蘇る悪夢
「このマンション、例の……」
葛城に指示された場所は、評判の悪いテレビ局のプロディュサーの家だった。薪は、その男の悪評を頭の中で躍らせていた。
「奴を動かす……」
駐車場に付くと、葛城は静かに呟いた。鈍い薪にも、その真意は理解出来た……事件を防ぐ為には形振りかまっちゃいられない事を。
昼間のマンションは子供達の声が響いて、いつもと変わらない日常を感じさせたが、ドアの手前で葛城は一度大きく息を吐いてから呼び鈴を押した。
「これは塩浜署の鬼警部補、相変わらずお若い」
藪崎は浅黒い顔の大きな目を光らせた。
「頼みがある」
ドアの前で葛城はその目を睨み返した。
「全く……いい目だねぇ、葛城さん」
目を逸らさないまま、藪崎は葛城を応接間に通した。そこは一応ソファーはあるが、書類や写真などの資料が散乱していた。
「単刀直入に言う……」
ソファーに座ると同時に葛城は話しを切り出したが、藪崎は途中に口を挟んだ。
「例の事件の事ですか?」
「話しが早いな」
葛城は浅く掛けていたソファーを深く座り直した。
「さてと、伺いましょう」
向い側にどっしりと腰掛けた藪崎は、まだ目を逸らしてなかった。その目を見つめ返して、葛城は言葉を噛み締めた。
「過去、四度の事件で我々は手掛かりどころか、何一つ掴めなかった。そこで、危険を回避する為に大々的にメディアで取り上げて欲しい」
「ワイドショーとかでも毎回取り上げてますよ」
口元を緩めた藪崎は葛城の表情から探りを入れた。
「もっとだ、朝、昼、晩のワイドショー、特集番組、ニュースでも二十四時間」
「そりゃ、やれない事もないですがね……・私としても興味のあるネタですし……しかしねぇ、なんせ情報が」
薄笑みを浮かべる藪崎の駆け引きなど葛城にはどうでもよかった。
「どんな情報でも提供する」
「……どんな情報でも?」
更に藪崎の口元は緩んだ。
「ああ、約束する」
「それじぁあまず、聞かせてもらいましょうか? 犯人を見たのは、被害者を除いて只一人……あなたですよね、葛城さん」
真実に触れる事のエクスタシーに藪崎の表情は快楽に踊った。
「……そうだ」
一瞬の躊躇も目的の前には考えるのに及ばない事だった。
「いつ? 何処で? どんなシュチエーションで?」
藪崎は身を乗り出した。
「始まりはあの場所だった……」
「例の洋館ですね、被害者は久遠宗義。四十七歳。あの大きな屋敷で一人暮らし、色々噂はありましたね。オカルト趣味で、その手のグッズを集めまくっていた」
話し始めた途端、また藪崎は口を挟んだ。葛城は心の中で舌打ちして続けた。
「俺は現場に駆け付た。玄関ホールは二十畳程、その真中に二階へと続く大きな階段あり、久遠はその下段の方で死んでいた。近付いて様子を見ようとした時、背中に視線を感じた……初めてだったよ、震えが止まらなかった、全身汗でびしょ濡れさ」
「葛城さんが?……」
「新米にはキツかったな。奴は階段の上にいた。赤い眼、四本の腕、……笑ってたよ、恐怖に震える俺を見て」
「四本腕?」
薮崎の顔色が変わる。
「ああ……」
「見間違いでは?」
「確かだ」
葛城の目が炎に揺れる、確かに巷では都市伝説として話題にはなっていたが、当事者から聞くと流石の薮崎も悪寒に包まれた。
生唾を飲んだ薮崎は話を進めた。
「ところで、現場には一人で?……」
声のトーンを変えて藪崎は言った。
「ああ……」
「どこから情報を?」
「……針」
「あの有名な情報屋……で、新人のあなたが、どうして針と?」
「知ってるだろ、初めは島さんと組んでいた」
「ほう、伝説のマムシと……」
島は葛城がまだ刑事になりたての頃に組んでいた、ベテラン刑事だった。
卓越した推理力と老練な洞察力で、冷静沈着に事件を追い、決して諦めない生まれながらの刑事だった。多分、これ位の事は藪崎は知っているだろう。
