1 こんにちは、非常識。
日が落ちて、辺り一面オレンジ色の光で照らされる住宅街の中を1人の少女が歩いている。
のんびりと自宅への帰り道を歩いていた少女は、ある一点を通過した瞬間にピタリと足を止めた。
「何か、変な感じがする」
少女はポツリと呟くと、辺りを見渡す。
一瞬、垂れ幕をくぐったような、薄い膜の内側に入った様な感覚が生じた。それに、何故か見慣れているはずの住宅街の風景が異質なもののように見えてくる。
どことなく気味の悪さを感じ、少女は先に進むことをためらう。
自分の中の何かが、この先に行くのは危険だと警告を発している。
自宅までは目の前の道を行けば数分で着くことができる。しかし、どうにも次の一歩を踏み出すことができない。
しばらく悩んだ後に少女は先に進むことを諦めた。遠回りにはなるが、別の道から帰ることに決めた。
来た道を戻るために踵を返す。
次の瞬間、背後から何かが爆発した様な轟音が響き渡った。
それに一拍遅れて暴風が少女の体に襲いかかる。倒れることは免れたが、体が前に押されてたたらを踏む。
一体何が起こったのか。思わず後ろを振り返った少女は、自分の目に映る光景に一瞬思考が停止した。
少し前まで少女が進もうとしていた道に、巨大な塊がある。
頭の片隅で振り返ったことを後悔しながら、目の前に広がる光景を少女は呆然と見つめた。
道の半分も塞いでしまう大きな塊は、少女から10メートルほど離れた位置にある。その距離からでも、微かに塊が動いていることが分かる。
あれは、生きている。
先ほどの強烈な風圧と爆音の原因は、おおかたあの巨大な塊だろう。考えられるのはあの塊が上空から落ちてきて風圧と爆音が生まれたということ。しかし、塊の周りのコンクリートは陥没しているようには見えない。あんなに大きな物が地面に叩きつけられればコンクリートの道が壊れてしまうのではないだろうか。
非現実的なものを直視して混乱している少女は、叫ぶこともせず、腰を抜かすこともなく、目についたものに対して疑問に感じたことへの答えを探す。
そうすることで、常識ではありえないものから目を逸らし、深く理解する事を拒絶した。
少女がぼんやりと塊を見ていると、その上で何かが動いた。
ゆっくりと塊の上で立ち上がったそれは、黒い衣服で身を包んだ人間に見える。
あの人は塊と一緒に落ちてきたのだろうか。
黒い服装の人は、塊からなにか長細いものを引き抜いく。熟した果実が潰れた様な、生々しい音が聞こえた。
引きぬいた物は刀のようだ。実物を見たことはないが、時代劇の中で出てきたものと形状が似ている。
黒い服装の人は刀を持ち直すと、塊に向けて深々とそれを突き刺した。すると、大きな咆哮がビリビリと空気を震わせ、少女に襲いかかる。
先ほどの爆音に劣らない大音量だというのに、少女は恐れではなく切なさを覚えた。
この、切なく悲しい声を、少女は知っている。
どうして知っているのだろうと考え始めたところで、目の前の光景が、まるで映画やテレビのように画面越しの出来事のような感覚に陥る。次にノイズが走り、画面がグラグラと揺れる。それはすぐに収まるが、見える光景が変わっていた。
暗い林の中、少し開けた場所に、男性が1人、こちらに背を向けて立っている。
その手にはやはり刀を持っており、足元には見たことのない生き物が横たわっている。
少女は初めて見た異形の生物に思わず悲鳴を上げる。その声は小さく引きつったものだった。
男性がこちらを向いた。その顔ははっきりと見えないが、どうしてだろう、胸が酷く苦しい。掻き毟りたくなる程の切なさを覚え、涙が溢れる。
段々と視界が黒く染まっていく中、掠れた声で少女は誰かの名を呼んだ。
無意識の内に伸ばした手は空を切り、少女の意識は暗闇の中に引きずり落とされた。
意識を手放した少女の体は崩れ落ちる。
地面に倒れる寸前に、黒い服装の人物、少女と同じ年頃の少年が少女の体を片腕で抱きとめる。
少女が地面に激突することを防ぎ、少年は安堵から深く息をはいた。
巨大な塊はいつの間にか跡形もなく消えている。
少年はもう一方の手に持っている刀を、腰に差している鞘に器用に仕舞い、両腕で少女を抱き直す。
顔にかかった髪を払うと、顔色を伺う。少し顔色が青白い。
さっと少女の状態を確認するが、意識を失った以外は異常がなさそうだ。
少年は少女の目尻に残る涙を拭った。
「思い出してほしくなかったんだがな…どうしてお前はオニの近くに来てしまうんだ?」
少年は苦しげに顔を歪めた。
意識を失う前に少女が発した声は、大気に消えることなく少年の耳に届いた。
少女がその名を口にした事が何かの間違いであってほしい。あるいは、目を覚ました時、先ほどの出来事が全て彼女の中から消えてしまっていてほしい。
しかし、その願いは叶わないだろう。
少女が今日、この現場に遭遇してしまったことも運命なのか。やりきれない思いを胸の中で噛み締める。
このまま少女を日常へと返したいという願望を押し殺す。少年は右耳に付けている通信機を操作して仲間へ連絡を取る。
「もしもし、尭久です。目標の討伐が完了しました。・・・はい・・・一つ問題が。戦闘を結界内に入り込んだ一般人に見られました」
そう告げると通信機のスピーカーかた驚きを含んだ大きな声が複数聞こえた。
その煩さに顔をしかめる。通信機を耳から外し、地面に叩きつけたくなるが、そんなことをすれば後が面倒になることは明らかなので、その衝動を耐える。
通信機の向こうで騒いでいる人たちが落ち着かないうちは要件を伝えても騒音にかき消されてしまうことは容易に想像できる。いつもは余計な労力を使いたくないので、落ち着くのを静かに待っているのだが、今は腕の中に意識を失った少女がいる。
「すみませんが、静かにしてもらえますか」
少年の強く、低い、怒りを含んでいるとはっきりと分かる声音によって、騒いでいた人たちがぴたりと口を噤んだ。
静かになったことにため息を1つはき、少年は話を続ける。
「目撃者は戦闘を目撃したショックのためか意識を失っているので、車両を回してもらえますか。場所はD-9です。詳細の報告は合流してからで問題ないですか」
スピーカー越しに落ち着いた男性の声で了承の返答をもらう。
「よろしくお願いします」
最低限の連絡を終えると通信を切る。
今日は住宅街で討伐が行われたこともあり、作戦行動の範囲は狭い。結界外で待機している車が到着するのに、そう時間はかからないだろう。
再び意識のない少女の顔色を確認する。少女の顔はまだ青白く、意識が戻りそうな様子もない。
少年は少女を抱え直す。秋の夕方は気温が下がり、風はないものの肌寒さを覚える。
血の気の引いた少女を見ると、思い出したくない古い記憶が蘇る。
腕の中で、大事なものが失われていく、あの感覚。
あんなことは二度とごめんだと唇を噛み締め、まだ姿の見えない車を探して地面に伸びる道の先を見つめた。