それでも学問が好き
勉強で苦しんだ僕は、だんだんと自分は勉強が嫌いなんだと思うようになっていった。母も、「あなたは勉強は得意だけど嫌いだったのね」と言っていた(今は少し考えが違うだろうが)。
しかし、時がたつにつれ、僕は本来勉強――学問といったほうが正確だろうか――がやっぱり好きなんだなと思うようになった。
新しいことを知り、自分の世界が広がっていくのは楽しい。
今でも、たまに当時の教材を引っ張り出したり買いなおしたりして勉強しなおしたくなるときがある。まあ、長続きしないことが多いのだが、それはいったん置いておいて……。
例えば、数学が苦手であまり好きではなかった僕は、将来数学を使うような仕事はする気がないから、生活に必要な足し算、引き算、掛け算、割り算さえできればいいじゃないか、と思っていた。
今になってみれば、数学は様々な学問、技術の基本だし、たとえ自分が使う機会は少なくても、論理的思考力、問題解決能力を身にるけるにはもってこいの学問だと思う。
世界史は壮大な物語だ。しかも、自分が生きているこの世界につながっている。歴史を学べば、この世のあらゆる物事を理解するのに役立つ。過去や未来に思いをはせるだけでも楽しい。
創作活動にも、大いに寄与するだろう。
普段なかなかそんなことは考えないが、ちょっと視野を広げれば、学問なくして僕たちの生活は成り立たないことがわかる。そうすると、学問て面白そうだなと思えてくる。
そして、学問と学問とはつながりあっている。
学問の直接的な恩恵を感じられなくても、学問を通して能力が向上したり興味が拡大したりするかもしれない。学問は可能性を広げ、人生を豊かにしてくれる。
……とは思う。よく言われることでもある。でも、現実はそう単純なものではない。
本来、学問は僕にとって楽しいもののはずだった。知的好奇心もある。では、なぜ学生時代に勉強することが苦痛になってしまったのか。
まず、単純に量が多すぎて過負荷になっていたこと。毎日毎日何時間もやっていたら、よほど好きなことでも飽きる。
次に試験。自分の理解度を測るには必要かつ有用なもので、楽しくもなりうるものだが、変にプレッシャーを感じすぎるときつくなってくる。定期試験はまだしも、入学試験は合格点をとらなければいけないし。
それから、時間制限。限られた時間の中で量をこなさければならない。試験にも時間制限はある。僕は何事も容量が悪くて作業が遅いので、この要素はつらかった。
興味や適正の問題もある。どうしても好きな科目、嫌いな科目、得意な科目、苦手な科目はでてくる。そして、興味がもてない科目や苦手な科目もやらなければならない。
あとは、学生だって考えることは勉強のことだけじゃないし、誘惑も色々あるし、学問がその後の自分の人生にどう貢献するかなんてのも、想像するのは難しい。
もちろん、人生を豊かにしてくれるのは学問だけではない。何が自分の人生を変えるかわからない。
これらの要素と持ち前の厄介な性格が重なって、僕は勉強が嫌になってしまったんだろうと思う。いまだに、試験や受験の夢はたまに見る。
僕は今、日々ストイックに勉強しているわけではない。何か勉強してみたいなと思っても、やりたいことをやりときにやりたいだけやりたいようにやればいい。
だから、学問に対して憧れのようなものを抱くことができているのだろう。
何事においても、実際に努力を継続して結果を出すというのは、想像よりもはるかに大変なことだ。仕事をしていれば、時間の制約もある。
それでも、かつて興味や適正はありそうに見えながらもうまく向き合うことのできなかった学問というものに、今度はもうちょっとうまいやり方で、また向き合ってみたいと思うのである。




