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僕はどう生きるか 偏差値80からうつ、ニート、無職になるまで  作者: 依澄歌
誕生~小学生時代 フツウに生きていたころ
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小学校に入る

 ですます調で書くのが窮屈になってきたので、そろそろ普通の文体で書こうと思う。


 小学校低学年のころの出来事では、あまり印象に残っているものがない。

 1年時も2年時も担任の先生はそれぞれ別の若い男の先生で、どちらにも結構なついていた。


 1年生のときの雪が降ったある日、ふざけて投げた雪玉が先生の頭の上で跳ねて、それを自分がとても面白がっている、という光景がやけにはっきりと頭に残っている。なんだか不思議だ。


 2年生から3年生になるときに先生にいただいた言葉が「人の話はききましょう」だったので、既に落ち着きのない子供だったことがわかる。


 そして、暇さえあれば本を読んでいる子供だった。色々な本を買ってもらい、読み聞かせもよくしてもらっていたと思う。

 その読書習慣はのちに語るようにテレビゲームとの出会いで終わりを告げるわけだが、あのままもっと本を読んでいれば、と悔やまれる。


 本といえば、1年生のときに『手袋を買いに』という本の絵を描いた。これが賞をもらったのだが、今思えば、あのときが僕の芸術的センスの絶頂だったのかもしれない。

 ただ、この絵を描いていたとき、先生が「もっとこうじゃー!」と絵具をぶちまけてくれていた。もしそのおかげで賞をとれたのだとしたら、芸術的センスがあったのは僕ではなく先生だったのかもしれない。


 本が好きだったといっても、完全なインドアだったわけではない。むしろ、外遊びは大好きだった。友達ともよく外で体を動かして遊んでいたし、父は家の中でも外でもよく遊んでくれた。

 たまにトランプやカルタで母が遊びに加わるとそれは喜んだものだが、母は父同様一人息子の僕に大層甘かったものの、子供相手に手を抜くようなタイプではなかったので、僕はよく負けて悔しがったり不機嫌になったりしていた。


 私生活では、テニスを習っていたのがこのころだったか……幼稚園の友達と一緒に通い始めたはずだ。

 ここでも若い男のコーチに教えてもらいながら、スクールのメンバーと一緒に楽しくテニスをしていた。

 ダブルスのときに使うコートの端の細長い部分を『カステラ』と呼んでいたのを覚えている。


 それから、暗くなってくると、コートの上にはコウモリ(だと思うんだけどなあ。普通の鳥の恰好や飛び方ではなかった)が姿を現すことがあった。

 あれはいつごろの季節だったんだろう。都会にもいるんだな、とびっくりした。確かに、結構緑はあったかもしれないけれど。もう何年もコウモリなんて見ていない。


 いつテニスをやめたかはっきりとは覚えていないが、中学年くらいのときだと思う。のちに「昔ここに通ってたんだぜ!」と得意になって小学校の友達を連れてコートに侵入し、見つかって怒られた。


 あまり書くことのない時代だと思ったけど、書いてみると結構あった。

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