か。

「ぎ、がっ……」

 来るなら来いで歯を食いしばった。だがワゴンは昼間のトレーラーよりもまっすぐ走り、レフは一言、答えて返す。

「もう帰った」

 力んで縮んだ分だけ伸び上がっていた。

「ええっ。もうって、もう? どうして?」

「仕事だ」

 うるさい、言わんばかりにレフは吐き、説明が足りない、とす百々もすかさず眉をひそめて返す。

「日本で?」

 などといちいち問いただされて面倒くさくなったのか、そこでようやくレフは文章で答えだしていた。

「さっき聞いた。WHOの関係で西アフリカへ飛ぶ」

「おおぅ、空飛ぶナースだ。かっこいい……」

「アウトブレイクの感染症予防スタッフに志願していたらしい」

「ア、アウト? それって?」

「限られた地域での集団感染だ。地域を限定しなければパンデミックになる」

 聞くうちにも降ろしてもらうつもりでいた駅を通り過ぎていた。ワゴンは百々が乗るはずだった列車の走る線路を前にブレーキを踏む。踏切が単調な警報音を繰り返し、満たす車内でレフの手がハンドルを握りなおしていた。

「最初の症例が確認されてから三か月あまり。ウィルスは新型だ。そのワクチン開発が追いつくまでウィルス封じ込めの感染症予防スタッフとして詰めると聞いた。そのための西アフリカだ」

「そういえば渡航勧告が出されたって。朝のニュースで言ってたよ」

 脳裏へ寝起きのテレビニュースがぼんやり蘇る。

「ここへ寄ったのはトランジットの時間を潰すためだ。長話のためじゃない」

 締めくくるレフにそうなんだ、と百々は納得しかけていた。違う、と次の瞬間にも手を振り上げる。

「わ、わわ。だったらよけい、お見送りだってばっ!」

 何しろアフリカへ向かうなら、アメリカ大陸は大西洋回りの方が遥かに近かった。トランジットの合間だという言い回しに間違いはないとしても、日本を経由した地点でついでそのものが成立しなくなる。そうまでして立ち寄る理由など察するに容易い。だけに野暮が過ぎて口にも出せなかった。

「なのに十五分でさようならしちゃったんですかっ!」

「向こうが急に来た。こっちは仕事中だ」

「それ、ひ、ひどい」

 憤慨されてバービーの代わりに百々は泣き、ついでうなだれ、頭を跳ね上げた。

「ね、次の約束とかしてあげた?」

 一瞥するレフに、すでに期待はできそうもない。

「半年後だ。自分の予定が立たない」

「そういう具体的な日時じゃないよ。てか、そんなに長いの?」

「ワクチン開発には最低でも数年はかかる」

「じ、じゃ、いってらっしゃいのチューは?」

 返事は完全にそこで途絶えた。それは言いたくないのではなく、言う事実が存在しないためだと百々は悟る。

 ダメだ。

 なぜかしら百々が焦った。

「飛行機って何時? それじゃかわいそ過ぎるよ。お見送り。飛行場、行こう。いいじゃん。家宅捜査に間に合えば誰にも迷惑かけてないしさ。朝あれだけ飛ばしたんだから間に合うよ。そだ。さっきオペレーターの人と一人、仲良くなったんだよね。コネつかっちゃうよ、コネ。信号、青に変えてもらえるか頼んでみるっ」

 そそくさと端末を取り出すあたり、本人は本気だ。

 遮断機はそこでゆう、と持ち上がっていった。

 代わって遮るレフが冗談はよせ、と押し止める。

「自分で決めたことだ。一人で行ける」

 本人がテコでも動こうとしないなら、信号が青を灯そうと意味がない。

「だからさっき行動、おかしかったくせに」

 百々が口を尖らせたなら食らわせる一瞥は牽制か。残してレフはサイドブレーキを解除した。ワゴンはギッと床下で音を鳴らし、ゆるり踏切へ侵入してゆく。レールの上でタイヤは跳ね、冷えた車内をそのから騒ぎで埋めていった。

