鎧(よろい)の風鈴 鳶(とび)が見下ろすそこには親父がいた
昭和の汗臭いころの話。
俺は荒くれものだ。社会のはみ出しものだ。
家も中学を卒業して飛び出した。十五年になる。だが、運よく鳶職として今がある。
いま、鉄骨のうえに立ち、見下ろす先には俺が出て行った家がある。
悲しく悔しい思いであふれている。若くして死んだ母。横暴な土建業の父。家の庇にぶらさがった鉄製の風鈴が揺れる……
九月になるというのに、殺人的な太陽が降り注ぐ。
地下足袋からは、肉を焦がすような熱さが伝わり、ヘルメットの内側からは熱湯となった大粒の汗が流れだす。
「くそったれ。親父の死にぞこないが!」
思わず、悪態が口をついて出た。
いったはなから、すぐ首を横に振る。
よけいなことを考えるな。
いまは仕事に集中だ。
俺が立つ鉄骨は三十メートル以上の高さになる。
周りには何も妨げるものはない。
霞がかかった空間の、それも遠くに、都会の高層ビルが見える。
ロープに命綱である安全帯をひっかけて、肩幅もない狭い鉄骨のうえを歩く。
ビルの骨組みをつくる鉄骨工事は最上階部分を残すだけとなっていた。
俺は所定の位置に立つと、タワークレーンで引きあげられる梁用の鉄材を待つ。地の底から這いあがってくる大蛇さながらに、ゆっくりと揺れながら、浮き上がってくる。
作業手袋をはめた手のひらを握ったり開いたりしながら、さあ、来い、と待ちかまえる。
昭和五十一年、第一次オイルショックのあと、中小企業の倒産が相次いで、日本は不況にあえいでいた。
鳶の親方である鷲崎さんはよくこぼしている。
「でかいニュータウンが建設されているが、そこの仕事ができたら何年もの間、金の心配はいらねぇのによ」と。
荒くれて、箸にも棒にもかからならなかった俺を、助けてくれたのは鷲崎さんだ。
中学卒業とともに家を飛び出した俺は、職を転々とするうちにドヤ街に流れついた。
そこで、日雇いの仕事をするうちに、鳶の仕事と相性がよかったようで、今の親方の鷲崎さんに拾われて本職の鳶となった。
鉄材が来た!
もうひとりの鳶と俺とで両端をしっかりとつかむ。
万が一、落下させようものなら大事になる。
タワークレーンで吊り上げられたままの鉄材を、俺たちは一ミリも狂わない位置に合わせる。
一本、一本、確実にボルトをスパナでとめる。
最後の一本を締める。
ボルトの漏れがないかを確かめると、鉄材からワイヤーをはずして、いっちょうあがりだ。
今回の仕事は、大手の萬友不動産が施主の八階建ての中層ビルだ。
完成したあかつきには、いろんな店舗が入る。
目の下に広がる、老朽化した町に、少しは賑わいを取り戻してくれるはずだ。
たまぁに……。
俺は組み立てられていく鉄骨のうえで、仲間たちから離れて、西側の角に立ち、町を見下ろす。
ちっぽけに映る屋根やねが四方八方に連なる。
どいつもこいつも古びてくすんでいる。
そんな屋根瓦の間を、舗装された道が十字を描くように走る。
幅は狭く、車がすれ違うのがやっとだ。
このあたりは年寄りだけが残り、その家々も老いている。
鉄骨のうえにとまる俺は、住人たちからしたら、電信柱に止まる烏のようなものだろう。
烏は老いぼれた町の一件の家に目をとめる。
建設現場から二十メートルと離れていない、青い瓦屋根の二階建ての家だ。
瓦はところどころ欠け落ち、モルタルの壁は薄墨を塗ったように汚れている。
下の階には、夏の日差しをさけるためによしずが立てかけられていて、濡れ縁がよしずを通して透けて見える。
かれこれ十五年間、一度も帰っていない俺の家だ。
そして、隣の小さな三階建ての煤けたビル――。
遠目にも、壁にいくつもの亀裂が走っている。会社の看板も外され、今では使用されていない。
そこで、昔、俺の親父が土建屋をやっていた。
この日も気がつくと、青い瓦屋根を見下ろしていた。
「おい、恭太。気になるか?」
