安穏の未来
二人は店の入り口から闇を凝視した。途端に銃声が二人を同時に貫く、互いに絡めた指に力と汗が滲む。声は出ない、出したくても出ない。闇が無音が網膜と鼓膜の機能を停止させ、自分の鼓動だけが脳裏で加速する。
倒れそうな気を、失いそうな意識を引き戻したのは足音だった。つまづきながら、足を引きずりながらの音は、飛燕と法子に確かに向かってくる。だが、その音は悪意ではないと瞬時に感じた飛燕は咄嗟にライトを点けた。
闇を照らし、眩く伸びた光の先は、やがて音と映像を重ねる。闇の中に次第に葛城の輪郭が焦点を結び、形となった。
目前の一つの光が突然現れ、心臓を直撃する。近づく程に反比例する心臓の苦しさなど、葛城には関係なかった。この闇の中で二人を抱き締められるなら命なんてドブに捨ててやると心が叫んだ、それは声になって葛城の耳に届いた。
「巧っ!」
「お父さんっ!」
二人の声が葛城に突き刺さった。そして声は暗闇に次第に輪郭を現し、やがて焦点を結び、形となった。
三人は闇の中で強く抱き締め合った。お互いの温もりを感じ、お互いの鼓動を感じた。もう言葉は必要なかった。心は溶け合い、思考は混ざり合った。
『葛城さんっ! 目の前っ!』
インカムの声と同時に葛城に衝撃が激突した。咄嗟に二人をかばったが、数メートル程三人は吹き飛ばされた。二度目の衝撃は壁にぶつかったもので、葛城は激痛に耐えた。
「法子、飛燕……」
腕立ての様に起き上がった葛城は、二人に近付いた。法子は頭からかなり出血しており、飛燕も口元から血を流していた。だが、先に飛燕が起き上がった。
「巧……脚」
飛燕に言われて初めて葛城は気付いた、夥しい血が膝から下を染めていた。視覚で認識すると激痛が脳天にまで響いた。
「巧……血ぃがこんなに」
飛燕の泣き顔はモルヒネとなった。
「お父さん……」
少し遅れて、法子がヨロヨロと起き上がった。飛燕がすぐに支えたが、法子の右腕は折れていた。
「法子、大丈夫か?」
葛城の問い掛けにも全身打撲の法子は、麻痺した様な感覚で意識で朦朧としていた。
「飛燕……」
葛城は改めて飛燕に向き直った。
「うちは平気……や」
飛燕は苦痛に顔を歪め、その頬は血と涙でびしょ濡れだった。
「くそっ」
葛城は立ち上ろうとしたが、右足の感覚は付け根より先がなかった。その時、葛城の背後からソイツはゆっくりと近付いて来た。赤い血の瞳、恐ろしい微笑みを浮かべた口元、そして四本の腕のナイフは光もないのに鈍く光った。
三人の全身の毛穴は開き、血は逆流した。そしてソイツは葛城の横に来た、動物の屍骸の臭いが葛城を圧迫した。
多量の出血は葛城の動きと精神を蝕み、ソイツは動けない葛城の横を抜けて飛燕と法子に向かった。葛城に取って永遠とも呼べる、身を引き裂かれ業火に焼かれる苦痛の一瞬だった。
「やめろ……」
言葉に出したつもりでも葛城の声はソイツの背中に染み込んだ。法子の瞳孔が開く、声もすでに固まっていた。
「この子には指一本触れさせへん」
葛城には確かに聞こえた、飛燕の震える強い声が。
「俺に用があるんだろ?……」
今度は確かに声となった。ソイツはゆっくりと葛城に振り向いた。雷鳴の様な悪意と憎しみが、恐怖と折り重なり葛城に向く。
対抗しようと全身に力を入れようとしても、葛城の意識を内側から分離させた。そして思考が反転”終わりだ”と完結しようとした時、飛燕の叫びが聞こえた。
「巧も法子さんも、うちが守る!!」