「面倒は避ける」

 紛らせ吐いたのはレフだ。

「バービーさんてもしかして、レフに騙されてるんですか?」

 踏切を渡り終えたワゴンを右折させるべく、タイミングを見計らってレフはワゴンを一時停車させ、しばし往来を見回す。やがてねじ切らんばかり、ひと思いとハンドルを切った。

「報復の件がある」

 それこそ忘れていいような話ではないだろう。

「俺とお前は写真に映った明らかなターゲットだ。今も監視されているかもしれない。近親者はソフトターゲットに選ばれやすいが、親戚、友人にまで警護をつけるというのは無理だ。なら接触は控える。相手へ無駄に情報は与えない。いい機会だ。仮想敵なら自衛できるウィルスの方が扱いやすいだろう。そんな場所にはテロリストも近づかない。あいだに必ずロンを挙げて SO WHAT を無力化させる。それまでだ。人を一日に二度も詐欺師呼ばわりするのはよせ」

 言い分を吸い込むように百々は聞いていた。

「じゃ、タドコロも……」

 思い当たるままを問い返す。

「不審者を意識させたのはお前の番犬以外、本人の危機管理能力を引き上げる意味合いがある。怪しいヤツがいると警戒するだけで、万が一の反応は違ってくる」

 文句を言える余地はあっという間に消えていた。むしろ完膚なきまでに言いこめられて口ごもる。田所へのお気遣いありがとう、とさえ言えなくなっていた。

「そんなにバービーさんのこと考えてるんだ」

「うるさい」

 なぜかしら怒られてみる。

「元に戻りたいよぉ」

「状況を理解しろ。無理だ」

 あなたのようにはいきません、と思うがその通り過ぎてただ萎えた。

「バービーさんて、そのこと知ってるの?」

「公安関係だということはカルテで知れる。話せる範囲は俺から話した」

「そっか、それでもああして会いに来てくれたり、バイ菌まみれのところへ笑顔で行ったりするんだ。なんか、すごいね」

 何がだ、と睨むレフに、百々は急ぎ並べ立てていた。

「ほら、バービーさんてあんなに美人で可愛いんだもん。全然イメージ沸かないよ」

「勘違いするな」

 と、そこで変わったのはレフの声色だ。

「あいつはやる時はやる女だ」

「な、にそれ?」

 言うレフの目こそ尋常にない。

「俺は知っている」

 それこそ何を? と百々が目で問い返せば、レフはこもる気迫のままにハンドルを強く握りなおしていた。

「入院した日の夜だ。患部周辺の炎症が原因で熱が出た」

「ああ」

「だが大したことじゃない。半日もすればひくと分かっている。だから俺は解熱剤は必要ないと言った。だがあいつは聞き入れなかった」

「へぇ」

「楽になるからと勝手に尻をめくって注射をうった。しかも帰りぎわ、勝ち誇ったように笑ってだ」

「……え」

 いっとき百々の思考も止まる。

「見た目に騙されるな」

 だがレフに二言はなかった。

「お前もいつか痛い目を見るぞ。くそ。骨さえ折れていなければ阻止できた」

 つまり相当、暴れたらしい。そしてあのバービーが勝利した。修羅場だな、と想像して百々は一人、引きつり笑う。ならこの点を問いたださぬわけにはいかないだろう。

「レフって、注射、苦手?」

「二度と同じようにはさせない」

 聞き流されて確信する。

「なんだかいらない情報だった」

 ついで翌日、病院から帰る、と言い出した理由が解せたような気にもなっていた。その後、チェブに泣かされているところを目撃されたのか、と流れもまた把握しなおす。なるほど。外見が外見だけに一部始終は哀れに見えてならないだろう。なんとなく、うっすら、どうにか、やっとこ、バービーがレフを気にする気持ちが分かったような気がしていた。同時に断片的な個人情報を得ているとはいえ、仕事抜きのレフを知らないことに百々は気付く。果たして普段は、どんな調子なのだろう。