葛城は尋問を受けているみたいな気分だった。藪崎もその筋では”藪崎官兵衛”と呼ばれた謀略の男だった。
「オヤジには色々教えられた」
「あの人の教え子ねえ」
「針からのタレコミだった……若造の俺は功を焦っていた……」
「よく生きてられましたね?」
「……そうだな……四本の手にナイフ。目に焼き付いている……でも、その時だけだ、奴を見たのは……後は奴の残した跡を見ていただけだ」
葛城の背中には、冷たいものが流れていた。ただ話すだけなのに、腹の底に激痛が走る、動悸が激しくなり軽い眩暈も葛城を押し潰そうとした。
「……その時なんですか……奥さん?」
藪崎はとても言いにくそうに言葉を漏らした。
「……ああ…………」
前後の沈黙は葛城の燃えたぎる深層を示していた。握りしめた拳が小刻みに震え、さっきのまでの悪寒を吹き飛ばした。
「……刺し違える……なんて、ネタにはなりませんよ」
藪崎も暫くの沈黙の後、伏せていた目を葛城に向けた。
「流行らないよな……」
俯いたまま葛城は呟いた。
「私は何をしたら?」
藪崎は座り直した。
「日が暮れてからの外出の自粛、夜は出来るだけ一人でいない事。しつこく流してくれ」
俯いた葛城は強い声で言った。
「効果はありますかね?」
藪崎も押し殺した声だった。
「頼む……」
成否については返事を聞かないで葛城は立ち上った。
「羨ましい……」
藪崎は葛城の背中に声を掛けた。
「何がだ?」
ドアの前で葛城は不機嫌に振り向いた。
「あなたには素晴らしい能力がある」
「買い被るな」
葛城の声は小さかった。
「私も歳を取った。若い頃ならこんな話し……血が騒ぎ、肉体は踊ったでしょう。しかし、老いは意欲を奪う。意欲があっても身体がついて来ない」
藪崎は自分の老いた手を見た。
「何が言いたい?」
「あなたは経験を積んできた」
「……時間を無駄にしてきただけだ……ただの回り道だよ」
自分は今までの長い時間、いったい何をして来たのだろうという思いが葛城を揺さぶった。
「回り道はね、別名、経験って言うんですよ……経験ってのは時間なんです、その時は無駄に感じても、無駄なんて無いんです……でもね、それに気付くのは老いてからなんです」
噛み締めるみたいに藪崎は言った。
「俺は……」
葛城が何か言おうたした、そっと藪崎は割り込んだ。
「経験と若い肉体……最高の能力ですよ、葛城さん」
「……」
無言でドアを出る葛城の身体に振動のような響が走った。
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「デート、どうだったのよ?」
ベッドに腰掛けた瑞樹は洗い物をしている飛燕に声を掛けた。
「ここはあんたの部屋やで、何でうちが洗わなあかんねん?」
「いいじゃん、急に来て泊めてなんてさ、宿代なら安いもんよ」
「まあ、そうやな……でも。晩御飯作るんも、うち?」
「当然、飛燕は料理上手いから楽しみ」
瑞樹はうれしそうにベッドの上に寝転んだ。
「しゃーないなぁ……」
苦笑いで、仕方なく支度に取り掛かった飛燕だった。
「ねえ飛燕、聞いていい?」
肉じゃがを美味しそうに食べながら瑞樹は聞いた。
「何?……」
「今日の人」
「法子さんや」
「だからぁ、誰なのよ」
「あんたぁ、焼いてんの?」
飛燕はニヤリとした。
「そうよ、飛燕はアタシのもの!」
急に瑞樹は抱きついた。
「やめっ、瑞樹、苦しいっ」
床の上で二人は転がった。そして、瑞樹は急に力を緩めて大の字になった。
「嫌な予感がする……」
その声は真剣だった。
「どないしたん?……」
四つん這いになって飛燕は上から見下ろした。
「言葉じゃ説明出来ない……」
天井を見つめたまま瑞樹は声を落とした。
「考えすぎや……」
「さっき、飛燕が来て、洗い物して、ご飯作って……何か変な感じがした」
「何でや、いつもしとるやん?」
飛燕は瑞樹の隣に座った。
「優しい言い方」