振り向くと、鷲崎さんが鉄骨のうえをスルスル歩いてくる。
黒く日焼けした額には、屋外で働く職人特有の深い皺が刻まれている。
「いいや……。そんなことはありませんよ」
俺は言葉を濁した。
肩を並べるところまでくると、鷲崎さんは下界を見る。
「お前の家があんのだろう? あの青い瓦屋根か」
いまの俺以上に、鷲崎さんは俺の家の事情を知っていた。
俺が返事をしないでいると、「一度、顔を見せるのもいいか……」と、ひとり言のようにいう。
しばらくふたりで町を見下ろした。
そのうち鷲崎さんが、「古い家が多い地域だな」とつぶやいた。
それにはこたえた。
「そうっすね。瓦屋根を見るだけでわかりますね。年寄りばかりが、住んでいるんですよ。家が古くなっても、補修する金がなく、ほうりっぱなしだ」
フム……、と、返事ともつぶやきともとれる息をひとつ残して、鷲崎さんは離れていった。
この町の住人を年寄りばかりだといってしまったが、鷲崎さんの年齢も六十歳に手が届こうとしていた。言葉の選び方を間違った……、と悔いた。
ひとりになると、汗が染み込んだ左腕の袖をめくった。手首から少しうえの前腕に、トカゲの大きさほどの赤黒い痣が走る。
俺にとっての黒歴史だ。
もの心つくころから、俺の家にはヨシさんという人が同居していた。
戦後、親父が土建業を立ち上げたころから、一緒に働いていたという。
所帯を持たなかったので、親父の家のすみっこで、部屋をひとつもらい、使用人として暮らしていた。
当時、かなり歳をとっていたから、今は生きているかわからない。
俺は十五歳までに家にいたから、そのヨシさんから、母のことも含めて昔のいろんな話を聞いた。
寒い冬のことだ。俺は幼くてまだ十分に歩けなかった。
親父と、母と俺の三人で、当時はどこの家庭でもあった火鉢を囲んで暖をとっていた。
母に抱かれていた俺は泣き止まなかった。
その泣き声をうるさいと怒った親父は、感情にまかせ手をあげた。
どうやら俺をあやさない母に手をあげたようなのだ。
そのとき、運悪く、火鉢に立てかけられていた火箸に、親父の指が引っかかった。
焼けた火箸は不運にも宙に舞い、幼児である俺の二の腕にあたった。
子ども服を焼き、幼児の柔らかな肉に、いまも赤々としている火傷の跡を残した。
そのときのことは、幼かったため、あまり記憶に残っていない。後日、ヨシさんから聞いた話だ。俺が覚えていることといったら、火傷したことよりも、そのときの親父へ向けた母の怯えた表情だ。
母は親父に殴られる恐怖に顔を歪めた。
いつも母は親父に殴られていた。そんな記憶しか俺にはない。
青い屋根を見下ろしながら、舌打ちした。火傷で感じたであろう熱さと、ギラつく太陽の暑さが重なった。
高層での仕事はまだまだ続く。
左腕の袖をもとに戻し、所定の位置へと中空の鉄骨のうえを移動した。
しばらくしたら、新たな鉄材がタワークレーンで持ち上げられる。
夕刻になり、仕事を終える。
俺たち鳶仲間の計七人はマイクロバスで帰りの道を走る。
隣接する地域にある、鷲崎さんの鳶請負の看板を挙げた会社へと。
今回の現場で、鳶の俺たちは鉄骨工事と足場工事を請けおっている。
鉄骨工事とは、人間の骨にあたる部分で、ビルの骨格を組み立てるものだ。
いっぽうの足場工事は電気、機械、塗装工などの職人たちが、作業するための足場を組み立てるものだ。
足場まで完成したら、いったん俺たちは現場から離れる。
建物がほぼ完成して足場が必要ないとなったら、今度は足場解体に呼ばれる。
バスの一番後ろに席をとったら、その隣に鷲崎さんがすわった。
「今日も寄ってやらなかったか……」
ボソッと俺だけに聞こえる声でいった。
「毎日マイクロバスでみんなと一緒に帰ることもあるまい。仕事終わりに、ほんのちょっと顔を見せるだけでいいんだぜ。あとは恭太ひとりで電車で帰ってくりゃいい」