 過ったところで鳴り出した端末に、全ては余談とばかり吹き飛ばされる。

 運転中なら控えるべきだ。レフを制して百々は自らの端末を掴み上げた。イヤホンを抜いてスピーカーへと切り変える。

「レフは運転中。百々です」

「あたしよ」

 ハナだ。返されていた。

「今、病院を出たところ」

 もちろんあの女性ライダーに付き添っていたことを知っていたなら、それだけで過るものはある。

「彼女が次のターゲットをもらしたわ。彼女を押さえた路上より二キロ先。明日開通の地下鉄、その前夜祭として十九時、打ち上げが予定されている花火大会場よ」

「うそ、七時ってもう……」

 案の定、お見送りに一時間はちょうどだとしてもテロリスト制圧に一時間は短すぎる。

「自宅は後回しにするぞ」

 否や、レフがシフトレバーを入れ替える。踏み込まれたアクセルにワゴンはぐんと加速し、安穏と流れ続ける車列を抜け出しUターンした。

「今回は、それだけじゃないの」

 さなか付け足すハナの声は固い。

「打ち上げ開始までに写真の人物を、つまりレフと百々さん、あなたたち二人を現場へよこすよう要求してるわ」


 なだらかにカーブする海岸線の彼方に昼間、激走した港湾施設はひしめいていた。その延長線上に海水浴場前は、ガラリと様子を違えて広がっている。

 現在時刻、十八時四十五分。

 車内で聞かされたハナの話には続きがあった。SO WHAT は指名した百々とレフの二人を広い花火大会会場内も観覧エリアの一角、砂浜へよこせと要求しているらしい。SO WHAT の目印は傘だそうだ。無論、それがパラソルなのか雨傘なのかは不明である。だが現状、日も暮れ雨も降っていないなら、目立つアイテムであることに違いはなかった。

 そうして到着した新設駅周辺は先が見通せぬほどの人であふれかえっている。屋台がひしめき、イカとトウモロコシの甘く香ばしい香りを漂わせていた。並ぶりんご飴は宝石がごとく輝くと、袋にアニメキャラクターがプリントされた綿菓子も風に揺れている。焼き上がった鈴形のカステラは山積みとなり、小腹がすいた時にちょうどのお好み焼きと焼きそばは鉄板の上でこってり油をたぎらせていた。かと思えばお共のビールに炭酸水も、保冷庫の中で氷と静かに戯れている。

 言うまでもなくワゴンは侵入を阻まれ、駅の手前で乗り捨てていた。砂浜までの移動は今、それら屋台の間をすり抜ける徒歩に切り変わっている。

 紛れて歩くレフの足はしかしながら、ワゴンを降りてからひと時も止まっていない。一つ飛び出した頭で終始、目立つだろう傘を探し続けていた。

 たとえば花火の打ち上げに間に合わなかった場合、逆に定刻に間に合った場合、そこで何が起こるのかを女性ライダーは語っていない。そしてそれが言わずもがなの話であるなら、広すぎる現場の緊急配備と格闘しつつ百合草が警戒を促したのは今回もまた支給されている可能性の高い手榴弾についてだ。

「傘を発見次第、報告。こちらから許可するまでそれ以上は近づくな。確保は署員の態勢が整ったのち、一斉に行う」

「相手は俺たちの顔を知っている。向こうから接触してきた場合は?」

 間髪入れぬレフの問いは的を射ている。

「状況が許す限り時間を稼げ」

 砂浜へ散開した署員の声がハナを含め、監視体制に入ったことを知らせていた。レフもまた了解、と低く返し、百々もその背で小さくうなずく。

 果てにすり抜けた続けた群衆の間に、潮の香りは漂い始めた。準じて黒い人波の向こうに屋台の切れ目はのぞき、見定め鼻を突き上げた百々の目に一番星は光る。頭上に広がる空は今や一切の赤みを消し去ると、濃紺の先を透明な闇に浸していた。

