闇の中の足跡
「あの時のままですね……」
路地裏の地下、寂れたバーで針はバーボンを煽った。
「お前さんは老けたな……」
カウンター横に座る針を見て葛城は横目で言った。
「誰だって歳は取りますよ……葛城さんは例外ですけど」
「そうだな……」
「例の件……難しいですね」
グラスをを持つ針の腕はミイラみたいに水分が無かった。
「始めにネタをくれたのはアンタだぜ」
葛城はグラスを握る手に自然と力が入った。
「あのネタ、今から考えても……」
言葉を詰まらせた針はバーボンを飲み干した。
「どうだって言うんだ?」
「出所がはっきりしない……」
「ナメてんのか?……」
ドスの効いた葛城の声だった。
「表からじゃダメでも、裏からなら見えるはずなんです。私だって、出所を探しましたよ……何も無い所から水が湧き出す、でも何も無い様に見えても必ず原因はある。無からは水は出ないんです……でもあの時確かに水は出たんですよ……本当に何も無い場所から」
タバコに火を点けた針は大きく煙を吸い込んだ。
「……」
葛城は考えを巡らせ、針は少し間を置いて続けた。
「私もこの世界じゃ知られた存在、闇の世界の人間です。闇の中からなら見えない物はない……でも、奴は見えない……奴は暗闇と同化しているです」
針はタバコの煙を龍みたいに鼻から吐くと、ゆっくりと紫煙を目で追った。
「裏社会で、アンタの知らない事はないんだろ?」
葛城もタバコに火を点け、針の煙と混ぜた。
「人の仕業なら……」
針の言葉には諦めがあった。
「人じゃないと言うのか?……」
本当は葛城も感じていたのかもしれない。しかし、言葉は外側から肯定していた。
「人としての痕がない……どんなにイカレた奴でも、人なら痕がある」
「だから何だ?」
針のネガティブを葛城は頭から否定した。
「案外ネタの出所は、奴自身かも……」
それは針の本音だった。
「そうかもな……」
葛城もそれが本音だった。あの時の奴の眼、蔑み嘲笑うかのようなあの眼は、確かに葛城に対して何かを語っているとしか思えなかった。
「知らせてきますかね?」
「多分……待つのは性に合わないけどな」
灰皿の中で燃えカスが、消したはずなのに煙を立てていた。
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「巧っ」
視線の先に葛城が映ると飛燕は車を飛び出した。
「お前……」
走って来る飛燕に、葛城は何故か胸に痛みの様なものを感じた。スローモーションみたいに飛燕は葛城の胸に飛び込んだ。自分では否定したつもりなのに、気付くと飛燕は葛城の腰に抱きついていた。
両腕を垂らしたまま立ち竦む葛城の鼻腔に、飛燕の匂いが香った。それは、子供の頃の法子香り……そして、忘れていたはずの香りは開くはずのない扉を開いた。
「巧っ……」
更に飛燕は腕に力を込めた。
「名前で呼ぶな……」
否定の言葉は優しかった。
「嫌なん?……」
「…………」
「どうなん?……」
「好きにしろ……」
「うん……」
それでも葛城の腕は飛燕の背中に回る事はなかった。
「俺は不幸だな……」
取り残された薪は言葉と行動に困り、独り言を呟くしか出来なかった。
「テレビ見たよな?」
葛城は飛燕の頭にそっと話した。
「うん……」
胸に顔を埋めたまま飛燕は呟いた。
「家に帰れ」
「……」
「どうした?」
「……」
「送って行こうか?」
「……」
「どうしたいんだ?」
「……」
「飛燕……」
そっと飛燕の肩を身体から放した葛城は飛燕の目を見た。見つめられた飛燕は、名前を呼ばれた驚きと同時に胸が締め付けられた。こんな瞬間……前にもあった。
「巧……うち……」