鷲崎さんは、俺にとっては、育ての親のようなもんだ。
俺のことを可愛がってくれて、鳶職として一人前にやってゆけるように育ててくれた。
せっかくいってくれているのに無下にするのもどうかと思うが、だんまりを決め込んだ。
国道を俺たちが乗ったマイクロバスが走る。暮れゆく景色が流れる。
現在の親父の状況が、鷲崎さんの耳に伝わったのはひょんなことからだ。
ビルを建設するとなれば、大手建設会社が受注するが、建設地近辺のいくつもの下請けが関わってくる。
業種も土木、電機、内装など多岐に渡る。
鷲崎さんの会社は鳶作業を請け負う。
鷲崎さんも加わって、建設地で打ち合わせをするうちに、近辺の下請けどうしは顔なじみとなり、噂話が流れたりする。
雑談で、ひとりの土木の関係者が、看板の外された親父の会社を見て、ポツリと漏らしたそうだ。
「昇竜土建(俺の親父の会社だ)さんは、もう看板をおろしているけど、あそこの社長はもう長いことないらしいぜ」
すると別の関係者も、
「元気なころは、えれぇ勢いで仕事とっていたけどな。それも、ずいぶん昔の話だ。身体を壊して、七十歳も過ぎて、跡継ぎもいねぇんじゃ、もう会社畳むしかないか……」
と感慨深げにいう。
「粗暴なところもあったが、気のいいところもあったな。世話になったやつも、多かったんじゃないか?」
そんなやりとりがあったことを、鷲崎さんは俺に聞かせてくれた。
ずいぶん前の話らしいが、親父の会社と鷲崎さんとは、たまたま一緒に仕事をする機会があった。
そのとき、まだ鳶の会社を持ったばかりの鷲崎さんは、年長の親父に業界の習わしなどを教わって、世話になったそうだ。
ドヤ街で俺を拾ってくれたのも、あの社長さんの息子、ということもあったからだそうだ。
そんなことで、親父の窮状を知った鷲崎さんは、いくら仲が悪い親子でも、このまま一生会わないのはおかしい。
一度ぐらい顔を見せてやったらどうかと、いうのだ。
この日も雲ひとつない晴天だった。
鉄骨の組み立て作業は続く。
鷲崎さんの言葉が気になっていた。
待ち時間があると、カラスの習性のように、鉄骨の西側の同じ角に行き、足を止めた。
見下ろすと、この日も廃屋となった三階建てのビルと、その横に並ぶ、古びた青い瓦屋根の家が変わらずにあった。
濡れ縁に立てかけられたよしずはそのままだ。
いつのころから、俺は親父を憎みだしたのだろう。
ぼんやりとしか記憶のない幼児期からだろうか、いやそのあとの小学生のころからだろうか?
いずれにしても、自らの記憶と、ヨシさんからの話で俺は親父を憎みだした。
ヨシさんからは、腕の烙印のこともだが、母の若いころの話も聞いた。
か弱かった母――。
いまはもう、この世にはいない。
親父と歳の差が親子ほどもあった母は、二十四歳という若さで死んだ。
母はもとから線が細く、身体が弱かった。
そのうえあの親父だ。
気が短く、何かといっては手をあげる。
あんな親父とはさっさと別れていたら、もっと長生きできただろうに。
温厚で子ども好きのヨシさんは、いつも俺に寄り添ってくれた。
一人息子の俺が、将来、親父の会社を継ぐものだと、信じて疑わなかった。
そんなヨシさんは、この先、周りの同業者などから、俺の耳に誹謗や中傷で伝わるより、すべて知っておいたほうがいいと考えた。
俺が中学になるころ、親父のことも母のことも、
「憎んじゃいけませんよ。おふたりとも恭太さんのことを愛する気持ちに変わりはないのですから……」
と色々教えてくれた。
昭和二十年。いまから三十一年前になる。
敗戦により焼け野原となった街で、当時、既に四十歳半ばだった親父は、これまで土建業で使われの身だったが、混乱した時代をチャンスとみて、同じ土建仲間で年長だが、気の合うヨシさんを引き連れて、会社の真似事を始めた。
従業員には困らなかった。