「傘は見えない」

 砂浜への入口だ。途切れた屋台の向こうに低い石垣は現れ、目指すレフがマイクへ吹き込む。

「ビーチへ出る」

 全員と言ってもいい数が砂浜を目指していたなら、辺りの混雑はさらに酷くなり、ふいに足裏へと柔らかな起伏はあてがわれていた。騒がしかった靴音はそれをさかいに消え去ると、踏みしめるたび手ごたえのない砂の音だけがこもり辺りを満たしてゆく。

「周辺署員からの目撃情報はなし」

 オペレーターが伝えていた。

 波の音は直後から聞こえだす。誘われて石垣を越えた人々は、味わう解放感のままに砂浜一面に散っていった。

「十八時五十二分。ビーチに到着」

 歩き続けた足をレフが止める。持ち上げた袖口の時刻を読み、その目は目立ってもらわなければ困る傘を探して辺りを見回した。百々も海風にワンピースをなびかせ視線を巡らせるが、薄闇と人ごみのせいで見通しは悪く、一刻も早く見つけたいが見たくもないシルエットこそ視界に入ってこない。

「港湾施設方面へ移動する」

 オフィスへとも百々へとも区別のつかぬ調子で告げたレフが動きだす。見逃してやしないか。視線を残しつつ百々も追いかけ砂を踏みしめた。

「さっきからずっと胃が痛いけど、なんでだろ」

 黙っていられず言ってみる。

「気にするな。ストレスだ」

 言い分はもっともだが、認めればそれこそストレスに負けてしまいそうでならなかった。

「おなか、すいてきたせいかもしんない」

 鼻先に、百々はかいくぐって来たばかりの匂いを蘇らせる。

「焼きそば、おいしそうだったよ」

「十時までならチャイニーズが開いている。屋台のソバより、あの店のソバの方が美味い」

「じゃ、レフが行くならついてこ」

 まったくもってデカいクーポン券だ。

「ホント、好きだよね。あそこ」

 嫌味でもなんでもなく、言っていた。

「習慣だ。気が休まる」

 そっけないが、それは真実だろう。

 花火の打ち上げは沖に設置されたイカダからだと聞かされている。しこうして波打ち際には沖を見つめるカップルやレジャーシートを広げた家族、じっとしていられない友人たちの輪に、仲睦まじい老夫婦やスーツ姿で缶ビールをあおるサラリーマンが長い帯を作っていた。肩車で闊歩する親子は新種の恐竜を思わせ、携帯電話を片手に話し込む横顔は話題を想像させて止まない。車椅子の観客もまた混じっていたなら乗り入れは大変だったろうに、そうまでして見たい花火をいまや遅しと待ちわび付き添いの男性と何やら話し込んでいた。

 言うまでもなくそこにいる誰もが何も知らされていない。ちょうど昨日までの百々がそうだったように、今宵、花火に酔いしれ、帰り、また明日、同じ顔ぶれの中で過ごすことを信じている。いやその通り、単調なその流れを盲目に信じることで人は明日に見通しをつけ、安心を得ていた。だがそうすることが必要とされているように、どれほど日々を寸分たがわず繰り返し実績を積み上げたところで同じようにやって来ないのが「いつもの明日」に違いなかった。失ったばかりだからこそ、つくづく百々は思い知る。

 なら「日常」とは住まう街が象徴するように、徹頭徹尾、人工物だと思わずにおれなくなる。違わず繰り返されはしない日々を、「平穏」で加工した人工物に違いなかった。そうもデザインされた「日常」はだからしてもはやイメージに近く、証拠に個別のあの日を手繰るよりも、幾日かをひとつに曖昧と思い描いてしまう。おかげで未来を描くこともたやすく、駆使することで日常がどれほど危ういものだろうと、追いつかれることなく「明日」もまた創造され続けてきた。