薄れる意識を強引に引き戻し、思考をぶん殴って葛城は視野を開いた。そこには葛城と法子の前で両手を広げ、ソイツに向い合う飛燕の姿が網膜に像を結んでいた。飛燕は血の涙を流し、開いた両腕からも血を垂らせ、足元には自分の血の池を作っていた。
「まだだ……飛燕に手ぇ出してみろ、ブッ殺してやる」
立てるはずのない葛城は全身を痙攣させ、喉が張り裂ける程叫んだ。逆流した血は沸騰し、頭の毛細血管はプチプチと音を立てて切れた。そして血反吐を吐き、よろめきながらも立ち上った。
瞬間、ソイツの赤い目の瞳孔が微かに開いた。
葛城は激しく震える腕で銃を構えた。そのままソイツの眉間の間を狙ったが、外して腕の一本に当たった。腕からは、その目と同じ赤い血が飛び散った。
「やっぱ、血がでるんだな。それなら殺せる」
葛城は背筋の凍る様な薄笑みを浮かべ、ソイツを撃った。額、目、鼻、喉、胸、腹……弾が切れると装填し、撃ち続けた。ソイツは血飛沫を噴水みたいに撒き散らせ、銃弾の衝撃で踊っているみたいにも見えた。そして、ソイツは確かに笑っていた。
やがて撃ち続ける葛城の足元から、闇がアメーバの様に侵食し始めた。それでも葛城は鬼の形相で撃つ事を止めなかった。闇が葛城の首まで達する、体が闇に溶けて一体化する。首の辺り、闇が頬を伝い葛城の目が光を失う瞬間、飛燕が正面から胸に飛び込んで来た。
飛燕の温もりは燃えたぎる葛城の炎をゆっくりと鎮火させるが、闇は更に飛燕まで侵食しようと足元から次第に浸食する。刹那、飛燕の背中は光を放つ。その光の中に、飛燕に覆い被さる飛鷹の姿を確かに葛城は見た。
輝く光は飛燕と葛城を覆った闇を消し飛ばし、葛城の思考は一気に反転した。そして、フェードアウトする飛鷹の残像は確かに眩しい笑顔を葛城に向けていた。
「飛燕……」
葛城の呼びかけに、伏せていた顔を上げた飛燕は宝石みたいな涙に濡れていた。
「うち……法子さんの……お母ちゃんになりたい」
まだ残る葛城の闇は、一瞬で消し飛んだ。
「ああ……」
飛燕を抱き締めた葛城は、全てが浄化された感覚に熱く包まれた。しかし、全身血塗れのアイツは赤い眼を燃え上がらせ、怒りの表情まま猛り狂う。
『もう少し、なのに、何で邪魔する? こっちに、こいよ……カツラギ』
「葛城さんっ!! 伏せてっ!!」
刹那、薪の叫びが闇を切り裂いた。葛城と飛燕の後ろに、血塗れのソイツが迫っていた。葛城は反射的に飛燕を抱いて床に飛んだ、スローモーションのように宙を舞った。そして、倒れた先は法子の元だった。そのまま葛城は二人に覆い被さった。
薪の放った84mm無反動砲はソイツを直撃し、腹に命中した砲弾はソイツを闇に破裂蒸発させた。鼓膜を破る程の大音響と閃光、周囲は光と爆音と衝撃波に支配された後に余韻を引き摺りながら余韻を残し、やがて再び闇は沈黙した。
「何があった?……」
田口は舞い落ちる粉塵の中、呆然とした。
「どうなっている?」
すぐに内田も合流した。
「自分も今到着したもので」
田口にも把握は困難だった。
『葛城さんと最後に連絡して、三分も経ってません』
ソナー隊員は驚きの表情で報告した。
「こっちです、早くっ!」
薪の叫びに内田達は声に向かって走った。そこには、折り重なる様に抱き合って倒れている三人の姿があった。
「奴は!?」
内田は瓦礫の山と化した粉塵が舞う周囲を見渡した。
「多分、死にました……」
薪は地面に転がる無反動砲を、目で指した。
「大丈夫です!! 三人共生きてます!!」
田口は震えながら大声で怒鳴った。
「救護班、急げっ!!」