「何だ、喋れるじゃないか」
葛城の穏やかな眼差しは、更に飛燕の胸を締め付けた。
ふいに葛城の携帯が鳴った。
『葛城さん』
針の声だった、葛城は一瞬で悟った。
「奴かっ!」
振り向いた葛城の目は野獣の光を放った。
『港倉庫、ジャックの店です』
「日が暮れたばかりだぞ」
『そうなんですが……』
「この子を頼むっ!」
薪に叫ぶと、葛城は飛燕と目を合わせる事なく走り出した。追いかけ様とした飛燕は、薪の腕に阻まれた。
「分ってるだろっ!」
「うちも行くんやっ!」
飛燕は腕を振り解こうと暴れるが、薪は強い力で飛燕を押さえた。
「お前が行ってどうなる?」
「うちがっ……」
叫んだ声には続きがなかった。
「お前がどうするんだ?……」
腕の力を緩めた薪は静かに呟いた。
「うち……」
考えても言葉は出なかった。
「送ってく」
「……」
薪の言葉に頷くしか出来ない自分。こんな女々しいのは自分じゃないと心で叫んでも、動かない気持ちと身体が悔しい飛燕だった。どうしたいかさえ、はっきり言えない……飛燕の全身は見えない蔦に絡まれていた。
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「法ちゃん、ハンバーグでいい?」
エプロン姿の梓は腕まくりした。
「どういう風の吹き回し?」
カウンターに頬杖を付いて法子は笑った。
「たまには、私の三ツ星級の味をね」
「料理教室、三日でクビになったのは誰だったかしら?」
「あれは、オカマみたいな先生のせいよ」
「あの先生、超有名なんだよ」
「でも、気持ち悪かったんだもん。何かと手なんか握ってくるし」
「それで、ぶっ飛ばしたって訳……」
「正当防衛よ」
「左様ですか……」
法子はぎこちない梓の包丁裁きに、大きな溜息を付いた。
「初めてだったな、あんな梓姉ちゃん……」
少しの間を空けて、独り言みたいに法子は呟いた。
「そうかな?……」
梓は必死で肉をこねていた。
「さっき、テレビで言ってた事件なの?……」
「そうよ……」
「覚えてるよ……初めは十歳ぐらいだったかな。それから五年毎……お父さん、全然家に戻らないし」
「凶悪事件ですもの。がんばってるのよ、お父さん」
「うん……でも心配」
「大丈夫よ」
「お父さん、今だに子ども扱い……もう大人だよ、私」
「子離れしてないもんね」
手を洗いながら梓は葛城の事を思った。
「そうだよね……」
法子もサイドボードの上で笑う葛城の写真に視線を流した。
「ところで、飛燕ちゃんとはいつから?」
フライパンを火に掛けながら、梓は聞いた。
「つい最近だよ、可愛いでしょ飛燕ちゃん」
「似てるよ……」
梓の言葉は法子の胸に刺さった。
「えっ?……」
「飛鷹おばちゃんと」
法子だって気付いていた。でも人から、母親を知っている人から言われると、胸の鼓動は三次元の動きになった。
「どんなとこが似てる?」
「私も五歳だったから……そうね、話し方なんてそっくり。小柄で、華奢で、でも元気一杯、いつも周囲を明るくしてた」
「声も似てた?」
法子の中で母親と飛燕は同化していた。
「似てた……かな……そうだ、いつも法ちゃんを背負ってポニーテールにしてた。その髪ゆらせると、何時も法ちゃんお日様みたいに笑ってた」
ポニーテールにした飛燕が法子の目の前にいた。
「そうなんだ……」
俯く法子は小さな小さな溜息を付いた。
「でもね……」
法子の様子に梓は何か言おうとしたが、法子は一度目を閉じると微笑んだ。
「飛燕ちゃんは飛燕ちゃん、分ってるよ……私も親離れしてないね」
「そうだね……」
梓はコンロで焦げているハンバーグには、気付くはずもなかった。