 その、めくるめく追いかけっこ。

 明日を創るための、

 今日という日。

 そのイメージ。

 夢想する、

 ぼむ。

 その時、こもった音は百々の背から聞こえてくる。

 足を止めていた。

 聞こえていたらしい。レフもまたスイッチが切れたように立ち止まる。

 共に抱く予感は、音が連想させたものだ。

 確かめ、そっと振り返っていた。声を掛けるに少々距離のある位置、そこに黒い雨傘は開いていた。

 百々の口から心臓が飛び出しそうになる。

「入口から港湾施設方面へ約二十メートル。傘を発見。今、開いた」

 レフの口は同じ口でもマイクへそう告げていた。

「目視確認、願います」

 オペレーターが散開中の署員を促し、周囲が一斉に動きだす。いや見えずとも気配は肌で感じ取れていた。

 その慌てぶりを楽しむかのようにクルクルと、傘は握る何某の背を隠して回り始める。

「色は黒。観客後方。綿パンツ。色は暗くてよく分からない。白っぽい感じだ。立ったままで海を見ている」

 睨みつけ、淀むことなくレフは状況を言語化してゆく。そこでふいと言葉を詰まらせた。

「車椅子か?」

 確かに暗がりが人と人の輪郭をぼやけさせ、往来も邪魔で仕方ない。レフは自らへ問いかけやがて、確信をもって続きをこう言いなおした。

「車椅子だ。一緒にいる。傘と車椅子だ。それ以外は傘に遮られて見えない」

「こちらに気づいている様子は?」

 確かめる百合草の口調こそ鋭かった。

 見極めるレフは両眼を窪ませ、しかしながら傘が開いたタイミングはこちらを振り向かせるためのものだったのか、ただの偶然なのか、後ろ姿からでは判断できない。

「分からない」

 だとしても百合草の指示は素早かった。

「待機。態勢が整い次第、職質をかける」

 耳に、レフは腕時計へ視線を落とす。

 十八時五十五分。

 砂浜にはもう誰の影も落ちていなかった。海の延長がごとく辺りはブルーグレーの薄闇に満たされている。

 と、陽気に回転していた傘の動きはそこで止まった。漂う緊張感は意識し合うものだからこそ伝播して止まず、傘を乗せた背は捻じれてそうっと、覆いかぶさる傘の影からフードをかぶった横顔をのぞかせる。往来がその姿を遮ろうとも、目じりに宿る邪な光だけはかき消されることがなかった。それきり車椅子に座る何某へ話しかけて、ゆっくり腰を折ってゆく。

 気づかれてたんだよ。

 思うが声は出せなかった。百々はレフのジャケットをただ引っ張る。なら発見時あれほど早かったレフの手は、どこか観念したように緩慢とマイクへ伸ばされていった。

「いや」

 自らの報告へ訂正をかける。

「今、振り返った。気付かれている。奴らがそうだ」

 おっつけイヤホンの向こうから目視確認を知らせる署員らの声が流れた。

 どうするのか。百々は咄嗟にレフを見上げる。一息吐いたレフもまた、そんな百々を見下ろしていた。表情はとてつもなく険しい。だが状況に比例していたなら百々に恐いなどとは思えなかった。

 そんなレフが前へ向きなおる。

「接触する」

 辛うじて整った段取りに、今回こそ待ての声はかからなかった。

 近付き歩き出せば傘も閉じられて、介助者は波打ち際へ車椅子を押し出し始める。少々強引な行軍に座り込んでいた前方の観客たちが尻をすって道をあけ、砂に車輪が埋まったところで車椅子は動きを止めた。