内田も大声怒鳴り返した……薪は葛城の手を握ってシクシクと泣いていた、それは言うまでもなく嬉し泣きだった。
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法子が目覚めると、白い天井が視界に入った。
「生きてるんだ……」
暫くの記憶の混濁の後、突然恐怖が蘇る……悲鳴の後、隣のベッドに葛城を見付けた法子は一気に心拍が戻る。すると今度は飛燕が浮かび、また心拍は急上昇する……しかし、首を振ると反対のベッドに飛燕を見付けた……今度こそ、本当の安堵で法子の心拍は正常に戻った。
「法子、大丈夫か?」
隣のベッドから葛城の声がした。
「お父さん、は?……」
顔を向けると、そこには葛城の笑顔があった。
「大丈夫だ……」
声と顔は相乗効果で法子にパワーを与えた。
「飛燕ちゃんは?」
「大丈夫だ」
「よかった……」
法子の目に涙が溢れた。葛城は急に反対側を向いて口籠る。
「法子……」
「はい……」
「あのな……」
「どうしたの?」
「ええと……」
「お父さんたら……」
「お前さ……」
「もう、何なのよ?」
法子は呆れて天井に視線を移した。
「もうはっきりせん男やな」
突然飛燕の声がした。法子は慌てて、反対側の飛燕のベッドを見た。そこには眩しい笑顔の飛燕がいた。
「飛燕ちゃん大丈夫なの?」
「大丈夫や」
「よかった……本当によかった」
「あのな法子さん」
「なあに?」
「えっとな……」
「どうしたの?……」
「あのな……」
「もう、飛燕ちゃんまで……」
呆れた法子は大きな溜息を付いた。
「法子……」
「お父さん、いい加減にしてよ」
「母さん……欲しくないか?」
「えっ?……」
法子は心臓を鷲掴みにされた。
「欲しい、か?……」
「急に言われても……」
暫くの沈黙が病室を覆い、法子は思考を巡らせた。
「うちな、あのな、法子さんのな、お母ちゃんになりたい」
突然の飛燕の言葉に法子は絶句した。
「…………」
「…………嫌なん……」
飛燕は消えそうな声だった。
「……ううん……嬉しい」
「法子さん、今なんて?……」
飛燕の心臓は爆発しそうだった。
「始めて逢ったときから、思ってた。飛燕ちゃんがお母さんなら最高なのにって……」
「ありがと……法子さん」
飛燕の目から、大粒の涙を流した。葛城は布団を被り、急上昇した心拍と戦っていた。
「今日は」
「葛城さん大丈夫ですか?」
抜群のタイミングで梓と薪が病室に入って来た。三人は同時に赤面した。
「どうしたの葛城さん、顔赤いわよ?」
梓は耳たぶまで赤い葛城を見て笑った。
「法子さんも飛燕ちゃんも真っ赤だ」
薪は皆の顔を見て笑った。
「あれ? 葛城さん……白髪」
梓の言葉は、葛城の人生が再び動き出した事を示していた。女であり、勘のいい梓には分っていた……それは全部、飛燕の仕業だと。
「鑑識の報告書……」
暫くして、梓は葛城に報告書を手渡した。そこには信じられない結果があった。
『爆死した被疑者のDNA鑑定の結果は……久遠宗義』
葛城の全身が凍りついた。全ての過去、全ての事件が超高速で脳裏を駆け巡り、精神を強烈に圧迫した。
「でも、なんか、全部夢やったみたいや……」
心臓の炸裂、脈の沸騰、そんな葛城を救ったのは穏やかな飛燕の声だった。呼吸が落ち着く、全てが浄化され……そっと安穏が訪れた。
大きく深呼吸した葛城は、心の中で呟いた……何度、助けられただろう、と。
もう闇は見ない、もう俯かない、もう振り返らない、前を向き、笑顔で、そして、ずっと三人で歩いて行こうと。