周囲にあぶれている職なしの男どもを簡単に雇えた。
そんななか、空襲により半壊した家で、ひとり雨露をしのいでいる当時十八歳だった母を見かける。
母は教員の両親を空襲でふたりとも失い、ひとりぼっちになって、生きる望みを失っていた。
嫁のいない親父は、そんな哀れな娘に目をつけた。
無学で、力だけで生きてきた親父からしたら、本来関わるはずもない娘だったが、戦後の混乱期なら、自分のものにできると考えた。
親父は押し売りのように、母に食糧を届け、焼け落ちた家も土建業の強みを活かして補修した。
一年もしないうちに、親父は歳の離れた母を自分の若妻とした。
風が吹いた。鉄骨の揺れを楽しんで、バランスを崩すことはない。
ニッカポッカが、パタパタと旗のようになびく。
「おーい。上がってくるぞ」
碁盤の目のように組み合わされた鉄骨の、向こう側に立つ鷲崎さんが合図を出す。
玉掛けが始まる。
地上に横たわっている鉄骨に、ワイヤーロープをかけ、クレーンで吊り上げる。
同じように鉄骨の上に乗る仲間から「ウォース」とかけ声がはなたれる。
俺も声を出して気勢をあげる。
小さくなった家々の屋根を見下ろし、霞んだ遠くのビルを眺めていた。
待ち時間は終わった。
空の連中が慌ただしく動く。
所定の位置へスタンバイする。
三歳のとき、母と遠くへ旅した記憶がある。
このときのことも、幼い俺は事情が分かっていなかった。
後日、ヨシさんから聞いた。
当時、母は二十二歳。
親父との間に俺という子どもがいるといっても、無理やり結婚させられたものだ。
結婚生活は幸せなものではなかった。
朝早く、母に手を引かれ、乗降客であふれる上野駅を歩いた。
幼い俺は何がなんだか分からなかった。
母には、ただ、「おじさんと遠くにいくからね」といわれた。
俺の足が遅いとみるや、母といっしょにいた若いおじさんが俺のことを負ぶってくれた。
三人の旅だった。
母はもっと違った生活をしたかったのだろう。
いや、別の人と生きたかったのだろう。
親父の会社の従業員と駆け落ちした。
上野駅から国鉄東北本線に乗り、長い時間電車に揺られた。
隣の席には母がいて、向いの席のおじさんも優しかったので苦痛じゃなかった。
岩手県の盛岡というところに着いたときにはすでに日暮れ時だった。
盛岡も中心地から外れて、バスで奥へ入ったところに、母と一緒にいたおじさんの遠い親戚が住んでいて、そこの離れの、古びた小屋のような家に泊めてもらった。
おじさんは復員兵で母より少し年齢が上だ。
生きて日本に帰ったところ、空襲で父母も妹もなくし、ひとりっきりになった。
職にあぶれて焼け跡をウロウロするうちに、他の従業員と同じように、親父の会社に拾われた。
読書が好きなこともあり、教員の娘であった母とは話があったようで、従業員のお茶の世話をする母とは自然と親しくなった。
盛岡の小さな家で、おじさん、母、俺の三人で、何日か過ごした。そのときの母の表情は穏やかで、楽しそうだった。
子ども心にも母の和らいだ顔を見て嬉しかった。
そんな、心安らかな三人の生活はすぐに終わりを告げる。
秋のはじめ、温かな日が濡れ縁に差し込む。
俺はひとりで、当時、子どもの間で流行っていた、めんこ遊びをしていた。
いきなり、野太い声で名前を呼ばれた。「恭太!」
カンカン帽をかぶって白のスーツを身にまとった親父が、俺の前に姿を見せた。
「とうちゃん!」
まだ、そのころの俺は幼く、ときたま頭をはたかれても、親父を憎む気持ちはなかった。
喜ぶと、濡れ縁で立ち上がった。
「元気だったか」
親父が俺を抱き上げると、家のなかから真っ青な顔をした母が飛び出してきた。
おじさんは家のなかに入ったままだ。
おろおろする母に、親父は、しばらく庭で俺と遊んでいるようにいった。
親父が靴を脱いで、濡れ縁に乗り上げると、庇にかかっていた風鈴に、カンカン帽のつばが当たって、カラコロと鈍い音を立てた。
