怪物との再会
マンホールを垂直に三メートル程降りると、天井が二メートル程のトンネルになっていた。咽返る様な湿気と、数々のモノが織りなす腐敗臭が鼻腔をを激しく刺激した。
「どっちに行く?」
漆黒の暗闇の左右にライトを向けながら、葛城は問い掛けた。
「まさか、二手に分かれるなんて言いませんよね?」
薪は心細そうに声を震わせた。
「多分、こっちだ」
左側にライトを向けたまま、足利は語尾を強めた。
「何故分る?」
葛城の質問に足利は地面を照らした。
「薬莢だ、かなり撃ってるな」
照らされた地面には、おびただしい薬莢が戦闘の激しさを物語っていた。
「でも、さっき音がしませんでしたよ」
不思議そうな薪に葛城は銃口の消音器を指差す。
「なんですかこれ?」
「サプレッサーだ」
「さんぷらさー?」
薪は頭の上に? マークを漂わせた。
「消音、消光の新型だ」
「詳しいな」
足利は葛城にニヤリと笑うとゆっくりと進み出した。ライトが照らすより先の闇は足利でさえ恐怖を与え、葛城の心拍を上昇させた。しかし、五分歩いても隊員の姿はなかった。
「葛城さん、臭いです」
後ろから薪が情けない声を出した。
「息を止めてろ!」
強く言った葛城だが、また薪に救われた気がした。闇は、確実に理性や思考を進む度に奪って行ったから……。
「止まれ!」
突然、足利は歩を止めた。ライトが照らせる限界の先に何か物体を確認した。
「壁に寄り添ってるな」
銃を構えた葛城は臨戦体制をとった。葛城の後ろでは、足利の声に驚いた薪が必死で爆発した心臓を押さえていた。心の中で、急にでかい声出すなと叫びながら。
「俺が行く、援護を」
ライトと銃を構えた足利が先に行く、葛城は腰を落として銃を構えた。
「薪、ライトを当てろ」
葛城の指示で銃を構えライトを当てた薪だった。
「銃はいい、ライトでしっかり照らせ」
また葛城の指示が飛ぶ。
「どうせ、俺なんか撃っても当んないよ……」
聞こえないぐらい小声で呟いた薪は、ダルそうにライトを照らした。
「足利だ、返事しろ!」
前方の影に叫びながら足利は前進した。そして、ライトの光が影を識別出来る距離になると同時に駆け出した。
「今田っ!」
壁に背中を付け、立ったまま隊員は絶命していた。そして、足元にも二人倒れていた。
「本多……茂野……」
立ったままの隊員をそっと寝かせながら、足利は震えていた。
「足利さん、この人生きてます」
倒れていた二人のうち、薪が観た隊員にはまだ息があった。
「茂野っ!」
足利がもぎ取る様に抱き抱えた。
「隊……長……恩田が……」
「喋るな……こいつを頼む」
振り返った足利は、薪に震える視線で言った。
「分りました」
薪の返事と同時に足利は走り出した、一瞬遅れた葛城も薪に叫ぶ。
「止血しろ、あまり動かすな」
同時に葛城も足利の後を追った。
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闇の中、飛燕は歩いていた……無音と暗黒、ふと見下ろすと、自分の左手が霞んで見えた。そして、その手は次第に消えそうになった。急いで顔に近づけると、その手は輪郭を残してそっと消えた。
急に息苦しくなる、酸素まで暗闇に吸い込まれる感覚に飛燕は悲鳴を上げた。しかし、その悲鳴も闇に吸い込まれた、次第に気が遠くなる……倒れた感覚はなくて、まるで宙に浮いてる感覚だった。
「……巧……」
言葉を出したが、声はゆっくりと空間に溶けた。瞼が痛んだ、耳の奥が痛んだ……遠くに光が見えた。瞳孔を開く……焦点が像を結ぶ。
「巧……法子さん……」
そこには、葛城と一歳位の赤ちゃんがいた。飛燕にはそれが法子だとすぐに分った。その二人の背後に闇が迫っていた、飛燕の胸に張り裂けそうな激痛が走る。
「いややっ!!」
自分の叫びで、飛燕は夢から覚めた。
「どうしたの飛燕、怖い夢見た?」
横には瑞樹がいた。
「うち……うち……」
涙が自然と頬を伝った。
「大丈夫だから」
瑞樹はそっと飛燕を抱いた、強い力で。飛燕も瑞樹を抱き返した。
「うち……どないしたらええん?」
飛燕は腕を緩めた。
「出来る事をすればいいよ」
瑞樹は飛燕の横に座り直した。
「何が出来ると思う?」
俯いたまま、飛燕は呟いた。