 レフがその斜め後ろで歩みを止める。百々も並べば、肩先へアゴ先を埋めるように振り返った介助者の横顔を目にしていた。

「この時間帯に黒い傘は見逃しかねない」

 投げたのはレフだ。目は爆発物を、不審物を探してそんな介助者の全身から車椅子までをくまなく見回している。

「にちぼつは、じゅうくじじゅうごふんです。やみにからすは、そのあとですよ」

 しかしながら聞こえた声は、介助者のものではなかった。車椅子だ。証明して人差し指と中指に挟まれた写真は一枚、車椅子からの向こうから宙に晒される。「ベガスビッグビューイング」の決定的瞬間は、花火を待つ人の背に重ねられていた。

「まにあわないかと、おもいましたよ」

 目にしてわずかにレフの眉間が詰まる。

「なら仲間にもう少し早く教えるよう言っておくべきだ」

「だったらいろいろ、じゅんびするじゃないですか。ぼくたちだって、すこしはたいとうにやりたいんです」

 それきり写真は引き戻されると、乱雑に破られ砂へとバラまかれた。せいせいしたと言わんばかり、その手が車椅子の車輪を握りしめる。込められた力を察して介助者も手を貸せば、車椅子は砂の上で百八十度と向きを変えていった。年齢は十代中頃か。黒目がちな瞳が印象的な少年はそこに腰掛けていた。少なからずその人物像に意表を突かれる。おかげで釘付けとなったことは否めず、しかしながら季節にそぐわずしっかりかけられた分厚いひざ掛けには何をさておき警戒すべきだったろう。

「おかげで、こうしょうするじかんは、なくなったみたいです」

 被害を大きくするなら、ほどなく観客が集まりきった花火の打ち上げ開始時刻もはずせなかった。セオリー通りと少年は暑いからでもなんでもなく、そのひざ掛けをひと思いと引き剥がす。細い胴へ巻き付けられたごついベルトを二人の前に晒してみせた。そのベルトにはクリーム色をした粘土の塊が三つ並んで貼り付けられている。傍らにはデジタル時計も添えられると、すでに「3」を灯していた。

 音もなく表示が「2」へ切り変わったときだ。少年は「全ての娯楽に粛清を」と叫び、きびすを返したレフが「C4」と知らせて「伏せろ」と周囲へ怒鳴りつけた。

 騒ぎに振り返った人々が刺すような視線を投げている。

 浴びて百々もあとじさった。

 桜色のシャツはそんな百々の視界に広がり、直後、感じた痛いとか、重いとか、砂を食わされたとか、悲喜こもごもを追い越して炸裂音は鳴り響く。

 観客の間からわあっ、と声は上がっていた。

 讃えて拍手が吹き上がる。

 時刻は七時。

 濃紺の空にエメラルドグリーンの花は大きく開いて、誰もの瞳を輝かせていた。続けさま赤く大玉も打ち上げられたなら、それでも規則正しく呼吸を繰り返す少年の腹を明々と照らし出す。

「う、うそだ」

 目が覚めたように介助者が動き出していた。車椅子を砂の中から引き上げようと奮闘するが思うようにゆきはしない。

 スキに署員が、ハナが、頭上に咲き乱れる花火をかいくぐり駆け込んできた。砂を蹴散らし次々二人へ飛びかかってゆく。引き千切り、引き千切られるような抵抗と格闘には罵声と呼べるものがまるでなく、ただ少年の細い声だけが恨みがましく響き渡っていた。

「うそだ。ろんさん。こんなのぜったい、うそなんだ!」

 聞きながらレフが身を起してゆく。かぶった砂を振り落とし、それ以上、動けないでいる百々の体を砂の中から引き抜いた。

「痛いよ。重いし。砂、食べた……」

 一部始終を前に、周囲で観客の目は花火以上、丸くなっている。照らして打ち上げられた花火だけが、弄ばれた一日を優雅に見下ろしていた。

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