あとで知るのだが、その風鈴は地元岩手の名産品で、鋳物でできた南部風鈴だという。
このときの音は幼い俺にも、妙に耳に残った。
わずかの間、親父は風鈴を見つめた。
奏でる音に聞き耳をたてた。
まるで自らを鼓舞するためのように。
親父が家のなかに入ると、庭に取り残された母は、俺の顔をきつく胸に押し当てた。
口から鼻まで圧迫されて息ができなかった。
母は声をあげて泣いていた。
そのとき、俺はここで、抱かれたまま、死んでしまうのかと思った。
気が遠くなりかけたとき、いきなり強い力で母と俺は切り離された。
親父が家から出てきたのだ。
親父は分厚い手のひらで、二度、三度と母の頬をはった。
その後、親父に連れられて、母と俺はその古びた家から出た。おじさんは家のなかでどうなったかは知らない。
今度は国鉄東北本線を、親父と母と俺の三人で乗った。
親父はずぅっと黙って窓から外の景色を見ていた。
その右手の拳には、怪我をしたのか、ハンカチが巻かれていた。
いっぽうの母は泣いてばかりいた。
頬が真っ赤に腫れていたのをおぼえている。
長い電車の旅だったが、一睡もできなかった。母のすすりなく声を聞いて、俺も泣いていた。
青い瓦屋根の自宅に戻ったあと、もとから元気がなかった母は以前にもまして弱っていった。
機嫌の悪いときもあった。
そんなときは幼い俺も叩かれたようなおぼえがある。
でも、俺は叩かれても、泣いたあと、母の機嫌が戻ったことを確かめると、くっついていった。
母のことが好きだった。
悲しいことに、俺が小学校に上がる前の年に、母は病気で死んだ。
俺は母の死後、明けても暮れても泣いた。
子ども心に母のあとを追って死にたいと思った。
いっぽうの親父には憎しみばかりが残るようになった。
同じ叩かれるにしても、母と違って、親父のは暴力だ。
親父に叩かれたことは、そのときの痛さから悔しさまで、はっきりと覚えている。
小学、中学と学年があがるごとに、俺は荒れていった。母がいない寂しさを紛らわすために、周りの子どもたちと喧嘩をした。
喧嘩をするたびに、親父は学校に呼び出され、真っ赤な顔をして帰ってくると、決まって俺にビンタをくらわし、蹴った。
学年が低いころは、それでも黙っていられた。
だが、中学卒業の日に、俺のほうも忍耐の限界をこえた。
卒業式のあと近くの河原で喧嘩相手を叩きのめしたことが、学校に伝わり、最後の最後で、親父は学校に呼び出された。
「こんなことじゃ、決まっていた高校も入学取り消しだ!」
校長に脅されたのか、親父は怒り狂って、俺を殴った。
その日の親父の暴力はひどく、俺のほうも我慢できなかった。
俺はもうガキじゃないんだという気持ちと、親父が死んだ母に辛く当たっていた恨みもあって抵抗した。
そして十五歳の俺は、還暦を迎えた親父を叩きのめし、ヨシさんが止めるのも聞かずに家を出た。
足場のうえに俺は立っていた。
乾いた秋風がニッカポッカの股の間を吹き抜ける。
ビル建設工事は順調に進み、鉄骨建方を終え、足場の組立に移っていた。
地上から支柱を立て、下から順番に一段、二段と足場となる踏板を積み上げていく。
取りつけた階段を昇り降りして、支柱や手すり、踏板を運び、ハンマーで叩き、支柱と手すりの接合をする。
残すは最上部の足場となっていた。
いつもの西側の一角で足を止めた。
この日、青い瓦屋根の家の外観が変わっていた。
一階の屋根に立てかけられていたよしずが取り外されて、濡れ縁を見ることができた。
強い日差しを避ける必要のない季節に変わっていたのだ。
目を凝らすと、その古びて灰色に朽ちかけた濡れ縁の上を、小さな黒い影が揺らめいていた。
最初は蜻蛉が軒の近くを飛んでいるのかと思った。
しかし、よく見ると、軒に吊るされた風鈴であることがわかった。
秋の訪れとともに外さなかったのか……?