「それは飛燕自身でしか分らない……と思う」
瑞樹もまた、俯いた。
「……そうやな」
「でもね飛燕、あんたは不思議な子」
俯いたまま、前髪で顔を隠した瑞樹は消えそうな声だった。
「何処がやねん?」
飛燕も長い髪が顔を隠した。
「あたしから見た飛燕、法子さんから見た飛燕、葛城さんから見た飛燕……三人の飛燕がいる」
まるで呪文の様に瑞樹は呟いた。
「うちが三人?」
言われた言葉は、飛燕の中に染み込んだ。
「言い換えると……友達、母親、恋人……そんな感じかな」
少し微笑んだ瑞樹だった。
「うち変なん?……」
染み込んだ言葉は、内側で濁ろうとしていた。
「違うよ。三つとも飛燕……うまく混ざって調和してるのが飛燕なんだよ。普通は一つか二つで精一杯、三つ共なんてあんたぐらいよ……今まで、こんな事考えたことなんて無かった。でもね、飛燕と出会って、あたしも考えれる様になったんだ」
瑞樹は優しい笑顔をくれた。
「……うち」
飛燕には自信なんて無かった。
「大丈夫、飛燕……あんたは、皆を幸せにする。あたしが保証する」
瑞樹の笑顔は、飛燕を内側から補強して優しく包んだ。
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ほんの数秒遅れただけのはずなのに、足利には中々追い付けなかった。
「足の速い野郎だっ!」
葛城は走りながら叫んだ。跳ね上げた汚水が容赦なく顔に掛かる、血液が頭部に集中し、全身を汗が伝った。時間の感覚は失せ、終わりなんて来ない。悪夢ってのは、こういうのだなと、脳の一部が分析していた。
自分は何をしているのだろう。少しでも気を抜くと、思考が分離しそうになった。自分は何なんだろうと、現実から逃避したくなった。踏み止まる為には、何かが必要だった。
走りながら葛城は考えた、意識しなくても救いを求めていた。普通なら法子が一番に浮かぶはずなのに、その向こうに浮かぶ影があった。
”あんた、がんばってや゛”……確かに、飛鷹の声がした。耳の奥にはっきりと聞こえた。不安定だった葛城の思考は、闇の中に霞んでいても道標が見えた。胸の奥深く少しづつ熱いものが沸く、全身に電気が走る。暗闇のはずなのに、葛城の目には光が見えた気がした。
そして心臓が破裂しそうになった時、前方に影を見つけた。葛城は力を振り絞り、その影へと走りに力を込めた。
「奴だ……」
追いついた葛城に、押し殺すみたいに足利は言った。ライトの先には二つの影があった。
「どっちが奴だ?」
葛城が呟く。同じ背格好の影は光量の少なさも手伝って、判断を保留させた。
「近付くしかないな」
銃を構えたまま、足利はジリジリと動きだした。
「気付かれない様に、ゆっくりとだ」
葛城も銃を構えてゆっくり進んだ。闇のシルエットは少しづつ輪郭を鮮明にする、まるで霧が晴れるみたいに少しづつ。しかし、葛城も足利も胸の奥に大きな不安があった。
近付きすぎると人質が危ない、距離の選択が勝負を決める……・銃を構える腕には汗が流れ落ちた。
「ここだ」
そっと止まった足利が囁く。
「まだ区別がつかないぞ」
葛城はまだぼやける目標を見据えた。
「右側の奴の左手」
足利の声に葛城は右を見た、ほんの少しだが男の指が動いていた。
「そ・げ・き・し・て……サインだ」
足利は呟いた。
「狙えるのか?」
微妙な距離と暗さが葛城を不安にした。
「一発で仕留める」
しかし足利の銃を支える腕は微かに震えていた、瞬時に自問した足利は自分の答えに愕然とした……”怖い”。
そして、無意識に足利は発砲した。轟音が響き閃光が走る、刹那、足利が叫んだ。
「恩田、伏せろ!」
視界の先で片方の影がゆっくり伏せる、足利は残った影に銃弾を浴びせる。一瞬遅れて、葛城も乱射した。数秒後、影はゆっくり崩れ落ちた。
「やったのか?」
構えていた銃を葛城が下ろした瞬間、物凄い風と閃光が葛城を襲った。薄れていく意識の中で、足利が何かに引き裂かれ、血がスローモーションで舞うのが微かに見えた。
刹那! 葛城の網膜に血の様な赤い眼が転写され、獣の咽るような臭いが嗅覚を押し潰し、意識はゆっくりとブラックアウトして行った。
そして、闇のずっと奥に一瞬だが何かが見えた気がした……それは、小さいが確かな光だった。