瑞樹は小さな声で言った。
「そうかぁ……」
「あたし……母親嫌いなんだ。自分勝手で、優しくないし……知ってるでしょ、あたしのお母さんが出て行った訳」
「……」
無言のまま飛燕は瑞樹を見つめ、そっと髪を撫ぜた。
「何か飛燕、お母さんみたい……」
ずっと天井を見つめたままの瑞樹だった。
「うちが?……」
一瞬の閃光が飛燕の胸に走った。
「うん、そんな感じがした」
「法子さんのお母ちゃんな、関西出身でな、うちぐらいの歳で死んだんやて」
「飛燕に母親を見たのかな……」
「どうなんやろ」
「どんな気分?」
「女の子はな、誰だって嫌なことあらへん」
「そうだよね」
瑞樹は少し羨ましく感じた。そして、胸の奥にあるモヤモヤしたものを言葉にした。
「でもね、嫌な予感……物凄くするの……怖いくらい」
天井を見ていた目を飛燕に戻した瑞樹は、深刻に声を震わせた。
「何言ってんねん……瑞樹は考え過ぎや」
腕枕の飛燕は、自分にも言い聞かせるみたいに呟いた。しかし、瑞樹の予感はよく的中した。勿論……悪い方に。
その時、点けていたテレビが猟奇殺人の特番を始めた。
「外出ダメなんだって」
起き上がった瑞樹は画面に釘付けになった。
「うち……行かな……あんたは、ここにおるんや」
飛燕は立ち上った。全身を悪寒が襲った、梓に聞いた話が頭の中でフラッシュバックを繰り返し、胸騒ぎが洪水みたいに押し寄せた。
「ダメだよ飛燕っ!」
瑞樹は背中から抱きついた。
「大丈夫や、うちは行かんとあかんねん」
優しく瑞樹の手を解いて、笑顔を向けた飛燕だった。
「飛燕……」
泣きそうな瑞樹の頭を撫ぜて、飛燕は夕暮れの街へ向かった。速くなる動悸を押さえながら。
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「藪崎の奴、早速始めましたね」
車の中でテレビを見ながら薪は呟いた。
「そうだな……」
座席をリクライニングさせたまま、葛城は画面に見入った。夕暮れ時の公園通りはテレビの内容がフィクションだと言ってるみたいに混雑していた。
「脅かし過ぎなんじゃないですかね……」
大袈裟とも言える内容に薪は首を傾げた。まるでフィクションや、ホラー映画のレビューみたいに感じた。
「ちょっと、出かけてくる」
葛城はふいに車を降りた。
「出かけるって、俺は?」
例によって葛城は背中で手を振った。
「待ってろ……ですね」
思い切り椅子をリクライニングさせた薪だった。
数分後、窓をガンガン叩かれた。起き上がると、蒼白な顔をした飛燕がいた。
「薪慎二っ!」
「だからっ、フルネームで呼ぶなって」
面倒臭そうに薪は外に出た。
「巧は?」
何時になく神妙な飛燕だった。
「テレビ見ただろ、家に帰れ」
薪の言葉は優しかった。
「うち……」
俯いた飛燕は小さく見えた。
「乗れよ……」
「えっ?……」
「ここで待ってりゃ葛城さん、帰って来るから」
「……うん」
飛燕は素直に車に乗った。
「ウソみたいだな」
フロントガラス越しに見える人々の営みに、薪は静かに呟いた。
「……でも殺人、ほんまにあったんやろ?」
助手席の飛燕もサイドウインドウから外を見た。
「現場、見たからな……」
ハンドルに視線を落とした薪だった。
「堪忍な……」
飛燕は薪の心情を察した。
「仕事だからね」
視線を戻した薪は自分に言い聞かせるみたいに呟いた。
「大変やねんな刑事って……うち、今まであんまし好きやなかった」
視線をフロントガラスに移した飛燕は遠い目をした。横顔の飛燕の睫毛は、夕焼けの中煌いた。
「どうして?」
「そうやな……なんか怖いし……」
「俺達が怖い?」
薪は笑った。
「イメージや……でもな、怖くないで、あんたも……巧も」
飛燕の声はとても穏やかだった。
「何か今日はなんか素直だな」
ちょっと、否、かなり、否、最高潮にドキドキした薪だった。