俺は風鈴に目を奪われて、ずいぶんの間、足場の上で止まった。
これまで、思い出すことがなかった、遠い日の一日が蘇っていた。
岩手の古い家の風鈴は、母がいっしょだったため鮮明に記憶に残っていたが、それとは別に、もうひとつ俺には風鈴の思い出があった。
四歳のときだ。
夏祭りの日、親父に手を引かれて歩いた。
母は、岩手から連れ戻された後体調を崩し、家でふせることが多くなり、外出はしなくなった。
神社の境内には、みたらし、氷、オモチャなどの屋台が並び、そのうちのひとつで風鈴を売っていた。
可愛いいキャラクターの子ども向けの風鈴に混じって、大人しか興味を持たない通常のものも並べられていた。
幼い俺は風鈴には興味がなく、露店の前を通り過ぎようとした。
すると、親父が引きとめ、欲しいものがあるといった。
節くれだった指で鉄製の風鈴をつまんだ。その風鈴は錆びたような色合いで鐘の形をしている。
美しい装飾は施されていない。
そのあと、親父は、購入した風鈴を片手に吊ると、俺の手を引いて屋台が並ぶ参道を歩いた。
当時の俺の興味は風鈴よりも別のものだった。
「食べたい」というと、かき氷屋の前で止まってくれた。
親父は普段は優しく、俺の頼みをきいてくれた。
小さな両手で受けとったのは、貝の殻のような形をしたウエハスの皿に、紙のスプーンのついたかき氷だった。
喜び勇んで紙スプーンを持ってかき氷をほおばった。
すると氷の冷たさで、歯の奥から頭のてっぺんまでキーンとした痛みが走った。
氷の冷たさを教えてくれなかったのが悪いと、俺は目に涙を浮かべて、隣に立つ巨木のような親父を見上げた。
当時すでに五十歳を過ぎて胡麻塩頭だった親父は、
「かき氷ってやつは脳天に突き刺さるように痛いだろう」
と太い眉毛の下で目を細めた。
親父は、買ったばかりの鉄製の風鈴を、俺の目の前で揺らした。
カラカラと硬質な音を奏でた。
「どうだ? この音。こいつぁ、硝子製の風鈴とは違う。硝子製は、おまえがかき氷を食ったときのようにキンキンと頭に響くけど、こいつは決して耳障りじゃなく、鈍重な音が、力を感じさせてくれるんだ。見た目から、昔の武将の『鎧』を感じさせねぇか。なんだかよう、家族を守るために、俺に闘えっていってくれているようなんだよ」
親父が気に入って購入した風鈴は、鋳物で作られた岩手県産の南部風鈴だ。
鈍い光と鈍重な音が、子供心にも五月の節句の兜を思い出させた。たくましさ、力強さは、親父そのもののように思えた。
そのいっぽうで、俺は、母と東北本線に乗って立ち寄った、おじさんの家にも同じものがあったことを思い出した。
小さな子どもにも異様な記憶が残っていた。
母の胸に抱かれ、息ができなかったこと。
俺から引き離された、母が親父を見る憎しみの表情。
おじさんといった家にもあった風鈴を、母がどう思うか気になった。見るのが嫌じゃないのか?
「その風鈴。お母さん。見たらよろこぶかなぁ?」
子ども心に心配になって聞いた。
親父は黙って、彼方を見るような目をしたと記憶している。
母はその一年後にこの世を去った。
心地よい風が流れた。踏板が揺れている。
俺がいる足場から見えるひっそりした青色の瓦屋根。
その軒下に忘れ去られたように吊るされた鎧の風鈴。
小さな黒い影となって、風に吹かれ上下左右に動き、ときには空中でとまる。
その姿に引き寄せられるとともに、親父の姿はぐいぐいと、俺の胸に入り込んでくる。
中学を卒業して、家を出るときヨシさんは俺にこういった。
「いつも親父さんが悪かったわけじゃない。奥さん(俺の母)は結婚した当初から親父さんのことを好きになれず、精神的に不安定になっていたのですよ。そのこともあり、子どもである恭太さんに暴力をふるっていたのですよ。火鉢の火傷は不可抗力ですよ。奥さんが恭太さんの手を引っ張って、火鉢に入れようとしたところを、親父さんが止めようとして火箸が跳ねたのですよ。これが真実ですよ。親父さんは、不器用で自分の気持ちをうまく伝えられず、手を挙げることがあっても、なんとかして奥さんと恭太さんを守ろうとしてきた」
十五歳の俺は、そんなヨシさんの言葉、信じられなかった。
いつも母が好きで、親父が嫌いだった。
たとえ母に叩かれようと、口を塞がれようと。
軒に吊るされた風鈴の、にがみばしった音がここまで聞こえてくるようだ。
親父が愛した風鈴。
母の愛を自分のものにすることができなくても、母とその息子である俺を守ろうとした親父の声だ。
きっと、つらかったのだろう。自分の気持ちをうまく出せず、つい手が出てしまう。
そんな親父の気持ち、子どもだったころの俺には想像なんかできやしない。
過去の誤解も憎しみも時間とともに変わっていい。
俺はきっとこの現場があるうちに、よしずが取り外されることを望んでいたのだ。
親父の思いがこもる鎧の風鈴を見るために――。
見下ろす先に小さく映る濡れ縁に、いまにも親父が姿を見せそうだ。
その姿は、いまもって頑強でいかめしく、そのうえ怖い。屈強な鎧をかぶっている。
まるで鎧で母への愛情を隠すかのように。
今日、鷲崎さんに伝えよう。
帰りにはマイクロバスに乗らないから――。
寄っていくところがある。
( 完 )
時間が怒り、憎しみをおさめてくれなければ、俺は最期に父と会うこともなかった。